彼方と香鈴
彼方、香鈴、ミケは王都に向かう馬車に乗っていた。屋根はなく、夜空には巨大な月が浮かんでいる。
荷台には彼方たち以外に人の姿はなく、多くの木箱と樽が積まれていた。
――馬車が見つかってよかったな。運賃もほどほどだし、これなら数時間で王都まで戻れるか。
ふと左隣を見ると、ミケが彼方に寄りかかって寝息を立てている。
「寝ちゃったみたいだね」
彼方の右隣に座っていた香鈴が、ふっと笑みを漏らす。
「七原さんも寝てていいよ。王都についたら、僕が起こしてあげるから」
「ううん。私は大丈夫」
香鈴は彼方に体を寄せる。
「ねぇ、彼方くん。どうして、私たちがあそこにいるってわかったの?」
「冒険者ギルドのミルカさんに教えてもらったんだよ。七原さんたちが東の鍾乳洞の近くでお金稼ぎしてるって」
「あ、そうだ!」
香鈴は側に置いていたリュックから革袋を取り出し、それを彼方に渡す。
「これ、お金。回復呪文を使って貯めたの。リル金貨十枚と銀貨が三十五枚あるから」
「へーっ、そんなに稼いだんだ?」
「うん。ミケちゃんが交渉してくれて」
「たしかにミケなら、そういうのが得意そうだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ねぇ…………彼方くん」
「んっ? 何?」
「ちょっと疲れてるみたい」
「あーっ、ここ何日かはあまり寝てなかったから」
彼方はまぶたをぱちぱちと動かす。
「やっぱり疲れが溜まってるんだろうね」
「回復呪文使おうか? ケガだけじゃなくて体力も少し回復するみたいだから」
「いいよ。七原さんも疲れちゃうだろうし」
彼方は笑顔で首を左右に振る。
「それに眠れば、すぐに元気になるから」
「それなら、彼方くんが眠って! まだ、王都につくまで時間があるから」
「あぁ…………そうだね。たしかにここは寝心地がよさそうだ」
「え? 寝心地はよくないと思うけど?」
香鈴は不思議そうな顔で荷台を見回す。
「ここは狭いから、座って眠るしかないし」
「いや、そういうことじゃないんだ。僕の隣に信頼できる二人がいるってこと」
彼方は両隣にいる香鈴とミケを指さす。
「二人が側にいてくれたら、安心して眠れるから」
「う、うんっ! 私が起きてるから!」
香鈴は両手を胸元でこぶしの形に変える。
「ははっ、ありがとう。じゃあ、少し休ませてもらおうかな」
彼方は両膝の上に手を乗せて、まぶたを閉じる。
「…………七原さん」
「んっ? 何?」
「元の世界に戻りたいよね?」
彼方の言葉に香鈴は沈黙した。
カラカラと車輪の音だけが聞こえる。
「…………うん。お父さんやお母さんも心配してると思うし」
「だよね」
「でも、この世界も悪いことばかりじゃないから」
「そう…………なんだ」
彼方は目を閉じたまま、唇を動かす。
「たしかに、この世界にもいいところはあるね。中世っぽいけど、衛生面はしっかりしてるし…………料理も美味しいし」
「うん。電気がなくても物を冷やせる石があるから」
「元の世界にも魔法があったら…………こんな世界になったのかもしれないね」
「…………あのね、彼方くん」
香鈴は緑のつるに覆われた右手を自身の左胸に寄せた。
「この世界のいいところは他にもあるんだ」
「ん…………何?」
「それはね、結婚の制度なの」
香鈴の頬が赤く染まった。
「この世界では一人だけじゃなくて、何人もの人と結婚していいんだって」
「あぁ…………聞いたことあるよ。女の人もお金や名声があったら…………夫を何人も持っていいんだよね」
「あっ、ちっ、違うの」
香鈴は慌てた様子で左手を左右に振る。
「私は一人でいいの。そうじゃなくて、男の人がいっぱい奥さんをもらえることがいいなって」
「え…………そうなんだ?」
「…………うん」
香鈴はもじもじと体を動かした。
「あのね、彼方くんは優しくてかっこよくて強いから、きっとお嫁さんをいっぱいもらうと思うんだ」
「僕が…………?」
「うん」と香鈴はうなずく。
「この世界でも、彼方くんのことを好きになった女の子はいっぱいいると思うよ。ミケちゃんもそうだし、エルフの女騎士さんやシーフの女の子とも仲良しなんだよね?」
「…………ああ。ティアナールさんと…………レーネか」
彼方の唇だけが、ゆっくりと動く。
「でも、この世界なら、みんなが彼方くんのお嫁さんになれるの。十人でも二十人でも」
「…………」
「そっ、それなら、私にもチャンスがあるかなって」
香鈴は両手の指を絡めて、視線を落とす。
「あのね、私…………彼方くんのことが…………好きです!」
ぎゅっと目をつぶって、香鈴は告白を続けた。
「元の世界にいた時から、ずっと好きだったの。彼方くんは気づいてなかったけど」
「…………」
「何番目でもいいの。十番目でも百番目でも。私も彼方くんのこっ…………恋人にしてください!」
「…………」
十数秒間、沈黙が続いた。
香鈴は閉じていたまぶたを開いた。
「あ…………」
彼方は口を半開きにして眠っていた。微かな寝息が香鈴の耳に届いた。
「は、はぁ」
香鈴は胸に溜めていた息を吐き出した。
「せっかく、勇気出せたのに…………」
恨みがましい目で香鈴は彼方を見つめる。
――でも、しょうがないよね。彼方くんは疲れてるんだから。
――私の右手を治すために、いっぱいモンスターと戦って…………。
大きな香鈴の瞳が揺らぐ。
「ありがとう…………彼方くん」
その時、彼方の上半身が傾き、頭部が香鈴の肩に触れた。
「あ…………」
香鈴の体が熱くなり、心臓の鼓動が速くなる。
「彼方…………くん?」
「…………」
彼方が起きる気配はない。
安心した表情を浮かべて眠っている彼方を見て、香鈴の頬が緩む。
――今日はすごくいい日だ。告白はダメだったけど、彼方くんが私に寄りかかってくれた。こんなこと、学校じゃ絶対にできなかった。
「おやすみなさい、彼方くん」
香鈴は幸せそうな顔で、彼方の頬に自身の頬を寄せた。