8.双槌の竜巻
人間の形をした、竜巻が迫って来る。両手にそれぞれ持った細身の金槌を振り回し、風の代わりに血飛沫を撒き散らして。
ギリシア彫刻のような肉体を持つ、対立する組織で最強と謳われる用心棒。こちらの世界の言葉で「双槌の竜巻」とあだ名される男。
僕は奴の暗殺を……最悪、戦闘になっても仕留めろとの命を受け、ある夜、組織の構成員を引き連れて奴の館に向った。
「ユウ……正直な話、この任務はかなり危険だ。だが首領にヤレと言われたら、俺はお前にヤレとしか言いようがない……報酬はたっぷり用意してある、死ぬなよ。お前のためにも……そして何より、嬢ちゃんのためにもな」
しかし何処かでその情報が漏れていたらしく、奴は館の敷地内、その正面玄関で武具を纏って僕たちを迎えた。
ニヤリと、精悍な顔立ちをした壮年の男が、戦闘に狂った戦士が顔を綻ばせる。その直後、構成員の一人の頭が弾け飛んだ。
「%▲$●!$? かかって来い。×#$■退屈&▲?」
二本の槌を変幻自在に操り、軽々と人の肉体を、命を、魂を――砕き、滅し、磨り潰す巨漢の男。
引き連れた構成員六名は、気付けば、奴の前で枯葉のようにおびただしく死を累積させていた。
野獣のように、男が咆哮する。強烈で本能的な喜びを迸らせながら、顔は笑んでいた。
そして幾つかの応酬の後、僕も奴の金槌の餌食となり、
「×&%■っ!!!!」
「――っ!? ぐあぁぁ!!」
避け切れぬ一撃を脇腹に受け、毬のように地面を転がり、敷地内に植えられた木に背中を強く打ちつける。
口一杯に鉄の味が広がり、嘔吐を抑え込む人のように頬が膨らみ、やがて黒い血が弾けて溢れ出た。
先端に致死性の神経毒を塗った針は、既に一本が避けられ、一本が肩の金属板に弾かれていた。
手元で奴を仕留めることが可能なものは、ナイフしか残されていない。
殆ど絶望的と言って差し支えない状況だった。
奴は鼻を鳴らして笑うと、つまらなそうに僕を見ながら近づいてくる。人の死をまったく、ゴミのように無視して。
死の足音が、夜の世界に鳴り響く。
直後、本能的な恐怖が心を襲ったが、小波でも引くようにその恐怖は消え、自分でも不思議な程に落ち着きを得ていた。
暗殺が失敗し、戦闘の最中で毒針を打ち込めなかった時点で、僕に勝ち目はなかった。それなりの成果を上げてはいたが、所詮僕は暗闇に輪郭を溶かし、人間を啄む存在。
戦士と……それも、この世界で最高峰の実力を持つ戦士と真っ向から立ち向かい……命を奪うなど……。
甘き死が芳醇な香りを匂わせ、僕を迎えようとしていた。
骨を砕かれた筈が痛みは感じず、ただ意識だけが朦朧とし、視界が霞む。
苦しくない……悪くない気分だった。
時間の感覚が狂い、無限にも一瞬にも思えるその間際。
ふと唯笑のことが頭を過った。
――僕が死んだら、唯笑は……。
消えていた焔が、急に息をして燃え立ったように……。
その刹那、僕は命の燃焼を覚え、気付けば立ち上がっていた。
スペアナイフを左手に握り込み、足元のナイフを右手で拾い上げ。奴と同じように、両手に獲物を構える。
すると奴は視界の端で、常に楽しいことを探している子供が、面白い物を見つけたように「おっ」と眉を上げて驚いた。
そして快楽にどん欲な大人の目を覗かせ、楽しそうな雰囲気すら纏い、あまつさえ笑みを浮かべて足を止める。
あぁ……僕はついていると、その時に思った。
僕の行動に、ナイフを両手に構えたことに意味はない。一顧だにせず、殺しの現場を遊び場とせず、そのまま金槌の化身となって僕に襲い掛かれば、全ては終わっていた。
――だが奴は僕の行動に興味を示し、足を止めてしまった。
僕は不気味な静けさをまき散らしながら、ゆらりと歩き出す。
「小細工は……なしだ。正々堂々、殺し合おう」
この世界の言葉でそう呟くと、奴は目を丸くした後、やがて呵呵大笑した。貧弱な僕が奴に挑みかかるという事実が、大層愉快だったのだろう。
僕はその間にも、奴との距離を詰めていく。
必殺の槌とはいえ、その間合いに潜り込むことが出来れば活路を開くことが出来るはずだ。問題は、激しい運動にこの体がついてこれるかどうか……。
奴は僕の満身創痍な様子を見てとると、吐き捨てるように笑い、左手に持った金槌を放り投げた。
そして両手で持ち直した槌を、右肩に背負うようにして構え、
「来るがいい、■&%▼がっ!」
世界に怒声を発する。
目には狂喜と歓喜の色が一体にせめぎ合い、一つに溶けていた。
奴が僕の誘いに乗らず、そのまま歩み寄って渾身の槌を僕に振り下ろせば……全てはそこで終わっていた。僕にその槌を防ぐ手立てはなく、逃げ去る体力すら残っていない。
――奴が戦士であるという事実が僕の命運を分けた。
奴は最速の一撃でもって、弱者の、窮鼠の試みを迎え撃とうというのだ。その為にわざわざ、両手で槌を構え……。
あぁ、本当に、僕は……ついている。
僕は覚悟を決め、倒れるように駆け出した。震動が、鈍い痛みを脇から全身に供給し続ける。それすら気にせず、命の炎を燃やし……。
「うおぉぉぉぉぉぉ!」
「こぉぉぉぉぉい!」
地面を蹴りながら、右手の銀色を奴の顔めがけ、膝の位置から投擲する。正々堂々と嘯きながらも、これが僕の、フミトの戦闘スタイルだった。
まさか獲物を投げるとは思わなかったのだろう。
目を剥いた奴は、立体的に迫りくる凶刃を上体を逸らすことで避けた。
奴の視界から僕が消え、その隙を逃さず肉薄する。
曲芸師のようにナイフを左から右に。
態勢を崩したまま、奴はなりふり構わず僕に向けて槌を振り下ろす。
巨体の足元に転がり、髪先に死をかわす。耳を掠める轟音。死神の羽音。
懐に入り込み、瞬間、奴と目が合う。
そのまま突き上げるように、右手の煌きで喉元を――。
――ザシュ!
ナイフが肉を切り裂き、神経を断つ鈍い音が闇夜に響く。
奴は何故か、満たされたように不敵に笑っていた。
怖気に背をそびやかされた僕は、ナイフを奴に残したまま後ろに飛び退く。すると奴は、膝から崩れ落ちた。
――この場で、命を繋いでいるのは僕一人。
生と死は一枚のペラ紙に両面印刷され、神が手を離した際、どちらの面が表になっても決して可笑しくない状況だった。
我が身の無事に安堵するよりも先に、思い浮かんだのは安心。
唯笑の笑顔。彼女の身を……これで、また……。
気付けば僕は、意識を虚に投げ込み、その場に倒れていた。そんな僕を、遅れて応援に駆け付けたフミトが抱き抱える。
「ユウ……ユウ!? お前、双槌の竜巻を……」
「フ、ミ……ト……今日も、ゆ、えは……僕が」
「分かってる! だから、もう喋るな!」
――ciel mauveの世界でそんな生活を続け、二年が過ぎようとしていた。
日常は、苦しいことも、悲しいことも、全ての騒音を包んで運行される。
乗客を何処とも知れぬ未来に向けて……。
状況は悪くなっているのか、良くなっているのか僕には判断がつかない。ただ世界に翻弄され、突如として放り込まれた環境の中で、必死に生きた。
僕の手は血で染まり、組織の人間からも遠目に眺められ……。
それでも唯笑が、そこには変わらぬ純潔を保つ、白く美しい花がいた。
だが、ある夜――。
『いいか……殺した人間の顔を絶対に見るなよ』
――死があたかも一つの季節を開くように、僕の日常は崩れ落ちる。