3.異世界に生きる
混濁する意識の中、薄明りのような覚醒が下りてくる。
僕は痛む顎に無意識に手をやりながら、瞼を震わせて目を開いた。
暗闇が視界に覆い被さると共に、酷い臭気が鼻につく。光のない部屋に満ちる、何かが傷み、腐って、饐えたような汚物の臭い。
思わず眉を顰める。
だが現実は僕に息継ぎすら与えず……。
『ユ、ユウちゃんっ!?』
閃光のように、意識を失う寸前の光景を頭に過らせると、
「――っ!?」
慌てて僕を、その場から起き上がらせた。
周りを確認するも、暗く冷たい部屋に自分がいることしか分からず……。
恐怖と不安とを一息に通り越した後の、奇妙な静けさをその身に感じた。
「…………」
現実に認識が追いつかず、思わず絶句してしまう。ただ圧倒的に良くないことが、僕の身に降りかかったことを知る。
服も剥ぎ取られているようで、見ればごわごわとして肌を痒くさせる、使い古された簡素な服を纏っていた。冷たい足の感触から靴も……。
視線を足に転じた瞬間。
否応ない恐怖、生命の恐怖が、血液と共に僕の体を駆け巡った。
そこには、抗えぬ現実として――。
「冗談……だろ?」
――無機質で頑強な、鈍色に光る足枷が、僕の左右の足首を捕えていた。
現実を受け入れまいと思考が停止しているにも関わらず、様々な認識が一度に襲いかかり、軽いパニック状態に陥る。
その中であることに気づくと、それが足枷以上に僕を怯えさせた。
「ゆ、え……? 唯笑っ!?」
隣に唯笑がいないという事実。
背中から滲み出た汗が、一条の線を描いて冷たく流れる。
「唯笑っ!? いないのか? 唯笑ぇぇぇぇぇえっ!」
闇が何処からともなく這い出してきたような部屋で、僕は殆ど発狂したかのように吠え立てた。すると扉が開き、冷たい牢獄のような部屋に光が差し込む。
「唯笑っ!? 唯笑なのか? ねぇ!?」
そこで僕の淡い、灯火のような期待は、無慈悲にもフッとかき消された。
部屋にやって来たのは、逆光の中でも輪郭でそれと分かる、太った男。
「あ……っ! あの、唯笑は!? 一緒にいた女の子は!?」
僕は竦み上がりながらも、太った男に縋りつくような声音を上げる。だが太った男は僕の言葉を一顧だにせず。それどころか鼻で笑うと、
「○#$▲×■&ッ!」
後ろから来た屈強な男たちに何事かを指示し、武骨な太い腕が伸ばされた。
僕は必死に抵抗したが簡単に抑え込まれ、両脇を抱えるようにして持ち上げられると……。
――奴隷として売り払われた。
売却先は中世ヨーロッパの風景を思わせる、壁に閉ざされた石畳の町。その外れに存在する――薔薇色の温かさが灯った、煌びやかで豪奢な館。
その館は、普通の館ではなかった。男が女を買いに来る場所……。
――つまりは、娼館だった。
僕は先ず、自分が逆らったらどうなるかを、たっぷりと体に教えられた。言葉よりも、仕事よりも、何よりも先に、鞭でもって。
当然のように、僕の皮膚は鞭の味を知らなかった。
打たれた後の焼けるような痛みも、呼吸ができなくなる程の衝撃も。
鞭の前で人は簡単に意識を失う。
蝋燭が灯る、武骨な石で組み立てられた躾部屋に吊るされた僕は、鞭を振るわれて何度も失神し、その度に水を浴びせられ……朦朧とした意識の中、再び狂ったように鞭を振るわれた。
その後約一週間、僕は余りの激痛に寝床から起き上がることが出来ず、最低限の水と食料を与えられ、数人の奴隷が寝起きを共にする奴隷部屋の一角に捨て置かれた。
自由な思考は否応ない現実に塞がれ、本当に驚く位、その間は何も考えることが出来なかった。呻き声にも似た、怨嗟の声を上げるばかりで……。
そして立ち上がることが出来るようになり、鞭を見て反射的に冷や汗を流し、焦点の合わない目をして怯えるようになると……。
僕は娼館の奴隷として使役されることになった。
言葉が通じない世界で、僕は最初に「はい」という言葉を覚えさせられた。それと共に奴隷仲間から身振り手振りで仕事を教わり、監視の元、朝から晩まで、それこそ擦り切れるまで働かされた。
仕事は腐る程あったが、娼館で使用するシーツを、手を切るような冷たい水で洗濯するのが一番辛かった。
だが少しでも手を休める素振りを見せると、監視の男に鞭をちらつかされ、本能的な恐怖に竦み上がらされる。
重く心に立ち込める、不安そのもののような色をした紫の空を時々見上げながら、僕は黙々と娼館の奴隷として働いた。
――嘗ての世界を象徴していた青空は奪われ、それと共に明日も、将来も……。
しかし何事にも慣れるのが人間に対する一つの定義であるように、不安にも慣れ始め……そのことに気づいた時の衝撃は、今まで漠然と信じていた”人間”という存在の土台を脅かす程のものだった。
その娼館には僕以外にも、何人かの男奴隷がいた。僕は仕事を通じて少しずつ、彼らからこの世界の言葉を習った。
生き残るために必要な言葉に関する情報は、やがて僕の全生活を覆い……。教わったことを労働の最中に何度も復習し、分からない言葉は推理し、意味を組み立てた。
その結果、館で働き始めて二週間も経つ頃には、仲間たちと簡単な意思疎通くらいは行えるようになった。
奴隷の仲間たちは、僕を「ユウ」と呼び、新参者として労わった。特に、出っ歯だが愛嬌のある顔をした男は一番の古参らしく、何くれとなく世話をしてくれた。
口の中を切りそうな固いパンのような食べ物も、薄く冷めたスープで浸せば多少ふやけ、口に含みやすくなること。監視役の交代の僅かな時間は、手を抜いてもいいこと。そんな、奴隷として生きる為に必要な知識を彼から教わった。
「○$#□△×&ッ!」
「いや、ごめん……まだ複雑な言葉は」
ある朝、彼が黄ばんだ出っ歯を溢して笑いながら、僕に何かを言った。その様子を、周りの奴隷仲間がニヤニヤと笑いながら見ている。
その当時は、言葉の意味を組み立てることが出来なかった。これは後になって分かったのだが……あの時、出っ歯の男は僕にこう言ったのだ。
「よぉ相棒。今日も最悪の一日を頑張ろうぜっ!」と。
現実は辛く、厳しく、一日の仕事を終えると、僕たち奴隷は共用の奴隷部屋で死んだように眠った。寝る間際の僅かな自由時間、僕はいつも考えていた。
――唯笑のことを、理不尽な人生のことを。
僕は徐々に、僕の現実を受け入れつつあった。最初は何処か日本ではない、アフリカや中南米、そういった諸外国へと拉致されたのかと思った。
だが薄れ始めた真実の輪郭の中で、とめどない不安と、微かな希望の戦いは互角とはいかなかった。
電気もガスも水道もない、あたかも中世のような人々の暮らしぶりを目の当たりにし、何よりも空を不気味に覆う紫の空を見て……。
神の愛の手から零れ落ちたようにして、自分が所属していた世界から、異なる世界へと落ち窪んでしまったことに気付いた。
朝起きる際には、薄く眼を開けた後、再び目を閉じて祈った。
目を開けば、見慣れた天井。元に戻れ、一つ、二つ、三つ。
――その度に、僕は現実に叩きつけられる。
元いた世界でも、その時々に辛いことや、悲しいことはあった。でも決して、絶望はここまで深くなかった。その深淵は底が見える程に浅く、生きることすら危ういよう絶望では……。
その人生は、嘗ての生活は、あの青空は……もう二度と自分に戻ってくることはないのかもしれない。
そう考えると、目には熱い涙が泉の水のように滾々と溢れ、僕は人知れず涙を流した。
そして見知らぬ天井が、見慣れた天井へと変わりつつある日。
僕は唯笑と再会することになる。
――娼館の廊下で。