僕と彼女の
辺りを焼き尽くす紅蓮の炎。
金属と木材が焼かれた匂い。
肉の焦げた匂い。
四方を塞ぐ業火の壁。
その中央に立つ男。
過度の火傷。
迫り来る死。
男の憎悪の矛先。
両腕を失ったもう一人の男。
ぶつかる視線。
力が加速する。
神に必要なのは生け贄。
血と魂を捧げよ。
もうすぐ、どちらかは死ぬ。
*
屋上への扉を開けると、初夏の匂いがした。
涼やかな風がやんわりと頬を撫でる。
不穏でざわめく僕の気持ちとは裏腹に澄み渡った大気。広大な空間は色鮮やかで雲が一つもない。
内にある恐怖心に打ち勝つためにも僕は歩み出た。陽の光を浴びながらゆっくりと深呼吸を繰り返す。
空を眺めていると、恐怖に縛られた身体の力みが軽い雲みたいにどこかへと飛んでいく。
そんな良い気分も、数分後には元に戻るだろうと自分でなんとなく分かってはいた。
――とある人物を探す目的で校舎の屋上に訪れていた僕は、辺りをきょろきょろと見回した。
さっきまでの頭の中も切り替えなくてはならない。
屋上のへりには金網のフェンスが張り巡らされ――事故や投身を防止するためか――欄干も設けられている。
うちの高校では屋上への出入りは禁止されていなかった。扉にも鍵は掛かっていない。
きっとここにいるはず――
目当ての人物はこの場所が大のお気に入りらしいのだ。
直接本人に聞いたわけではないが「気分を晴らしたい時によく行く」と言っていたのを耳にしたから間違いない。
僕にとっての校舎の屋上とは未知の空間だった。高校に入ってから二年以上経って初めて訪れた場所だからだ。
こういう風になっているのかぁ、という気持ちであちこちへ目をやる。
とはいえそれほど興味もなかったので、こんな機会がなければ来ることはなかったかもしれない。
そんなことを考えている間も、階下からはこれから下校していく生徒や、グラウンドで部活動に勤しむスポーツマン達の声がちらほらと聞こえていた。
――自分がさっき出て来た、階段出入り口。ふとその屋根を見上げた。
瞬間、心臓がドクン! と跳ねる。
設置されている大きめな給水用のタンクを背にして、一人の女の子がコンクリートの上で涼しげに座っていた。
高校生らしい夏用の制服姿。軽やかなブラウスとスカートは比較的小柄な彼女の体格によく似合う。
手にはチューブ付きの小振りな水筒を持っていた。
彼女は腰掛けたコンクリートの床から足を投げ出して、中空でぶらぶらさせている。
「そんなとこにいたのか」
平静を装った僕は彼女に話しかけた。
「なんか用?」
しらっとした表情と、味も素っ気もあったもんじゃない態度だ。相変わらずだった。
けれど凛々しいながらもどこか可愛げのある瞳。それが僕をしっかりと見下ろしてくる。
――宮間海。
可憐な女子高生。そしてある意味においては僕の人生で最も忌まわしいクラスメイトである。
探していた当の人物が彼女だった。
僕の頬を撫でたのと同じ薫風が、宮間海の髪をなびかせる。
少し乱れる髪の毛。それでも彼女は澄ました様子だった。
僕は見上げながら話しかける。
「――海さん。キミに大事な話があるんだ」
なぜだか海と空と太陽が上手い配置にあって、丁度の具合で眩しい。
彼女がこの場所を好きな理由は知らなかったが、今はなんとなくそれも分かる気がした。
「……大事な話ってなによ、龍司」
名前を呼ばれ、そういえば……と状況を振り返ってしてまう。
こんな所で思春期の男子がだ、クラスメイトの女子に対して大事な話があるなんて言った日には。
……相手が勘違いを起こすのかもしれない。
むずむずと、僕の中で何かが少し芽生えていた。
それは本来の目的とは違うものだったが、現実逃避として花開かさずにはいられない。
「実は俺さ、ずっと前から海さんのことが……」
「え、えっ? なに、なによ? マジ?」
どぎまぎしている様子を見るに、やはり勘違いしたらしい。
なんて分かりやすい人間なんだ。女子でこんなに分かりやすい子はクラスでこの子ぐらいだろう。
そして、ここでトドメだ。
うろたえている彼女に向かって、今こそ渾身の言葉を解き放つ!
「大嫌いでした」
「……はぁー?」
僕は腹を抱えて笑った。
久々だった。こんなに笑うのは。しかも屋外で恥ずかしげもなく。
笑い終えて海の方を見ると、彼女は赤面しつつ怒っていた。
ぶつぶつと呟いている。恨み節を。
宮間海のそんな反応を観察してから、なんだか可哀相なことをしたかな、と少し反省した。
僕はタイミングを図ってフォローを入れる。
「嘘だよ、ウソウソ」
「……あっそ。どーでもいいです」
口を尖らせた海は不満げな顔のままスッと立ち上がって、そのままトンッと宙に跳んだ。
突然の行動に僕は身構える。
愚かにも忘れかけていた恐怖が神経の中枢部に蘇った。
海は数メートルはあろうかという高さから、重力に逆らいながら浮遊するようにしてゆっくりと降りてくる。
それはまるで、水筒を持った天女。
神話にある光り輝く羽衣の代わりに、粒子のような何かが彼女の足元で煌めく。
彼女の靴の爪先が地面に着いた時、短めのスカートがふわりとめくれた。
初めて目にした。これが――
――彼女の『レイク・リープ』か。
「……見えた?」
海が僕の目を見据えて真顔で聞いてくる。その瞬間、我に戻った。
「何が?」
質問の意味を理解していながらも、わざと聞き返した。
もっとはぐらかした方が面白かっただろうか。だがそんな余裕ある反応はさっきの僕には到底出来なかった。
「パンツ」
「ああ、見てないよ」
――真っ赤な嘘。赤色でもなかったが。
「そう。別に見られてもいいけど」
本当は完全に見えていた。
普段なら眼福だろう。だけど今は無意味だった。僕はポーカーフェイスを保つのに必死だったから。
彼女の最も致命的な弱点は、僕の嘘が全く見抜けないことだった。嘘に対して毎度そういう反応を示した。
見抜けないのはよっぽど信用されているからか、彼女がそれぐらいのお人好しだからか。
それとも、僕が単に悪人なのか。
嘘を吐くのが上手い最低な人間だからかもしれない。
いや、常日頃の行いと信頼性の問題だろうか。
少なくともそこから宮間海という人物の人柄は理解していた。表面的にはとげとげしい物腰があったとしても素直さや純真さがにじみ出ている。
本質的にはとてもいい子なのだと、僕は思っていた。
「……それで、話ってホントはなんなの?」
彼女が聞いてきたあと、一呼吸置いて口を開く。
なるべく言葉を重く鋭く、挑発するかのように。
「俺達もそろそろケリをつけないとな。時間がないんだから分かってるだろ?」
「その話か……。わかってる。私だって考えてる」
ぷいっと顔を余所に向ける宮間海。
僕には彼女がちゃんと考えてるようには到底思えなかった。
普段の態度はどこか現実をちゃんと認識せずに、夢うつつで逃避しているようにも見えた。
しかし言葉が効いたのか、比例して僕達を取り巻く空気が重くなっていくのを感じた。
その空気の膜をまるで破るみたいにして、可愛らしくも真剣味を帯びた声が耳へ届く。
「龍司は……どう思ってるのよ」
「何を」
「その……私たちのこと……」
「さあ。なるようになるしかない」
「あんたって……。人に言っといていい加減だよね」
「おや、口喧嘩でもしたいのか?」
「そんなのしたくないし」
「じゃあ何を言わせたいんだ」
「龍司って……よくわからないけど前から自分の気持ちがないみたい」
「うん。俺は海とは違う人間だからな」
「私はそんな風には思ってないのに」
「あのさ、俺の気持ちを言わせたいのか?」
「……別に。無理強いはしてない」
「ほら、すねちゃって。海さんはそうやってすぐすねる」
「もういい」
「言わなくていいの?」
「うるさい」
「はい、ごめんごめん。俺が悪かったね。海さんごめんなさい」
「うるさいよ」
こんなやり取りもいつものことだった。けれど今回は違う意味が混在している。
語らずともわかることがあった。情報を共有しているからだ。同時にわからないこともある。
だからこそ起こった沈黙――
まるでそんな気まずい空気を察知したかの如く、突然彼方から大きな爆発音が轟いた。
爆音に驚きながらも、僕は音がした左手側の方角へ反射的に走って向かう。
屋上のふちにある手すりまで素早く駆け寄ると、フェンス越しに前方の遠景を見た。
抜けるように青く晴れた空の元、遠くの街中ではいくつかの火の手と煙が上がっている。
何軒かに渡る規模の火災が起こっているのは離れたここからでも充分に見てとれた。
空へ舞い上がるドス黒く赤い炎。
ピリピリとした痛みに近い何かを肌で感じた。
下を見ると、まだ校内に残っていた生徒達の間でちょっとした騒ぎが起こっていた。
やはり同じように轟音を聞きつけたのだろう、みんな揃って音のした方へと頭を向けている。
一体何事か、だとか生徒同士で話もしている様子だった。
僕には分かっていた。この火災が放火や事故だとか、よくある一般的な事件から起こった現象ではないということを。
「どうやらあの二人が事を始めたみたいだ」
僕の耳には事前に入っていたのだ。彼らも今日、決着をつけるという話が。
「ほんとにやるしかないのかな……」
海は隣に来て同じように遠方の街中を眺めていた。いつにもなく悲愴な表情をしている。
やっと現実の残酷さが認識出来る所まで来たのかもしれない。
宮間海に聞こえないぐらいの声で呟く。
「雨じゃなくて良かった」
それは二重の意味でだった。
仕方がないことだった。
ちっぽけな僕ら高校生には、神の意思や計画などこれっぽっちも理解できはしない。
祖父が言っていた。
地球上には五行説の理に沿う二つの系統の血族が存在している。
血族の者達には秘密裏に必ず受け継がれる特別な力があった。
それぞれ『木・火・土・金・水』という力を持つ者達。彼らはこの世界で各々一人しか存在できない。
血族は世界中に点在していて、外国のみならず当然日本にもいた。
――始めは信じられなかった。
だが成長する内にどんどん特殊な感覚が鋭くなっていった。そして直感的に言い伝えは事実なのだと悟った。
一人であればこの世のバランスが成り立つ。
相剋する二人の存在が同時に有り続ければ、この世界に遍在する五行相生のバランスが崩れる。
バランスの崩壊は、現世の物理的な秩序の崩壊と同じ。根源から事象が腐り落ちる。
突き詰めれば、人類が一人残らず死ぬまで弾切れのない核戦争が延々と続くようなもの。
同じ力を持つどちらかが死んで、死んだ方は灰になって残らず消えねばならない。肉片の一つも残していけない。
僕だって思った。最初から一つの血族だけなら良かったのに、なぜこんな……?
そうやって疑問を呈してみても、結局答えは出なかった。
たとえ神の答えが出たとしても、そんなのはもう無意味だ。
やるしかない。
それが最後の夏の出来事だとしても。
未来はきっと続いていく。
近づく夕暮れの空に燕が飛んでいる。
時と影が忍び寄っていた。
僕達は屋上の中心で向き合った。宮間海はどうやら覚悟を決めたようだ。今は気品さえ漂っている。
僕は決して迷いや恐怖を外に出すようなことはしなかった。彼女に気取られてはいけない。
海が水筒を開けると、中から拳大の水の塊が二つ現れた。
死を呼ぶ塊。『水流弾』は宮間海の周りを何周か回ったあと、両肩の前で止まる。
理屈では有り得ないものが宙に浮かんでいた。
止まってはいても、凄まじいスピードで回転しているのが見てとれた。いや、僕には水の動きが感じられた。
超高速で回転する液体の球。
球の内部でも更に何重にも渡って水の膜が回転していた。それぞれの膜が回転で形を変えているのも分かる。
あんなのが人間に当たったら間違いなく身体には穴が開くだろう。それが手や脚なら千切れ飛ぶに違いない。
容赦なく生をもぎ取っていく力だ。
それでも、僕は目を閉じて集中した。
光が見える。その一筋の光を意思の力で追う。神経がその先に向かう。
給水用タンクが激しく揺れた。そしてタンクが粘土のようにぐにゃりと破れ、大量の水が噴出する。
全ての水が川の流れのように空中を辿って、僕の周囲に集まる。水がとぐろを巻いていく。
液体は徐々に龍の形を模していった。しぶきで光が乱反射する。
僕の『水龍』が出来上がった。
人間を切り刻み、その肺に毒牙を突き立て、生き物を絞め殺すためだけの蛇だ。
――お互い相手に痛みを与えて勝利を得るための術。
だけどこの戦いに勝利の喜びはない。
何を支払うか、そして何を得られるかが目の前に用意されている。
――僕は本当は泣き叫びたかった。気持ちを叫びたかった。
海までの距離がとても遠くに感じられた。
濁流のような感情を押し留めると、熱くて激しいものが身体の中で暴れ出す。
激しさに逆らってまでも、静かに目を閉じた。
命の駆け引きを前にして、それが致命的なことなのも分かっていた。
――そろそろ中間テストだ。僕の成績はさほど良くはないが、海の成績は優秀だった。
いつ勉強してるのかはまるで分からないが、ああ見えて努力家なのかもしれない。
いつも良い点を取ったら、僕に対してこれ見よがしにしてくる。宮間海は今度もきっと良い点数が取れるんだろう。
目を開ける。
海はまだ動かず、お互いの命は続いていた。
目には見えない不可思議なもので世界と繋がっている。それがハッキリと感じられた。
人から人へと繋がる、淡い線も感じる。
遥か上空ではヘリコプターが飛んでいる。血族の関係者が乗るヘリコプターだ。
僕は秘匿された監視者たちの存在にはとっくに気づいていた。
彼らにとっては僕らが互いに殺し合いをしてもらわなければ困るからだ。
やらないといけないのは分かってる。
だけど宿命や使命だとか、そんなしがらみでここに立っていたくはなかった。
そう言い聞かせる。
「屋上は良い匂いがするな。俺もここが気に入ったよ」
鼻腔から空気を吸い込んでも匂いはしなかった。高められた集中力が無駄な五感をなるだけ遮断している。
僕は海に対して笑いかけて見せた。
彼女の堅くなった表情が少し崩れて柔らかくなる。
「さあ、やろうか!」
虚勢でも獅子のように僕が吠えると、海の肩がビクッと動いた。
そして彼女はこくんと頷いた。
海の目には光を反射して煌めく粒が浮かんでいた。
まったく――泣くなよ。これから殺し合うって時にさ。
けど心までは誰も奪えない。これでいいんだ。
彼女を真っ直ぐ見据えて、西部劇のガンマンのように海を睨んだ。
プログラムされた力を走らせる、そのスイッチを押す直前の姿勢。
――僕はこんなだから、君の元へ真っ直ぐには辿り着けなかった。
今は大好きな君との決別を残像として両目に焼き付ける。
最後に二人で心と身体を交わす。繋がりや運命も感じられる。
僕は幸せだった。
君がいなければこの世界もモノクロだったよ。
「俺を見ろ!」
葛藤を断ち切った彼女が引き金を絞っていくのが分かる。
再び残酷な時が動き出した。
その先にあるのは身体の痛みだ。
あとに残るのは心の痛み。
――では、始めようか。
僕と彼女の最終戦争を。
常日頃から描きたい事や好きな物を全力で書いた作品でした。
本作の作風は後の長編完結作『木徳直人はミズチを殺す』に完全継承されたと感じてます。