第11話 国益
冬になると静かに雪が降り始めた。
それと同時に、大京国の人口も静かに増え始めた。
国内の出生率が急増したわけではない。
近隣諸国から民が流入し始めたのである。
それらの多くは、近京国や山梨内で土を耕していた農民である。
先祖伝来の土地を捨て、必死の思いで国境を越えてきた農民たちは、
「生活が成り立たなくなった」
として、大京国の朝廷に庇護を求めた。
なかには乳飲み子を抱えた一家もあり、それ以外も多くは着の身着のままといった格好である。
「⋯⋯不憫なことよ」
報告を受けた大成王は目を潤ませた。
親から権力を受け継いだ他国の国王や国主とは違い、みずから国を興した大成王には飢餓の辛さが痛いほど分かる。すぐに炎寿を呼び、
「民心を安らかにしてもらいたい」
と指示し、それを受けた炎寿は至急空き家を買い上げ、それでも足りない分については雪風を凌げるだけの長屋を新たに立てさせた。
また豊かとはいえない国庫も開き、一家が一冬越せるだけの食料も配って回らせた。それらがひと段落したことを確認すると、
「なぜ、このようなことが起こるのか?」
大成王は切実さを滲ませて、炎寿に問いを発した。
それに対する炎寿の返答は、
「国が道を誤り、その代償を民に求めたからでしょう。民は我々を守ってくれますが、我々はどうでしょうか? 国家が失政をおこない、その責任を民に転嫁すれば、潮が引くようにして民心は離れてゆきます。民は多くを語らないと云われますが、そんなことはありません。その声に気づいていないだけなのです。ゆえに、国政を司る者はよい耳を持たねばならず、意見を聞くにあたって偏私があってはなりません。政治に謙虚さや真摯さが求められる理由が、ここにあります。もしも我々がそれらを怠り、私利私欲を貪るだけの存在になれば、我が国でも同様のことが起こり得ることを忘れてはなりません」
という、およそ政治を行う者にとって耳の痛い話であった。
しかし、それは政治における真理でもある。
たとえば、近京国の政治はどうだったか。
近京国は東海地方を奄有することから、その国富は商業によって成り立っているといってよい。
ゆえに商人が優遇されやすく、農民にとっては生活しづらい環境である。
そして、それらが是正されることなく格差が拡大し続けた結果、今回のようなことが起こった。
山梨についても同じである。
山梨軍は先の戦いで大京軍に大敗した。
大戦で敗北すれば3年分の国家予算を喪失する、といわれる。
大京国は賠償請求をほとんど行わなかったため、山梨はそこまでの被害を受けなかったが、それでもその国庫が急激に圧迫されたことには変わりない。
にもかかわらず、山梨は外交で活路を切り拓こうとはせずに独善的な姿勢に固執した。
友好や友和を図るのではなく、あくまで軍事力によって大京国や近京国と対峙しようとしたのである。
そしてそのために傷ついた民に救いの手を差し伸べるのではなく、その生活を破綻させるほどの重税を課した。
戦争で働き手を亡くし、生活に暗く翳が落ちた家にとって、この仕打ちは無情そのものである。
結果、両国は多くの農民を国外へ流出させた。
その影響はすぐには表れずともじわじわと国力を蝕み、やがて両国の国成を妨げるようになるであろう。
「そなたの言うとおりだ。我が国で同じことを起こさないためには、どうすればよいであろう?」
「太子にも民の生活を知ってもらい、慈しむ心をもってもらうのが良いでしょう。また、我々も今の世を救うための努力を忘れてはなりません」
「よく分かった。明年から太子にも視察の仕事をやってもらおう」
年が明けて大成王16年になると、まだ雪が多く残るなか、大成王は太子に民の生活を視察して回るよう命じた。
また炎寿のほうでも炎心をはじめ帳や景など主だった若い臣下に、視察に同行するよう指示を出した。
太子はもちろん、ほかも次代の大京国を担うべき者達である。
そうやって若達に仕事を与える一方で、現在を担う大成王と炎寿もまた、流民の扱いについて解決策を出さねばならない。
「新たに拓いた土地を与えてはどうか?」
「それをすると国民から不満の声が出るでしょう。既にある農地については予定通り、国内農家に与えるべきです」
「それでは、あの者達はどうする? 元居た場所に送りかえすというのであれば、それは認められぬぞ」
「春になっても残る意志がある者については、開拓民として働いてもらいましょう。開拓民となれば国が扶持するため、当面の生活には困りません」
「拓いた土地は、その者に与えるのだな?」
「左様です。その際には王が厚く信用なさる家に命じて、応援を出させるのが良いでしょう。下手な家に任せると汚職の元凶になる恐れがあります」
「ならば、そなたの家のほか羽黒・栖夜の両家に頼むとしよう」
こうして春になると、大京国内では農民と開拓民の数が急増した。
農民については各農家で単なる労働力として扱われ、その将来に希望すらない次男以降の男子に土地を与えることで独立した一家を構えさせたのである。
この政策はどうにもしてやれなかった我が子達が一家を構えられるとして、労働力を失うこと以上に各農家の家長から支持された。
開拓民となった流民についても同様である。
逃げた先でも迫害を受けたり、まともな職に就けなかったりすることは流民にとって珍しいことではない。
それが大京国では、拓いた土地はその者に与えるというのである。
開墾は厳しい作業だったが、大京国政府に血の通った温もりを感じた開拓民達は死に物狂いで土地を耕した。
こうして大成王16年も大京国内は引きつづき、活況を呈してゆくことになる。
余談であるが、炎寿は農地を分配したり、開拓民に開墾をさせる際にある工夫をおこなった。
それは、互いの距離を離すというものである。
農家であれば、新たに一家を構える者には地縁血縁のない土地を割り振った。
開拓民についても、親族やそれに準ずる間柄の者には隣接した土地を拓かせなかった。
これらはすべて意図的に行ったことであり、その目的は大規模農家が出現することを防ぐことにある。
国家の基幹産業である農業において、経済格差などで無用な軋轢が生じないよう、炎寿は細心の注意を払っていたといってよい。
そうして炎寿が国内経済を活性化させるために心を砕くうちに、別の事案が急速に首をもたげ始めた。
それは、
「千葉兵が東の国境を侵しています」
との急報から始まった。
炎寿はすぐさま千葉に抗議の書簡を送り、それに対する千葉の回答は、
「国境付近で兵の交代があり、誤って国境を越える者がいたようだ」
というもの。
しかし、現場の大京兵からは、
「国境兵にしては千葉兵の数が多すぎます」
との報告もあったため、炎寿は大成王と図ってひそかに国境を守る兵を増派した。
また、念のため帳にも国境へ行ってもらった。
炎寿の悪い予感は、見事に的中したといってよい。
夏が過ぎる頃になると、千葉兵は堂々と大京国との国境に押し寄せてくるようになったのである。
国境では連日のように小競り合いが発生し、そのたびに大京兵・千葉兵の双方で死傷者が発生した。
帳の活躍もあって大京兵の被害は軽微であるが、それでも大京国の面々としては不愉快なことに変わりない。とくに大成王は、
「千葉兵は盗人と変わらぬ」
と、公然と千葉を詰った。
これによって群臣の不満も高まり、
「千葉を叩くべきだ!」
と、好戦的な意見が噴出し、国内には開戦も辞さないという雰囲気が充満していった。
そのなかで冷静さを保っているのは、炎寿ただ1人である。
炎寿からすれば、今回の千葉の行いは単なる嫌がらせにすぎない。
その証拠に、千葉は大京国を上回る国力をもちながら、国境での小競り合いに終止している。であれば、
――嫌がらせは、無視するにかぎる。
というのが炎寿の考えであり、まともに相手をすればそれこそ千葉の思うつぼである。ゆえに大成王から下問を受けた際にも、
「千葉は都下や山梨とは格が違います。王が真に千葉と戦いたいと欲するのであれば、時宜を得ることが先決です。千葉の栄華が過去にあることは衆目の一致するところですが、それが旧夢と決めつけるのは尚早でしょう」
と、風諫することで大成王の再考を促し、それによって開戦へ向かおうとする朝廷の機運を押しとどめようとした。
もっとも、当の大成王は苦々しい表情を浮かべると、
「そなたが山梨軍の侵攻を防ぐあいだ、千葉が何をしたか。知らぬとは言わせぬ」
といって、炎寿の説諭を即座に拒む姿勢をみせた。
炎寿の言葉であれば、どれほど苦くとも口に含んで飲み下す度量のある大成王にしては、珍しい強情さといってよい。
そうする理由を知ろうと思えば、炎寿が山梨軍と戦い、撃破した時にまで時間を巻き戻さねばならない。
あの時、炎寿が旧都下領をめぐって山梨軍と熾烈な攻防戦を演じる裏で、千葉軍は大京軍の不在を狙ったかのように宣戦布告もせず侵攻してきた。
これは国家間の戦争の作法に反し、外交的にも礼を失する行為である。
大京国の立場からすれば、千葉から露骨な侮りを受けたといってよい。
それだけでも大成王としては許しがたいのに、さらに千葉軍は大京国の民に手をかけた。
帳や炎心の制止を振り切って出陣した大成王の軍とは一戦もせず、武装もしていない村々に押し入って男を殺し、女を攫ったのである。
その時に覚えた民を喪った悲しみと屈辱が、大成王のなかで燻りつづけている。
炎寿としても、その気持ちが分からなくないが、
「王がなさるべきは死者を大いに悼み、その心で生者に報いることです。国土を大きく侵されていない今、困窮に喘ぐ民を棄てて征くことに如何なる正義が立ちましょうか。王におかれましては感情に流されず、民の声に耳を傾け、威福を授けることに専念なさるべきです」
として、千葉と戦うには時宜を得ていないことを繰り返し強調した。
今の大京国の状況を鑑みれば、千葉に報復するためにも国力の充実が欠かせないという炎寿の考えは実に合理的である。
しかし、常に合理的な判断を下せないのが人間という生き物でもある。
それが当事者ともなれば、尚のことであろう。
感情に流されずに合理を説く炎寿と、感情という非合理なものに拘る大成王。
両者の相違は日に日に大きくなり、そこに横たわる溝も大きく深いものとなっていった。
やがてそれが群臣にもはっきりと分かるほどになると、炎寿にとって竹馬の友というべき羽黒・栖夜両家の当主が、
「群臣の戦意は沸騰している。そなたの考えも分からなくはないが、王の不興を買い続ければ宰相の席から下されかねない。強情もほどほどにしたほうがよい」
と、わざわざ袖下邸まで足を運んで炎寿を諭した。
けれども、身を案じてくれた両者に炎寿は丁重な謝意を述べつつ、
「国益に殉じてこそ、廟堂に足る器である。これが私の考えであり、仮に母が相手であっても改めることはないだろう。私のことを最も知るのはそなた達であり、であればどうか私の行く末を見守っていてほしい」
として、罷免されようとも言うべきことは言わねばならない、という姿勢を最後まで崩さなかった。