第12話 苦悩
さて一度、千葉について言及しておく。
まず大京国からみて、千葉は東側に位置する国である。その特徴については、
「海に囲まれた千葉は天然の要害であり、国土の広さは南関東の約4割にも及びます。軍は2軍を備え、その性質は勁疾といってよいでしょう。内外から声望が高かった先代国主の時には、関東諸国を総攬しました。このことから、先代国主は名実ともに覇者であったといえます。後を継いだ現国主が国政を顧みず、遊蕩に明け暮れていたとしても、その遺烈は俄かに衰えるものではありません。依然として関東の盟主は千葉であり、覇権の所在は動いていないと考えてよいでしょう」
炎寿による、この評価が分かりやすい。
これに付け足すのであれば、たとえば千葉を囲っている海は東西と南に広がり、北側には広がっていない。
その代わり、大きな河川が2つ流れていて、これが海の代わりに外敵の侵入を防いでくれている。
また、軍を備えるとは常備軍のことを指しており、1軍の兵力が12,500であることを考えれば、千葉がすぐに動かすことのできる兵力は25,000となる。
勁疾については強兵揃いと言い換えてよかろう。
軍事力はその国の経済規模に比例する傾向があり、大京国が1軍であることから、いかに千葉が巨大な国かがわかるであろう。
ついでに、千葉の歴史についても軽く触れておく。
千葉の歴史の大半は、内乱の歴史である。
外敵の侵入を受けづらいことで外患に悩まされない代わりに、内憂を抱え込みやすく、千葉から立ち昇った戦火は南関東全域を燃やすこともあった。
それらに終止符を打ったのが、先々代の国主のとき。
疲弊した国土に豊かさを打ち立て、南関東全域の復興に尽力した先々代の国主は、多くの国から尊敬を集めた。
後継である先代国主も民心に安らぎを与え、2代にわたって英主がつづいた千葉の国力は膨張をつづけた。
そのためであろう。
先代国主の在位が長くなるにつれ、千葉の朝廷には南関東で起こる様々な問題が持ち込まれるようになる。
当事者だけでは解決できないと考えた各国が、千葉の介入を期待したのである。
先代国主はこれによく応え、公平さをもって諸事を裁き、ときには軍を率いて南関東のために戦った。
そんな先代国主の声望は風聞となって北関東にも運ばれ、気づけば千葉の朝廷には、北関東で起こった難事も持ち込まれるようになった。
こうして先代国主は晩年には関東諸国を総攬し、その事実が千葉に覇権をもたらしたのである。
けれど、それも先代までのこと。
いまの千葉国主は国外から持ち込まれる難事に興味を示さず、その証拠に大京国が神奈川の諸勢力や都下を併呑しても、なんら行動を起こさなかった。
これは見方によっては、偉大な先代が残した国力を温存し、大国としての地位を維持することに専念しているようにも捉えられる。
しかし、大成王はそうは考えず、
――先代の偉業にすがるだけで、国力を衰えさせる凡器に過ぎぬ。
という捉えかたをした。
今になって大京国を攻めることも、そうである。
大成王が千葉国主の立場であれば、もっと早くに大京国を攻めることを考えたであろう。
仮にそうせずとも、何らかの牽制は行ったはずである。
盟下にあった諸勢力を見殺しにしたあげく、時宜を逸して軍旅を催す。
このことは千葉国主みずから、時勢を見極める力が乏しいと公言したに等しいであろう。
であれば、各国は千葉国主に懐疑的な視線を向けているはずであり、もはや千葉に従う国などあるまい。
――なぜ炎寿には、この好機がみえぬ。
好機を逃したくないとの思いから、大成王は苛立った。しかし、
「果たして、そうでしょうか? 僭越ながら、王の考え方には無理があると申し上げざるを得ません」
炎寿としては、大成王の考えには大きな問題があると言わざるを得ない。
たしかに大成王の指摘するとおり、千葉は南関東の盟友をほとんど消失した。
その愚行は炎寿も認めるところではあるが、ではこれが千葉の国力にどれほどの影響を与えたかといえば、ほとんど無いに等しいのではないか。
なにせ、先代国主が作り上げた精強な千葉軍は無傷であり、千葉の国土も被害を受けていない。
つまり、依然として千葉の力は衰えていないとみるべきなのである。
結局、大成王が見ているのは自らの感情が生み出した景色であり、そこには基数というべき千葉そのものが入っていない。
人とは不思議なもので、感情の濃度を一定量を超えると、その精神は活動を止めてしまう。
停止した精神でみる景色は昏く、そこには自己を否定する要素はほとんど存在しない。
不都合なものを排し、都合のよい情報のみで自己を飾ろうとするようになる、と言い換えてもよい。
実際、大成王は千葉国主を凡庸であると侮り、各国は千葉から離れたがっているとみなした。
他人を過少に、または過大に評価するときというのは、危うきに居ることを自覚すべきときである。
空想に喜ぶ大成王と、それに引きずられはじめた朝廷の雰囲気に危殆を感じた炎寿は、
「我が国と千葉が分かりあうことはないだろう。両国の争いは、覇権の趨勢を決めるからだ。ひとたび戦端が開かれれば、どちらかが地上から消え去るまで戦いはつづく。王や方々はもちろん、国民までもが戦い抜く覚悟をもたないかぎり、我が国が勝利を掴むのは難しい」
と、朝廷で声を挙げつづけた。
それを伝え聞いた大成王は苦虫を嚙み潰したような表情になり、
「そなたは国内のことで忙しいであろう。来るべき戦いでは代わりの者を立てるつもりゆえ、やるべきことに専念するがよかろう」
と、わざわざ炎寿を呼んで、千葉と戦うにあたっては軍を任せないことを伝えた。
こうなっては、炎寿としても止めようがない。それでも、
「災いというのは地震とおなじで、必ず予兆があります。多くの者はそれに気づいていながら対策を講じようとせず、漫然と日々を送るがゆえに、災いを避けることができません。親の過ちが子を苦しめるように、王の失敗は国の後悔となります。このことを王がご理解なさるのを、切に願うばかりです」
と、最後の最後まで、大成王に自制を訴えた。
にもかかわらず、大成王は横を向いた。
聞きたくない、という意思表示といってよい。
それをみた炎寿は、
――言うべきことは言った。
として、それ以上は何も言わず、静かに退いた。
宰相として国の発展に尽力してきた功臣に、ここまでのことを言わせる自身がどのような王なのか。
このときの大成王は、そのことに全く気づかなかった。
結局、軍を率いる将には景が選ばれた。
軍の規模は5,000ほどであり、さきに国境に増派した兵と合わせれば8,000ほどの軍勢になる予定である。
軍が出る前夜のこと。
炎寿が遅くに帰宅すると、
「景様がお見えになっておられます」
と、家臣から告げられた。
深夜といっていい時間まで帰らずにいる事実に、ただならないものを感じた炎寿は、
「会おう。人目につかない部屋に通すように」
日頃は使われない奥の部屋に案内するよう、家臣に命じた。
手早く着替えを終えた炎寿は景のいる部屋へ行き、
「私は今や、王に睨まれている身だ。そんな者を尋ねることは得策とはいえまい」
と、立ち上がろうとした景を手で制しながら座った。
座りなおした景は、
「このたびの戦いは勝てないでしょう。勝てぬ戦いに赴く者に、助言を賜りたく存じます」
といい、深く頭を下げた。
それをみた炎寿は心のうちで、深く溜息をついた。
炎寿からみて、景は凡庸な臣ではない。
20代の若さで太子の養育を任されていることからも、それは分かる。
その景がこうして炎寿のもとを訪ねていることを、どのように解釈すればよいのか。
せっかくの才幹に傷をつけたくない炎寿としては、
「勝てぬ戦いであれば、戦わずに帰ってくればよい」
というほかない。
けれども、これは景にとって難しい話である。
「戦わずに帰ってきては、王の不興を買うことになります」
「王に疎まれようとも、民に恨まれるよりはましであろう。そなたは、権力に執着するようには見えぬが⋯⋯」
「誤解しないでください。要職にいなければ国のために働けず、民を救うことができない。それだけです」
「⋯⋯勝つべくして勝つ戦いがあるように、負けるべくして負ける戦いもある。必勝をもって戦いを収めるのが名将であり、必敗のなかで最善を尽くすのが良将だ。名将になれないのであれば、良将になるほかあるまい」
景はわずかな希望をもって炎寿のもとを尋ねたが、結局のところ、
――勝てない戦いは、どうやっても勝てない。
というのが、炎寿の結論である。
それでも戦うというのであれば、被害を減らすことを考えるべきであり、それが景の成すべきことになる。
「炎心が佐将を拝命したと聞いている。既に国境で戦っている帳も機略に乏しくない。将として、2人を上手く使うことだ」
これを最後に炎寿は席を立ち、景も袖下家を後にした。
翌日の早朝、蒼纏の郊外で閲兵式が行われ、景をはじめ出陣する面々には大成王から訓示が与えられた。
その場に炎寿は同席しなかったが、その代わり。
袖下家の門前には旅装姿の男達が並び、炎寿と何事かを話し終えると、瞬く間に北と東へ向かって走り去った。