『漱石と倫敦ミイラ殺人事件[完全改訂総ルビ版]』ネタバレありレビュー
『漱石と倫敦ミイラ殺人事件[完全改訂総ルビ版]』いかがだったでしょうか。
本作の魅力のひとつは、何と言っても夏目漱石視点から描かれる、シャーロック・ホームズの奇人変人振りの数々でしょう。ホームズがコカイン(コケイン)をやっていたというのは、プレビューにも書いた通り公式設定ですが、読まれた中には、「あまりにもホームズの描写が酷すぎる」と感じた方もいらっしゃったと思います。ですがこれは、解説にも書かれていましたが、ひとえに島荘のホームズ愛あってゆえのことなのです。解説に書かれていたことの他にも、「ホームズの人となりの魅力は、その後どの作家創造の名探偵も、結局誰も追いついていない」(『島田荘司のミステリー教室』)という発言もあり、島荘以上にホームズを愛している作家は恐らくいないでしょう。
作品中では最初に、「初対面の時手ひどいからかい方をされた漱石氏がそれを根に持って、少なくとも前半までは、ホームズを現実より少々だらしのない人物に描こうとしたと推理されても、それはご自由」と断られています。この「手ひどいからかい」とは、どの場面のことを言っているのでしょう? そもそも、漱石とホームズの初対面のシーンそっくりまるごとが、漱石視点とワトソン視点とでは完全に別物として描かれています。
漱石がベーカー街221-Bを訪れると、そこにはホームズとワトソンの他に、ホームズの兄であるマイクロフトも同席しており、漱石は、ホームズ兄弟が自分のことを師のクレイグだと勘違いをして(どこからどう見ても東洋人の漱石が「クレイグ」という名前であることに対して、全く疑いの余地を持っていません。このときのホームズ兄弟の精神状態は、かなり危険なレヴェルにあったと言わざるを得ません)、全く見当違いの推理を辟易するほど聞かされてしまいます。堪りかねた漱石が、自分はクレイグではないと申し出ると、ホームズはやおら拳銃をぶっぱなして大暴れ。ホームズを取り押さえたワトソンに促されて、「ぼくの名はクレイグだ!」と叫ぶに及んで、ようやくホームズが沈静化するという、「手ひどいからかい」と言うには余りに恐ろしい体験をしています。
ところが、同じ場面をワトソン記述で読むと、漱石視点で描かれた波乱などどこにもなく、漱石は自分で名前を名乗り、ホームズは漱石が「ずいぶん遅くまで読書や書き物を」するということを言い当てる、得意の推理術を披露しています。兄のマイクロフトの姿など、全く影も形もありません。
このワトソン視点では、「手ひどいからかい」に相当すると思われるホームズの言動が記述されています。東洋人の漱石の背が彼ら(特にホームズは六尺、約180センチを越える大男)に比べて極端に低いことをからかう描写がそれです。
その後も漱石視点でホームズの奇行は続き、ワトソン視点との整合性が取れない記述は続きます。これは一体どういうことなのでしょうか? ワトソン記述が真実で、漱石視点でのホームズは、冒頭にあった通り、漱石の筆により極端に装飾されたものなのでしょうか? それにしてはおかしな点があります。漱石はクレイグ先生から聞かされるまでは、ホームズのことなど少しも知りませんでした。そんな漱石が、ホームズとの初対面の場面を「現実より少々だらしのない人物に」描こうとしたって、ホームズにマイクロフトという兄がいることなど知りようもないはずだからです。
それから先も、ホームズがバレバレな女装をして漱石とすれ違い、自ら(バレバレの)正体を得意気に暴露する、という場面が出てきますが、その際にホームズが、「あなたこそかのモリアーティ教授の変装ではないかという、ぼくのゆゆしき嫌疑から晴れて解放されたのです」と、これまた漱石が知っていたはずもない、ホームズの宿敵モリアーティ教授の名前を出しています。
「いや、これらの記述はリアルタイムにロンドン在住中に書かれたものではなく、漱石が帰国後、ホームズの事件録を読んでリアリティを持たせるために書いたものなんだ」という説もあり得ます。ですが、それにしては不自然です。初対面の場面にマイクロフトをわざわざ同席させる必要を見いだせませんし、女装のくだりはさらに変です。この事件が起きたのは1901年ですが、ホームズがモリアーティとともにライヘンバッハの滝に落ちたのは、プレビューにも書いたように1891年、十年も前の出来事なのです。そのときに葬り去られたモリアーティを、どうしてホームズが意識する必要があるのか。このエピソードが漱石の筆によるフィクションであるなら、こんな矛盾は書かないはずです。そもそも、ここでモリアーティの名前を出すこと自体、マイクロフトのとき同様、必要性を見いだせないでしょう。
これら一連の漱石、ワトソン記述の矛盾を、こう解釈することは出来ないでしょうか。それは、「漱石視点で描かれたことが全て事実で、ワトソン記述は、ホームズの名誉、カリスマ性を保つために演出された記述」だということです。
ロンドンのヒーロー、シャーロック・ホームズが、コカインの乱用による錯乱から、てんであさってな依頼人の素性を得意気に語り、その間違いを指摘されて拳銃をぶっぱなした。こんなことをそのまま記述できるわけがありません。ワトソンは文章に「多少の演出」を加えた。ホームズ特有の癖のある奇人振りは、漱石の背丈をからかう、という描写を「演出」することに留めた。女装したホームズと漱石が路上で出会う場面は、ワトソンが同席していなかったことから、ワトソン記述でフォローしきれなかった、ということです。ここでホームズが死んだはずのモリアーティの名前を出したのは、もちろんコカインによる精神錯乱の影響です。
我々が読んだ数々のホームズ冒険譚の中でも、こういったことは恒常的に行われており、ワトソンはもしかしたら、彼の情緒不安定な場面を実際以上(以下?)に抑えて描写することで、我々読者がよく知るホームズ像を作り上げたのではないか……? そんなファンタジーを想起させます。
ですがホームズは、捕り物の最中、三階から防火用水桶に落ちて頭を打ったことで、理知的な紳士としての自分を取り戻します。この捕り物にしてもそうですが、ホームズは卓越した推理と行動力で、見事ミイラ事件の謎を解き、真犯人を逮捕しました。
前半のドタバタとのギャップが印象的に働くことで、ラストのホームズと漱石の別れの場面は一層涙を誘います。時代は二十世紀になったばかり。物理的、政治的にも、現在のように気軽に海外渡航が出来る情勢ではないため、漱石、そしてホームズも、これが今生の別れになることを察しています。ここから13年後の1914年には、第一次世界大戦が勃発し、イギリスはドイツに宣戦して戦火の中に飛び込んでいくことになります。島田荘司は、こういった情緒的なミステリを書くことも得意としています。
さて、本作『漱石と倫敦ミイラ殺人事件[完全改訂総ルビ版]』スラップスティックな笑い。不可解な謎と、それが解き明かされる華麗な推理。そして余韻を残す美しいラスト。島荘ミステリの魅力を十分に堪能していただけたと確信しております。もしまだ島田荘司作品を本作以外読んでいない、という方がいらしたら、ぜひ『占星術殺人事件』から読んでみて下さい。超常的な謎と論理的な解明、そして何より、本作には出て来ない名探偵、御手洗潔の魅力に虜になることをお約束します。
それでは、次回の本格ミステリ作品で、またお会いしましょう。




