9.壊れる二人
殺しをすると決めた日から、フミトに執拗に言われ続けていたことがある。
『いいか……殺した人間の顔を絶対に見るなよ』
その言葉は冷たい感触で僕の心を撫でた。戦闘訓練中。殺しの現場に赴く前。彼は幾度も、深く意識に刷り込ませるようにその言葉を僕に向かって投げた。
僕は彼の言いつけを、頑なに守り続けた。純粋な恐怖もあったが、何よりも、殺しを止める訳にはいかない事情があったから。
しかし、その日……。
目標の館に忍び込んで仕事をこなした僕は、以前は全く目にも留めなかった死体の指輪に目を細め、気付けば手を伸ばしていた。
恐ろしいことに”自分が人を殺している”という現実から目を背けながらも、僕は人を殺すことに慣れ始めていたんだと思う。
またその少し前から、唯笑を娼館から身請けしようと考え始めてもいた。
「双槌の竜巻」と称された用心棒を殺して得た金は莫大なもので、それが僕に僅かな希望を垣間見せた。
その為には現実的な力が、お金が必要となる。
少しでもその足しになれば……。
――その卑しさが、僕の息の根を止めることになる。
手から指輪を引き抜いた僕は、無感動にそれをポケットに放り込むと、他にも金目の物がないかと物盗りのように室内を漁った。
運命が、その冷酷な双眸で僕をじっと見つめていると気づきもせず。
結局、目ぼしい物は見つからず、殺しの現場に長く留まるのも不味いなと思い直した僕は、急いで死体の服を弄った。
その際、机に伏した死体の顔を見ないようにと用心しながら服の内ポケットに手を突っ込んだ結果、無理な態勢を取らせてしまい、死体が椅子から転げ落ち……。
「――っ!?」
反射的に目を向けた僕は、絨毯の上、苦悶に歪んだ男の顔を、死体の顔をその時、初めて視界に収めてしまった。
その瞬間、男は見知らぬ他人ではなくなった。それは図らずも、僕が殺した男と関係性を繋いでしまった局面でもあった。
だがその場面では、胸は激しく動悸を打つものの、
”なんだ……別に死体の顔を、自分が殺した人間の顔を見たからって……どうってことないじゃないか。フミトの奴……心配し過ぎだ”
と、うすら寒さに背を吹かれながらも、そう思うだけの余裕があった。
でもそれから暫くすると、フミトが予言した通り、その男が夢に現れるようになり――。
――それ以降、僕が殺した男として、意識の中で明確に立ち顕れることとなる。
紫色の空の下、男は苦悶に歪んだ表情のまま、娘や妻とおぼしき女性とにこやかな声音で会話をしている。
それは夢だとしても、冷水を背中に浴びるような気味の悪い光景だった。
その最中、娘が父親に問う。
『ねぇお父さん、どうしてお父さんは死んじゃったの?』
『まぁ、この娘ったら。うふふ』
『はっはっは。いいかい、それはね――』
そして一家が――男が、妻が、娘が、急に僕に顔を向ける。
その表情は、揃って、男と、同じように、歪んだ、表情で……。
『あの人に、殺されたからだよぉぉおぉぉぉぉぉぉ!』
『うわぁぁぁぁぁっぁあぁぁ!!」
夢の中で上げた絶叫を現実の世界に持ち帰り、僕は飛び起きた。寝間着は水を浴びたかのような寝汗に、ぐっしょりと濡れている。
暫し呆然とした。人という動物は、一度にこんな多量の汗をかくことが出来るのか。その事が可笑しくて、「は、ははは」と自嘲気味に笑いが零れる。
「ユウ、ちゃん……? どうしたの? 何か嫌な夢でも……」
すると当然のように、隣で眠る唯笑を起こしてしまった。
僕は心細さに揺れ、泣きそうな顔で彼女を見ながらも、
「い、いや……なんでもない」
気丈に笑い、そう言ってみせた。
だが生活の中で無意識は、人間の一機能として無人格に、瞬間瞬間の場面で、男の死顔を僕の意識にチラつかせる。
色も匂いもない形骸だけが、うすら寒い廃墟のように、脳裏の隅に終わった姿を晒し……。
募るのは焦燥と、眠れない日々で蓄積された疲労ばかり。
あの夢以来、日を置かずに同じような夢を見続けた。
徐々に擦り減っていく精神。消耗していく体力。
喉を通らない食事。悄然とした血の気のない顔。
「ねぇ、ユウちゃん。大丈夫? ……どうしたの?」
「……いや……本当に、なんでもないんだ」
隣にいる……守りたいもの。
譲れない決意と信念。
「ユウ、仕事だ」
「あ、あぁ……」
震える体。怯え始める心。
生と死を分かつ、そのナイフの煌めきに映る……死体の顔。
その日々の中で、僕の信念は、哀れにも枝を離れた枯葉のようにゆっくりと空しくひらめき……。
「ゆ、唯笑……僕は、僕は……」
ある夜、僕は自分のしていることを唯笑に告白した。
懊悩は僕の全存在を黒雲のように覆い、苦しみは泉のようにとめどなく……僕は僕自身を持て余し、抱えた苦悩に対し、一人で折り合いをつけることが出来なかった。
つまり僕は唯笑に甘えたのだ。助けて欲しかった。癒して欲しかった。
冷たい牢獄に捕えられた魂に、光を差し込んで欲しかった。
『大丈夫だよ、私はユウちゃんの味方だからね』
そう言って僕の存在を肯定して……。
――その選択を、自分の弱さを、僕は終生にわたって後悔することになる。
話している最中、唯笑は身じろき一つせず、身じろき一つ出来ずに、皮膚に覆われた表面の時間を静止させていた。
「ユウちゃんが……人を……殺して……」
しかし話し終えると、悲痛に顔を曇らせてそう呟き、
「それって、私の……私のせいだ!」
次第に怯えたように自分を責め始めた。
瞬間、僕は自分の下した決断に焦りを覚え、唯笑の手を取り、
「違う! 僕が、唯笑を他の誰かに…………それが嫌で、それで――」
「それって、それってやっぱり、私の為だよね!? ねぇ? そうだよね? だって、ユウちゃん、私の……私の為にっ!」
「違う! 違うんだっ! 僕は、ただ僕の……僕の為に!」
「何言ってるの? 違うのはユウちゃんの方だよ、だって、だって――」
唯笑は感情の言葉で話し、僕は事実の言葉で話した。
その為、同じ言語を使用しながらも、二人の間で言葉の意味は沁み渡らず、僕の言葉は水に垂らした油のように、彼女の言葉を上滑りし……。
「どう考えても、それって……私の、私の……」
そこで唯笑は、顔を両手で覆い、泣き崩れた。
「私のせいだ……私の、私の……」
と絶えず自らを責め、しゃくり上げ、か細い体を震わせながら、さめざめと涙に暮れた。
僕は思い通りにいかない不自由な現実を前に、顔を俯けた。ソファから上げた腰を、虚脱感に任せて元の位置に戻す。隣では唯笑が嗚咽を漏らしている。
どうして……どうして、こうなってしまったのか。自分の甘さと弱さと覚悟の無さを、この時ほど情けなく悔やんだことはなかった。
心の水面を眺める。以前射していた眩い光はどこにも見出せず、荒波に揺れる夜の海のように……様々な感慨が音もなく巌にぶつかり、飛沫となって弾けていた。
「唯笑……僕は、君に……笑っていて欲しくて。それで、だから……」
唯笑の笑顔は、いつも僕の気持を引き立て蘇らせてくれた。暑い一日が過ぎ、しっとりとした夕べが訪れ、炎天に焼かれた哀れなか弱い花が、夜露の雫に蘇るように……。
蹲った唯笑に近づき、その肩に手を添える。すると彼女は涙に濡れた面を上げ、苦悶に顔を歪めて言った。
「こんな状況で……笑えるわけ……笑えるわけ、ないよぉ!」
その言葉を耳にした僕は「え……?」と息を漏らし、虚を突かれた表情の儘に茫然自失となった。
彼女は僕のそんな顔を目にすると、苦しそうに笑い、
「ユウちゃんが……ユウちゃんが危ない仕事をしてたのは……知ってた。借金取りなんて、嘘。ユウちゃん、どんどん傷だらけになって、雰囲気も変って、それで……でも、何も言わなくて……だから」
そこで再び悲しみに顔を歪ませた後、彼女は頭を左右に振り、震えた声で、
「だから……だから、私も頑張ったよ!? 辛くても、どうしようもなくても……だって、自分より頑張ってる人に甘えるなんて出来ないもん! だから笑おうって、ユウちゃんが望んだように……いつも、出来る限り、笑っていようって。ユウちゃんに……心配かけたくなかったから! でも……でもぉ……」
悲しい一呼吸の間、震える間を置いて、彼女は言う。
「でも、もう…………無理。無理……だよ」
堤は切れ、これまで決して口にすることのなかった不安の数々が彼女から溢れ出す。
「ねぇ、ユウちゃん、教えてよ! ここはどこなの? 何で私たちはここにいるの!? 何で私は娼婦になってるの!? 何で空は紫で、あの空を見てると、私、気が変になりそうで……それよりも……それよりもっ! 何で、何で……ユウちゃんが……人を、殺さなくちゃ……お婆ちゃんが大好きで、優しいユウちゃんが……分からないっ! 分からないよぉ! 私には……何も出来ない私には……何も分からない……なのに、笑うなんて、笑うなんてぇ!」
その奔流が終わると、僕は無力にも「唯笑……」とだけ呟いた。そう呟くことしか出来なかった。深い水底にいるかのように、奇妙な程、心は静かだった。
その静寂の中で、僕は唯笑の心を真に慮っていなかったばかりか、ただ自分の欲求の為に、彼女に無理やり笑わせていた事実に気づき、慄然と震えた。
鉛を飲み込んだような沈鬱が僕を支配し、自然と項垂れる。後悔が、どこまでも尽きない暗黒の原始林のように、薄暗く生い茂っている。
息をする度に胸の奥の鉛は冷たく震え、わが身の無力さ、幼さ、そういったものをまざまざと思い知らされ……心が苦しくて……。
その中で、拙い希望が閃光のように僕の意識を去来した。唾を飲み込む。僕は後ろめたさから、それに縋りつくように、
「唯笑……ごめん。でもあと少し、あと少しなんだ……あと少し頑張れば、僕は唯笑を身請け出来るから、そうすれば――」
俯いた顔を上げながら、重々しく、苦しげに、でも頬笑みさえ浮かべて――考えや気持ちや印象を、他の人と分かち合うことがこの世の最上の喜びだと語るように……そう言った。
だがその直後、両手に隠された彼女の顔がおずおずと上げられると……。
焦点の合わない目をした彼女が、口を戦慄かせながら、震えた声で僕に訊ねた。
「がん……ばる? がんばるって……何を?」
「え……?」
「頑張るって……人殺しを……人殺しを、がんばるの? 私の……私の為に?」
その言葉は、どんな死の脅威よりも深く僕を恐れさせた。全身がひきつるように痙攣し、間断なく戦慄が起こる。
悔恨がその巨大な口を開き、僕を飲み込んだ。恐れに喉が胸が塞がり、声帯すらも痙攣してしまったかのようで、言葉を発することが叶わず……。
「唯笑……僕は、僕は……それでも、僕はっ!」
時間の欠如――。
永遠とも思える一瞬の後、ようやくそんな言葉が口から衝いて出た。
――しかしその時には、全てが遅かった。
「あはぁ」
薄気味悪い声が、瞳を曇らせた彼女の口から漏れた。
呆けたような、人間であることを忘れてしまったような声。
「人殺し……頑張る……あはっ! 私の、ため……あははっ!」
「ゆ……唯笑?」
心臓が痛い程に脈動し、早鐘のような動悸が体中に轟き亘る。
僕の認識は怯え、目の前の出来事を認識するのを拒んだ。
「あはっ! ユウちゃんが、あははっ! 私の為に、あはははは!」
その間にも、彼女はあんぐりと口を開き、唇の端に微かな笑いの影を浮かべ、
「あはっ、あはは! 頑張る、人殺し、あは、あはははは!」
狂った笑い声を、世界に向けて開く。僕はその光景に言葉を無くした。
――そんな……まさか……。
心と体に冷や汗をかき、背中から染み出した汗が玉となって流れ落ちた。
だが常に現実は、ただ現実としてのみ僕に開かれ……。
「あはぁ、あはっ、あはは!」
唯笑の精神は、心を苛む呵責の念と、現実の重さに耐えることが出来ず……。
「あはははははは! あは、あはははは! あはははははは、あは、あははは!」
――その時以来、狂ってしまった。