『作家刑事毒島』ネタバレありレビュー
『作家刑事毒島』いかがだったでしょうか。
ある意味、これまで読んだどんなミステリよりも衝撃を受けたという方も大勢いらっしゃったかと思います(もちろん私もそのひとりです 笑)。
本作はプレビューでも触れたとおり、オーソドックスな手法ばかりが使われている、ミステリ的にはあまり語るべき点がない作品でもありますから、「どうして作品に対する評価が、作者と読者で異様なまでに乖離があるのか」みたいなことについて、私が考えることを書いてみたいと思います。一「ワナビの心理試験」や、三「賞を獲ってはみたものの」の内容とも関わりのあるテーマですので、著しい牽強付会とはならないかとも思います。
まず私が訴えたいのは、人は誰しも自分のことを完全な客観視は出来ない、ということです。例えば、自分自身を「見る」ことは不可能です。鏡に写った姿は反射された光ですし、カメラで写した画像や映像にしても、それをして「自分自身を見た」とは言えないはずです。それらは、フィルムに焼き付いた情報をもとに生成された化学薬品の集まりや、小さなピクセルが寄せ集まって出来た集合体であり、それらがたまたま(という言い方は変ですが)人(自分自身)の姿を形作っているという、別のものに置き換えられた自分を見ているだけです。「何にも置き換えられていない生身の自分自身」を見ることは絶対に不可能です。私たちは、自分自身の目で自分を客観視することは出来ないのです。そこで「小説」です。
小説などに代表される「創作物」は、よく「作者の分身」などと呼ばれることがあります。これはまさに言い得て妙で、作者が生み出した創作物が作者自身の分身であるなら、その創作物も作者は客観視できないということになります。自分では「面白い」「よくできた」と思っていても、他人から「つまらない」「できが悪い」という全く逆の評価をもらうことが多いのは当たり前のことなのです。そして、世の中に創作物は数あれど、中でも「小説」という媒体ほど、主客の評価に開きが生じてしまう創作物はないのではないでしょうか。
どうしてでしょう。「小説」というものには、ものさしのようにはっきりと物理的な優劣をつけられる「絶対的な評価基準」がほとんど(あるいは一切)ないためではないかと私は思います。漫画やイラスト、あるいは彫刻といった創作物には、「絵のデッサン力」「立体物の造形力」といった、「絶対的評価基準」を持つ物理的要素が大いに含まれます。それらは、漫画であればストーリー、イラストや立体物であれば選んだモチーフといった、非物理的な内容に対して少なからず影響を及ぼすはずです(逆に、非物理的要素が物理的要素に影響を与える、ということも起こりうるでしょう。ストーリーが佳境に入ってくると俄然絵が迫力を帯びてくる漫画家や、描くモチーフによって画力が上下してるんじゃないの? と疑いたくなるイラストレーターもいると感じます)。
例えば、漫画において「絵のデッサンが狂ってるよ」という評価を受けたら、漫画家はそれを素直に受け入れられるでしょう。なぜなら「デッサンが狂っている」というのは完全な物理的要素で、言う側にも言われる側にも、全く平等な絶対的評価基準があるからです(ここでは「二次元的な嘘を誇張するために、あえてデッサンを狂わせる」といった視覚的な効果を狙うテクニックは含まないこととします)。
翻って、小説には見事にそういった「物理的要素」が存在しません。入り込む余地がありません。無理やり見つけるとしたら容量や使用されている言語くらいでしょうか。十万文字ある小説は、作者が見ても誰が見ても十万文字ありますし、日本語で書かれた小説は誰が見ても日本語です。絵のデッサンのような誰の目にもはっきりと指摘できる瑕疵というものも、誤字脱字くらいしかないでしょう。仮に、文法が教科書的なものから逸脱していたり、用語を一般的な用途とは違う意味で用いていたとしても、「そうすることで新しい効果や表現を狙ったんだ」と作者に言われてしまえばぐうの音も出ません。このように、作者が解釈した言葉の羅列、組み合わせと、ストーリーという非物理的要素だけでしか構成されていない小説において、主観と客観の評価に他の創作物以上に大きな隔たりが生じるのは当たり前のことでしょう。
そして、ほとんどの場合、主観による評価は客観によるそれを大きく上回ります。このことは、実際以上に自己評価を高めてしまう「ダニング=クルーガー効果」や、自分が所有しているものにより高い価値を感じる「保有効果」といった認知バイアスが認められていることでも明らかです。
さて、作中、何人もの素人作家、新人作家たちが、主観と客観の格差という現実を突きつけられ、かつ、毒島の毒舌に切り刻まれました。特に毒島の舌鋒には容赦というものが一切なく、作家潰し、新人潰しの領域にまで達していました(毒島自身も、自分の言動にはそういった意味もあると認めています)。これは陰湿ないじめだったのでしょうか? 違います。「君たちは、なぜ小説を書くのか?」と問うていたのです、毒島は。
「小説を書く」というのは、極めて特殊、かつ、能動的でなければ行えない作業です。「何もやることないし、小説でも書くか」といった動機で書き始めた人などいないはずです(いたらすみません)。「書きたいものがあったから書き始めた」という人がほとんどでしょう。筆を執り続けていくうちに、その原初の気持ちは多くの場合、「書くことが好きになった」に昇華していくはずです。そこに客観的な視点はなく、書くことで自分だけの物語が紡がれていく、それ自体がとてつもなく楽しい。自分の内から湧き上がってくるものを原動力として書き続けたのではないでしょうか。
作中、新人賞に落とされ、自作の売上げが芳しくないという事実を知らされた作家たちが、そこで筆を折ってしまうというのであれば、それはすなわち、「評価されないから書くのをやめる」「売れないから書くのをやめる」ということであり、小説を書く原動力を自分ではなく外に求めていたということになります。裏を返せば、「ちやほやされたくて小説を書いた」「金になると思って小説を書いた」それが執筆の原動力になったと受け取ることも出来ます。そんな動機で書かれた小説が面白くなるでしょうか。人の心を揺さぶるでしょうか。営利出版して利益を出す、というラインにも届かないことは明白でしょう。
三「賞を獲ってはみたものの」において、容疑者となった新人作家うち、執筆活動をやめなかった桑野まるみのことを毒島は、「しぶとく残った桑野さんだけは将来そう(商売敵に)なるかもね」(括弧内筆者)と評し、また、一「ワナビの心理試験」で最後、「やっぱり作家になる夢は諦めたく」ないと宣言した牧原汐里には、「強制するのは嫌だから頑張れとは言わない。でも、負けるな」と、彼らしからぬ(?)言葉を贈っています。この二人に対してだけ毒島がいつもと違う応対を見せたのは、そこに「小説を書くことの真理」を見たからでしょう。汐里に対しては、「努力は必ず報われる。(中略)ただしね、その努力って正しい努力に限られるから」とも言っていました。この「正しい努力」とは何でしょうか。それは、「何があっても、他人に何を言われても書き続けること」これは、プレビューにも書いた「プロ作家になれるというのは、また、デビュー後も継続して書き続けられるというのは、どういう人なのか?」の答えでもあると思います(余談ですが、毒島が「努力」にわざわざ「正しい」という条件をつけているというのは、恐らく世の中には「正しくない努力」をしている人もいるのでしょう。そういった「正しくない努力」は報われないし、仮にそうした手段を用いてプロになったとしても、いずれ当人を裏切る萌芽になる、と匂わせているのかもしれません)。
本作『作家刑事毒島』は、作者中山七里からの、ワナビや売れない作家に向けた毒の強すぎるエールである、というのは都合が良すぎる解釈でしょうか。
本作は小説誌への連載を経て2016年8月に単行本として刊行されましたが、その奥付には、こう書かれています
「この物語は完全なるフィクションです。現実はもっと滑稽で悲惨です」
そして、この文章は2018年10月に文庫化された際に、こう書き改められています。
「この物語は完全なるフィクションです。現実はもっと滑稽で悲惨です。単行本の刊行から二年経過しましたが、状況は悪化の一途を辿っています」
「この小説読んで、さらに、この奥付の文章を読んでもへこたれない並外れた根性を持ち、なおかつ、正しい努力の出来る人だけが、プロ作家になる可能性を秘めている」
中山はそう言いたいのかもしれません。
最後に、私がいつも心に留めている、落語家の古今亭志ん生の言葉を引用して、本項を閉めたいと思います。
他人の芸を見て「下手だな」と感じたら、自分と同じくらい。「自分と同じくらいだな」と感じたら、かなり上。「上手い」と感じたら、相当上を行かれている。
それでは、次回の本格ミステリ作品で、またお会いしましょう。




