逃げたつもりで逃げられていませんでした
どうか、どうかお願いします
もし本当に神様がいるのなら
私をここから解放して下さい
そう、願い始めてから十年程
まさか本当にその願いをきいてもらえるなんて、思ってもみなかった
少女は朝、目を覚ますなり酷い違和感を自身に悟った。
首を傾げる。
両の掌を動かす。
己の動作に何の不具合もないことから、怪我や病気の類ではないのだと判断する。
布団から身を起こそうとしたところで、その違和感の正体に気づき始めた。
「……ここ、どこかしら」
バカみたいにふかふかな羽毛布団に天蓋のあるベッドが少女の寝室にあったはずなのに、何故か今、自身が身を預けていたのは天蓋もなければふかふかでもない、若干厚みのない布団である。
身を起こしたところで周りを見回してみたが、やはり記憶にない場所のようだった。
無駄に広い部屋だったはずなのに、狭いわけではないがそこまで広くもない。普通に過ごす分には十分な広さの室内にあるのは、今少女が寝ていたベッドと鏡台、机に本棚といった必要最小限の家具くらいである。いや、よく見れば所々に可愛らしい人形も飾られてはいたが。
「あら……?」
身を起こしたことで、視界に入って来たのは茶色の髪の毛。
若干癖毛が入っていると思われるそれに指を絡めてみせれば、少しだけ引っ張られた感触が伝わってくる。――つまり、この髪の毛は少女のものであるということで。
「……………」
少しだけ考え込んだ後に、少女はベッドから離れると、早々に室内にある鏡台の前へと歩み寄った。
鏡に映ったのは、見慣れた自身の顔ではなかった。
昨日までの記憶が確かであれば、少女の髪はこの国の高位貴族特有の特別色である銀色で、瞳の色は透けるような綺麗な青色であったはずだった。
けれど今、目の前の鏡に映っているのは全く違う。
平民にも多く見かけるような一般的な茶色の髪は腰まで伸びていて癖が入っているからか、所々がぴょこぴょこと丸まったりはねたりしている。瞳もどこかくすんだような深い青色。何より、顔立ちが昨日まで見続けていた自身の顔と違う。
「…………この顔、何処かで見た事あるわね」
どこだったか、と記憶を辿ってみる。
最近の記憶ではない。
少し前の記憶を辿ってみたところ、ヒットするものがあった。
「……ああ、そうだわ。前にお茶会で会ったことのある、マリアンヌ・ラドン子爵令嬢だわ」
比較的交流のある侯爵令嬢のお茶会に参加した時に一度だけ姿を見たことがある令嬢の姿こそが、今少女が鏡で確認した己の姿だった。
どうしてこんな状況になっているのかはさっぱり皆目見当もつかない。
けれど、手を動かせば鏡に映る少女の手も動き、くるりと回転すれば鏡の中の少女も回転してみせるのだから、自身が今、マリアンヌの姿をしていることは確実である。
「…………何かの魔法かしら?」
手や足、胸元やおでこ等、色々な所を確認してみるものの、魔法を使われた形跡らしきものは残されていない。あるのは姿が変わったという事実のみである。
少女は頬に手を当てて考え込む。
「…………」
考え込む。
「…………」
考え込む。
「…………」
考え込み―――にやり、と口端を吊り上げて、笑った。
両手を真上に勢いよく上げて、思わずガッツポーズをとる。
そこには先程までの淑女面した面影は全くなく、鏡に映っていたのは満面の笑みを浮かべて喜ぶマリアンヌの姿だった。
「やった、やったわ―――――!! これで、あの地獄のような生活とおさらばよ…っ!! 苦渋すること約十年…! 何とかならないかと思い続けて神様に祈り続けてきたけど、私を救ってくれたのは神様じゃなかったのね…! マリアンヌ様だったのだわ…!!」
事情は全くわからない。
だが自身がマリアンヌの姿をしている以上、容易に想像がつくのは身体とその中身の精神が入れ替わったということ。そしてそれは、間違いなくこの身体の本当の主であるマリアンヌが関わっていることは違いない。
「もうあんな地獄のような淑女教育もなければ王妃教育もない! 無駄に疲れる友人関係もする必要はないし、あの嫌味な義母と顔を合わせる必要もないのよ!! 私は…、私は………自由なのよ―――!!」
声高々に喜び過ぎて、すぐさまマリアンヌに仕えていたのだろう侍女が室内へと飛び込んでくるのは、この後すぐのことである。
「何て清々しい日々なのかしら……」
平民も被りそうな麦わら帽子を被り、汚れてもいい動きやすいワンピース姿になって軍手を手に嵌めて、マリアンヌとなった少女――以下、マリアンヌとする――は、燦々と照りつける眩い太陽を見上げて、額の汗をぬぐう。
彼女が今いるのは、屋敷内にあった畑。
額の汗を拭っていない方の手には、大きな鍬が掴まれている。
ラドン子爵家は、そこまで裕福な家ではなかった。
爵位こそあるものの、領地もそこまで広くなければ、屋敷も広くない。屋敷内に雇っている使用人の数は必要最小限であり、由緒正しいはずの子爵家の面々も揃って畑仕事に精を出す。父親や兄と思われる男性が、モンペのような恰好で作業をする姿はやけに板についていた。
最初こそ不慣れな作業に戸惑いを覚えたものの、一週間もすれば慣れるというもので――おそらく本来のマリアンヌの身体に慣れ親しんだ作業であった為に、体が悲鳴をあげることがなかったのだろう――、ダンス以外に体を動かすという事にマリアンヌは喜びを感じていた。
マリアンヌは本来のマリアンヌがどういった女性であるのか、よく知らない。会話をしたこともないのだから当然である。
初日こそ、周りの人に変に思われるのではないかと心配したのだが、彼女の周りの環境は朗らかで緩すぎた。何というか、ほんわかほのぼの家庭なのである。母親は早くに失くしている為に不在であるものの、それで屋敷が暗くなっているというわけではない。その死を乗り越えて、残った家族で仲良く生き抜いていた。家族間の仲は非情に良く、父親のラドン子爵に至っては典型的な『いい人』という性格だった。ある意味悪い人に騙されそうなものだが、マリアンヌにとって兄にあたる長男が朗らかな性格ながらもしっかり者の性格をしている為に、領地運営等をそのしっかりさ加減で支えている為に、変な借金等の被害もない。ただ、貧しい為に自分達も自給自足とばかりに敷地内に畑を作って耕し、食べ物の収穫をしていた。
そんな子爵家に仕えるのだから、使用人達も数は少なくて両手で足りる程しかいないものの、全員が気さくも気さく。おそらく、初日の口調加減を間違えたマリアンヌであったが、それすらも「お嬢。いつもと雰囲気が違いますねー。イメチェンですか?」の一言で終わった。中身が違うということに対しての疑いのうの字も存在していなかったことだろう。それは、本来のマリアンヌの家族にも言えたことなのだが。
朝日が昇れば涼しい内に畑作業をして、昼食後には勉強や淑女教育。適当に終わらせておやつを食べてぽかぽか暖かい庭に寝転がってお昼寝。涼しくなった夕方にまた農作業をするなり売り物に出す刺繍をしたり繕い物をしたりして過ごして夕食を食べれば、お風呂に入って寛いだ時間を過ごして就寝。
マリアンヌにとって、今の生活は夢のような生活だった。
何しろ分刻みで予定を入れられていない。
口煩い侍女の姿もなければ義母の姿もない。誰の目も気にする必要もない。
マリアンヌは自由を満喫していた。
健康的な生活は、彼女を生き生きとさせて、前の時よりも質の悪い化粧品を使っているというのに肌も艶々している気がしなくもない。
さあ、もうひと頑張りしましょうか。
そう思って鍬を両手で握りしめたその時、マリアンヌの耳に届いたのは、彼女に仕える侍女の大声だった。侍女はこちらに向かって元気に走ってきている。
「マリアンヌ様――! シオン様が領地から戻られたので昼食にしましょう――!!」
前の屋敷の中であればありえなかったはしたない大声。
けれどこの屋敷の中ではそれも普通で、誰も顔を顰めたりはしない。
だからこそ、マリアンヌも声を上げる。
「ここを片付けたらすぐに行くから、わかっったとお兄様に伝えてちょうだい!」
と。
こうして声を大きく出すなんてこと、前の時は全くなかった為、新鮮でこういったことも楽しいと思っているのは、当然ながらマリアンヌだけの秘密である。
マリアンヌの兄の名をシオン・ラドンという。
既に成人をしている事もあり、父であるラドン子爵の手伝いをしながら宮勤めをして多くのことを学んでいる最中なのだということなのだが、性格は気さくも気さく。物事は深く考えない、頭を使うよりも体を動かす方が好きなようだが、それでも頭は回るようで、その能力でもってこのラドン家を支えているといってもよい。
マリアンヌとなって毎日のように顔を合わせているものの、そこまで深い会話をすることはない。向こうが忙しいというのが一番の理由ではあるのだが、仮にも兄妹であるので、何かの拍子で疑われると面倒だと思って自ら交流の場を持とうとしなかったというのも理由であった。
さて、今。
マリアンヌはその兄、シオンと向かい合ってお茶をしている。
昼食の後に少し話でも、と声を掛けられたからなのだが、それに頷いたもののマリアンヌは自分から何を話していいのかさっぱりわからなかった。だから口を閉ざす。シオンから話を切り出すことを待っているのだ。
「マリィ。学園の話なのだが…」
――学園。
そう切り出されて、先日の夕食時の会話が脳裏によみがえる。
この国の貴族の子女は十代後半になると花嫁修業がてら女学院へと通うのが一般的である。この家が子爵家である以上、マリアンヌのまたそこに通うべきではあるのだが、如何せん。ラドン家にはそこに通わせるだけのお金がなかった。何とか長男であるシオンを貴族用の学校に通わせることはできたのも本当にぎりぎりだったらしい。生活をきりつめてあの時は…と家族間の会話をされた時には、マリアンヌは本人ではない為に下手に口を出すこともできずに、大人しく聞き耳を立てていたものである。
その女学園に、通わせることができなくて悪い、と。
父と兄から謝罪の言葉を告げられたのである。
あまりにも申し訳なさそうな、土下座でもされそうな勢いだった為に、マリアンヌは必至になって「気にしないで」と伝え続けるのに必死になった。そしてその時に聞いたのは、どうも元のマリアンヌは女学園に通えないかもしれないということに酷く癇癪を起していたということだった。
(………まあ、普通の貴族女性であればステータスの一種にもなりますし、何としてでも通いたいと思うものですよね…)
会ったことはない本当のマリアンヌの感情もわからないでもない。
だが、マリアンヌにとって女学園などどうでもよかった。
通えないなら、通えないでもいいじゃない、と。
本気でそう思っていたのだ。
実のところ、マリアンヌはこの身体になる前は鬼教官の下で淑女教育やら王妃教育を受け続けていたので既に女学園で身に着けるべき能力は全て身についているといってもよく、通うだけ無駄だと思っていたというのが正しい。……とはいえ、それを父や兄に伝えるわけにもいかないのだが。
「私の友人が、他の学園を薦めてくれてね」
「ご友人様……ですか?」
「ああ。ほら、私が卒業した学園があるだろう?」
シオンが卒業したのは貴族用の学園である。
そこは主に男子貴族が通うのだが、例外はある。それは学業を本気でしたいと考えている女子もまた入学できるということである。何処かの家に嫁入りして家の夫人として過ごすことを考えれば女学園が望ましい。けれど誰もが夫人になれるわけではない。たとえば商家に嫁ぐものもいれば、王宮等で侍女勤め以外にも役職につく者も少ないがいる。そういった人の為に枠を設けているのである。
「………でも、そちらの学園でもお金がかかることには変わりないのでは…?」
「まあ、そうなんだが……。ほら、先日、マリィは領地問題について私達に指摘したことがあっただろう?」
「そ、それは……」
(つい、うっかり口を出してしまった時のことでは……)
王妃教育の一環で国内は勿論の事、諸外国のことや語学だけでなく、様々な分野も学ばされていた。よって、マリアンヌは通常の子女に比べると際立って頭が良かった。
ついうっかり、領地問題で話し合っている父と兄を見かねて口を挟んでしまったのである。あの時は二人にぽかんとした表情を向けられたものだが、その後、マリアンヌの指摘を受けて行動に移したら問題解決に至ったと聞いている。無駄に詰め込んだ知識が役にたったのは何よりだが、あの時はひやひやしたものである。
内心で焦っているマリアンヌの様子に全く気付くことなく、シオンは言葉を続ける。
「その時の話を友人にしたら、私達の通った学園に通ってはどうかと言われたんだ。実は、私達の学園には奨学金制度というものがあってね。……まあ、私はそこまで頭が良くないからその制度は落ちてしまったんだが…」
「はあ……」
「勿論、制度の利用にあたっては厳正な試験があり、それに合格しなければならない。けど、試験を受けるだけなら自由だから、一応受けてみてはどうか、と」
「なるほど……」
悪い話ではない。
お金のない、持参金がないマリアンヌにとって嫁ぎ先は良い所は望めない。それならば、王宮等で仕事勤めをするのも一つの手ではある。
――働く。
それを考えた時、マリアンヌはそれがとても素晴らしいことのように思えた。
誰かに決められた道ではない。
自身が決めて、その道に進んでそれを生きがいにする。
それは、何と素敵なことだろうか。
きらり、とマリアンヌの瞳が輝く。
「私、その制度の試験を受けてみますわ」
意気込み新たに、マリアンヌは力強く言い切る。
その姿にシオンはほっと胸を撫で下ろし――どうやらずっと、女学院に通わせてあげられないことに胸を痛めていたらしい――、笑みを浮かべて言った。
「もし優秀な成績で学園を卒業できたら、私の友人も仕事の斡旋に口添えをしようと言ってくれているんだよ」
兄の友人関係等一切知らない。
けれど表裏のないしっかりとした兄のことである。その友人関係も有意義なもので、得難い友を得ていてもおかしくない。
(仕事の斡旋ができるくらいだから、爵位は上の方の方なのかしら……?)
マリアンヌはぼんやりとそんな事を考える。
そしてこの後、無事に制度の試験に合格を果たして、二年の学園生活を優秀な成績で過ごして卒業し、約束の仕事の斡旋をしてもらうこととなるのだが、後にこの時にその兄の友人について詳しく話を聞かなかったことを、酷く悔いることとなる。それは―――
「やあ。今日からよろしく頼むよ」
キラキラと太陽の光を反射して輝くのは、銀色の髪。
鮮やかな少し紫がかった青色の瞳。
十人いれば十人が容姿端麗だと褒め称えるだろう容姿をした男性が、本日付で仕事の上司になると言われていた相手だった。それは兄の言っていた友人その人であり――
「よ、よろしくお願い致します……」
(お兄様―――――ッ!!?)
なんと、マリアンヌが前の姿であった時の、本当の兄、であった。
カミュー・ノーベリウム。
この国の四大公爵家の一つ、ノーベリウム家の嫡男であり、現在財務省で働いている将来の宰相とも名高い人物である。
学園を卒業する際に斡旋された職場が王宮の財務省であると聞いた時は、将来安泰だと諸手を上げて喜んだものだが、まさか斡旋してくれた友人が、本当の兄だとは思わなかった。けれど、よくよく考えればマリアンヌの兄とこの兄は同じ年齢である。同じ時期に学園に通い、仲を深めていてもおかしくはないことに気づく。……今更だが。
マリアンヌは顔には出さないものの、内心では冷や汗の滝を流し続けているような状態だった。
―――マズイ。ヤバスギル。
もはやそれしか頭に浮かばない。
思い起こせば、学園に通っている間も兄を通して兄の友人とはやりとりをしていた。それはマリアンヌを試すように国や領地の問題であったり、算術の問題であったり、多種多様なものに及んでいたのだが、仕事斡旋の為にという頭にしかなかった為に、マリアンヌはせっせと自身の意見を告げ続けていた。
だが、だがしかし、である。
(………私、やりすぎていたのでは…?)
思い返せば、優秀な生徒とはいえ普通の子女がそこまでできるかと思うようなものまで手を出していなかっただろうか、と。
「私もシオンのように、君のことをマリィと呼んでも?」
「か、構いません…」
「そう、良かった。―――少し、話をしようか」
言いながら、カミューが室内にある応接用の椅子の一つに腰掛ける。そのまま視線を促されてしまえば、マリアンヌも座らざるを得ない。
「……失礼致します」
一言断りながらおそるおそる同じように向かい合った椅子に座れば、それを合図にするようにカミューが口を開く。
「私には妹が一人いるんだけどね」
(妹の話題、いりません――――っ!!)
心の中で叫びつつ、勿論それを口に出すことはしない。
ふうっ、と。
哀愁を漂わせるようにしてカミューは言葉を続ける。まるで絵画にでもなりそうなくらいの優美な一シーンであり、一般的な子女であれば胸をときめかせるような場面であったに違いない。……ただし、マリアンヌにとっては見慣れた相手であった為にそうはならなかったが。
「本当に自慢の妹、だったんだよ。将来の王妃として幼い頃からずっと教育を受けていてね…。それにめげることなく毎日必死に課題をこなし続けていた。……父の再婚相手である新しい母は少し困ったところがあってね。どうも妹を一人前にしなければという使命に駆られるがあまり、私達の知らないところでとても厳しくしていたらしい」
「…………」
「そんな妹がね、二年半前からおかしくなったんだ」
(うっ!!)
二年半前。
その単語に、マリアンヌは動揺しそうになるものの、それを必死にこらえて表では怪訝そうな表情を浮かべてみせる。貴族たる者、相手に感情を悟られるようではだめだと教えられ続けたのはこんなところで役にたつとは、嫌なものである。
「こんな生活なんてできない、と全ての勉強を投げだしてしまったと思ったら、今まで興味がなかったお茶会や夜会にばかり顔を出すようになり、完全に遊びほうけてしまってね…。酷いものだよ。今では王妃様からも、このままでは次期王妃として認められないと言われている」
「そうなんですか……」
投げ出したいような生活なのは認めるし理解はできる。
だがまさか、『私』になったマリアンヌがそんな身勝手な行動をしているとは、全く想像もしていなかった。
身体を入れ替える以上、『私』の立場の何かに魅力を感じ――王太子の婚約者という立場か、それとも爵位の高さあたりだとは思うが――ていたのだろうとは思っていたのだけど、まさかその程度の意思の弱さでしかなかったとは。
もはやマリアンヌは『私』ではない為、未練など一切ないが、だが今までの努力を水に流されてしまったように思えて、それに関しては少し苛立ちを感じてしまう。
カミューの視線が真っ直ぐにマリアンヌに向けられる。
有無を言わせないような強い眼差しに若干戸惑いつつ、わざと心配そうな表情を繕ってみせた。
「何か……ストレスでもあったのかもしれませんわね…。でも、残念なことですわね…」
「ああ…。まさかこんなに『人が変わって』しまうとは」
「………」
「マリィは人が変わってしまうという事に対して、何か思うことはないかい?」
――直球。
マリアンヌは悟る。
(これ、私も何か関係があると疑われているというものでは……?)
もしかすると、兄からマリアンヌも人が変わったようになったという話を聞いたのかもしれない。そしてそこから、二人の存在を結び付けてもおかしくない。カミューという人物は、次期宰相と謳われるだけあって非常に頭が回りすぎる男なのである。
しかし、ここで素直に認めるわけにはいかない。
そもそもマリアンヌは巻き込まれた被害者なのだ。
今更、元の立場にと言われて「はいわかりました」と答えられるはずがない。
マリアンヌは、マリアンヌとなって二年半の間に、自身はもう『前』の私ではなく、マリアンヌなのだと認識している。そして今の生活を手放す気はさらさらなかった。それくらいには、今の生活を気に入っている。
「いいえ。別に。でも、きっかけがあれば人は簡単に変わってしまうものではないでしょうか」
「…………なるほど。それもそうだね」
きっと納得はしていない。
けれどカミューもまたそれを噯気にも出さない優秀さがあった。
そして―――
「ところで、マリィ。学園に在する間に君と文やシオンを通してやりとりをしてきたわけだが、私は君のことを気に入っていてね」
「……はあ」
「よかったら、私の婚約者になるつもりはないかい?」
と。
気が付いた時には、まさかの爆弾発言をされてしまった後だった。
「…………」
思考停止。
「…………」
思考停止。
「…………」
(……………コンヤクシャ? ………婚約者ですって…!?)
意味が分からない。
一体どこをどうしたらそんな話に繋がるというのか。
カミューはマリアンヌを見て、にこにこと機嫌が良さそうに笑っている。
カミューは兄だ。
『前』の私にとってであったとしても、十年以上、兄として存在していた人物である。その人物の婚約者等、考えられるはずがない。ない……のだが、この身体、マリアンヌにとっては兄ではない。赤の他人でしかない。
マリアンヌの爵位は子爵。
カミューの爵位は公爵。
この時点で、詰んでいた。
身分の上の相手に逆らえるはずがない。が、できれば受けたくはない。
「お……お断りさせてイタダキマス……」
マリアンヌの返答はそれしかありえなかった。
しかし残念ながら職場はカミューと同じ。
秘書のような仕事を与えられてしまった為、仕事をしている限りカミューの傍に居続けなければいけない。
必死に『元』兄からの求婚を受けては交わし続ける生活が待っていることになるのだが、この時の私にはそれを知る術はなく。
「折角合法的に結婚できることになったのに逃すわけがないだろう? 『 』」
と。
兄が怪しく呟いていた事など、マリアンヌは全く気付かなかった。
拝読、誤字報告、感想ありがとうございます。
誤字報告後の修正が簡単なことに感動しました。ありがとうございます。
題名について色々とご指摘頂きましたので、「ら」を入れさせて頂きました。さらっと書いて、さらっと読める短編という認識をしていた為に、題名は適当につけたので申し訳ありません。しっかりと修正すべきかと思いましたが、今はこのままでいきたいと思います。よろしくお願いいたします。