恋愛天使の苦悩
夕日が差し込む教室の中で向かい合う男女に桐野神は聞いてみたかった。
あなた達は今どんな気持ちなのですか?
「桐野、このシチュエーションの場合マニュアルの五十八ページの壁ドンでいいの?」
桐野の同僚、的場神は右手に大事そうに抱え込んでいる分厚いマニュアル本を凝視しながら、教室の壁ぎわで見つめ合っている男女を指差して尋ねた。
淡い夕陽が射し込む教室の中で、生徒たちの机や椅子が輝き、窓から吹き込む優しい風が教室の男女の髪を軽くなびかせた。シチュエーションとしては申し分ない。
「ああ問題ないよ。仕込みは僕がやるから、的場は援護してくれ」
「了解!」
的場の元気のいい返事に、桐野は手振りでOKのサインを出した。
とりあえず桐野は壁ぎわにいる二人に気配を悟られぬようにゆっくり近付いた。
人間に自分たちを目視することは出来ないことを桐野たちはよく分かっていた。しかし、上司たちから自分たちの気配を隠すための訓練はそれこそ嫌というほど教え込まれていた。最悪仕事を全うする必要はない。だが、人間たちに我々の存在を連想するような可能性を髪の毛一筋ほども持たせてはならないと上司たちは一人の例外なくそう語る。その言葉は必然的に桐野たちの体にも染み込んでいた。
男の背後に回り込んだ桐野は大きく息を吸った。男の体格は平均的に見てみてもそれほど筋肉質というわけではない。軽く押すだけでも体制は崩せるだろう。
「つまりだ……その……俺が言いたいのは」
調査報告書通りの男の奥手ぶりに桐野と的場の顔の筋肉は思わず緩んだ。相手の女性も積極的な性格ではないのだろう。顔を赤くしてただ俯いている。
こういう人間が世の中に腐るほどたくさんいるからこそ僕たちの仕事は潰しがきかないのかもしれない。
桐野はそんなことを考えながら、男の背中を勢いよく押した。
「え?!」男の体制が一気に崩れた。
「一馬くん?」女の方が軽い悲鳴のような声を出した。
そこからの流れはまさに電光石火のような速さだった。桐野は男の右手を軽く掴み、壁に叩きつける。そして、男の顔を女にぶつからないギリギリの距離まで近づける。最後にその体制、状況に数秒間考えが追いついていない男の体勢を軽く調整し、いわゆる壁ドンの形を作り出した。
ゆでたこのように真っ赤になった二人の間に甘い緊張が流れた。
壁ドンの体勢のまま、意を決した顔で男は口を開いた。
「あのさ……俺……本当はずっと」
桐野の肩の緊張が解れた。この先の展開は見なくてもわかる。今まで何百回と見てきた光景だ。
「今日のノルマも終わったことだし、さっさと会社に戻って報告書あげとこうよ。面倒くさいけど……」
軽く体をほぐしながら、いつもの軽い調子で的場は言った。しかし、その顔は疲れ切っていた。桐野と的場はここ数週間仕事詰めで全く休んでいなかった。
「報告書は僕があげておくから先に帰っていいよ」
「え?いいの?それは助かるけど……本当にいいの?」遠慮がちに的場は聞いた。
「別に気にしなくていいよ。僕はもう少し成り行きを見てから会社に戻るから」
「成り行き?彼らの?そんなものを見てどうするのよ?」呆れた顔で的場は軽く頭を掻いた。
的場の質問を軽く流して、桐野はさっさと的場を先に帰した。一人残った桐野は夕陽をバックに強く抱き合っている二人を見つめた。
女の涙顔、男の照れくさそうな顔、この一時を最高の幸せだと確信している顔。
その全てが桐野には理解できなかった。
朝六時四十分、野山香は持ち前の長い髪をいつものように軽くドライヤーをかけ、黒縁の眼鏡を拭いてから身支度を整え、家を出た。家の目の前にある狭い路地を左にしばらく歩き、その先にある大通りに出てからまたしばらく歩いた先にある市民館の近くに彼女の通う公立高校、桜神海高校はあった。
彼女の家から歩いて約二十分、玄関を出た彼女はすぐに左の方向に歩いていけば遅刻としてカウントされる七時四十分にまでには余裕を持って到着することが出来る。
しかし、彼女は右に曲がった。右隣にある彼女の家と同じなんの変哲もない一軒家に寄るために。
右隣の家の前に立った香は秋の少し透きとおった空気を味わうかのように軽く深呼吸した。待ち合わせしている幼馴染、水野翔太はまだ来ていなかった。
まだ寝ているのかな、と思いながら少しニヤけた顔を右手で隠しながら香は左手でチャイムを鳴らした。
水野の家にチャイムが鳴り響いたと同時に玄関から赤いボストンバッグを肩にかけた水野が慌てて飛び出してきた。
「よう!おはよう!」
余程急いで着替えてきたのか水野の学生服はかなり乱れている。水野を見て香は母親のような優しい笑顔を零した。
「おはよう。朝から元気だね」
「朝から自主トレしたせいで目が冴えてるんだよ」
「そんなこと言ってまた授業中に寝たりしたらダメよ」
「あの時は大会のすぐ後だったからついな」
「もう!生徒会長なんだからちゃんと皆の見本にならないと」
「分かってるって」
他愛もない会話をしながら二人は学校に向かった。小学校、中学校、高校まで一緒だった二人は明確に約束したわけではないが自然と二人で待ち合わせして登校する習慣がついていた。
「香さんは水野会長のことが好きなんですか?」
朝の朝礼の後の授業準備時間に香の友人、沼田琴美は席に座って次の授業の準備をしている香に淡々とした口調で尋ねた。
「え?」
さっきまで先日読んだミステリーについて賛否両論を話し合ったのに急に度肝を抜かれる話題を振られたことに香は動揺した。
沼田は特徴的な鋭い目つきで自分の持っている文庫本を読みながらあくまで世間話でもするような調子で尋ねた。
「香さん、いつも会長と登校しているみたいだし、それに」
窓側の一番後ろに座っている香は教卓の前の席で教科書を準備している水野の顔をチラッと見た。
「そ……その……小学校の頃から一緒に登校していたから……それが今でも続いているだけというか……」
香は俯いて両手の指先をもじもじと動かした。
「香ちゃんみたいに奥手だと会長みたいなできる男はすぐにとられちゃうわよ」
背後から聞こえた声の方を香は振り返った。そこにはベリーショートの髪をした小柄な女子、青葉すみれが仁王立ちしていた。その体型のせいか中学生か下手したら小学生くらいにしか見えない。
「とられるもなにも水野君は私のものじゃないもの」
照れくさそうな顔をして香は頭を掻いた。
「なに子供みたいな言ってんのよ。会長を狙ってる娘はそこらじゅうにいるのよ。この間なんて二年生のマドンナと呼ばれてる娘まで会長に告白してたのよ」
青葉のマシンガントークを聞いて沼田は少し呆れた顔をして艶のあるショートボブの髪を軽く触った。
「なんでそんなことを?相変わらずの情報網ですね」
「まあ私の趣味、いや生きがいの一つみたいなものだからね」
青葉は屈託のない笑顔を浮かべた。その笑顔につられて香と沼田の顔も緩んだ。
「相変わらず仲いいなお前ら」
そう言いながら片手に一冊の文庫本を持って香の席に片手をついたのは水野だった。
「どうしたの水野君?」香はきいた。
「いやこの間借りた本返そうかなと思ってな、面白かったよこの本。特に主人公の相方が終盤の方で…」
「ダメ!」香は水野の顔の前に人差し指を立てて険しい表情を作った。
「その本、後で琴美ちゃんに貸すつもりなの。だから内容の話はちょっと…」
「ああそうなのか、悪いな、沼田。この本けっこう面白かったからオススメだぞ」
「ありがとうございます」無愛想な顔で沼田は軽く会釈した。
文庫本を香に手渡ししてから沼田に軽く手を振った水野はその場を去ろうとした。
「昨日後輩の娘に告白されたらしいわね」
青葉の質問が席に向かおうとしていた水野の足を止めた。
「なんでそのことを知っているんだ?」少し驚いた顔で水野は答えた
「そんなことはどうでもいいのよ。それよりなんで断ったの?他に好きな娘でもいるの?」
グイグイと攻めていく青葉をハラハラしながら見ている香は青葉を止めることはしなかった。沼田も元々あまり積極的会話に参加する性格ではないためか何も言わなかった。
香はただ黙って水野の返答を待つ。
すこし紅潮した顔をポリポリと掻いた水野は俯き加減に言った。
「別にそういう訳じゃないけど……ただ俺は……」
その言葉の続きは鳴り響いた授業開始のチャイムにかき消された。
決まり悪さそうな顔をした水野は足早に立ち去った。
香はその後ろ姿を胸に手を当てて見つめていた。
柔らかな秋の日差しが四畳半ほどの手芸部の部室に降り注いでいる。壁際には隅々まで本がびっしりと詰まった本棚と手芸作品が飾れたガラスケースがある。その部室が香たちの憩い場だった。
だが今日の部室は香りにとって憩いの場とは言えるものではなかった。水野の話で沼田と青葉と数人程いる後輩たちが大いに盛り上がってしまったからだ。コーヒーを飲みながら家計簿を黙々と作成する香に部員たちは冷やかし半分で水野との関係を聞いてきた。だが、香はその冷やかしを香は子供を相手にする母親な優しい調子で軽く流した。
「だから絶対に会長は香に気があると思うのよ!」部室の机に肘をついて青葉は雄弁する。
「まあ確かにありえない話ではないとは思いますけどね。生徒会長でありながらサッカー部のエース、おまけに顔も性格も悪くない。気がある女子も少なくないのに付き合っているとかいう話を聞いたことないですから」
流石にそろそろ会話に参加しなければならないと判断した香は沼田にそれとなくきいた。
「そういえばなんで今日急に水野君の話をしたの?」
「この本を読んで少し恋バナという話をしてみたくなったんです」
沼田はハードカバーの本を机の上に置いた。香と同じく読書家の彼女は香以上に多岐にわたる本を読んでいる。
「内容は実に陳腐な恋愛物ですが、この小説に出てくる神社のモデルが近くにあるらしくてちょっとした評判になっているんです」
「知ってる!恋の願いを叶えてくれる神社でしょ。隣のクラスの一馬とアキちゃんもあの神社にお祈りしたから付き合えたって言ってたわ!」
香は飲みかけのコーヒーをじっと眺めた。
まだ少し残っていたコーヒーは冷えきっていた。
愛想神社、名前からすでにちょっとした話のタネになる神社は小学校の近くにあるためか夕方の一部の時間は境内で遊ぶ子どもたちで賑わっている。しかし、もう夕日が沈みかけているこの時間は人っ子一人見当たらず閑散としていた。
香自身も小学生の頃は水野と転校してしまったある女の子と子供なら誰でも知っているような鬼ごっこや隠れんぼを日が暮れるまで遊びつくした。
部活が終わり、部員たちも別れた後香は久しぶりに愛想神社に寄ってみた。
「全然変わってないなー」
鳥居の前に立った香の口から自然に言葉が漏れた。
境内を通り、本堂までの杉の木に囲まれた一本道を想い出に浸りながら歩く香の頬には柔らかな笑顔の表情が浮かんでいた。
元々それほど大きくない神社のため、鳥居から亀のような速さで歩いた香も5分もかからず本堂に到着した。
本堂の大きさは学校の剣道場ほど、外観はそれなりに手入れされているおかげか金の装飾は奇麗に保たれていた。
野山さんは水野会長のことが好きなんですか?
本堂の前に立った香の脳裏に沼田の言葉が去来した。
俺はただ……
あの言葉の先は一体何だったのだろう?
そんなことを考えながら香はポケットから財布を取り出し、五円玉を一枚取り出した。
香は固く握り締めた五円玉を語りは勢いよくお賽銭箱に投げ入れた。
本来なら拝殿前に進み出て最初軽くおじぎをする。お賽銭を入れ、鈴を鳴らす。二回深く礼をするといった手順を踏むべきなのだが香はそれらすべてを無視して周りに誰もいないことを確認してから、とても女の子とは思えない大声、叫び声をあげた。
「私は水野君のことが大好きです!!!!ずっとずっと好きだったの!!!!!!」
香の告白は境内全域に響き渡った。そのあとに訪れた静寂は香の息切れだけを残していった。
私は一体何をしているんだろう。体も心も溶けてしまいそうな熱さを感じていた香は自分の行動を理解できずにいた。
水野君どころか誰もいないこんなところで叫んだって意味なんかないのに。
香は自分の告白など意に介さないような態度で堂々と建っている本堂をじっと見つめた。
私はずっと水野君のことが好きだった。いつから好きだったのかと聞かれても分からない。誰かを好きになった時をこの瞬間と断定できる人はそれほどいないと思う。ずっと自分の世界の一部にいた水野君のことをいつの間にか好きになっていた。
それだけで幸せだった。
周りの言う通りに自分の想いを打ち明けようと思ったことは何度かあった。少女漫画の主人公のように相手の想いと自分の想いが通じ合えばこれほど幸せなことはないと思っていた。
でも、現実は違う。知りたいと思っていることは全然分からないし、知りたくない分かりたくもないことはなぜか感じ取ってしまう。
水野君の周りには私の知ることができない人たちいて、どんな接し方をして、水野君がどう思っているのか知ることはできない。
だが、水野君の隣を歩いていると、一緒に楽しくおしゃべりしていていると、側にいるとどうしても感じ取ってしまう。
自分の想いと相手の想いは一緒ではないのだと。
それなら友達のままでも隣にいた方がいい。傷つくリスクを冒さず、友達として側にいる幸せを手に入れることができるのだから。
香は敗れ去った兵士のような弱々しい足取りで神社を後にした。
彼女の去った後の神社に奇妙な静寂が訪れた。
「彼女の名前は野山香、十七歳。身長百四十四センチ、体重は四十三キロ、スリーサイズは上から順に八十一、六十、八十四です。部活は手芸部に所属しており、全国的なコンクールでも好成績を残すほどの腕前です。性格は一言で言えば大らか。あまり自分というものを出さず周りに合わせている印象が強いですね。しかし、それを苦と思っている様子はそれほど見受けられず、周りに合わせるのが楽、いや、幸せと思っているような」
「彼女自身のことはどうでもいい。それよりも想い人、水野翔太との関係性はどうなんだ」
桐野の発表を遮って、上司の大道林神がきいた。香が愛想神社を訪れた一週間後に開かれた臨時ミーティングの席上である。ミーティングが行われるのは社長室だが肝心の社長は基本的に時間通りには現れない。当然今日の会議にも定刻五時にその姿はなかった。
空席になっている社長の席に目線を送り桐野は発表を続けた。
「家族同士の付き合いが幼稚園生のころからあり、高校生になった今でも一緒に登校などの付き合いがあります。典型的な幼馴染の関係と考えていただいて問題ありません」
「しかしこの娘は少し奥手すぎるという報告が上がっているぞ。支援の度合いもかなり高くなるんじゃないか?」一人一人に配られた資料を眺めながら上司の一人が尋ねた。
「確かに支援レベルは比較的高いものになるかもしれませんが、彼女にはその支援を受けるだけの教養と人格があります。支援を受ける資格は十分あると思いますが……」
「彼女自身の話はどうでもいいんだ。要するに彼女の恋が実った場合の利益はどうなんだ?」
半ば白くなった頭髪が銀色に輝き、深いしわの寄った顔を作っている大道林は威厳に満ちた容姿で桐野に言葉にできぬプレッシャーを与えた。
この報告書を通すためにはこの上司を説得することが絶対条件だと考えていた。
「我々の活動は慈善事業ではない。実益が伴わなければ我々だって危ないんだ。だからこそ願いをかなえてやる人間は選ばなければならない。そうだろう福島君?」
大道林は鷹のような鋭い目で右隣に座っているオールバックの男に目線を配った。
「恋愛成就をさせることでこの神社の知名度を上げ、更なる神社としての飛躍を目指す。それが我々の目的です」
「その通りだ」
息子を自慢する父親のような口角の吊り上がった笑顔で大道林は福島を見た。その笑顔に恐縮といった顔で福島は頭を下げた。周りも大道林の意見に同調する空気が流れ始めていた。
まずい……
すでに役員に名を連ねている若手のエースと名高い福島の意見によって大道林の見解に説得力が増してしまった。
「野山香の願いを叶えることは必ずこの神社の利益になります」
テーブル席に資料を叩きつけ桐野は役員たちに強い視線を送った。
「彼女自身も確かにあまり外交的な性格とは言えません。しかし、薄いとは言えない友人関係を気付いています。そして彼女が想いを寄せる水野翔太は学校内外にも人気のある生徒です。彼らの恋愛にこの神社が関わっていたという噂が知り渡れば必ずこの神社のプラスになります」
社長室の壁に映したデータなどを懸命に説明したが、手ごたえを感じることを感じることが出来ずにいた。完全なノーリスク、ハイリターンでなければ手を出さないうえに極力仕事を減らそうとする行動する。もう会場は解散のムードを漂わせていた。
「いや、皆さんお疲れ様です。遅れてしまって申し訳ない。東京の方の神社との報告会が思ったより長引いてしまってね」
思わずこっちまで頬が緩んでしまうような笑顔をぶら下げて愛想神社の社長、神原神は部屋の中に入ってきた。
「どうだったんですか今回の連合会議の結果は?」
間髪入れずに役人の一人が尋ねた。日本全国に多数存在する縁結びの神社は多様化する人間界の恋愛観について情報を交換するために半年に一度のペースで各神社のトップたちが集まる。それが大天使連合会議である。だがその実、その会議の実態はそれぞれの神社の実績を確認し、力関係を明らかにする場であった。
この会議の結果は桐野も含めて気になるところであった。
「いやー新しい顧客の話でてんやわんやだったよ。芸能人枠は扱いが難しいから余計な話し合いも多くてね。二件しかとることが出来なかったよ」
その場の空気が一気に張り詰められた。芸能人枠は知名度上げる絶好のチャンスといえる。それも二つも。勤続年数のまだ若い神原が社長を任されたことも頷ける。
「いえいえ、案件の一つは大道林さんのおかげで手に入れたようなものですから、ありがとうございます」
神原に礼を言われた大道林は恐縮そうに頭を軽く下げた。
その芸能人の調査、支援を可能ならば許可するという連合会議のお触書は恐ろしいほどの威力を発揮する。
「それで?決は出ましたか?」
神原はテーブルに広げてある野山香の資料を流し読みした。いつも笑顔を作っている神原が自分の資料を読みどんな判断を下すのかを表情から推察することはほとんど不可能だった。桐野はただ黙って神原の口が開く瞬間を待った。
「何もそんなに議論することなんてないじゃないですか」
その一言で桐野は意を決した。発言の意味がどちらなのかは分からないがここで畳みかけなければこの報告書は通らないと確信していた。
「確かに大きな案件ではありません。大きな見返りがあるわけでもありません。しかしこういう案件を地道にこなしていくことが繁栄への最も堅実な道だと考えます」
「野山香と水野翔太はそれなりに近しい仲ですし、決して無理な案件だとは思えますが……」
テーブル席の端で実行部の責任者として出席している同僚の的場神が気まずそうに役員たちの顔を見渡した。味方がいないと思っていた場所で消え入れそうな声でも助けてくれようとしてくれた気持ちは思わず笑みがこぼれてしまうほど嬉しかった。
「どうですか、社長?」
桐野は神原の顔をじっと見た。自分の決意を映す眼を神原に向けた。
「君は本当に面白いね……」
「え?」
神原のボソッとした声を聞き取ることができず桐野の口から拍子の抜けた声が漏れた。
「私たちは人間じゃない。性別があるにも関わらず、我々は恋愛感情なんてものを持ち合わせていない。それが天使という生き物なんだ。そんな僕たちが彼らの恋の支援をするためには神社全体としての経験が必要なんじゃないかな。この案件もそういう意味では必要だと思うけど皆はどう思うかな?」
役員たちは黙って頷いた。神原がいいと言っているのに反対意見が出る訳がない。
野山香の支援が決まった時点で今日のミーティングは終了した。
「のどかだねー」的場がスーツを整えながら呟いた。
「そうだねー」桐野も何も考えず同調した。
「にしてもちょっとくらい人手をよこしてくれていいのに。二人で身辺調査から実行までするのは正直かなり骨が折れるわ」
「仕方ないよ。あの芸能人枠の話にかなり人手を割いているみたいだし。僕がやらせてほしいって言った仕事だからね」
「まあ、あんたがそう思っているならいいけど」
朝七時半、桐野と的場は狭い路地を歩いている香と水野を三歩ほど後ろの距離から尾行していた。前の二人はどうやら学校の小テストの範囲について話しているらしい。
「にしても桐野の熱心な仕事ぶりには毎度毎度驚かされるよ」
「え?」
「こんな小さな案件でいちいち上司に逆らっていたらそのうち目を付けられるわよ。そうなったらこれ以上の出世は望めなくなるわよ」
二人の歩幅が少しずつ小さくなっていく。
「心配してくれてありがとう。でもそんなことは気にしなくていいよ」
「そんなこと?自分は地位も名誉も求めていないとでも言うつもり?」
嘲笑の混じった笑みを隠すことなく桐野に向けた。そんな奴がいるわけないだろうと眼が言っている。
「僕だってもちろん認められたいって気持ちはあるけど……」
「あるけど?」
「もっと知りたいことがあるんだ」
「知りたいことね……」
「僕たちは天使と呼ばれている。でも、生物だ。性別もある。だけど、恋愛感情も性欲もない。決められた相手と仕事の一環として、一年間暮らす。子供ができれば神社という単位で育てる。そんな生き物って他にいるのか?」
「考えてわかるものでもないでしょ」
もう興味をなくしたのか的場は前の二人の動向のレポートをまとめるためのメモを取り始めた。その様子に合わせるように桐野もいつものメモ帳をスーツのポケットから取り出した。
「西山部長よろしいでしょうか?」
朝六時十分、いつもより二十分近く早い時刻に呼び出された福島神は直属の上司である西山神の部屋をノックした。
「入り給え」
西山の野太い声を聞いた福島は背筋をすっと伸ばして西山の部屋に入った。
「どのような御用でしょうか?」
入るや否や単刀直入にきいた。
自分の席に座っている西山はいつもより落ち着きのない様子に見える。
「実は君に早急に頼みたい案件があってね。今日からの案件なんだが引き受けてくれないか?」
「今日からですか?今日は二つほど別件がありますのでそちらとの折り合いをつけながらの仕事になりますが……」
「その別件は他のやつにやらせておく。君にはこちらの仕事に集中してほしい。そうは言ってもまずは身辺調査だけの簡単な仕事だ。まだ余計なことはしなくていい」
まだか……
「分かりました。部長からの期待に添えられるよう全力を尽くします」
福島の返答を聞いて安心したのか西山の顔に蛇のようなねっとりとした笑みを浮かべた。
「君の仕事ぶりには私もいつも感心させられているんだ。今回も頼むぞ。この件がうまくいけば私が上の方に君を強く推しておくよ」
「ありがとうございます」
「これが調査対象の資料だ。今日の朝七時から調査開始だから早めの準備を頼みたい」
クリアファイルに入っている資料を立ち上がって福島に手渡した。
「君のように堅実で優秀な男に私はもっと上にいってもらいたいんだよ」
勢いよく福島の背中を叩いた西山は脂で光っている右手を差し出した。仕事がうまくいった時、上機嫌の時、西山は部下に手が握りつぶされるのではないかと思うほどの強い握手を求める。
内の中に芽生え始めていた感情を全く表情に出さず福島は西山と固い握手を交わしてから部屋を後にした。
すぐに仕事にかかろうと自分のデスクに向かおうとしたが、その前に彼は手洗いに足を向けた。
やっと自分にも運が回ってきた。
自分の椅子に深く腰を下ろした西山の心に芽生えていたのは巨大な安心感だった。自分の先輩である大道林に芸能人枠の一つを任せたいと声をかけられた時は幸運と思う反面、あまりにうまくいきすぎているのではないかと不安になる気持ちもあった。芸能人枠は神社にとっての最重要案件の一つそれを個人間で話を進められていることに多少の違和感を覚えていた。大道林は地位のためになにかを仕掛けるつもりなのかもしれないという不安もあった。
しかし、歴代でも群を抜いている若手のエース福島神に任せたことでかなりの安心を得た。福島ならうまく仕事をこなしてくれるはず、怪しい点があれば気づいてくれるはず、そして万が一の場合なら福島にミスを擦り付けて切り捨てることもできる。
西山の顔に下卑た笑みが広がった。
「どれだけ堅実かつ優秀でも君は道具に過ぎないんだよ」
そのことに気づかない限り一生誰かの手足として生きることになる。
西山は自室の冷蔵庫を開け、年代物のワインを開けてグラスに注いだ。
まあ、私の知ったことではないがな。
朝一番のワインで頭に刺激を与えた西山はさっさとワインを冷蔵庫に戻し、仕事にとりかかった。
念入りに手を洗う福島は目の前のガラスをじっと見た。
成功したら自分の手柄、失敗したら俺の責任にするつもりなんだろう。すがすがしいほど短絡的かつ馬鹿な上司だな。
胸の中に芽生えた嫌悪感を吐き出すように唾を洗面台に飛ばした。
上司や神社に得も言えぬ嫌悪感を覚えたとき福島はいつも鏡に向き合う。そして、その鏡で神社の全員が求める福島神の顔を作り出す。鏡という自分との境界線を張らなければ福島自身さえもう一人の福島を作り出すことができなかった。
鏡の中の自分はあくまで神社のために身を粉にして働く天使、野心もなく、上司に与えられた仕事を完璧にこなす便利な道具だ。
完全武装を完了した福島はトイレを出て、自席に向かった。
福島は地上一万メートルに位置する天界のビルの廊下を歩くときは五尺六寸、筋肉質のがっしりとした体型から溢れ出す自信に満ちた足取りで後輩たちの尊敬を集めていた。
クリアファイルの中から資料を取り出した。その資料の右上には調査対象の名前が記されていた。
東原ミサ、それが彼女の名前だった。
鉄筋四階建ての建物の三階のちょうど真ん中に二年三組の教室はあった。
桐野たちの標的である野山香は自分の席で友人二人に囲まれて談笑していた。内容は聞く限りでは近頃出版された本についての話らしい。
「趣味は読書と手芸、友達はいるが決して社交的な性格ではない」
資料と香りを交互に見ながら桐野は観察を続けていた。
「スタイルと顔面偏差値はどうだろう。こればかりは私たちの主観じゃわからないからね」桐野は教室の後ろの壁にもたれかかった。
「だが重要な情報だよ。人間界の研究資料にもあるがモテる性格は存在しないが、外見は恋愛感情にかなり影響を与えるそうだからね」
「結局、外見が全てということね」
人間の顔の好みをあまり考えたことがない桐野には香の外見がどのレベルなのかは判断しかねるが、全くと言っていいほど飾りっ気がないというのが桐野の正直な感想だった。
それはまだ外見にある程度の変化の余地を残していると考えればある意味ではいいことなのかもしれないと桐野は思った。
「はーい 全員席につけー」
朝礼のチャイムとともに先生が拍子の抜けた声とプルンとした光沢の頭を教室に連れてきた。
「さて、朝の会を始める前に皆に転校生の紹介をしたいと思う」
クラスのざわめきが一気に最高潮に達した。大騒ぎするというわけではないがクラス全体の落ち着きのなさ、そわそわとした感じがその場の空気を支配した。
先生は軽く咳払いをしてから彼女の名前を呼んだ。
「じゃあ入ってくれ。転校生の東原ミサだ」
クラスのざわめきは一気に興奮の入り混じった戸惑いの声、叫び声、驚嘆の声に変った。
「東原ミサってあの若手俳優の?」
「同じだよ!テレビと同じ顔!」
「俺!昨日彼女が主演のドラマ見たよ!」
「本物?本物?」
教室にゆっくりと入ってきた彼女を合図にクラスのあちらこちらで地雷が爆発したかのように生徒たちの熱が上がっている。ここにいる人間たちの様子からして相当有名な俳優らしい。
その時桐野の脳裏に何かが過った。何かというほど不確かなものではないが、まだ確証がなかった。
しかし、数秒後それは確信に変わった。
彼女の三歩ほど後ろを歩いている福島を見つけたときに。
「福島?」
的場の口から苛立ちの混じった声が漏れている。桐野のメモを取っていた手も止まった。
だが、驚いたのはこちらだけという訳ではないらしい。普段の精悍な顔立ちが少しゆがみ戸惑いの表情を作っている。
「なんでお前らがここに?」
「それはこっちのセリフよ。そっちこそこんなところで何しているの?」
普段からあまり福島のことをよく思っていないせいか的場の聞き方には多少のとげがあった。
「俺はただ仕事をこなしているだけだ。君たちもそうだろう?」
「あの芸能人枠を任されたのは君だったということか」
桐野はメモ帳をポケットにしまい、福島に一歩近づいた。
「なるほどあの会議の娘、野山香と東原ミサは同じ学校の生徒だったのか。大した偶然だな」
「本当に偶然?」
福島に詰め寄った的場が指をさして尋ねた。
「同じ学校というだけなんだ。いがみ合うこともないだろう。仮にも同じ神社に努める仲間なんだから」
心にもないことを……
思わず吐き出しそうになった言葉を飲み込んで桐野は的場を手で制した。
クラスのざわめきも香の耳に入っていなかった。東原ミサの名を聞いたことがなかったというわけではなかった。自分たちとは住む世界が違う人が同じ空間で息をしている。確かに驚いた。だが香が本当に驚いていたのは自分の遠い記憶に浮かんでくる彼女の顔だった。
背中にかすかに流れた汗を感じながら香は水野の席の方に顔を向けた。
その瞬間、疑惑は確信へと変わった。
いつもの少し緩んだ表情が呆然とした違った意味の緩んだ表情になっていた。
そんな水野の表情に気づいたのかミサは確かな足取りで水野の席に近づいていった。
「久しぶりね、翔ちゃん」
水野の席の前でにっこりと笑った彼女の笑顔は黄金比のような完璧な形の笑顔に見えた。
「今なんとおっしゃいましたか?」
「言葉の通りだ。野山香の支援は打ち切る。以上だ」
社長室で開かれたミーティングで突然下された決定に桐野は納得することができなかった。
しかし、普段よりも静かな眼をしている役員たちは大道林の意見に口を挟むどころか、桐野に無駄なことをするなと合図まで送ってくる。
「なぜですか?なぜ急に?」
桐野は大道林に詰め寄った。
「なぜ?決まっているだろう」
大道林は両手を広げ、あきれた表情を作ってみせた。
「最優先顧客、東原ミサの想い人が水野翔太だからだ」
手元にあった資料を強く握りしめ桐野は下唇を噛んだ。
想像していた最悪の事態になってしまった。
「しかしそれだけでは理由になりません。まず野山香と東原ミサ、どちらが願いを叶えるのにふさわしいのか。性格、実績、想いの強さから吟味してからでも遅くはないのではないのかと……」
「あんまり駄々をこねられると困るんだ」
大道林は瞳の奥に怒りの火をつけて桐野を見据えると、
「勘違いするなよ。お前はあくまで一社員で決定権は社長と我々役員にあるんだ。その決定に従えないならここを去ってもらうしかないな」と威圧する。
去ってもらうしかないな。その言葉に一瞬ひるんだ桐野だったがすぐに顔を引き締め大道林の威圧に立ち向かった。
「しかし、我々の判断が人間一人ひとりに与える影響は少なくありません。その判断をそのように……」
「たかが恋愛だろう?」
桐野の意見を遮ったのは西山の推薦で正式に東原ミサを支援することになった福島神だった。彼は野山香の資料の上に置かれたコーヒーを飲みながら福島は勝者の余韻を漂わせていた。
福島の何気ないボソッと呟いた言葉が桐野から言葉を奪った。一気に乾いていった喉からは言葉が出てこなかった。あの一言が桐野の中にある何か巨大な氷塊のような心を砕いた。簡単に聞き逃すことができる言葉に桐野はふつふつと怒りにも似た感情を抱き始めていた。
「そんなに必死になる必要なんてないんだ」
遅れて入室してきた神原の無機質な表情は部屋全体を見渡していた。
「君の仕事ぶりには、いや、仕事への姿勢には正直感心しているんだ」
「感心?」
突然の褒め言葉に呆然としている桐野に神原は続けた。
「前にも言ったが私たちは人間じゃない。だから奴らの気持ちなど分かるわけもない。気持ちの分からない奴らための仕事にやりがいなんてものがあるわけもない。結局ビジネスなんですよ。そんな仕事に対する君の熱心さは素晴らしいよ」
心もなく言い捨てると、その場にいた全員が気づまりな気配になりかけた。
「さて今日のミーティングは早めに切り上げて芸能枠の恋愛成就プランを早めに立てましょう。はやいに越したことはないですから」
神原の掛け声とともにその場にいた役員たちが荷物をまとめ、ぞろぞろと出て行った。
一人残された桐野はテーブル席をじっと見つめている。自分の担当していた仕事の一つが打ち切られた。それだけのことだった。今までだって似たようなことはあった。
だが、この拭いきれないような敗北感を感じたのは初めてだった。
「残念だったね。福島に仕事を取られるなんて」
窓際に位置する自席でボーっと外を眺めている桐野に陽気な声と一緒に背中を叩いてきたのは的場だった。的場の後ろには後輩である吉野神がピシッとした格好で立っていた。真面目な部下でしっかりと仕事をこなしてくれるがどこか引っ込み思案なところがあり、直属の上司である桐野にすらあまり自分から話しかけようとしない。
「別に仕事を奪われたことを気にしているわけじゃないよ」
雲が一面に広がっている景色を見ながら桐野は答えた。
「ただ僕はどこかおかしいのかなと思って……」
「おかしい?」
的場は思わず噴き出した。
「それはそうかもしれないわね」
「お前もそう思うのかい」
微笑を零した桐野が椅子を回して的場をじっと見た。
「まああんたは良くも悪くも仕事に熱心すぎるのよ。周りから見てみればなんで地位に拘らず人間に感情移入できるのか理解できないんだよ。私も正直なんでお前がそこまで仕事に熱中できるのかよく分からないからな」
「どうしてそこまで誠実に働けるんですか?」
珍しく質問してきた吉野に二人は少し驚きの表情を漏らしたが、桐野は照れくさそうに頭を掻きながら答えた。
「僕は別に誠実じゃないよ。そして人間に感情移入しているわけでもないよ。むしろそれが分からないから頑張れるんだ」
「ふーん」
最初に聞いてきた的場はもう興味をなくしたのか近くあった椅子に腰かけて体を伸ばしてストレッチをしている。だがその様子を見るとへこんだ心が少し膨らんでくるのを感じる。
もう少しやれることをやろうと思った桐野は散らかっている自席の整理から始めようと机に向き合おうと思い立ち上がった時、吉野と目が合った。その顔はどこか影を落としている。
「心配をかけたね。何か聞きたいことがあるならなんでも聞いてくれ」
整理しながらなるべく気さくな感じで桐野は言った。
そこから数秒間、吉野は黙っていた。その沈黙が何を意味するのかこの時の桐野にはわかるはずもなかった。
「桐野さん。私は……」
その言葉の続きは吉野を呼び出した大道林の声に遮られた。颯爽とその場を去る吉野の姿はどこか怯え切った子犬を彷彿させた。
芸能人、俳優になるような人間には外見的魅力以上に人を惹きつける求心力のようなものがあると東原ミサを見ていると痛感させられる。
最初のうちは芸能人という非日常的スペックに皆惹きつけられているように見えたが、一か月が経ち、雪がちらほらと降り始めたころにはミサはクラスに完全に溶け込んでいた。
自分と違い世界の住民だと敬いながら一線引いていたクラスメイトたちとも今では普通の友人関係を築いていた。その普通が引っ込み思案の香に驚きと憧れを与えていた。
「香ちゃん、おはよう!」
自席で物思いにふけっていた香はミサのあいさつに過敏に反応してしまった。
「ミサちゃん……おはよう……」
「この前、香ちゃんがおススメしてくれた本読んだわ。やっぱり香ちゃんがおススメしてくれる本は外れがないわ。昔から本が大好きだったもんね!」
ミサの笑顔に混じりっ気がないとでもいうのだろうか、子供の笑顔を見ているような微笑ましい気持ちになる。さらにいえば自分ですら忘れかけていた思い出を彼女が覚えていてくれていることも少なからず嬉しかった。
だが、香はミサに対して感じている灰色のドロドロとした感情を拭いきることができなかった。
「じゃあ今から私サッカー部のミーティングに行かなきゃいけないの!またあとでね」
ミサはつやの長い髪をかき上げて軽くスキップをしながら教室を出て行った。
「ちょっと!いいの?」
ミサの後姿を目で追っていた香の頭を青葉が激しく掻いた。
「ミサちゃんと水野君と香って幼馴染なんでしょ?ボーっとしていると水野君とられちゃうよ!」
「私にとって二人は大事な友達だから……」
顔を赤くしながら香は下を向いて手をもじもじと動かしている。その手の動きは次第に早くなっていく。
「もう本当に奥手なんだから!ミサちゃんは水野君のハートを射止めるために動き始めているのよ!わざわざ生徒会に入ったり、サッカー部のマネージャーになったり!あんなに可愛い子が!あたしが男だったら絶対いちころよ!」
誰かに叩かれたようにビクッと香の体が反応した。
ミサちゃんは翔太のことが好き・・・
そんなことはミサちゃんが転校してきた初日、いや、三人で神社の境内で鬼ごっこをしていた頃から知っていた。
でも、こうして第三者に指摘されると心の中に重しをのせられたかのように気分が沈んでしまう。
香はもじもじと動かしていた手をギュッと握りしめた。
私はなんて嫌な女なんだろう。翔太が好きという理由だけでミサちゃんを心のどこかで敬遠している。自分は何もしないくせに翔太のために何かをしようとしている彼女を見ると失敗を望んでしまう。
そして、そんな自分がいることを彼女にせいにしている自分がもっと嫌いになってしまう。
香はお手洗いに行くといって席を立った。廊下の窓から見える校庭では朝練習しているサッカー部の部員たちが爽やかな汗をかいてパス練習をしていた。香の視線は自然と子供のような笑顔で練習に励んでいる水野に惹きつけられていた。サッカーをしている時の楽しそうな水野を見るたびに単純な水野の幸せを願う気持ちと自分自身の幸せを感じていた。何かに夢中になっている水野を母親のような優しい気持ちで見守ることで彼女自身も満たされていたのだ。
だが、その世界もミサの登場によって崩壊した。
小走りで水野にタオルと飲料水を渡すミサを見た瞬間に香の心をずっしりとした重しが押さえつけた。
窓際とは反対の壁を見つめながら香は早歩きで教室に戻った。あの二人を思う見たくなかったから。初々しいカップルのように笑いあう二人を見たくなかったから。
その日の夕日が沈みかけた放課後、香がばったりミサと水野にあったことはある意味幸運だったのかもしれない。何かの原因やきっかけを思い出そうとして過去を振り返ってみてもたいていの場合は本当のきっかけにはたどり着けない。なぜなら現状はすべてきっかけの積み重ねによって構成されているから。
しかし、重要なきっかけは確かに存在する。校門でばったりと好きな人と恋敵に出会う。単純だがこのきっかけはこの物語に必要なものだった。
「あら、香ちゃん!今一人なの?部活は?」
緑色のトートバックを肩にかけ、制服をオシャレとして着こなしているミサには先ほどまでマネージャーとして働いていた痕跡はどこにもなかった。
「うん……今日、部活は休みだったから、図書館でずっと本読んでたの」
「相変わらず本の虫だな。お前は」
笑顔でそう言ってくる水野の顔を直視できず香は俯いた。
「俺たちも帰るから香も一緒に帰ろうぜ」
「そうよ、そうよ!二人とも家近いんでしょ?一緒に帰りましょうよ!」
少しも嫌な顔をせずにミサは香の手を握った。
三人で帰る商店街の道のりは楽しかった。余計な感情に振り回されることなく友人として談笑する帰り道は子供時代の純粋な身持ちを思い出させた。
だが、商店街の道を半分歩いたところで水野が腕時計を見て、軽くため息をついた。
「悪いな。今から俺買い物しなくちゃならないから先に帰ってくれ」
「買い物?今から?」
ミサが驚いた顔できいた。
「ああ、まあちょっとな」
少し影が入った表情を見せた水野は返事に窮していた。
「夜ごはんの買い出し?」
事情を知っている香はあえて聞いてみた。自分にも何かできることがなにか知りたかったからだ。
「ああ、まあな」
水野は言葉を濁した。
「一人で料理をするのは大変でしょ?ご飯を作るなら私も手伝いに行こうか?」
香と水野の二人が目を見開いた。ご飯作りに行こうかという提案に驚きを覚えたこともあるが、まるで水野の家庭環境を知っているような物言いに二人は驚きを禁じ得なかった。
「いやいいよ。今日は父さんと少し話したいこともあるし」
少し寂しそうな笑顔を作って水野は頬をかいた。それ以上突っ込んでもいいことはないと判断したのかミサは追撃をしなかった。
だが、香はあえてその話題に触れた。
「お母さんはまだ帰ってこないの?」
一瞬商店街を歩く人々の動きと喧騒が止まったような気がした。その時の中で水野は香の顔をじっと見た。香は決してその深い色をした視線から目を逸らさなかった。
「母さんはもう帰ってこない。でもいいんだ。それで。母さんの人生だし、何より自分の意志で自分の責任で出て行ったんだから俺は何とも思ってない」
「寂しくないの?」
息子を心配する母親のような声で香はきいた。
「もう慣れちゃったよ」
そういうと水野はにっこりと笑ってまた明日と言って近くのスーパーの中に消えていった。
取り残された二人は何か話すこともなくとぼとぼと帰り道を歩いた。その帰り道の途中で愛想神社に寄らないかと言い出したのはミサだった。
本堂に続く道を歩きながら香は水槽の泡のように浮かび上がってくるある一つの思い出に囚われていた。
些細な思い出だった。小学校で好きな男性のタイプに話していた時、皆が芸能人の名前やらスポーツ選手の名前を挙げる中、ミサは何も言わなかった。
なぜこんなことを思い出すのか香自身はその原因もぼんやりと考えていた。そのぼんやりは商店街でのやり取りの中に答えがあると決めつけた。
「私は水野君が好き。もう分かっているでしょ?」
突然の告白に対して香は黙って頷いた。
「あなたも水野君のことが好きなんでしょ?」
激しく腕を振り、真っ赤な顔を必死に隠そうとした。
「あたしはその……あの……別に……」
「本当にどんくさい娘ね」
「え?」
「昔からあんたはそうだよね。おっとりとした顔していつも傍観者を決め込んでた。優しい眼でいつも一線引いたところで皆を見ていた」
いつもとは違う威圧的な彼女の態度に香はたじろいでしまった。
「だから水野君にも想いを告げられないんでしょ?」
香をあざ笑う妖美な表情は香をますます動揺させた。
「ミサちゃんは本当に翔ちゃんのことが好きなの?」
動揺で少し震える声で香はきいた。香の様子がよほど滑稽だったのかミサはますます意地の悪い笑いを浮かべた。
「もちろんよ。だって私と釣り合うのは彼くらいだもの」
「釣り合う?」
香の眉がぴくっと動いた。
「そうよ。彼の人格、能力が優秀であることは小学生のころから分かっていたわ。まあ今の私なら優秀な男は選び放題なんだけど、やっぱり相性は大事だし、何より私にこびてくる男たちが気に食わないのよ。私は水野君のような一般レベルで秀でていて私に媚びてこない男を落としたいの。その方が気楽だし、分かる?」
「ミサちゃんが水野君を好きな理由は……優秀だから?」
「納得できないって顔をしているわね。まあそんなに心配しなくても私が彼との恋愛ごっこに飽きたらちゃんと返してあげるわよ。まああなたのものになる保証はどこにもないけどね」
「水野君を物扱いするのはやめて・・・」
香はこぶしをギュッと握りしめた。その拳で相手を殴る度胸はなかったが握りしめることでしか香は感情を表に出すことができなかった。
「別に物扱いしたつもりはないわ。だって理由はどうであり私も香ちゃんも水野君を好きなことには変わりないんだから。理由に優劣をつける必要なんてないでしょ?」
「ミサちゃんと私の気持ちを一緒にしないで!!!」
神社に彼女の怒号がこだました。突然吹き始めた風に揺れる杉の木たちはまるで香の怒りに呼応しているようだった。
「私は毎日水野君のことを考えている。それだけで幸せで恥ずかしくて嬉しくって苦しくって悲しいの……今だって胸が締め付けられるように苦しいの……」
自分の気持ちを吐露した途端同時に涙まで体中から吐き出しそうになってしまった香は全身に力を入れて身を縮めた。その様子はまるで外敵から身を守る亀のようだった。
外敵、ミサの顔をちらっと見た。その顔はもう笑っていなかった。それどころか同情にも似た眼差しを向けていた。
「あなたは絶対に勝てない」
「え?」
「一つの恋を叶える。それはそんなに甘い話じゃないの」
ミサが言わんとすることがいまいちよくわからず香は首を傾げた。
戸惑ったままの香りに目もくれずミサは神社の出口に足を向けた。出口に向かう足取りはもう話すことはないと語っていた。
「私だって負けない!!」
気づいた時にはもう叫んでいた。決意の一言をきいて足を止めたミサの後姿を熱気を帯びた顔で見つめていた。そしてすぐに目をギュッとつぶって俯いた。
私は何を言ってるんだろう。こんなに熱くなってまで・・・
自分の人生の中でここまで他人に感情をぶつけたことがあっただろうか。十七年生きていればどうしようもなく怒りを感じることだって多々あった。でもそれは自分にも原因がある。相手の一面しか見ていないからと色々な理由をつけて人に怒りをぶつけないようにしてきた。
なのに……どうして?
香は眼をゆっくりと開けて顔を上げた。一度止まった足はまた同じ歩調で歩き始めていた。
「桐野ー お前な!もう少し立ち回り方というやつを覚えた方がいいわよ」
「立ち回り方ー?なんじゃあそりゃー」
天界の下町に立ち並ぶ居酒屋。その中の一つ焼き鳥店、恋落ちが桐野と的場の行きつけの店だった。
「だからな!あんまり大道林さんや社長に盾突くなって話よ!私たちはこの神社で働くことが存在価値みたいなもんなのよ。人間社会みたいにどこかに飛ばされるなんて生易しい話じゃすまないわよ。この神社から追い出されたらもう天界で働ける場所はない。最悪の場合……」
「そんなことわかってるよ!」
桐野は丸テーブルの上にグラスをドンと置いて次のビールを頼んだ。
「おいおい飲みすぎよ。珍しいじゃない、そんなに酔うなんて」
桐野の肩を軽くたたきながら的場はつまみのポテトを頬張った。
「東原ミサへの正式な支援が決まって、僕は野山香の担当から外された」
「仕方ないわ。新人とはいえ人気急上昇中の東原ミサがこの神社のおかげで縁を結べば人間界だけじゃなく、天界からも注目される。誰がどう考えたって東原ミサを選ぶさ。そんな決まりきったことにいちいち突っかかっていたら、ますますお前の立場がなくなるぞ。俺たちみたいな平社員は黙って上の言うことを聞いていればいいんだよ」
「本当にそれでいいのかな?」
テーブルの上の枝豆を一つ手に取り、桐野はそれをじっと見つめた。
「僕たちの仕事は確かに慈善事業じゃないかもしれない。だけれども・・・」
「恋に悩む人間たちを見捨てられないか?お優しいことだな」
「違うよ。僕は優しくなんかない」
「……」
いつも以上に酔っているからだろうか口から息をするかのように加工されていない言葉がどんどん出てくる。
「僕たちはこの世に生を受けた時からこの神社でこの仕事をすることが決められる。僕は敷かれたレールの上でこの神社に尽くすよりもやりがいを持つことで自分を鼓舞し続けてきたんだ。上役たちと僕は何にも変わらないよ。結局のところ自分のために仕事をしているんだ。僕は誰かのためになんて高尚な考えは持ってないだよ」
桐野は注文したビールが来た瞬間、それを一気に半分ほど飲んだ。体中に染み渡るビールで自分の中にある無力感や憤りを洗い流した。
「まあ、色んな考え方を持った人たちの中で自分を曲げて動く。どんなに理不尽でもどんなに納得できなくても。生きていくためにはそうしかなきゃならないの。それが働くってことでしょう?」
「そう……かもね」
洗い流したはずの無力感や憤りがまた喉元まで這いあがってくるのを感じた。そして、脳裏には顔を赤らめて俯いている野山香の顔が浮かんだ。
彼女は今どうしているだろう?東原ミサの猛攻撃を目の当たりにして戦意喪失たのだろうか。できればそうなっていてほしい。彼女が恋を叶えることなど絶対にありえないのだから。水野翔太と東原ミサの縁を結ぶために愛想神社の総戦力が動く。戦争に例えるなら一人で一個師団に立ち向かうようなものだ。
もう俺には何もできない。
そう考え出すとどうしても一度彼女の顔を見ておきたくなった。
結局二人は二時間ほど飲んでから店を出た。天界の空には雲一つなく月が淡い光を放っていた。
「なあ的場」
「うん?」
「ちょっと野山香の家に寄らない?」
「今更行ってどうするの。ごめんなさいとでも言って頭を下げるの?」
「いや……どうしたいんだろうな……僕は……」
桐野は頭をひねりながら人間界に降り立った。
野山香の家の場所はよく記憶している。どこにでもある住宅街のどこにでもありそうな一軒家。それが野山家だった。
家族構成はうだつの上がらないサラリーマンの父、お嬢様育ちの専業主婦の母、中学二年生になる弟といった具合だった。身辺調査した時には家族間で使えそうな情報はなさそうだなと少々落胆したものだ。
「ここか?まあなんとも特にいうことのない特徴のない家だな」
白い外壁をした野山香の一軒家を見上げて、的場は頭の上で腕を組んだ。
「野山香は一階にはいないみたいだ」
窓から桐野が覗き込んだリビングにはテレビを前に談笑している母親と父親、そして汚れた野球のユニフォームを着たままの弟の姿があった。どうやら野山香本人は二階の自室にいるらしい。
軽く体を伸ばし、体をほぐした桐野と的場は二階の屋根によじ登った。
なんでこんなストーカーのようなことを。
桐野の内心は彼女の調査を始めてから乱されてばかりだった。今までも納得できない案件や調査はいくつかあった。だが正直ここまで抵抗したのは初めてだった。自分でもよく分からないが彼女が神社で願いを叫んだとき、何とも言えない興味がわいてきた。その興味という名の興奮が上司たちへの抵抗につながったのかもしれない。
屋根の上から覗き込んだ香の部屋にはまだ明かりがついていた。どうやらまだ休んでいないらしい。
「なんだあれ?」
桐野よりも野山香の部屋の窓に近いづいていた的場が拍子の抜けた声を出した。その声に呼応するかのように桐野は窓から野山香の部屋に突入した。
ピエロだ。
部屋の中にいたのはピエロだった。
正確には派手なメイクをした野山香だった。
下手なメイクにより亡霊のように恐ろしい真っ白な肌、滑稽ともいえる主張の激しい眉毛と瞳、装飾された野山香の全てが桐野を唖然とさせた。
それと同時に湧き上がってくる感情があった。
「メイクのつもりなのか、あれは?漫才でも始めるつもりなのかと思ったよ!」
隣に立った的場は腹を抱えて笑い転げている。確かに滑稽だ。その異様なメイクだけの話ではない。行動そのものが無意味だ。どんな努力をしようが彼女が水野翔太と結ばれることはない。
なのに……
桐野には理解できなかった。彼の調べた限りでは野山香はかなりの引っ込み思案、本を読むことで他人と関わり自ら友人を作ろうとすらしない彼女が意中の相手のためになら一度もしたこともないメイクに挑戦することができる。
なんでそこまで・・・
「さっさと帰ろう。もしかしたら私たちも東原ミサの件で招集されるかもしれないしな。今日は早めに帰って休みましょう」
的場は野山香の部屋からいそいそと退散した。だが、桐野は動かない。動けない。不細工なメイクをしている香が一筋の光のように見えた。その光に桐野は魅せられていた。
「ねえ的場」
「ん?」
さっさと帰ろうとしている的場の足が止まった。
「野山香の調査資料まだ捨ててないよね?」
「ああ、まあ一応取っておいているけど……」
「助かるよ」
「お前まだ野山香の件に首を突っ込むつもりなの?いい加減目を覚ませよ。こんなことに意地を張っても意味なんかないわよ」
「意味ならあるさ」
香を見つめる桐野の目は腹をくくっていた。
「香!メイクに興味があるなら私がしてあげるわよ」
青葉から意外な申し込みがあったのはミサと神社で言い合いをした二日後の昼休みのことだった。
「え?なんで……そんな急に……」
なぜ自分がメイクを始めたことを知っているのか。そう聞き返そうとした香だったが出てきた言葉は遠慮の言葉だった。
「いや、これが昨日私のバックに紛れ込んでてさ」
そう言うと青葉は自分の鞄から一冊の本を取り出して香の机の上に置いた。香は思わず声を上げそうになった。それは確かに自分のものだった。ミサに宣戦布告したあの日に外見から変えるためにコンビニで買ったメイク本だった。なぜそれが青葉の荷物の中に紛れていたのか香には見当もつかなかった。
間違えて青葉の鞄に入れてしまったのか?なんて間抜けなことをしてしまったんだろう。恥ずかしい……
そんな香の気持ちなど意にも介さず青葉は机の上でその本をぱらぱらとめくり始めた。ますます香の赤くなっていった。メイクの本を隠し持っていたことを知られるだけでも香にとっては顔から血が出るほど恥ずかしいことだった。それに加え、その本のいたるところに引いてある太線や丸印を見られることが香にとって何より恥ずかしかった。
「へー香ったらちゃんとチェックまでつけて勉強しているなんてもう早く言ってくれればよかったのにー」
ムフフと不気味な笑顔を浮かべて香の背中をポンと叩いた。香の目にその笑顔はからかいというよりも好奇心に満ちたものに見えた。
「でもどうせ香のことだから今までメイクなんてしたことないんでしょ?」
香は黙って頷いた。事実なので認めざるを得ない。今まで外見に頓着してこなかった香にとって最大のおしゃれは洗顔と髪の手入れだけだった。
「私に任せなさい!」
青葉は自分の豊満な胸をドンと叩いていった。香は思わずドキッとした。その姿はか弱き姫を守る勇者の姿のようだった。
「私の家叔母が美容師をやっていて私もたまにメイクとか教えてもらっているの!そんじょそこらの女子高校よりはうまくできる自信があるわ!」
「でも・・・そこまでしてもらうのも悪いし・・・」
「なに水臭いこと言っているのよ!私たち友達でしょ!それに嬉しいのよ。香がおしゃれをしようと努力しようとしていることが」
「そ……そう?」
「だって本気で水野君に想いを伝えるためにまずは外見から変わろうって思ったんでしょ?水野君のことが好きなくせに何にもしないまま香たちの関係が終わりそうで私ひやひやしていたのよ」
「青葉ちゃん……」
「でもまずメイクの勉強をしようと思ったのは正解よ。どんな聖人君子でもやっぱり恋の入り口は見た目だからね。でも決して美人であることが全てというわけではないの。自分のためにメイクをしてくれる姿にも男はキュンとくるものよ」
おそらく叔母からの受け売りであろう言葉で青葉はメイクの重要性について語り続けた。その語り口調はまるで子供を溺愛する母親のような陶酔したものを感じた。
ああ、青葉ちゃんは本当に好きなんだ。もっと早く相談すればよかった。
そんな風に考えながら香は青葉に感謝した。
メイクと香を結び付けてくれた不思議な縁にも。
夜の十時二十分、終業時刻九時を一時間以上過ぎた桐野の主な職場である第三十六フロアには桐野と的場と吉野以外には誰も残っていなかった。
「話は以上だ。僕は野山香を水面下で支援するつもりだ。二人には協力してほしいなんて言うつもりはないけどできれば黙っていてほしいんだ。もちろん二人に迷惑をかけないようにはするよ」
フロアの端に設置してある休憩用のテーブルに腰を掛けている三人はそれぞれの本音を抱え込んでいる。
的場と吉野は蒼い顔をして黙っている。的場は腕を組んで目を閉じている。吉野は思いつめた表情のまま桐野をじっと見ている。
やがて的場が口を開いた。
「私はこの仕事とまじめに向かい合ったことがないわ。ただ生まれた時からここで生きることが決められていたからなんとなく仕事をこなして、なんとなく上司の機嫌を窺って、なんとなく立ち回ってきた。それでも何となく私は楽しかった。なのに……」
「なのに?」桐野はきいた。
「お前を見ていると私は……」
「私は桐野先輩のことが羨ましいんです」
今まで聞いたことのないような吉野のはきはきとした声が的場の言葉を遮った。
「私も的場先輩と同じです。この仕事にやりがいなんて感じたことなんかなかった。いえそれだけではありません。私は臆病者です。桐野先輩を前にしなければ間違っていることも間違っているといえない」
「どういうことだ?」
怪訝な顔をした的場がきき返した。
「頭では分かっていたんです。社長の言う通りこれはビジネスだって。神社へのお賽銭の額と人望、知名度を加味して願いを叶える人を選ぶビジネスだと。でもそれは逆に言えばそれらを積めば誰でも願いをかなえてもらえるということですよね」
「まあ……それはそうだね」
吉野の言わんとすることがまだ掴めず桐野はあいまいな返事をした。
「例えば今回の件もそうです。同じ願いを持つ人でも金と人望がある人間が優先して願いをかなえてもらえる。そしてウチは今回のようなおいしいビジネスを積み重ねれば天界トップの座に君臨することができる。ただそのおいしい顧客を私たちが選ぶことは難しい。その逆なら簡単な話なんですがね」
「「まさか……」」
桐野と的場の声が重なった。二人は互いの顔を見合わせた。フロアの空調は正常に働いている。それにもかかわらず額には一筋の汗が流れている。
かすかに震える唇で的場は吉野に尋ねた。
「まさか、ウチが人間に情報を流したの?この神社のシステムを?」
「まあそういうことです」
桐野は絶句した。的場の顔も蒼ざめているという状態を通り越して魚の腹のような真っ白な色になっていた。それもそのはずだ。桐野自身もこの事態の重大さが身にしみて分かっていた。もはやこの神社の方針に逆らうという桐野の背信行為など吹き飛んでしまうほど、吉野の告白は衝撃的なものだった。一天使がどうこう言える次元の話ではない。人間に天界の存在を教える。それは天界の中でも最大のタブーだ。なぜなら天界の存在すら危険にさらす可能性があるからだ。
「お前自分が何を言っているか分かっているのか?特定の人間の願いを叶えるために俺たちが接触するというのはとどのつまり」的場の白くなった顔は焦りと驚愕で歪んでいる。
「人間に俺たちの存在を知られたということ」桐野はボソッと呟いた。
三人の間に重々しい重力を持った緊張感が流れた。予想をはるかに超える事態に混乱している三人はなかなか続く言葉が出てこない。
人間に天界の存在を知られる。それは願いを叶えるという天界の存在価値を揺るがすものであった。もし全世界の人々が金、人望、知名度、社会的貢献度、努力、それらを積めば願いをかなえてもらえると知れば本当の意味で人間社会の中に本当の格差が生まれてしまう。願いをかなえてもらえる人間とかなえてもらえない人間という格差が。
「情報を流したのは誰?」
的場は単刀直入にきいた。
「それはわかりません。ただ大道林さんと西山さんはその計画について何かを知っています。もしかしたらあの人たちが主犯かもしれません」
「それでも僕のやることは変わらないよ。野山香を支援する」
桐野は宣言した。
「もしその不正を暴いたとしてもその時、水野翔太が東原ミサに落とされていては意味がない。それは俺たち神社の失態だ。それに野山香を追うことで見えてくることもあるかもしれない」
予期しない事態に勇気を与えられたようだ。立ち上がった桐野は二人を見下ろした。立ち上がった時の椅子の引きずった音だけがフロアの中に響き渡った。
「予定通り東原ミサは水野翔太の所属するサッカー部のマネージャーのポジションにつきました。さらに生徒会にも多少荒っぽい手を使いましたが何とかねじ込むことができました」
「彼女は若手の人気俳優という立場だ。確かにそれは人を惹きつけるものがあるが同時に学校生活を共にするという点において普通の生徒より難しいことも事実だ。ぬからないようにね。福島君」
「はい」
自席で本を読みふけっている西山に報告を終えた福島は堂々とした足取りで西山の部屋を後にした。白い廊下を歩く福島の姿に社員たちは尊敬と畏敬の満ちた視線を向ける。その視線を握りしめるように拳を握った。
東原ミサへの支援は順調だった。東原ミサと水野翔太の距離は確かに縮まっている。その実感もある。
だが、どうしても拭切れない違和感のようなものが福島の体にへばりついていた。
西山が自分を利用していることは分かっている。社長がとってきた案件を俺に任せたのも確実に自分の成功をアピールするためだろう。だが、あの日西山が東原ミサを監視するように指示した日、あの日の奴の様子はどこかおかしかった。本人は隠しているつもりだったが、まるで石橋を叩いて安全を確認して最初の一歩を踏み出す瞬間の男のような緊張感に満ちた表情がぽろぽろと零れていた。
重要な仕事を任された際の緊張感だったと言われればそれまでだがやはりどこか引っ掛かる。そもそも社長が西山に東原ミサを任された件を早めに連絡していたとしてもあの朝に俺に指令を下すのは早すぎるのでは?
あれこれ考えながら歩く福島の顔は気難しいものになっていた。廊下の窓に映る自分の表情に気づいた福島は右手で顔を覆い普段の仮面を被った。
「福島さん」
いったん立ち止まり仮面を被りなおした福島の背後から少々弱弱しい声が飛んできた。振り返ってみるとそこには数いる後輩の一人である吉野がいた。
「どうした吉野?なにか用か?」
思考を邪魔されて少々いら立つ表情を仮面の中に隠して笑顔で問いかける。
「いえ、用というほどのことではないんですか……」
「ん?」
相変わらずグズグズと……
福島は吉野に歩み寄り彼の肩をポンと叩いた。
「何か言いたいことがあるなら聞いてやるぞ。正直、俺が的確なアドバイスをできるかは分からないが、お前の不安や不満のはけ口くらいになってやれるぞ」
その言葉を聞いて決心がついたのか吉野は緊張した顔で福島にきいた。
「あの差し出がましいとは思うのですが、東原ミサの件、私にもぜひ手伝わしてほしいのです。できる限りのことならなんでもします」
そんなどうでもいい話で時間を取らせやがって。
福島は満面の笑みを作りながら窓の外の景色を見た。朝の天界から見える上りゆく太陽はまばゆい光を放っている。だが今日は雲が多いせいかその光にも霞がかかっている。
「仕事熱心じゃないか。そういう意識と熱意を持った奴が後輩にいると思うと俺も心強いよ。今はまだ堀固めの段階だから人手はそういらないが実行段階になればそれなりに助けが必要になる。その時は助けてくれるか?」
「もちろんです」
「詳細は追って連絡する。今日一日の仕事も頑張れよ」
深々と頭を下げる吉野を見下ろした後、桐野は廊下の先を見据えてさっきと同じように堂々とした足取りで仕事に向かった。
その自信に満ちた足取りは途中ですれ違う桐野のことなど眼中になかった。
「あら!桐野さんじゃないか!今日はずいぶんとくるのが早いじゃないか」
「どうしても早めに調べておきたいことがありまして……」
第六十四フロア、このフロアは人間の恋愛観を記した資料が多数所蔵されているフロアであり、人間たちを直接告白の場面に誘導する実行部隊などが研究のために使う資料はほとんどこの資料室から拝借しているものである。
「こいつ毎日ここに来ているんですか?」
ニコニコと笑っている資料室の受け付けである小浦神に的場は尋ねた。その隣にいる吉野も同じことを聞きたそうな顔をしていた。
もともと人当たりがよく誰とでもおしゃべりすることが楽しいと思っている小浦は機関銃のごとく言葉の弾を彼らに浴びせた。
「そうなんだよ!桐野さんはこの会社に入る前の修業期間にもたまにここにやってきて資料をむさぼりつくすかのように読んでたな!入社してからも一週間のうち三回は仕事が終わった後ここに立ち寄って資料を読んでいてね。この資料室の一番の常連さんだな。私も受付なんてやることないからここの資料を読んで時間をつぶしているが人間の恋だの間の浮気だの同性愛だの人間の考えることはいちいち複雑で私にはよく分からんわ」
張り出している自分の腹をパンパンと叩きながら小浦は笑い転げている。こういう小浦のテンションには桐野自身まだついていくことができず時々煩わしいと思うこともあるが、小浦の気さくな性格に大いに助けられていることも事実だ。
本来ここは実行部隊や恋愛観研究部隊、上役たちが優先して使うことが慣例であり桐野のような一社員が上司に黙って資料室を利用していると知られれば上役たちはあまりいい顔をしない。
それを理解している小浦はあえて桐野が資料室を使っていることを黙っていてくれている。小浦の気遣いに桐野はいつも頭が上がらないほどの感謝の念を抱いていた。
「じゃあいつもみたいにあそこの自習スペースを使わせてもらってもいいですかね?」
桐野はフロアの壁側にずらっと並んでいる四人用のテーブルの一つを指さして言った。
「ああかまわないよ。今日はお友達と勉強かい?精が出るね」
三人は小浦に頭を下げてから桐野の指示した図書を立ち並ぶ棚から取り出し始めた。フロア自体学校の体育館を二つ並べたほどの大きさがあり、図書棚の数はざっと百を超えていた。それだけに目当ての資料を集めるだけでもかなりの重労働だった。
「これだけあればまあ大丈夫だろう」
テーブルの上の積み重ねられた四十冊ほどの書籍を見て桐野は満足そうに頷いた。
「これを読んで野山香の支援方法を検討するってあんたもなかなか無茶を言うよね」
的場が持ってきた資料の一部をぱらぱらと読みながら呟いた。
「そんなことを言いながらも手伝ってくれるじゃないか。二人とも本当にありがとう」
「別に礼を言われるようなことじゃない。不正が明らかになった時あんたの方についておくのが安全だと思っただけ」
吉野も的場の意見に同意の意を示したいのか小さく首を縦に振っている。
「で?なに、この資料は?色々と種類があるようだが具体的にどんな資料なの?」
桐野は積み重ねられた本の山から何冊か取り出し、一つ一つ順に説明し始めた。
「まずこれが恋愛心理学の本、人間が自分たちの恋愛感情を心理学の観点から研究した内容をまとめたものだ。次が恋愛占いの本だ。科学的根拠はまるでないが人間界の多くの女性たちが好んで使用しているらしい。彼女たちの生態を知るいい資料になる。次が女性用の雑誌だ。彼女たちの流行や趣味嗜好が網羅された資料だ。これも大きな手掛かりになる。そしてこれが少女漫画という資料だ」
「少女……漫画……?漫画って人間界の娯楽本のことよね。確か?」
「その通り、この少女漫画はこれまでの資料とは打って変わって、逆に女性たちの理想が凝縮された資料なんだ。つまりこの資料には恋愛の理想像が描き出されているんだ!」
「なるほど……これは素晴らしい資料ですね」
吉野の言い方が本当に感心しているように聞こえたので桐野は少し嬉しくなった。
「先ほど挙げた資料で彼女たちへの理解を深め、少女漫画を読み込むことで次のプランを考える。それができれば野山香と水野翔太を結びつけることも決して不可能ではないと思うんだ!」
「随分嬉しそうですね」
吉野がボソッと呟いた。
「え?」
何と言ったのか聞き取りことができず桐野は聞き返した。
「とにかくこの量を調べるのは相当骨よ。本腰入れてやらないと」
そう言うと的場は腕の袖をまくり軽く肩を回した。吉野もポケットから眼鏡を取り出し資料を読み始めた。
その二人に続く形で桐野も胸ポケットからメモ帳を取り出し、作業を始めた。
教室に入った瞬間に集まってくる皆の視線が目をつぶってしまいたくなるほど怖い。どうして急にメイクを始めたのか、理由やらを聞かれる。子の視線の中に悪意のある視線が紛れていたらと思うと足がすくんでしまう。
「香さん?香さんなの?」
クラスの女子たちが一斉に香を囲む。男子たちはちらちらと香の様子を窺っている。
今まで手入れしたことのない長い髪をうなじの上でゆるく三つ編みにまとめ、肌につやを見せる優しい化粧で大きな瞳とまっすぐ伸びた鼻筋にアクセントを与え、顔に大人らしさを生まれさせた。
「香さん、かわいいーイメチェン?」
「すごい大人っぽくなった感じ!」
「ほんとに別人みたい!どこでメイクしてもらったの?」
クラスの活発な女子たちが一斉に質問をしてくる。その雪崩のような勢いに戸惑う香はおろおろとするだけで返答することができなかった。
「もちろん私が香のメイクを担当したのよ!このカリスマ美容師青葉がね!」
香の横で青葉がドンと胸を叩いた。その男らしい姿がクラスの笑いを誘った。
「私のメイクが香の中に眠っていた美を呼び起こしたのよ!決して顔を美しく見せるのではなく、その人の個性や隠れている一面を魅せるのがメイクなのよ!」
クラスの全員に高説を説き始める青葉の横顔を見ていると香は思わず失笑してしまった。
この実際にメイクをしてくれたのは青葉の姉である青葉美和だったからだ。
最初は青葉の自宅に沼田も呼び出し三人で集まり、香のメイクを始めた。しかし、その結果生まれたものは香自身がメイクした時に現れたピエロ以上のピエロだった。元々仕事で忙しい青葉美和の手を借りる訳にもいかず、惨劇を目の前にしても三人は自力で切り抜けようとした。だが、最終的には突然予約のキャンセルが相次いだプロの美容師である美和によって香は生まれ変わった。
「あれ?そういえば水野は?」
ある程度高説を終えたところで青葉はチラチラとこちらを見ている男子たちの中に水野がいないことに気づいたのかきょろきょろと教室を見渡している。
無論香は教室に入った瞬間に気づいていた。だが、水野がいないことに少し安堵していた。水野にメイクのことをあれこれと聞かれた場合、まともに会話する自信がなかったからだ。そしてそんな自分を見られたら気持ちがばれてしまうのではないかという恐れがあった。
「会長ならさっき屋上で東原とサッカー部のことで話をしていたぞ」
惣菜パンを食べながらクラスの男子の一人がもごもごとした声で教えてくれた。
「ミサちゃんと?」
青葉は眉を吊り上げた。その表情は浮気を感じ取った妻が見せるような訝しいものだった。香も屋上というロケーションで仲良く話し合っている二人を想像すると気が気でなかったが、いちいち意中の相手が異性と仲良くするだけで目くじらを立てていては仕方ないと自分に言い聞かせていた。
一人思考の世界に沈んでいた香の手首を青葉は掴んだ。
「香!すぐに行くよ!」
「え?」
青葉は香の手首をつかんだまま取り囲んでいるクラスの女子たちをかきわけ教室を飛び出した。
「青葉ちゃん!どこに行くの!」
「決まっているでしょ!屋上よ!会長にあんたの生まれ変わった姿と例のアレを見せつけてやるのよ!」
「え?あれも?」
「そうよ!当然持ってきているでしょ?」
「持ってきてるけど……」
「なに?まだ恥ずかしがっているの?しゃんとしなさいよ!」
「いや……その……教室に置いてきちゃった」
青葉の足が急ブレーキをかけたと同時に香の肩をつかんだ。
「え?あれ置いてきちゃったの?今すぐ取り戻らないと!」
「その心配はないです」
声のした方向を香と青葉は振り返った。そこには小さい赤い紙袋を持って歩いてくる沼田の少し呆れた表情があった。
「もう昨日せっかく頑張って作ったのに忘れるなんて内心ひやひやしましたよ」
「流石沼田!助かるわ!」
抱きつこうと飛んでくる青葉をひらりとかわして沼田は香に赤い紙袋を渡した。
「頑張ってください」
沼田の大人びた笑顔に一瞬香はドキッとしたがすぐに香も笑顔で返した。
「ありがとう」
不器用な手で香は赤い紙袋の中身を確認した。確かにラッピングしてある小さな箱がある。昨日沼田と一緒に駅から香の家に行ったとき、偶然いつも通る道が工事中で偶然通りかかったチョコレート専門店で特売だった手作りセットの割引券を偶然沼田が持っていた。ここまでの偶然が重なれば買わないという選択肢を選ぶことは難しい。
三人は水野のいる屋上を目指して走る。自分の鼓動がどんどん早くなっていくことに香は気づいていた。
いつもの調子で話しかけて、いつもの調子でプレゼントする。それだけでいいの。頭でわかっていてもやっぱり怖い。私の気持ちがいつもとは違うことが怖い。できればずっと今までのような関係を続けていければよかったのに。なんで私はこんなに必死になって走っているんだろう?
そんなことを考えて無我夢中で走っている間に三人は屋上に出る扉の前に立っていた。走ってきたせいか心の動揺のせいかバクバクとなっている心臓の鼓動を一旦落ち着けてから香は扉を開いた。
飛び込んできた景色は平凡なものだった。フェンスに背中を預けて談笑している女子生徒たち、早弁している男子生徒たち、そして何かの書類を二人で見つめている生徒会役員の二人。
「翔ちゃん!」
香は水野の名前を呼んだ。気づいた時にはもう呼んでいた。
「え?香?香かお前?」
目線を香に向けた一瞬困惑したような表情を浮かべていたがすぐに香だと気づいていつもの屈託のない笑顔を浮かべた。
「あら香ちゃん。どうしたの?何か用?」
表面的な笑顔をしたミサが香に歩み寄った。まっすぐに自分を見ているミサの視線に耐えることができず香は横を向いた。神社での一件があってから香自身どうミサと接すればいいのか分からずにいた。
「私たち今来月の練習試合の具体的な日程を考えているの。悪いけど用があるなら後にしてくれない?そんなに急ぎの用事じゃないんでしょ?」
「そんなことないわ。すぐに終わるけど大事な用事よ」
青葉が腕を組んだまま父親のような威厳のある口調でいった。目を閉じた青葉の姿を目にした香はごくりと唾をのんだ。
あんたがやらなきゃ意味がないでしょ?
青葉の姿はそう言っているように見えた。
水野の目の前に立った香は赤い紙袋を彼に差し出した。その手は恐怖と緊張と動揺によってかすかに震えている。
「翔ちゃん!私……実は昨日チョコレート作ったの!それで……その……うまく……出来たから……そのチョコレートを翔ちゃんに食べてほしいの!」
言葉を言い終える前に自分の顔がゆでだこのように赤くなっていることを香は自覚していた。穴があったら入りたい。
告白のようなものと捉えられても仕方ない。告白と思われなくてもその気持ちがあると知られるかもしれない。
そうなったら私は……私は……私は……
「チョコレート?なんだ?わざわざ俺にか?なんか悪いな。なんかイベントでもあったのか?」
「え?」
香の緊張の袋に穴が開いた。
「チョコレート作るなんてなにかのイベントがあったのかと思ってさ。これってその余りものじゃねぇのか」
イベント?余りもの?香の脳内で水野の言葉を組み合わせ次の行動を決めるための運動が起こり始めていた。
そして、香の脳はすぐに答えを出した。いや、逃げ道を選んだ。
「う……うん!そうなの町内会のイベントでチョコレートを作ることになっちゃって。その時チョコレートを作りすぎちゃって……翔ちゃん甘いもの好きだったでしょ。だから余ったんだから翔ちゃんに上げたいなーと思って……」
「そうか、そうか!本当にありがとうな!ちょうど腹減ってたところなんだ」
隣にいる青葉は怒りに顔を歪ませ、沼田は呆れた顔で首を振っている。あろうことかミサまでもまるで哀れな敗残兵を見るような同情に近い眼差しを送っていた。
赤い紙袋を開いて中身を見ようとする水野に今度はミサが攻撃を仕掛けた。
「でも偶然ね。私も水野君にお菓子を作ってきたのか」
香の表情が精神的衝撃によって歪む。ミサも自分と同じような行動した。比べられる。そう思った瞬間、香は背筋がぞっとした。
ミサは手に持っていた鞄からプラスチックの袋に収められたクッキーを取り出した。そのクッキーの造形美に香だけでなく青葉も沼田も目を張った。とても高校生の作れるレベルものではない。そう思わせるほどそのクッキーは香ばしい匂いと存在感を漂わせていた。
「明後日の練習試合を頑張ってほしくて、私も頑張って作ってみたの。その……迷惑だった?私?」
ミサの上目遣いが明らかに水野の顔を焦らせている。その焦りには微かに、しかし確かに照れと喜びが隠れていた。その表情が香の胸を突き刺した。
「ありがとうな!こんなおいしそうなクッキーを!」
「一口でいいからここで食べてみてよ」
そういうとミサはプラスチックの袋からクッキーを一個取り出し水野の顔に近づけた。
もうこれ以上見たくない。そう思った香は足を屋上の出口に向けた。
その瞬間、授業開始のチャイムが鳴った。
「やべぇな、早く教室に戻らないと」
そういうと水野は屋上にいる生徒たちにも授業に行くと声をかけた。ミサは不服そうな顔をぶら下げながらトイレに行くといってその場を去った。
肩を落とし教室を戻ろうとする背後から優しい声が聞こえた。
「普段メイクとか気にしたことないからよく分かんねぇけど、俺はそのメイク可愛いと思うよ」
頭の全神経、全血管が暴発しようとしていることがわかる。香をほめることに慣れて伊奈せいか水野の顔は赤面している。
この顔を見れただけでも、私は……
「これは成功と言えるの?」
「さあどうだろうね。だけど水野翔太に野山香を女性として意識させることには成功したと思うよ」
「だといいけど、やはり実行部隊も仕掛けてきたな。まさか私たちが裏でコソコソと動いていることもばれているんじゃないの?」
「いやまだその心配はないよ。こっちだって細心の注意を払っているし、吉野からもまだ怪しい動きはないという連絡を受けている」
「まだということはそのうち……」
「うん。近いうちに大道林さんや西原さんの不正を暴くために正面から戦わなければならない。それまでは何とか水面下で動きたいんだ」
「それもそうね」
屋上で香たちの一部始終を見ていた桐野と的場はフェンスに寄りかかり雲一つない青空を見上げた。
まるで自分の心模様を写しているようだな。桐野はそう思った。
会社に対する背信行為は彼にある意味の生きる活力を与えていた。
今日の翔ちゃんはどこか無口だ。上の空というか物思いにふけっているというか、心ここにあらずといった感じだ。
水野にチョコレートを渡したその日の夕方、ミサは仕事の関係で早退することになり、水野と香は久しぶりに二人きりで下校した。
だがその下校はいつもとは違った。いつもは陽気に軽い調子で楽しそうにいろんな話をしてくれる水野の口数がやけに少なかった。
その口数の少なさが香をどんどん不安にさせた。香が思いつく限り水野の様子がいつもと違う理由は一つしか思い浮かばなかった。
チョコレートなんか渡さなければよかった。香は心底そう思った。あの行動で鈍感な翔ちゃんも私の気持ちに気づいたんだ。そして、その想いに困惑してしまったのだ。
その時点でもう結論は決まっている。
香は生きた心地のしないままただ黙って商店街を歩く水野の隣について行った。
商店街の中で最も大きいスーパーの目の前で水野の足が止まった。今日の晩御飯の材料でも買うのかなと思った香は少し水野と距離を取った。このまま自然にまた明日と言って家に帰って、ベッドの中に沈みたい。
香の足が一歩一歩と後ずさりしていく。
「なあちょっと買い物に付き合ってくれないか?」
「え?」
香の足が止まった。
本当にただ買い物に付き合うだけだった。水野は安売りの豚肉、醤油にみりん、野菜などを値段とにらめっこしながら買っていった。正直自分がいる必要はないのでは?と思った香だが誘ってくれた以上ついていかない訳にはいかなかった。
最後に牛乳を買うからと言って店の右端に進む水野はいつもの軽い調子で口を開いた。
「いつもこのスーパーの牛乳は買うようにしているんだ。小学三年生の時母親が家を出て行ってから初めて自分で買った食料が牛乳だったんだ」
母親というワードが香の体を強張らせた。
「あの頃はまだ分からなかった。なんで俺がこんな目に合わなくちゃならないんだ。なんで周りから白い眼で見られなくちゃならないんだってさ。その苦しみから逃れたくて俺は母さんを理解しようとした。母さんは本当に好きな人と一緒になりたいから。俺たち家族を捨てたんだ。それだけ幸せな恋をしたんだと言い聞かせようとした。でも俺には理解できなかった。俺には母さんの気持ちがわからなかったんだ」
水野の手が牛乳の置いてある棚に伸びる。香はその光景をぼんやりとみていた。もう香の中に先ほどまで渦巻いていた感情は消えていた。
そして、また一つ新たな感情が芽生え始めていることを感じていた。
「さっさと決着をつけてしまいましょう」
社長室で行われていた東原ミサ支援のミーティングは珍しく最初から会議参加していた神原社長の提案から始まった。
「東原ミサと水野翔太の仲は日に日に深まっています。焦る必要はないのでは?」
大道林が資料を一枚一枚確認しながら意見を述べた。
「どういうわけか、水野翔太と野山香の仲も深まってきています」
桐野と的場は一瞬の動揺をすぐに飲み込んで資料を凝視した。
まさかバレている?だが、気づいているなら何かしらのコンタクトがあるはず、だがあえて泳がせている可能性も……
ぐるぐると回る思考から頭から離れない桐野にとって平静を保ったままミーティングに参加することは至難の業だった。
「そこで一気に畳みかけるために愛想神社の全員で彼女のサポートにあたります。経験も部署も実力も関係ありません。本当の意味で全員でこのプロジェクトを成功させましょう。私がそれぞれ一人ひとりに指示を出します。皆さん私の指示は絶対です。逆らうことはどんな事情があっても許しません」
桐野は一瞬ドキッとした。神原の冷たい視線がこちらに向いたような気がしたからだ。
「その代わりこのプロジェクトを成功させることを約束します」
社長室に拍手の雨が降り注いだ。
その雨の中で桐野はギュッと下唇を噛んだ。状況は日々悪化するばかりだ。恐ろしいほど愛想神社の陰謀は進んでいる。目のやり場に困った桐野は社長の机に伏せてある写真立てを見た。この部屋でその写真立ては妙な存在感を放っていた。写真立てなんて天界にはそうあるものではなかったから。
「桐野君、あなたにも重要な仕事を任せるつもりだ。福島君と協力して当たるように」
その言葉はその場にいた全員の視線を桐野に集めた。驚嘆、嫉妬、不可解、様々な感情を孕んだ目線が桐野の体を震わせる。
「私も東原ミサの支援に参加させていただけるということですか?」
「当然でしょう。君は私たちの仲間なのだから」
戸惑っている桐野に歩み寄ってきた福島が手を差し伸べてきた。
「よろしく桐野君」
無表情な顔と無機質な声で握手を求めてくる福島の手を桐野はそっと握った。
「よろしく」
社長室は奇妙な高揚感と緊張感に満たされていった。
それから数時間には社長室に集められた社員たちはそれぞれの仕事をこなすために出て行った。残ったのは神原と大道林と桐野だけだった。
「桐野、私はこれから社長とお話がある。お前もさっさと仕事に行ってこい」
大道林は苛立ちを含んだ口調で桐野に言った。
「大道林さん、神原社長、本当にこれでいいんですか?」
神原はまるで表情を崩さなかったが、大道林は何か言いたげな顔で眉は上げた。
「桐野君、それはどういう意味ですか?」
あくまで冷静で無機質に宥めるような声で神原は尋ねた。
「東原ミサについてお二人はよくご存じのはずです。彼女は本当の意味で水野翔太を愛してはいません。偽りの恋を成就するための手伝いしていいんですか?」
「口を慎み給え!!」
桐野の言い分に耐えかねた大道林の怒りの声が社長室に響き渡った。
「何度言えばお前は理解できるんだ?我々が行っているのはビジネスだ。慈善活動ではない。人間どもの恋愛感情が真実だとか偽りだとかそんなことはどうでもよいのだ。この神社の評判が上がればいいのだ。余計な私情を挟むな!」
「私は私情を挟んでいるわけではありません!確かに東原ミサを支援することで得られるリターンは計り知れません。しかし、その人物を知ったうえで平等に支援する我々のことをたとえ見えていなくても信じていなくてもどこかで感じています。その大原則をここで失っていけないと私は」
「それは無理だよ。桐野君」
神原は桐野の肩をポンと叩いた。
「平等な支援なんて存在しない。なぜなら私たちの中に愛情なんて不確かな感情はないからだ。理解できない以上私たちは自分たちの物差しで人間たちを測らなくてはならない。分かるだろう?それに君は野山香のことはよく理解しているつもりらしいが、逆に東原ミサのことはほとんど資料の上でしか知らないだろう?それもまた問題なのではないのか?」
優しい笑顔を浮かべた神原を前に桐野は何も言えなくなってしまった。
「君自身の目で確かめてやってくれ。君の仕事ぶりは堅実で確かなものだ。私は君を信頼しているんだ」
神原は自席に置いてある書類を片手に部屋を後にした。自席においてある写真盾が少し動いた。大道林もスーツのポケットから取り出した煙草を口にしてから桐野の肩をバンと叩いた。
「勘違いするなよ。お前は一社員、俺は上役。俺の方針に従えないならここを去るしかないな。俺に意見を言いたいなら地位と名誉を得てから言ってみろ」
そんなことできる訳がない。俺がさせない。
そんな言葉があまりにもはっきり顔に浮かんでいるので自分も相手が上司だということを忘れて掴みかかろうかと思った。
しかし、これから自分のやらなければならないことを考えるとそんなことをしている場合ではないと思いばかりが頭の中に浮かんでくるのだった。
あの小僧は早く何とかしなければならない。いや蹴落とさなければならない。
その考えばかりが大道林の頭の中を支配し始めていた。
大道林の人生は勝利という道の上に作られたものだった。彼の人生は勝利を積み上げることでしか進んでこなかった。
人間界を見下ろすことのできる展望台に上った大道林は設置してあるベンチに腰を掛け煙草を一本吸った。その一本の味はいつもと違う味をしていた。勝利と苛立ちの混じった辛い味だ。
「やっとここまで来たか……」
元々大道林という男は優秀な男ではなかった。仕事も上司への気遣いも平均程度には行っていたが、それだけだった。ほかの社員たちに紛れて普通に生きていく。少なくとも周りの同期たちはそう思っていた。
ただ同期が見抜けなかったのは大道林の自尊心と地位への執着心だった。自分が上に行くだけの能力がなければ、上を引きずりおろせばいい。そうやって上に上に上り詰めてきた。
そして今、彼の頭の中には社長の椅子だった。
東原ミサの一件のカギを握っているのは自分だという自負が彼にはあった。そのカギを利用すれば社長の座も夢ではない。そう考えるだけで腹の底から溢れてくる優越感が止められなかった。
重い腰を持ち上げた大道林はビルの立ち並んでいる人間界を見下ろした。ここからでは決して目視することができないビルの中にいる人々、道を行く人々の生活を想像した。
俺には分かる。俺もお前らも同じように上に行こうともがき苦しみ、他人を利用し蹴落としている。部下を切り捨て、上司に媚び、そしてお前ら人間を利用した。
大道林の心の中にはほんの微かな感謝の気持ちまで湧き始めていた。
「なんだね……これは……」
自分の席に置かれたボイスレコーダーから聞こえてくる会話を聞いた瞬間、西山は頭が理解するよりも先に体が状況を理解したのか、激しいめまいと動悸が彼を襲った。蒼い顔をした西山は焦点の合わない目で福島にきいた。
「あなたと東原ミサの会話記録です。私が部下に録音させたものです」
「お前……まさか……最初から……」
「誤解しないでください。今すぐどうにかしようというつもりはありません」
その言葉を聞いた西山は正直心底安心した。上司にかける情けがあったのか、それとも利用するだけのつもりなのかはまだ分からないがとりあえず今すぐに着るつもりはないらしい。
「全く従順な番犬だと思っていた男に手を噛まれるとはな」
西山の口から落胆のため息が漏れた。
「自分だって散々飼い犬のふりをして上司に媚びているくせになぜ自分のこととなると気づかないんですかね?不思議なものです」
「目的はなんだ?金か?地位か?」
動機というどうでもいい理由はすっ飛ばして尋ねた。
「私のできる限りのことならどんなことでもしてあげよう」
西山は確かに福島の眉が吊り上がる瞬間を見た。
あまりに上からものを言いすぎたか?
もはやこの状況下では上司と部下という表面的な関係はまるで意味を成していなかった。しかし、西山はあくまで上司としての自分を崩したくなかった。部下に許しを請う自分の姿を想像するだけで反吐が出る。
福島の軽いため息が漏れた。福島の顔は皴のよりきった鬼のような形相になっていた。
「私の目的は一番になることです。私がではなくこの神社を一番にすることです。誰が見ても恥ずかしくない。そして強い神社にすることです」
彼の鬼気迫る表情は西山をひるませた。自分はこんな鬼を部下だと信じ、飼いならそうとしていたのかと思うと身震いする。
「そしてその強く公平公正な神社にあなたのようながん細胞は必要ないんですよ」
「え?」
「私が皆さんの望むような部下を演じているのはがん細胞を見極め、排除する方法を見つけるためです。分かりますか?あなたたちがいる限り私の理想、夢は叶わない」
「待て、待て!私のことは見逃してくれるんじゃないのか!」
「何を勘違いしているんですか?私は見逃すなんて一言も言っていませんよ」
「し……しかし、君!さっきはどうにかするつもりはないと!」
「今すぐには……です。今回の一件が落ち着いたらあなたには当然処分が下るものだと思っておいてください。どんな処罰が下されるかは私の知ったことではありませんが」
「そ、そんな!もし今回の一件が露見すれば私はこの神社にはいられなくなる!いやそれだけはない。この神社だって!ただじゃすまない!」
「そうなんですよ。膿は出し尽くしたいのですが全てを明らかにしてしまったら私の夢まで散ってしまう。それは絶対避けたい。だから協力してください」
「協力?」
「あなたには共犯者がいるはずです。その共犯者についての情報を提供してください。もちろん断れば事実を神社内に流してあなただけでも潰します」
「分かった!分かった!私の知っている限りのことは話すから!」
子供のような泣きじゃくりそうな顔をぶら下げて西山はべらべらとしゃべり始めた。元々芸能人枠を獲得するために多くの有名人たちを秘密裏に調査していた大道林と西山は他の神社にばれないように愛想神社に誘導していたこと。そして連合会議の前日にその行動が社長にばれたこと。しかし、社長はそれを黙認し、彼らの調べていた有名人たちの中から二名ほどピックアップしてうまく情報を集め、そのうち一人、東原ミサと接触と接触し、作戦を練ったうえで、連合会議で正式に支援権を得たこと。
福島は頭の中で考えた。なぜ、東原ミサを選んだ?なぜ、彼女なんだ?確かに芸能人だが、もっと便利な奴はいくらでもいた。それがなぜ?
「つまり社長もグルということですね」
「ああ私たちの目的は同じだった。この神社の評判を上げることだ」
あんたはただ地位が欲しかっただけだろう。俺と一緒にするな。
「福島。お前はこれ以上この件にかかわるべきじゃない。もしお前が」
「黙れ」
その一言で西山は完全に黙ってしまった.それほどの凄みが福島にあった。
「本当ならこんな恥を晒したあんたたちを今すぐにもこの神社から追放してやりたいところだが、ぎりぎりのところで生かしてやると言っているんだ。次、何か言えばあんたを生かして置く保証はなくなるぞ」
ガタガタと震え始めた西山に軽蔑の眼差しを注いだ。福島は出口の方に足を向け、歩き始めた。
しかし、その足はすぐに止まった。
「私にも人間の恋愛感情なんて理解できません。いえ、私には興味すらありません。私も人間たちを利用している。そういう意味ではあなたたちと一緒ですよ。同じ穴の狢です」
福島は堂々と一歩一歩噛みしめるように部屋を後にした。
昔から恋に熱中する人をどこかで見下している自分がいた。多分母さんの影響だろうということは自分でもわかる。小さいころから見ていた母の姿は母ではなかった。母は恋する少女だった。その姿は今でも焼き付いている。恋してはのぼせて傷ついて苦しんで喜んでいる母の姿は子供の自分から見てもかなり滑稽だった。
恋よりも愛情よりも夢中になれるものがある俺にはよく分からなかった。
そんな考えばかりが浮かんできて結局誰とも付き合えた例がなかった。それでよかったし、楽だった。それなのに最近の俺の頭の浮かんでくるのは恋愛のことばかり。香やミサのことばかりを考えてしまう。
何でミサはマネージャーや生徒会に入ったんだ?なんで香は急にメイクを始めたんだ?二人がくれたチョコにはどんな意味があるんだ?二人は俺のことが好きなのか?それとも俺の勘違いなのか?俺は二人のことをどう思っているんだ?
部活や家事に疲れて入る風呂の中で考えることはそんなことばかりになっていた。おかげで最近はゆでだこのようにのぼせてしまう。
野球中継に夢中になっている父親に早く寝るように促してから水野は風呂に上がった後に食器を洗った。蛇口から出てくる水の音はいつもより部屋に響いている気がする。水音が水野に語り掛けている。結局お前はどうしたいんだ?
よどみなく食器を洗っていた水野の手が止まった。
そんなこと俺にもわからない。どうしたいかなんて。考えれば考えるほど母の姿が思い浮かぶ。香やミサには恨んでいないといった。今考えればなんて薄っぺらい言葉だったんだろう。本当は母親を軽蔑していた。そして恐れていた。母親のようになることを。
食器洗いを終えた水野はリビングにおいてある電子機器の電気の消し忘れを確認してから床に就いた。ベッドの中で彼は明日の朝に行うべき、掃除洗濯調理のスケジュールを思い浮かべていた。
こういうことを考えている方が気楽でいいや。
そんなことを考えながら水野は眠りについた。
「遊園地?もうそこまで攻める気なの?」
天界の外れに位置する大衆酒場には同じ神社の社員は滅多に来ない。密会に適した場所の一つだった。
「うん。とある有名な遊園地のプレミアムチケットを入手できるつてを見つけたんだ。あとは自然に水野翔太と野山香がチケットを手に入れる状況を作ることができれば二人の仲はさらに深まる。状況次第ではこの遊園地で告白に持っていくことも可能かもしれない。水野翔太も少なからず野山香を意識し始めている。ここが勝負どころだ」
丸テーブルの上に置かれた焼き鳥を頬張っている桐野の目は覚悟を決めていた。その覚悟を感じ取ったのか席の向かいに座っている的場と吉野も神妙な顔をした。
「簡単に言うが社長たちにも気づかれず支援するのはもう限界に近い」
的場はテーブルに身を乗り出し桐野の顔をじっと見た。
「だからだよ。ここで出し惜しみしていたらいずれバレる。やるなら今しかないんだ」
「勝負をかけるべき場所は別のところではありませんか?」
吉野がベールを一杯飲んでから口にした言葉は桐野と的場の興味を惹きつけた。
「どういう意味?」
的場がきいた。
「この神社の不正を明らかにしてからも野山香の支援は間に合うのではないかと私は思うんです。むしろその方がきちんとした支援をすることができます」
吉野の顔はどこか疲れ切っているようにも見える。何か抱え込んでいるのか?
「君の言う通りだ。だが、東原ミサの支援のスピードは尋常じゃない。少しでも後手に回れば水野翔太は東原ミサのものになってしまうかもしれない。だから野山香への支援と不正の摘発を同時に進行したいと僕は思っているんだ」
「なんでそこまで出来るんですか?不正の件はともかく野山香の件は我々の失敗の一つに過ぎません。その失敗を次に生かすという考え方ではだめなのでしょうか?」
桐野は少し考えこんでから口を開いた。
「これは僕の考え方というか持論みたいなものなんだけど、俺たちの存在意義は人の恋を手助けすることで俺たちが知らない恋愛感情を知ることだと思っている。俺は生まれた時からずっと知りたかった。人を殺人まで追い込み、人に信じられない努力のきっかけを与えて、人があんなに悩み苦しむ感情はどんなものなのかを。野山香は俺にとってその答えになるような気がしてならないんだ」
「やれやれ、自分と個人的な理由ね」
両手を広げて的場は呆れてみせた。桐野はぎゅっとこぶしを握った。この時自分が汗をかいていることに気が付いた。自分の演説の熱量を感じたような気がした。
「だが、ここまで来た以上私は何にも言わない。あんたが始めた戦いだからね。あんたの好きにやってみろよ。私たちにできることは少ないが、一人で戦うより随分ましでしょ?」
吉野も的場の意見に賛成するかのようにこくりと頷いた。この瞬間ほど一人でないということがこれほど心強いと思ったことはなかった。その心強さに桐野の目に思わず熱い涙が零れそうになった。
「二人は大道林さんと西山さんの調査を頼む。俺は野山香と水野翔太が遊園地に行けるように誘導する。最近はだれがどこで聞き耳を立てているのか予想もつかない。連絡はなるべく通話は避けてメールで。特に福島には気を付けてくれ。奴は僕を疑っている。絶対に何かしらのアプローチを仕掛けてくるはずだ」
「分かってます。福島さんの動向は私も目を光らせておきます」
三人は互いの顔を見合わせた。今までは三人で巨大な悪に立ち向かうヒーローのような万能感が彼らの体を心を奮い立たせていた。だが、その万能感は何のきっかけもなく突然消える。三人はそのことを忘れるために互いの顔を見て覚悟を決めたのだ。
少女漫画を読み漁った結果、桐野が選んだのは宝くじだった。水野が買い物をしている段階で抽選券を与える。後は野山香と水野翔太が二人きりでいるときにそれとなく抽選会場に誘導する。遊園地のチケットはペアチケット。ムードを作り上げれば二人で遊園地に行く展開になるはず。
桐野の思惑は途中まではうまくいっていた。水野翔太に買い物のキャンペーンという形で渡すことにもなんのなく成功した。だがそこからが問題だった。どういうわけか野山香と水野翔太の仲が疎遠になっていた。二人が一緒に帰る頻度も日に日に少なっていた。
三人の密会から一週間がたった時点で桐野の焦りはピークになっていた。このままでは二人を遊園地に誘うどころではない。こうなったら多少強引にでも話を進めなければならない。あと数時間で放課後につながる教室で木野は考えあぐねていた。
だが、事態は桐野の行動からではなく別の方角から起きた。
その日の放課後、水野は部活が休み、ミサも芸能活動で休み、チャンスだと思っていた。だが、学校のどこを探しても野山香が見当たらない。学校の廊下中を走り回り桐野は自分の至らなさに憤慨した。自分の作戦のことで頭がいっぱいになっている間に作戦の中心になる人物を見失う本末転倒もいいところだ。商店街まで走っていったがやはり見当たらない。
妙だ。彼女がいる可能性のある場所はすべて探した。一体どこに……
「君は本当に肝心なところで抜けているな」
ほぼ反射的に振り返った。その聞き覚えのある声に桐野は自分の体が無意識のうちに相手に警戒の態勢を向けていることに気づいた。
「福島、何をしているんだ。こんなところで?」
「君たちの背信行為を咎めに来た。その予定だった」
疑惑が確信に変わった瞬間だった。福島は自分たちの裏切りを知っている。いつ、どうやって知ったのかは分からないがとにかく知っている。こうなってしまったらできることは何もない。虫一匹の脱走も許さない若手エースはこの件を断罪することで俺たちを踏み台にするつもりだ。
「そんなに怯えた顔をするなよ。俺はお前らの味方だ」
「味方?」
いつもの理性的な雰囲気を微塵も感じさせない福島を前に額の汗を拭いながら桐野はきき返した。
「お前らは間違っていない。そうだろ?」
「なにが言いたいんだ?」
「言っただろう。俺は味方だ。まぜてくれよ」
「は?まぜる?何を言っているんだ?」
蚊にでも刺されたのか地面を見ながら自分の首をボリボリと掻く福島はにやりと笑った。
「この神社は腐っている。上役たちはその腐敗を喜んで喰らってどんどん肥大し続けている。今回がいい例だ。奴らは自分たちの目先の利益に取られてこの神社を一線超えた場所に連れてきてしまった。これ以上放っておいたら俺は奴らの巻き添えになって腐り落ちていく。それだけはごめんだ」
「福島、君もこの神社の不正を知っていたのか」
「ああ、お前ら以上のことをな」
夕暮れの街にオルゴールの音が響いた。おそらく五時か六時を告げる音だろう。人間にそれほど長くいる訳でもないのに、この音を聞くとどこか懐かしいようなしんみりとした気持ちになる。だが、その気持ちも福島の強い視線にかき消されてしまった。
「お前らは大道林と西山を主犯だと思っているらしいが、問題はそんな簡単な話じゃない。あいつらはトカゲのしっぽだ。不用意に追い続けると逆に不利になるぞ」
オルゴールはまだ鳴り続けている。何も言えない桐野の代わりにその場の空気を満たしてくれているようだった。
「やめてくれ……」
「は?」
「君まで巻き込むわけにはいかない。この件が上に知られたらおそらく僕たちはただでは済まない。君の出世コースもあっという間におじゃんになってしまう」
「なんだ、そんなことを気にしてたのか。どこまでもお人好しだな」
「正直言って君のことはそれほど深く知らないけど、この神社を変えられるのは君のような人物だと僕は思っている。だから、まだここで躓いてほしくないんだ」
オルゴールの音は止んだ。商店街を歩く人々の喧騒が二人の間を流れていく。自分たちの体をすり抜けていく人々の顔はよく見えないが、福島の表情はよく見える。
驚き。俺の言ったことがそんなに意外だったのか?
「お前は確かに俺のことを勘違いしている」
「え?」
「上り詰めることはただの過程だ。俺の目標はもっともっともっと高い場所にある」
福島の立てた人差し指は確かにどこ遥か彼方を指しているように見えた。
「まあ、この話はまた後だ。それより野山香を見つけ出す方が先決だろ」
「そうだ!こんなところで立ち話している場合じゃなかった!早く探し出さないと!」
焦りのあまり身をかがめて叫ぶ桐野に福島は温厚な教師のように落ち着いた調子で言った。
「そんなに焦ることはない。むしろこれはチャンスだ」
「チャンス?」
「ああ、雑魚を片づけるいい機会だ」
今日は本当に災難続きだなと香は暢気にそんなことを考えていた。学校の体育館倉庫に閉じ込められた香は危機感に浸ることもなく、ほこりまみれのマットに腰を下ろした。
なぜこんなに落ち着いているのだろう?それは香自身にも分からなかった。水野に自分を見てほしいと思った時からこういうことが起きるかもしれないと香は予見していた。しかし、ここまでやるとは正直思っていなかった。そういう意味では恐怖はなかったが、驚きはしていた。
放課後、水野を探して廊下をうろうろしていた時、突然話しかけてきたのは話したこともない別のクラスの女子たちだった。あまりにうまい作り笑顔流暢に話すものだから完全に油断してしまった。いや、自分の外見を気にするようになってから、世界が自分にあてたスポットライトに集められた人々が話しかけてくるようになったため、彼女たちもその類だと思ったのだ。
調子に乗っているんじゃないわよ。ちょっとメイクしたくらいで可愛くなったとか勘違いしているんじゃない?色目を使うのはやめてくれない?
体育館倉庫まで連れていかれる途中で何度も耳の中に飛び込んできた言葉たちは香を現実の世界に引き戻した。
翔ちゃんに好かれるために外見を変えてみたら周りが変わったような錯覚を感じていた。でもそれは本当にただの錯覚だった。変わったのは私だけだった。周りは、世界は何も変わっていなかった。
そんなことを考えているうちに女子生徒たちはどこかに消えていた。またここに戻ってくるという感じのことは言っていた気がするが本当に戻ってくるかは分からない。このまま放置ということも十分に考えられる。仮に戻ってきたとしてもろくな目には合わないだろう。
「私なにやってるんだろ?」
「それは俺のほうが聞きたいよ」
「人ひとり閉じ込めて見て見ぬふりか。人間って生き物は全く」
ふと香の顔が上がる。聞き覚えのない二つの声、不思議なことに男か女かも判別できない。だが、ここに来るということはあの子たちの仲間だろうか。
「心配しなくてもいい。私たちは君の味方だ」
「出してほしいか?」
「うん」香はボソッと言った。
「水野翔太をあきらめれば出してくると言ったら?」
「おい、福島!」
冷たい沈黙。あの子たちの仲間か。翔ちゃんの周りをうろつく私のことが気に入らないんだ。
「そんなことしなくても翔ちゃんは元々私に興味なんてないわ」
「そうやってまた逃げるのか?」
頭の中に冷たいものが流れた。香は爪と爪をこすり合わせてじっと体育館倉庫の扉を見つめた。
「そんなに負けるのは怖いか?そんなにフラれるのは怖いか?」
やめて。知ったような口をきかないで。
「まあそれはそうだろう。恋なんて不確かで非合理的なものに決断を左右された結果、今の友好的な関係まで崩壊したら元も子もないからな。お前は間違っていないよ」
そう、私は間違っていない。普通だ。私は普通だ。
「周りに一目置かれて、ちやほやされたからってどうせ叶うわけないんだから」
「いや、叶うよ」
痛みを感じるほどこすり合わせていた爪の動きが止まった。体育館倉庫は相変わらず薄暗いままだが、少し光が差し込んだような気がした。
「叶うわけない。小さいころから一緒にいた私には何となくだけど、確かに分かるの」
「お前はエスパーか何か?」
「あなたにはわからない」
「自分にそう言い聞かせているだけだろ。傷つきたくないから」
あんたに私の何が分かるの。香は思わず口から出てきそうだった叫びを飲み込んだ。この叫びを形にしてしまったら、さらに心を見透かされるような気がしたからだ。
「あなた達は私に何をさせたいの?」
最初は翔ちゃんに好意を持つ女子たちだと思っていたが、どうやら違うらしい。扉の先から話しかけてくる人たちは私を何らかの形で動かそうとしている。諦めようとしている私の心を知ったうえで私をけしかけている。
数秒の間をおいて扉の先の誰かは言った。
「俺は嘘をつくのは割と得意なほうだ。適当な理由な並べてお前を納得させることもできなくはないが、本音を隠すのは嫌いだからはっきりというがお前の恋が叶うか叶わないかが俺たちの命運を分けるんだ」
香の頭にクエスチョンマークが躍った。何を言っているだこの人は。
「お前ら人間の一時的でくだらない恋愛ごっこに俺たちはある意味命がかかっているんだ。まったく笑えるだろう。お前らは恋愛なんてレジャー感覚で楽しんでいるだろ。元カレがどうした、俺の彼女がうざいだの。俺たちが裏でどれほど苦心しているかも知らずに」
扉が少しギシギシと音を立てているような気がする。まるで声の主の怒りに呼応するかのように。
「あなた達は何者なの?」
「それは言えない」
落ち着いた声がそう言った。さっきの人とは違う人だ。香にはすぐに分かった。どちらの声も全くと言っていいほど違いがないが、この声は川のせせらぎのような安らかさが滲み出ている。
「僕はずっと君を見ていた」
まるでストーカーのような発言だが香は全く嫌悪感も恐怖心を抱かなかった。やはり声の主の気質がそうさせているのかもしれない。
「君が小学生のころあの神社で遊んでいた時から君が水野翔太を好きなことも知っていた。そのことで長年思い悩んでいたことも知っていた。君が神社で恋愛成就を祈る前から」
体育館倉庫にどこか暖かい風が吹いた。
「君は水野に想いを伝えるために苦手だったことにも挑戦し始めた。君は本当に変わってしまった。変わったのは君だけじゃない。本気で恋をしている人たちは僕にはまともに見えなかった。でもそれをまともだと思えない僕はまともじゃないのか?」
穏やかだった声に段々と熱が籠ってきている。吐き出したく仕方なかったことを吐き出している。そんな感じだ。
「長々と話してすまなかったね。要するに僕達はもう少し君の恋の成り行きを見ていたいんだ。僕たち自身のために」
何を言えばいいか分からなかった。香は返事をするわけでもなくただ目の前の
扉を見つめた。香は戦わなくてはならないと思った。誰かとではなく自分と。
「今、扉を開けてやる。さっさと出ろよ。やるべきことは分かっているだろう?」
少し苛立ちの混じった声が香を立ち上がらせていた。
だが、扉は開かなかった。扉の向こうから話し声が聞こえる。言い合っているような感じだ。先生に見つかって怒られているのだろうか?
香は扉の先にいる顔も姿も知らない相手のことが心配になっていた。ほんの少しの会話を交わしただけの相手だが彼らが先生から不当な理由で叱られていることを想像するといっても立ってもいられなかった。
「何を言っているんですか?大道林さん」
桐野は目の前に立っている上司を穴が開くほど見つめた。怒りでも軽蔑の眼差しでもない。大道林が何を言っているのか、本当に分からなかったのだ。
「私は同じことを二度言うのは嫌いだが、もう一度だけ言ってやる。野山香のことは忘れてここから立ち去れ。そもそも君たちがそこの女を助ける理由はないんだ」
「邪魔者は排除する。馬鹿でも思いつくやり方だな。大道林さん」
何が嬉しいのか、子供っぽさの残る笑顔で福島は大道林を見た。その笑顔に大道林も不気味さを感じたのか、少し目をそらし桐野の方を見た。
「閉じ込めた人間どもが彼女を殺したんだ。そうだろ?彼女たちがこんなことをしなければ野山香は死なずに済んだ。いじめの末に殺された少女、ありがちで残酷な話だ。後の筋書きは人間どもが勝手に考えてくれる。楽な話だろう?」
「なんでそこまでして……彼女は、野山香は恋をする普通の女子高校生ですよ?」
動揺と驚愕で震える桐野の声は涙声のように響いた。
「そこまでしなくてはならないんだ。自分の地位を守るためには多少の犠牲をつきものだ。端から見れば狂気のような行動も限られた椅子を守るためには必要なことなんだ。それが分からないお前らのような連中が一生利用され地を這うんだ」
大道林がさっと手を挙げた。
「最後のチャンスだ。この手を下ろせば私の部下たちがお前たちを取り押さえる。その後どうなるかは俺の口からとてもではないが言えないがな」
「大道林さん。僕は……」
桐野の言葉が詰まる。体育館倉庫を背に立つ桐野はその圧迫感に押しつぶされそうになっていた。
「あなたとは正直馬が合わないと思っていました」
「私もだよ」
「でも……」
なんで?どうして泣きそうになっているんだ、僕は?
「私は心のどこかであなたのことを尊敬していた。あなたは恋愛をビジネスと割り切っていたがあなたはいつでも本気だった」
大道林の眉がピクリと動いたのを桐野は確かに見た。この言葉が彼の胸にも少しは響いたのだろうか。だとしても何も変わりはしないだろうが。
「貴様らにそんなことを言われる筋合いはないな」
「あの女子たちをけしかけたのもあんただな?」
冷ややかな視線が大道林を刺した。だが当の本人はまるで気にする様子もなく、
「なんだその目は?福島、お前は俺と同じ穴のムジナだろ?」
と微笑をぶら下げていった。
笑っている。親しみから来る笑顔ではないねっとりとしたまとわりつくな笑顔だった。
「お前はうまく取り繕っているつもりなんだろうが、俺には分かるぞ。貴様の性根が腐りきっていることがな」
鳥の羽音が遠くに聞こえる。その羽音がその場の沈黙を埋めた。
「私はずいぶん前から貴様のことが気にくわなかったんだ」
「昔の自分を見ているようで?」
福島もまた嫌な笑顔を大道林に差し出した。
「分かったような口をきくな。お前らだって本当は分かっているはずだ」
大道林が勢いよく踏んだ大地は鈍い音を残していった。
「俺たちはこの世に生を受けた瞬間から自分たちが理解できない恋愛を手助けするという生き方を押し付けられてきたんだぞ。やりがいな達成感もあったものじゃない。こんな退屈で苦痛な仕事の中で確かなものは地位しかない。それだけは譲れんのだ」
この言葉の最後の部分は感情がこもっていたせいか叫ぶような形になっていた。
「僕も……僕も同じです」
桐野が静かに答えた。
「僕も退屈だった。私も決められた人生の中で何かに夢中になっていなければ、自分が可哀そうでやってられなかったんですよ」
「黙れ」
何の抑揚もない、ただ機械的な声が落ちてきた。それと同時に大道林は指を鳴らした。
その瞬間、物陰に隠れていた数十人も刺客たちに囲まれた僕たちは為す術なく、その場に取り押さえられ、石畳の上で意識を失う……
と思った。
実際には何も起きなかった。静まり返った空間でうろたえる大道林の姿はみじめそのものだった。
「何をした、福島!」
大道林の怒号が学校中に響いた。しかし、その声を聞いたものは誰もいない。
「社内政治は俺の方がうまかった。それだけのことですよ。大道林さん」
見下すような福島の目は勝利を確信していた。
この馬鹿め。俺を出し抜けるとでも思ったのか?福島の目は確かにそう言っていた。
「さてと」
ごそごそと福島はポケットからボイスレコーダーを取り出して軽く振って見せた。そこから流れてきた声は大道林と若い女性、東原ミサのものだった。内容は水野翔太についてのものだったが、内容はそこまで重要ではない。人間と大道林がコソコソと密談していること、そのものが大問題なのだ。
「このボイスレコーダーの会話を会社中に流したらどうなるのかね。あんまり俺たちに得はないが、いつも偉そうにしているあんたが泣きそうな面でうろたえるのを見れるだけでもこのボイスレコーダーは価値があるな」
ボイスレコーダーをポケットに戻した福島の顔はもう笑っていなかった。
「貴様……それをどこで……」
「どこでもいい。これから落ちていくあんたには関係ないだろ?」
大道林の顔がみるみると蒼くひび割れた大地のような顔になっていくのを桐野は確かに見た。
そこからの大道林は人が変わったかのように頭を地面にこすりつけ、うめき声をあげた。くそ、こんなガキどもにこの俺が!俺が何をしたっていうんだ!
だが、最後まで大道林は桐野たちに媚びることはしなかった。まだ微かなプライドの残っていたのだろうか、それとも自分のやったことを悔いていないからだろう。
桐野は後者であることを願った。どんな悪行であれ、大道林に後悔してほしくないと桐野は思っていた。自分はただ負けただけなのだ。そう思っていてもらいたかった。
「あんたがトカゲの尻尾であることは知っている。誰の差し金だ?それくらいは話してもらわないとな」
しゃがみ込んで大道林を見下ろす福島の姿はまるでカツアゲをするチンピラ、いやヤクザそのものだ。桐野は少し恐怖を感じた。
「俺がそれを言うと思っているのか?貴様に教えてやると思っているのか?この俺が」
意地だ。福島を睨みつける大道林の目に映っているのは岩のように固い意地だ。
「あんたの大好きな地位が懸かっているのに頑固だね」
「どのみちお前らは私を見逃すつもりはないんだろう。それくらいわかる」
「社長が俺たちを潰してくれれば、あんたにもまだチャンスがあるしな」
驚いて見開いた目を大道林は福島に向けた。その顔がすでに答えを言っている。桐野は思わずそう言いかけた。
「随分素直な反応をしてくれるんだな。大道林さん」
福島は大道林の頭を軽くポンポンと叩いてから立ち上がった。親が子供を褒めるように頭を叩く福島の行為がどれほど大道林のプライドを傷つけたのかは想像に難くない。
「お前たちは自分たちがどれほど無謀な戦いを挑んでいるのか、わかっていない!」
怒りの目を向ける大道林を無視して桐野は体育館倉庫の鍵を開けた。そして、桐野は大道林と向かい合った。
「馬鹿なことをしてみたくなったですよ。あなたとは違うやり方で」
大道林はうなだれたまま、石像のように動かなくなった。
なんで私は走っているの?
行ってどうしようっていうの?
香は普段かき慣れていない汗に不快感を覚えながらも走り続けた。
水野翔太の元へと。
誰かも分からない人たちに押された背中はただ前に進み続けていた。
その背中と心は商店街の真ん中で二枚のチケットを持っている水野を見つけるまで止まることはなかった。
「お膳立てはすでにできていたということか」
桐野は改めて福島が敵ではないことに心底ほっとした。水野の様子を見る限り、どうやら水野はもう遊園地のチケットを手に入れているようだ。それも今ちょうどもらったというところだ。福島のお膳立てはタイミングとしては最高だ。
「後はあの女次第だな。まあさっきの様子を見る限りでは大丈夫だとは思うが」
「ただ本音を言えばここで告白するという展開は面白くないね」
「まあそうだな。俺たちのせいであの女、変なところに血が滾っているようだ。その勢いに任せて今この場で告白されると遊園地というトップレベルのシチュエーションを活かせなくなる」
「その通りだね」
何か引っかかる。
桐野の胸に黒い霧がかかった。悪い予感とも少し違うような自分の中から自然に芽生えてきたような気持ちだった。
だが、その気持ちはすぐに泡のようにすぐに消えた。
香は息を荒くしながら自分よりも10センチ以上背の高い水野を見上げていた。水野も予期せぬ香との遭遇に戸惑っているのだろう。少し落ち着きが足りない。
「今から帰るのか?」
「ううん……翔ちゃんに会いに来たの」
「俺に?」
桐野は確かに見た。水野翔太の右手がチケットをキュッと握りしめた瞬間を。
「あのね。翔ちゃん……」
数メートル離れた桐野たちの位置からも分かるほど香の顔は真っ赤になっていた。
「まずいな。ストップかけるか?」
福島の声が汗をかいていた。その汗は確かに焦りを表していた。
「彼女が次に何か一言でも喋ったら行きましょう」
「あれ!水野君と香ちゃんじゃん!」
満面の笑みで香に歩み寄るミサはクラスメイト十数人を引き連れている。まるで大名行列のようだ。
「ちょうど良かった。二人に用があったんだよね」
「用ってなんだ?」
水を得た魚のように美佐に駆け寄った。香との間に流れていた気まずい雰囲気には水野自身も閉口していたらしい。
「実は来週の日曜日にクラスの皆で遊園地に行くつもりなんだけど二人も来ない?」
来週、遊園地、クラスの全員、断片的な単語が桐野の頭の中を流れていく。その瞬間に桐野は自分が歯をキリキリと噛み締めていることに気づいた。
「来週の日曜日……」
水野は何かを零すように呟いた。その視線は右手に握りしめていたチケットに向いていた。チケットは鼻をかんだティッシュのようにくしゃくしゃになっていた。
「二人とも来いよ!」
「そうそうクラスの大半は行くのよ!」
「ミサちゃんが私たち全員のチケットを手配してくれたのよ!」
「これは行かないと損でしょ!」
クラスメイトの声が壊れた機械のような音に聞こえるのは僕だけだろうか?
桐野は一種の気味の悪さを感じていた。言わされていると気づかずに自分の発言のように言葉を並べている人間たち。桐野の目にはそう映っていた。
「遊園地ってグリッド遊園地だよな?」
「そうよ?それがどうしたの?」
首を傾げてミサは尋ねた。そんなことがどうして気になるのと素直に聞きたそうな表情をしている。
「行くわ……」
沈みそうな声は桐野の耳にも届いた。桐野も水野も見開いた目で香を見つめた。香の顔はふわっとした一輪の花のような笑顔を咲かせていた。
「みんなで遊園地に行くなんて楽しそうじゃない。行こうよ翔ちゃん」
一輪の花の花びらは少しずつ散っていく。
「まあそうだな。せっかくだし行くか」
どこにでもある光景だ。高校生が商店街の真ん中で互いの笑顔を振りまく。
楽しみだね。遊園地に行ったら何に乗りたい?あの土産まだあんのかな?
日常に溢れかえっている会話にいちいち心を揺さぶられても仕方ないと頭の中では分かってはいても、いちいち心の中に苛立ちが浮かんでくる。
あなたたちが楽しみにしているその日が僕たちの最後になるかもしれない。そう考えるだけで胃がキリキリと痛む。地位も名誉にもそれほど執着がないと思っていたが、とんでもない。今当たり前のように座っている椅子を奪われそうになって初めて自分がどれだけその椅子に依存していたかが分かる。その椅子がなければ立ち続けて一生を終える。その椅子がなければ今までの居場所を失う。
こんなことばかり考えてしまう自分はどれほど弱い存在なのか、つくづく実感させられる。
「そんなに怖いなら最初から歯向かわなきゃよかったのに」
自分に話しかけられたなんて最初は思わなかった。人間界で仕事をしていればこういう場面は数えきれないほどある。人間たちには僕たちが見えていないため、無意識に僕たちに近づき友人と話したり、独り言を呟く。いちいち気にしていたらこっちも仕事どころではなくなる。
だから、東原ミサの言葉も軽く受け流そうとした。だが、顔を上げた時に見た彼女の顔は確かに僕を瞳の中に捉えていた。
「こうやってお話をするのは初めてよね?あなた達の上司にも余計なことはするなと言われていたけど、あなた達とは一度は話をしておきたかったの」
周りの取り巻きたちはすでにいなくなっていた。水野翔太も野原香も。いるのは東原ミサただ一人だ。
「お前は……一体……」
隣にいる福島も驚きを隠せないらしい。緊張と警戒のせいで顔が少し引きつっている。人間ではなく得体のしれない生命体を前にしているような警戒だ。自分たちの姿が見えるそれだけでもすでに彼女は規格外の存在だった。
「私は遊園地で水野君に告白するつもり。邪魔するつもりならそれでも構わないけど、できればもう無駄な努力をしないでほしいの。これはあなた達のために言っているのよ。今ならまだ私があなた達の上司に口利きをして今までの行為をチャラにしてあげるわ。どう?悪い話じゃないでしょ?」
「なんでお前がそこまでの権限を持っているんだ?お前は一体何者なんだ?人間か?いや、違う。俺たちと同じ?いやそれも違う」
混乱している福島の肩を桐野はポンと叩いた。落ち着けよ。君らしくない。
「申し訳ございません」
桐野は深々と頭を下げた。もし、愛想神社が一方的に東原ミサにこの話を持ち込んだとしたらこの彼女も被害者と言える。桐野たちが見える力も神社が与えたものだとしたらそれは桐野たちの傲慢と呼べる。
「君を巻き込んだのが私たちならこの場で謝罪させてください」
「勘違いしないでくれない?あなた達を巻き込んだのは私よ。憎まれるとしても、謝罪される筋合いはないわ。水野君を手に入れるために私があなた達を利用したのよ」
自分の考えが見当違いだったのか、東原ミサは自分が利用されていると認めたくないのか、二つの仮説が桐野の頭の中に浮かんだが、後者はすぐに頭から外れた。東原ミサの言葉には敵意はあっても、虚偽はない。桐野は直感的に判断した。
「たとえそうだとしても私たちが直に交渉をしたことは同じ神社で働く社員として黙って見過ごすことはできません。こちらの勝手な都合だということは重々承知の上でお尋ねしますが、あなたに交渉を持ちかけたのは誰ですか?」
無駄な問答だ。
「教えるわけないでしょ?その方のおかげで水野君に会うこともできたし、ここまで距離を縮めることが出来たのよ。水野君を手に入れるまではせいぜい利用させてもらうわ」
それほど前から神原社長は東原ミサに近づいていたのか。きっと東原ミサだけではないだろう。恋を成就させてやることで神社の評判をより高めてくれる相手にはそれなりのアプローチをかけているに違いない。
「たかが恋愛のために俺たちを利用するなんて人間は余程暇なんだ」
吐き捨てるように福島が言った。
「あなた達にはまだ分からないのね」
「分からないし、実際のところ興味もない。お前らの恋愛を助けるという仕事も所詮はただの手段だ。上に行くためのな。正直自分の仕事にどんな意味があるのか、恋愛感情がどんなものなのか、全て興味がないんだよ」
本音をぶちまけた福島の顔は少し紅潮している。手段と言いながら自分のやっていることの正体が理解できないということは恐ろしい。そして、つまらない。桐野には福島の苛立ちの根源と自分が人間の恋愛感情を知りたいという好奇心の根源は同じなのではないかと思わずにはいられなかった。
「野心があるのは立派だけど、こうやって私に歯向かった以上あなたの野心も野望もここで終わったと思った方がいいわよ」
愛想神社のエース福島にここまで堂々と敵意を向けたのは東原ミサが初めてだろう。むき出しの敵意に晒された福島の顔はみるみるうちに怒りの表情のまま硬直していった。
「東原ミサさん。あなたはどうしてここまで出来るんですか?」
怒りを内包した福島を軽く手で制した桐野は一番聞きたかったことを質問した。
「僕には分からない。なんで僕たちを使ってまで水野翔太を手に入れたいのか。一緒にいたいから?それは友達という関係では実現できないことなのですか?肉体的な関係を結びたいから?もし快感を得たいだけなら金さえ積めばそういうことできる場所はこの世界には沢山ある。周りが恋愛を日常的に行っている中で自分が取り残されるのが怖いから?それは果たして恋愛感情と呼べるのか?それとも彼との子供がほしいから?確かにオスとメスが存在している限り、種を存続させなければならない限り、子供を作るという行為は必要だが、しかし」
「落ち着けよ。そんなことこいつに聞いたところで意味なんかねぇ」
仮面で感情を顔の裏側に押し込んだいつもの福島が桐野の頭を鷲掴みにした。
「なんでわざわざ俺たちに声をかけた。俺たちに余計なヒントを与えたと思わなかったのか?お嬢さん?」
お嬢さんのイントネーションは実にいやらしいものだった。酔っ払いの親父が発するようなイントネーションだ。福島も東原ミサに負けじと敵意を見せつけようとしている。
「確かにあなた達に声をかけるのはそれなりのリスクを伴うわ。でも自分の好奇心に負けちゃったのよ。あなた達がどんな生き物か知りたかったの。そこの桐野って人と同じよ。あなたは人間の恋愛感情に興味がある。私は恋愛感情を持ち合わせていないあなた達に興味がある。それだけよ」
一瞬、彼女の顔に影が差しこんだ。
何かを隠した。桐野の直感がまた頭を揺さぶった。嘘をついたわけではない。本音を隠している?桐野は決して人の心が読めるわけではない。全て根拠のない推測に過ぎなかった。だが、東原ミサがまだ何か言いたげと桐野は確信していた。
「話はそれだけよ。せいぜい今週の日曜日は頑張ってね」
東原ミサはそれだけ言ってこの場を去った。何の迷いもないその歩調は桐野と福島に焦りと恐怖を与えるには十分すぎた。