『水車館の殺人』ネタバレありレビュー
『水車館の殺人』いかがだったでしょうか?
プレビューでご紹介した、「現在パートが一人称」「過去パートが三人称」というのは、読みやすくするという以外に、人物入れ替わりを覆い隠すための巧みな構成でもあったということが判明しましたね。蛇足を承知で書けば、「現在」の「白仮面で車椅子の人物」は「藤沼紀一」ではないため、三人称の地の文で彼のことを「藤沼紀一」と書くことが出来ないことから取られた措置なのです。人称問わず、地の文で虚偽を書くことはミステリ(というか、本当はジャンル問わず小説全ての)最大のタブーですから。
この「人称」に関する記述、特に現在パートにおける一人称記述は、いたるところで気を遣って、しかも反則スレスレで、見事に書かれていることが分かります。ちょっと見て行きましょう。(以下ページ数は、講談社文庫『水車館の殺人〈新装改訂版〉』による)
24P 1~2行目
仮面(実際の本文は傍点付き)。
恐らくは、現在のこの私――藤沼紀一の、生活のすべてを、その存在のすべてを象徴したもの。
上の文は藤沼紀一になりすましている正木慎吾の心情(独白)です。一見、正木が「自分は藤沼紀一である」と虚偽の記述をしているように錯覚してしまいますが、これは、「〈現在のこの私〉は藤沼紀一として生活している」という意味の文なので、虚偽ではありません。「私」の前に「現在の」と付いているところがミソです。これに対比する記述として、P41 7~8行目に、
恐らくは、現在に至るこの十二年間の彼――藤沼紀一の、生活のすべてを、その存在のすべてを象徴したもの。
とあります。これは過去パートの記述のため、神視点の三人称です。この文章では、「彼」イコール「藤沼紀一」で、両者は完全に一致します。
36P 13~15行目
そして明日――九月二十九日は、(中略)正木慎吾がこの世から葬り去られた日……。
正木慎吾は本当は藤沼紀一として生き延びているため、一見虚偽の記述に錯覚しますが、あくまで「死んだ」とは書いていないのがミソです。正木慎吾という存在は一年前の事件のニセの被害者として、正木自身の計画により「この世から葬り去られた」という意味なのでセーフです。
68P 1~3行目
古川恒仁。――一年前のあの嵐の夜、忽然と部屋から姿を消した男。(中略)そのままどこかへ逃走したと目されている男。
古川恒仁は、実際は正木の身代わりとして殺されたのであり、どこかへ逃走などしていないのですが、語り手である正木は、「警察の捜査や状況から、あくまで『そう目されている』というのが公式見解である」と述べているに過ぎないのです。よってこれも虚偽の記述ではありません。
283P 14行目~284P 2行目
闇に押し潰されるようにして俯せに倒れたきり、私は満足に身動きできずにいた。(中略)そのまま助け起こされるのを待つしかなかった。
この記述は、島田が藤沼(正木)の乗る車椅子を押しているとき、突然の停電により絨毯のめくれに足をとられて車椅子を倒してしまい、正木が床に投げ出されてしまったシーンです。正木が車椅子に乗っているのは、足が不自由な藤沼になりすましているためです。正木自身は足に異常はないのですが、まさかこの状態で、自分で「よっこらしょ」と立ち上がって車椅子に座りなおすなんてことができるわけありません。藤沼になりすましているため、「身動きできず」「助け起こされるのを待つしかなかった」のです。ここの心情的な記述は面白いですね。
これらの他、正木の色彩感覚に関する記述など、実に様々な趣向、技工を駆使して本作は書かれています。
極めつけはこれでしょう。309P~317Pです。ここは過去パートのため、記述は神視点の三人称。ですが、この時点で「車椅子に覆面の人物」は藤沼紀一になりすました正木慎吾に入れ替わっているのです。そのため、ここでは「車椅子に覆面の人物」を「藤沼紀一」と記述することが出来ない。「彼」「白い仮面」「仮面の男」様々な代名詞を使い、伝える状況にも配慮して、地の文に「藤沼紀一」と一度も記すことなく、十ページ近いこの山場を綾辻は乗り切りました。
クラシカルな本格ミステリのガジェットをこれでもかと用意して、さらに上記のような現代的な超絶技巧を駆使して生み出された傑作『水車館の殺人』
懐かしくて新しい、しかも読みやすい。楽しんでいただけたと確信しております。気に入られたら、ぜひシリーズ第一作『十角館の殺人』もお読みいただければと思います。
それでは、次回の本格ミステリ作品で、またお会いしましょう。