4.悲しい再会
よく晴れた紫の午後。
高級娼婦が使用する、豪華な仕事部屋の掃除を終えた僕が廊下に出ると……左側から少女と共に、人相の悪い男がこちらに向かって歩いて来た。
館にいる女性は全て娼婦で、僕たち奴隷は、彼女たちと顔を合わすことを禁じられていた。
だから咄嗟に視線を逸らしたのだが……。
視界の端に認めた少女の面影に、何かが引っ掛かった。
――えっ!?
すると体は自分の意思に反して震え始め、冷静になろうとする努力とは裏腹に、心臓が痛い程に脈動し、歯が噛み合わずカチカチと震えた音を奏でる。
『えへへ、ユ~ウちゃん♪』
瞼を閉じれば、僕に微笑みかける彼女の面影が……。
再会を切望したにも関わらず、その時ばかりは願わずにいられなかった。
――どうか、どうか見間違いであってほしい。と
僕は再び、視線をその少女に向けた。
娼館にいる少女に向けて。
だが、だが、それは紛れもなく――。
あぁ、そんな、いやだ、嘘だ、嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
違う! 嘘だ、嘘だ、違う、嘘だ、嘘だ、違う、違う、嘘だ、嘘だ。
見間違いだ、そうだ、嘘だ。
違う。嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。
違う、違う、違う、嘘、嘘、嘘。
嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。
うそだぁぁぁぁっぁぁっぁぁっぁぁっぁぁっぁっぁぁっぁぁ!
生気を無くし、笑顔をしぼませて俯く……。
唯笑、その人だった。
僕は名前を大声で叫びながら、弾かれたようにして彼女の前に飛び出た。
「唯笑ぇぇぇええ!」
「…………え。ユ、ユウちゃん……?」
彼女は長い夢から覚めた人のように頼りなく面を上げる。僕を視界に収めると、愕然と見開いた瞼を震わせ、狼狽の中で僕の名を呼んだ。
その少女は生気こそ感じられないものの……紛れもなく、彼女だった。
僕の幼馴染で、恋人で、僕の……大切な……。
唯笑の隣にいた男は、突如として僕が現れたことにギョッと眉を上げて驚いたが、やがて僕を小馬鹿にしたように鼻から息を抜いて笑うと、腰の鞭に手を掛ける。
「唯笑っ! どうして! ……どうして、こんな所に!?」
僕は噛みつくように、唯笑に尋ねた。
すると彼女は沈鬱な表情を湛え、再び……俯く。
彼女は隠していた事実が露呈し、苦悶する少女そのままに……。
口を固く噤み、どんな答えも返さなかった。
時間が下手くそに、不器用に流れる。
――娼館に彼女がいるという事実。
あぁ……あぁ、殆ど意味は、僕に隠すことなく開かれている。
なら、なら……何を、何を、僕は……。
僕の混乱は、廊下に響いた鞭の音でかき消された。その音を耳にした途端、反射的に体が竦み上がり、先程とは違った意味で足が震えた。
男はニヤニヤとした表情で、僕に向けて何事かを言う。僕は正に躾けられた動物として、恐怖で身動きが取れなくなった。
だがその本能的な恐怖の只中で、手綱が外れた奔馬のように情念が荒ぶり、ある一点の未来を目指し、駆け出そうとする。
――この男さえ、この男さえいなければ……僕は、唯笑と!
僕は殊更に軽薄な顔を装い、男にヘラヘラと笑って見せると……。その場で黙って服をたくし上げ、膝をついて深くうずくまり、傷跡だらけの背中を晒した。
すると男は一呼吸置いた後、手を叩いて大笑いし、無防備に僕に近付いて来た。
「ユ、ユウちゃん……」
「…………」
亀のように押し黙ったまま、その時が来るのを待つ。男が僕の前で立ち止まり、何事かを吐き捨て、鞭を振り上げる気配を見せた……。
その瞬間――。
男の両足首を掴み、立ち上がりながら渾身の力で引っ張って、男を転倒させた。
従順な奴隷が、まさかそんな行動に出るとは思っていなかったのだろう。不意打ちを食らった男は、強く廊下に背中を打ちつけた。
僕はその一瞬の隙を見逃さず、男に馬乗りとなる。異世界に来た直後に自分がされたように、男の顎目掛けて手の平を打ち下ろした。
あたかも一個の火になったように、激しい怒りの奔流が体を支配する。
それは人に対して暴力を振るう、始めての体験だった。
だが幾ら不意を突いたとはいえ、格闘技経験のない僕が男を征することは叶わなかった。直ぐに上下が逆転し、僕に拳が振るわれる結果を招いてしまう。
「●%&××▲##ッ!」
「くそっ! くそぉぉぉお!」
すると恐れに体を縮こませ、固唾を飲んで立ち尽くすことしか出来ずにいた唯笑が、
「いやぁ……やめて、やめてよぉ……」
信じられない光景を前にした少女がよくやるように、首を弱々しく左右に振り、やがて――。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええ!」
館全体に響くような甲高い声を上げた。
それはあたかも、彼女の清らかな魂の叫び声のようで……。
僕は男からの手慣れた暴力に晒されながら、自分の無力を嘆いた。
恋人を助けることも出来ず、ただ暴力に屈し、僕は……。
忸怩たる思いと共に、胸の中では絶えず心が悔恨に呻いていた。しかしその直後、廊下の曲がり角からこちらに向けて、
「威勢がいいなあ、小僧」
耳慣れた日本語が投げられた。
「――えっ!?」
「あっ!?」
ソイツは足音もなくこちらに遣って来ると、馬乗りになった男に、低い声音で何かを指示した。男は短くそれに応えると、よく躾けられた犬のようにあっさりと身を退く。
――日本語? 何だ、一体……何が?
僕は殴られた痛みと悔しさとで半泣きになった面を、仰向けに倒れた体から上げた。
そこには漆黒の羽織に身を包んだ、背の高く、ぞっとする程に顔の整った男。長い黒髪が印象的な、二十代後半と思しき男が立っており、
「お前……この女を助けたいのか?」
長髪の男は膝を曲げて屈むと、切れ長の瞳で僕をじっと見つめながら尋ねた。僕は突然の事態に、何をどう判断すればいいのか分からなかったが、
「あ、あんたは? いや、そうじゃない。違う、そうだ! 僕は、僕は唯笑を、唯笑を助けたい!」
気付けば男の目を真っすぐに見据え、そう答えていた。
男の瞳。その奥の水面には僕を値踏みするような得体のしれない不気味さが、夜の海のようにゆらゆらと漂い……。
「なるほどな……よし、分かった」
長髪の男は口の端を歪ませて笑い、「なら助けるチャンスをやる」と言って、僕の手を取って立たせた。それと共に唯笑を連れていた男に何かを言いつけ、唯笑と共にその場を去らせた。
「――あっ!? 唯笑っ!? 唯笑えぇぇぇ!」
「ユウちゃん! ユウちゃん!」
男に連れられながらも、必死に僕に顔を向ける唯笑に手を伸ばす。駆け出したい衝動に駆られたが、長髪の男が肩に置いた手が、それを威圧する。
「安心しろ。女に手荒な真似はしない。それにあの嬢ちゃんは、まだ生娘だ」
「……えっ?」
その一言に、僕は息を抜かれたように黙りこくってしまった。恐れていた何か、絶望的な何かは、まだ始まっていないようだった。
僕は喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からず、ただ茫然自失としてその場に立ちすくむ。爆発的な歓喜に身を浸してもいい筈だった。
でも長髪の男は、まだと言った。
それはつまり、現在は留保されているに過ぎず、将来的には……。
暗い予感は、寄せては返す波が人知れず浜辺の砂を海底に浚っていくように、少しずつ僕の心を蝕んだ。
そんな僕を、長髪の男は呆れたように見ると、
「お前、自分の女を助けたいんだろ? なら俺がお前を助けてやる。ほら、いいから黙ってついて来い」
僕は男に連れられるが儘、踏み入れたことのない娼館の上層へと誘われ……。
――人間たらんとする試みを止めた。