5.誘い
「お前、殺しをやれ」
行政が円滑に機能しない無秩序な世界。その中で、娼館は治安維持を名目とし、町の荒事などを一手に引き受けている組織が運営していた。
その組織の首領でもあり、娼館の主でもある禿頭の男の執務室。
入口正面奥に配置された重厚な執務机と、中央に向い合せに置かれたソファ以外、目につくものの無い、飾り気のない部屋に連れ込まれた僕は、組織に関する様々な説明を受けた後……長髪の男にそう言われた。
「こ、殺しって……あ、あんた……」
「そうしたら、金をくれてやる。お前は、俺達の言う通りに人を殺し続けて、その金であの嬢ちゃんを買い続けろ。どうだ? 特別に安くしておいてやるぞ」
男の言葉は、ポトリと僕の中に落ち込んだ。その一粒は、未だ純水の清らかさを持つ僕の精神に、黒い霧のように静かに拡散する。
「助けるって……あんた”助ける”って言っただろ!?」
「はぁ? 何言ってんだお前? 立派な助けになってるだろ? それで……どうする? 悪い話じゃないと思うがな」
僕は急にやって来た重大な選択を前に、身と心を竦ませた。
殺し? 何を……あの男は、何を言っているんだ?
そんな僕を、長髪の男と机に両肘を着いた組織の首領が観察していた。僕が何の返答も出来ずにいると、視界の縁で二人は顔を見合せ、意思疎通の中で笑い、
「お前……確か、女からユウとか呼ばれていたな? なぁ、ユウよ。こんなチャンスは滅多にないぞ。だからすぐ決めろ。今、ここで。幸運の女神様が、お前に前髪を垂らしている内にだ」
決断を迫ってきた。
そう言われても、思考は縺れて混乱するばかりで、とても決断出来る状態ではなかった。
すると長髪の男は大げさに溜息を吐いてみせ、
「いいか、俺が十数える間に決断しろ。そうじゃなきゃ……この話は無しだ」
と、僕の判断に揺さぶりを掛けてくる。
情けないことに僕はその策略にはまり、心が乱れた。
唯笑を連れていた男に殴られた頬が、今頃になって明滅する灯りのように、じわじわと痛み始める。まるで無力な自分を嘲笑うかのように。
そうこうしている間に、長髪の男が数を数え始める。
楽器を操るように人の心を巧みに操る……駆け引きの妙に長けた男が。
「ひと~~つ」
――殺し? 僕が、殺しを?
緩慢に刻み出された秒読みの中、自身に問いかけた。意識で体が一杯になり、眩暈を起こしたように世界が不安定に揺れている。
「ふた~~つ」
――そうすれば、唯笑が、唯笑が助かる?
その中で真っ先に浮かんだのは、唯笑のこと。
男が「まだ」と冷徹に言ったこと。
「み~~っつ」
――でも、殺しをしなくても、生きては……。
しかし僕は決断を恐れ、一歩を踏み出すことに足を竦せていた。
自己欺瞞の声が、耳を聾する程に大きい。
「よ~~っつ」
――そうだ。生きてだけは……いける。
結果、心にもない、本音とかけ離れた答えを……お利口な答えを意識に浮かび上がらせる。
「いつ~~つ」
――だから、そうだ、つまり、僕が怖いのは……。
だがその答えは、幻の風のように過ぎ去り。後にはぐろぐろとした情念が、太陽のプロミネンスのように踊っている。
「む~~っつ」
――見知らぬ誰かに、唯笑を汚されること。
それは想像するだけでも、声を上げて叫びたくなる、おぞましい光景。
自分の存在が根底から崩れ落ちそうな……あってはならない光景。
「なな~~つ」
――つまり……つまりは、この誘いに乗るということは。
想像に肝を冷やしながら、道徳とエゴを天秤に掛ける。精神を支点とし、その傾きを見極めようと試みる。
「や~~っつ」
――自分の事情の為に……殺しを、殺しを……。
自身の持つ救い難い醜さに、耐えることが出来るのか。
それを試すように、祈るように……。
「ここの~つ」
――そんなことが、果たして許されるのか?
道徳律に縛られた声は重く。
エゴに染まり、悪たらんとすることを……。
その自問自答の、一刹那。混沌とした意識の中で、唯笑の眩い笑顔が睡蓮の花のように清らかに咲いた。
それは太陽の明るい日差しの下にいるような、快さを僕にもたらす。
純白のドレスに身を包んだ、僕だけの白く美しい花。
『ユウちゃん』
色彩の無い世界の中でも、浮き彫りに色鮮やかに咲く。
汚れなき、僕だけの……花。
するとどす黒いエゴが、暴雨風のように体の中で吹き荒れた。
その汚れなきものを、汚れない儘に守り続けたいと、譲れない……願いが……。
「とぉ―」
「やります!」
突然出した大声に、長髪の男は殊更に驚いた振りをして見せた。首領の男が手を叩いて喜び、馬鹿笑いをしている。
「僕に……僕に、やらせてください……殺しを!」
言葉を吐き出した途端、恐怖と焦燥は他人事のように遠ざかり、夜空を過ぎ去る彗星のように尾を引きながらも……闇の彼方へと消えていった。
――唯笑を、汚れなきままに守りたい。
エゴに塗り固められた強い願いは、やがて僕の存在意義そのものとなる。
こうして僕は自らの欲求に従い、組織の一員に身を落とすことになった。奴隷部屋を離れ、娼館内に自分だけの個室を与えられる。
そして僕は娼館の敷地内、人気のない一角で長髪の男――フミトから、ナイフの使い方はもとより、毒や罠の張り方など、殺しに必要な様々な技術を教わった。
勿論、元はただの高校生だ。特別、身体能力に優れていた訳でもない。そんな人間が殺しを生業にしようというのだから、特訓は生半可な物じゃなかった。
手の皮は破け、酷使した体の節々は常に鈍痛に苛まれ、余りに酷い筋肉痛に眠れない夜もあった。また戦闘訓練で得た生傷は塞がる前に新たな傷で覆われ、体の至る所に無残な傷跡を残した。
その他にも使用する毒の耐性を得るため、傍らに解毒剤を用意した状態で毒を投与され……悶絶に舌が根元から千切れんばかりに伸び、顔が紫色に膨れ、眼孔から目玉が飛び出しそうになる……生き地獄のような苦しい経験も味わった。
だれそれも、全て唯笑の為だと……。
自己欺瞞に過ぎないとわかっていても、本当は自分のエゴの為だと分かっていても、全ては彼女の為だと思えば乗り切れた。
結果として、それらの訓練は肉体以上に精神を、僕と言う存在を変質させた。
嘗ての生活の中で規定された僕の意志は、新たな生活の中で規定され直した。モノの見方や考え方はもとより、殺しで生きていくという覚悟が定まり、どことなく雰囲気すらも変わったとフミトに言われた。
「どうした……もう限界か? はっ、別に諦めてもいいんだぞ? まぁその場合、嬢ちゃんがどうなろうと知ったこっちゃないがな……なんだその目は、悔しいのか? だったら一をこなしている間に、二を考えるようにしろ。だが決して一は疎かにするな。お前は筋がいい。必ず出来るようになる」
またそのフミトは口は悪いが良き師でもあり、飴と鞭の使い方を心得ていた。僕はその師に自分の全存在を預け、紫空の下、ひたすら修練に明け暮れた。
一方、唯笑は唯笑でその間、高級娼婦になる為のさまざまな訓練を受けていた。
「さまざまな……って、あんたっ!?」
僕はそのことをフミトの口から知らされた時、前後を忘れたように吠えたてた。彼は「まぁ落ち着け」と、僕をなだめ、
「生娘は生娘らしさがあってこそ、高く売れる。それに嬢ちゃんは綺麗な顔をしてる上に、珍しい異世界人だ。高級娼婦となる為に、必要な教育を積んでもらってるだけだ。だから安心しろ、お前が思っているようなことはない……しかし覚悟しておけ、嬢ちゃんが生娘じゃなくなった時から教育は始まる。俺の言ってる意味、分かるな?」
その冷酷無比な現実を伝える声は、僕の心に深く突き刺さった。それと共に、生まれたばかりの小さな火が、爆ぜる火の粉によって周囲に広がり、やがて大きな炎となるように僕の決意を燃え上がらせた。
そしてフミトと特訓を始め三週間余りが経ち、以前に比べて体の動きが格段に俊敏となった頃。僕は彼から初仕事を任され、殺しの現場に赴いた。
――ただ自分のエゴで、人を殺す為に……。