2.紫の空から光は注ぎ
紫の空から光降り注ぐ世界で、僕は目覚めた。
木々の緑――その彼方から零れ落ちる光に、思わず手で庇を作る。
奇妙な気分だった。光とは常に、青い空から命を祝福するかのように人を照らすものだ。それが早朝でもないだろうに、澄み渡る青のような薄紫の空から降り注いでいる。
「ここは……? どこだ?」
膨れ上がる新緑の香りに気付き、倒れた体を起こす。そこは隠者のように静かな森の中で、隣には唸り声を上げて目を覚まそうとしている唯笑の姿が……。
瞬間。バスの転落事故に巻き込まれた際の、生々しい記憶が脳裏を過り、記憶の連続性に混乱が生じた。
なんだ? 一体、何が起きた?
僕たちは……どうなったんだ?
あの時、崖から転落するバスの中で、僕は唯笑を守ろうと抱きしめて……。
ガソリンの匂い。爆炎。暗い森の中の幾多の……。
『ゆ……え……』
『ユウ……ちゃ……ん』
不意に見覚えのない光景が頭をフラッシュバックし、突如、頭を万力で締め付けられたような鈍痛が走る。
「くっ……なんだ、これ?」
僕が痛みに頭を押さえ、それでも必死に記憶を整理しようと苦心していると、制服姿の唯笑が起き上がった。
「……あれ? ここ、何処? あっ!? ユ、ユウちゃん?」
困惑に視線を彷徨わせ、隣に僕を見出して驚いた声を上げると、
「私たち……確かバスの事故で……えっと、皆は……?」
と、不安げに僕を見て尋ねた。
僕はゆっくりと頭を左右に振ると共に、指で空を示した。
「え? 上? ……あっ、なにこれ? 空が……」
唯笑は唖然とした表情で、紫に染まる空を仰いだ。
「分からない……それよりも唯笑、どこか体は痛くないか?」
「え? 私? う、うん大丈夫だよ。ユウちゃんは?」
「僕も……うん、大丈夫だ」
すると唯笑は「そう、よかったぁ」と、安心したように笑った。
僕はそれを、眩しい物でも見るかのように目を細めて眺めた。唯笑の笑顔が僕を安心させ、静かな勇気を与えてくれる。
いつもそうだった……いつも……。
僕らは先ずポケットの携帯電話を取り出して連絡を取ろうと試みたが……そこで電波が入らないことに気付いた。そして思案に暮れた末、
「ちょっと辺りを見てくる。唯笑はここで待ってて。ひょっとしたら、クラスの奴らもいるかもしれないし」
と言って腰を上げた。
しかし彼女は頑なにそれを拒み、自分も着いて行くと言って聞かず、結局、二人で手を繋ぎ、森を散策する事になった。
木々を揺らす風の音と、芳しい若葉の匂いが、夢とも現実ともなく耳に聞こえ鼻をくすぐる。木々の葉から覗く不気味な空の色だけが、やけに現実的だった。
結局、クラスメイトの姿はなく……森を抜けた僕らの前に、死の恐怖を連想させる薄気味悪い紫空の下、牧歌的な草原が広がっていた。
その色のコントラストは、行きすぎた性質の悪い冗談のように二人に立ち塞がり、僕と唯笑は思わず言葉を無くした。繋いだ手に唯笑が力を込める。
目の前の踏み慣らされた道らしきものの彼方から、二匹のロバ……のような生き物に牽かれた、一台の荷馬車が遣って来るのが視界に入った。
御者台には民族衣装とも少し違う、見慣れない服を纏った筋肉質な浅黒い肌の男。
微かに不吉な予感がした。僕の中で、得体のしれない恐怖と、人を見つけた安堵が渾然一体となってせめぎ合う。
だが人は、僅かな希望に縋りつくように出来ているもので……。
僕は覚悟を決め、軽い微笑を右の頬に浮かべて唯笑を見る。
「ユ、ユウちゃん?」
「とりあえず……話しかけてみるよ。そうすれば、ここが何処か分かるかもしれないしさ」
繋いだ手を離し、道の真ん中に立って、馬車が来るのを待った。馬車が目の前で止まる。御者台の男が唾を飛ばしながら、厳めしい面で何事かを喚いた。
それは日本語とも英語とも違う言語体系のもので、僕は面食らったようになる。ただ表情や雰囲気から、男が激怒している事だけは理解出来た。
今までの人生で、そんな激しい感情を人からぶつけられた経験のない僕は、知らず体が震えた。だが傍らの唯笑の存在に思い至ると、勇気を奮い立たせ、英語なら通じるかもしれないと思い、
「え、Excuse me Mr……」
震えた口で、僕なりの英語で必死に話しかけた。
その瞬間、まさに僕が口から言葉を発した瞬間。
男は驚きに目を剥き、何かに打たれたようになった。
構わず話し続けたが、男は僕の話を聞いているのかいないのか、ただ僕らを呆然と見つめ……やがて口を下卑た風に歪めると、
「●#&%▲××%#ッ!」
振り返り、馬車の荷台へと鋭い声を発した。すると彼の仲間と思しき、筋肉の鎧を纏った大男が荷台から降りて来た。
その威圧的な風貌に僕は尻ごみ、その場に縫い付けられたように動けなくなる。
「×#$%■×#&$!?」
「▲&#×●?」
困惑する僕らを尻目に二人は言葉を交わした後、大笑いし、やがて大男がニヤニヤと笑いながら僕に歩み寄ると……。
「えっ?」
どんな迷いも躊躇もなく、僕の顎に向けて勢いよく手の平を打ち下した。
「ユ、ユウちゃんっ!?」
僕の意識は痛みを認識する間もなく、電源を抜かれたデスクトップパソコンのようにプツリと、再び闇の中に消える。
意識が途切れる間際、仰いだ紫色の空が黙って僕を見下ろしていた。