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6.殺し


「さ~て、今日がいよいよ嬢ちゃんが店に並ぶ日だ。俺の特注で専用のドレスも仕立て上げさせた。ははっ、さっき見てきたが、中々に良く似合ってたぜ」


 執務室のソファーに腰掛けたフミトは、くつくつと楽しそうに笑いながら言葉を紡いだ。だが次の瞬間には、急に言葉を冷え込ませ、


「と、いう訳で……今日がお前の初仕事だ。安心しろ、毒を使った簡単な仕事を用意した。気楽に行ってこい。まぁミスっても殺されるだけだ。これほど気楽な事もないだろ?」


 頷いて部屋から退出した僕は、そのまま娼館を出て闇に輪郭を溶け込ませた。


 不思議な事に、日中よりも夜の方が心が安らいだ。それは多分、夜は心惑わす紫の空を見なくて済む為ではないかと思う。


 そして吐く息に興奮を逃した僕は、町の一角にある目標の館に忍び込み……。





 ――その晩、初めて人を殺した。





 蝋燭の灯る薄暗い廊下。娼館の使用人に案内され、館の中でも一際広く、豪華な装飾が施された一室に繋がる扉の前に立ち、客としてその敷居を跨いだ。


「えっ……? ユ、ユウちゃん!? ど、どうして?」


 毛足の深い絨毯の敷かれた室内を進む。そこで不安に肩を強張らし、両手を体の前で組み合わせてソファに座る、彼女の姿を見つけた。


「唯笑、その格好は……?」


 感動の再会の筈が、奇妙な現実の陸続きのようで……気付けば冷え切った心で、大きな感慨を抱くことなく尋ねていた。


「あっ、うん。フミトさんに……初めての日は、これを着なさいって言われて」


 フミトの冗談に、軽い眩暈を覚える。

 唯笑は今、ウェディングドレスによく似た純白の衣装に身を包んでいる。


 その姿は本当に美しく、清らかで……こんな世界でなければ、こんな日でなければ、僕はその姿に感動に打たれただろう。


 でも打ち寄せる歓喜の波は僕を浚う事はせず、ひたひたと足元を浸すだけ。僕は今日、報酬で得た金で……人を殺して得た金で唯笑を買った。




 目標の館の書斎に忍び込んだ僕は、脱出経路を頭の中で何度も確認しながら、目標が現れるのを待った。館の見取り図は前もってフミトが部下に用意させていた為、間取りは頭の中に入っていた。


 そして無防備な目標が現れ、椅子に腰を落ち着けるのを見ると……。

 その背に足音と息を殺して近づき――




 ――毒を染み込ませた針で、目標の首筋を突き刺した。




 抽出や精製を必要としない即効性の毒が、この世界にも存在しているらしかった。


「いいかユウ……毒の量はしっかりと管理してる。嬢ちゃんが人質だということを、くれぐれも忘れるなよ」


 神経系に作用したそれは神経の伝達を遮断し、筋肉の収縮と弛緩の自由を奪い、痺れを生じて動けなくさせる。


 男は一瞬、違和感を覚えたようで後ろを振り向く。


 誰もいない事を確認した後、手元の書類に目を転じ……暫くすると、ビクンと上半身を跳ねさせ、麻痺に動きを止めた。


 それは場違いにも、答えを用意していない純朴な生徒が教師に指名され、緊張に体を強張らせている姿を僕に連想させる。


 しかし現実は、そんな呑気なものではなく、目標は「ヒィーゥ、ヒィーゥ」と必死に酸素を吸引しようと試みるも上手くいかず……。



 やがて――。



「あかっ……! かっ……かっか……ぁ!」



 奇妙な声を上げて全身をひきつらせたのを最後に、バタリと椅子に背から倒れた。暗闇から姿を現し、目標に脈がない事を確認する。


 その時はまだ、手は震えていなかった。


 それが館から逃げ出して娼館に帰って来ると、張りつめた糸が切れた様に「はは、はははは」と滑稽な笑い声が漏れ、呆然と自分の両手を見た。



 震えが止まらなかった。



 冷たく凍ったようで、手を握っても、擦ってみても感覚は鈍く、自分の手であるという実感が限りなく薄い。



 ――人を殺したという実感が、全くないにも関わらずだ。



『いいか……殺した人間の顔を絶対に見るなよ。無意識の領域にそいつを放り込んじまったら、お前はお終いだ。ここぞという時にその顔が頭をちらついて、体は硬くなり、殺しが出来なくなる。それどころか、夢に出てきて眠れなくなる。無意識ってのは、残念ながらそういう風に出来てる。そんな日々が続けば……やがてお前の人格は崩壊するだろう。だから絶対に、殺した人間の顔は見るな』



 訓練中にフミトに何度も言われたように、殺した人間の顔は見なかった。その肉塊にも人生が、家族が、一つの物語があった事から目を背けた。


 通り魔殺人的に、人生の中、一瞬すれ違った人間を殺すだけ。


 元いた世界では毎日、沢山の見知らぬ他人とすれ違い、沢山の見知らぬ他人が事故で亡くなっている。


 でもそれが自分と無関係な他人である限り、僕らは無関心でいられる。その時々に「可哀そう」と言ってはみるが、なんら良心は痛まない。それと同じことだ。


 例え自らの手で命を奪ったとしても、それが見知らぬ他人で、(ろく)に素性も知らないような人間なら……。


 また、そこにある譲れない自己欺瞞に近い願いがあり、それに大義名分を背負わせて、自己納得できるなら……。




 ――多分、人は、簡単に人を殺す事が出来る。




「ユウちゃん、凄く青い顔してるよ……何かあったの? それにお金はどうやって……?」


 心細くも不安げな声音で尋ねてくる唯笑に、僕は一瞬視線を泳がせた。


「その……フミトに言われて、借金の取り立てみたいな事をする仕事に就いたんだ。それで、その……毎日唯笑を買うなら、特別に安くしてくれるって……そう言われて、だから……」


 そこまで言うと唯笑は、自分の置かれている状況を忘れたかのように、


「借金の取り立てっ!? それって危なくないの?」


 眉根を寄せ、折れ行く不安に胸を締めつけられたかのような表情で尋ねた。


「あ、うん。未だこの国の言葉が話せないから、一人でやるわけじゃないし……小間使いみたいなもんだよ。だから思っている以上に、楽な……うん、楽な仕事だよ」


 その彼女の純真さが僕の張りつめた神経を弛緩させ、口の端に笑みを浮かばせた。借金の取り立て云々の話は、尋ねられた際にはそう答える様にと、フミトから言い渡されていた。


 最も、僕としても()()()()()()()を正直に話すつもりは全くなかったのだが……。


 唯笑は僕の言葉に納得しないのか、「でも……」と、内面の動揺が透けて見える憂いた表情で、気遣いの視線を投げてきた。


 僕は「大丈夫だから」と、白紙の様な笑みでそれに応え、それと共に自分の願いを思い出す。


 心の奥底は、暗い水面の様に黒々と静まり返っていた。

 光も届かず、石を投じることも出来ない。


 波打ちすらせず、鈍く、深く、色も、音すら無く……。



 ――いつまでも、いつまでも、彼女が僕の隣で笑っていますように……。



 そんな水面に光が射し込む。一筋の白い線が闇を切り裂くように、明るく柔らかく暖かい光が……。



「唯笑、笑ってくれ。な? 唯笑は、笑ってなくちゃいけない? そうだろ?」

「ユウ……ちゃん」

「唯笑は、僕が絶対に守るから。安心していいから。だから……」


 すると唯笑は、納得できないことを納得できないままに飲み込んで、


「うん……分かったよ」


 風に揺れる、白く小さな花のように……僕に微笑んでくれた。


 そこには下手に突いたら崩れ落ちてしまいそうな、脆く、淡い純情さが湛えられていた。だが僕はその時、その事実に気付かなかった。



 ただ嬉しくて……。

 彼女が僕の望み通り、笑ってくれるのが……ただ、嬉しくて……。



 僕たちはそれから、どうしようもない異世界の現実で遭遇した些細なこと、でも伝えずにはいられないことを話し、時には笑い合った。


 それは久しぶりに得た、安逸(あんいつ)の時だった。体の端々まで温もりに溶けて行く様な、何とも言えず満たされた時間。


 二人の間で、決して元の世界のことが話題に登る事はなかった。意図的に避けてもいた。話した途端、憂鬱になることはお互い……分かっていたから。


 そしてその夜、僕は唯笑と初めて寝床を共にした。疲れた体を柔らかなベッドに横たえ、部屋に朝日が差し込むまで二人で眠る。



 その最中、彼女の純白のドレスは決して脱げ落ちる事がなかった。



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