「社会派」って、どうなんですか?
今回は番外編コラムということで「社会派ミステリ」と呼ばれるジャンルの作品について語ってみようと思います。
さて、自分で話題を振っておいて何ですが、皆さんは「社会派ミステリ」と聞いて、どんなものを思い浮かべるでしょうか?
「1DKのマンションでOLが殺されて、靴底をすりへらした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。――やめてほしいね。汚職だの政界の内幕だの、現代社会のひずみが産んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。(後略)」
これは、綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』作中において、ある登場人物が語るセリフです。
これなどまさに、「本格ミステリファン(マニア)」が「社会派」に対して持つイメージを如実に表している名文といえるでしょう。上記セリフは、このあと、「名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック」が「ミステリにふさわし」く、その世界の中で知的に楽しめればいい、という主張が続きます。これもまた、多くの本格ファン、マニアが賛同する意見なのではないでしょうか。
確かに「社会派」とは、「ミステリにおけるリアリズムを徹底追求した極点」という解釈がされることが多いジャンルです。ゆえに、上記において挙げられた「名探偵、大邸宅……」などの明らかな虚構的ガジェットの存在が許されなくなったミステリ、とも定義できるでしょう。「ロボットアニメを徹底してリアルに追求してみたら『人型兵器』の存在そのものが否定され、ロボットが出て来なくなった」みたいな感じでしょうか(そういうアニメが実際にあると言っているわけではありません 笑)。
さて、そんな「社会派」の代表作は何か? とミステリファンに問えば、ほとんどの人は『点と線』と答えるのではないでしょうか。言わずと知れた、松本清張の歴史的著作です。
この超有名作『点と線』。本格ファンの間では、「社会派」という潮流を作った記念碑的作品ではあるが、ミステリとしてはいまひとつ(あるいは全然)、という評価が定説となっています。確かに、作中に使われるあるトリックが成立するためには、偶然の作用が無視できない要素がありますし、事件を追いかける刑事が、なかなか(普通に考えればまず真っ先に思いつきそうな)トリックに気付かないですとか、共犯者の多用(これくらいはネタバレにはならないでしょう)など、「さあ、ミステリを読むぞ」という姿勢で臨んでしまっては、肩すかしをくう作品なのではないかと思います。
ですが、こういった意見は、本作を「現代の本格ミステリ」と比較して読んだときに生じるものです。『点と線』を、ひとつの「社会派ミステリ」そして何より「小説」として見れば、紛れもない文学史に残る傑作であるという評価は誰しもが納得するところではないでしょうか。
また、本当に「ミステリ的に見所が全くないのか」というと、決してそんなことはありません。メイントリックの「空白の四分間」はあまりにも有名ですし、「通常徒歩六分で行ける行程を、犯人と被害者(と思しき二人)は、どうして十分以上も掛けて歩いたのか?」など、興味を引かれる謎がいくつも仕込まれています。ここのところの「本格ミステリとして読む『点と線』」的な話は、本作の文春文庫版の解説で有栖川有栖が詳しく書いていますので、そちらをお読みいただいたほうがよいでしょう。
さて、以上に挙げたような事柄から、一般的に「社会派」とは、「『本格ミステリ』よりも、読み物として楽しむ要素のほうに重きが置かれた『準ミステリ』」といった位置づけをされることが多いかと思います。
では、突然ですが、ちょっとここで昔の私自身に登場してもらい、その当時(あくまでその当時、です!)「社会派」に対して思っていた胸の内をぶちまけてもらいましょう。
「社会派? 読む必要ないね。だいたい、この程度のトリックで、よく臆面もなく『ミステリ』なんて看板を掲げて書店に並べてるね。こういうのをもてはやす人たちがさ、『本格』を『人間が描けていない』なんて馬鹿にしてるんだろうけど、それじゃあ『社会派』のほとんどは『トリックが描けていない』よ。○○や△△(本格ミステリの名探偵)なら、こんなしょぼいトリック、一瞬で見破るね」
(※あくまで「昔の私」の個人的見解です!)
はい。昔の私は、もうタイムマシンに乗せて時空の狭間に放逐しました。
この戯れ言を読んで、どうですか。もしかしたら、同じようなことを思っているというミステリファンの方も、大勢いらっしゃるのではないかと思います。
「社会派にはトリックがない……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」
ところが、こういった流れは着実に変わりつつあります。近年(とは言っても、かなり前からですが)、一応「社会派」にカテゴライズされていても、その実「本格ミステリ」としても楽しめる大胆なトリックが仕掛けられている作品も多く世に出るようになってきました。「新本格」ならぬ「新社会派」とでも言うべきでしょうか。
このジャンルの書き手で私がおすすめする作家としては、『闇に香る嘘』の下村敦史と、『刑事のまなざし』の薬丸岳の二人を挙げます。
この両者の書く作品は、綿密な取材に基づいたリアリティと、ミステリ的なトリックがベストマッチを果たした、まさに「新社会派」と呼ぶに相応しいものが多く、「社会派嫌い」のミステリファンの眼鏡にもかなうと信じています。ぜひ一度読んでいただきたいです。
ミステリ評論家の飯城勇三は、著書『エラリー・クイーンの騎士たち』の中で、「社会派ミステリの定義」と、松本清張作品とクイーンの初期国名シリーズの共通点を照らし合わせ、「クイーンの〈国名シリーズ〉は――特に初期の三作(『ローマ帽子』『フランス白粉』『オランダ靴』)――社会派と呼んでもかまわないことになる」(括弧内筆者)と定義しています。特に『ローマ帽子』などは、犯人の犯行動機に当時のアメリカの社会通念が強烈なバックボーンとして存在していて、まさに「社会派」と呼んで一向にかまわないのではないかと思います。
「社会派」の「社会」とは、何を指しているのでしょうか。それはもちろん、我々が生活している、この「社会」です。現代社会を舞台としたミステリで、「社会」から完全に断絶された物語が果たしてどれくらいあるでしょうか。どんな「ド本格」と呼ばれるミステリだって、社会を舞台とし、社会に生きている人たちが出てくる以上、社会からの影響を受けずにいることは不可能です(学園を舞台としたミステリでも、「学校」という少年少女たちにとっての「社会」が存在します)。犯人の動機も、抱えている問題も、何かしらの社会的問題が必ず内包されているはずです。であれば、この世に存在するほとんどのミステリは「広義の社会派」と呼んで差し支えないと言えるのではないでしょうか。あなたも社会派、私も社会派、です。そう考えれば「社会派」も、そんなに肩肘張らずに気軽に読んでみてもいいかな、と思っていただけるのではないかと思います。




