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15.唯、笑う彼女


 唯笑はアジトの襲撃には参加せず、別の任務をフミトから言い渡されていた。それが僕が彼に持ちかけた要求、取引の全て。



「ユエ……組織に裏切りがでた……仕事だ」



 フミトに計画を打ち明ける前、僕は何度もその手で、赤子のような無防備さを晒す、健やかに眠る彼女の命を手折ろうとした。


 路傍の花を摘むように、(うしお)のようにひたひたと寄せてくる哀愁を感じながら。



”ユウ、ちゃん……私、私、もう……”



 でも……出来なかった。

 実際に首に手をかけたこともあったが、結局……。


『あはぁ、ユウちゃんどうしたのぉ? 泣きそうな顔ぉ、あははははぁ!』


 孤独は悲しい音色で僕を奏でた。


 興奮や衝動、そういった激情無く、淡々と愛しい人の命を奪うことの難しさを知る。紫色の憂鬱が、湖面を走る雲の影のように僕の精神に影を落とす。



 僕は一人、自分の弱さを眺めた。

 最愛の人を殺せない……自分の弱さを……。



 その際に心中も考えたが、その不確実性さに危ぶみもした。生命の弾力。そのしぶとさは身をもって知っていた。


 確実に息の根を止めなければ……。

 そこで不意にある光景が頭を去来する。


 彼女をこの世界から解放すると共に、また、()()()()()()()()()()()()()……。


 妄想は、甘美な芳香を伴い僕を酔わせた。


 酔生夢死(すいせいむし)

 教訓的な意味合いではなく、言葉の持つ意味そのままに……。


 酔うような、夢見るような心地で死んでいけたら……。

 妄想は、淡く僕の心を(かす)め、やがて――。



 そして僕は、死者のように静まり返った夜の底で、彼女と対峙する道を選んだ。正体が僕だと分からないよう、顔には口元だけ覆われていない特殊な仮面を被っている。


 風は全く吹き絶えていたが、沈静した空気の冷やかさが肌を刺す時は、寒気が地から湧き起こるのかと思われるほどに冷えた。


 薄闇の中、銀色の閃光が走る。

 唯笑が左手でナイフを抜いた。


 僕もそれに応じて、腰の鞘からナイフを引き抜く。

 風を切る鋭利な音が、懐かしい感慨を呼び起こす。


 路上独特の饐えた臭いと陰鬱な夜の空気との内に、僕自身の苦悶がそっくり漂っているようだった。


 迷いを幻想だと振り切る。

 計画は滞りなく、全てが僕の前に予定通りに開かれている。


 ならば後は――。

 最後に向けて、命を疾走させるだけ。


 鼓動が高まる。

 張りつめた緊張を逃すために、大きく息を吐く。


 死ぬのは怖くない。

 ただ唯笑を一人置いて死ぬのが……僕には……怖い。





「それじゃぁ――死んでねっ! あは! あははははは!」





 歪んだ笑いを引き連れて、人型の修羅(しゅら)が迫って来た。


 重心を落とし、空を舞う猛禽類のように両腕を後ろに逸らした態勢で。駆けるというよりも滑空するかのような、化け物じみた俊敏さで。


 僕はその初撃を止める為に、目を見開く。瞬間、彼女の右腕は下に膨らみ、手に持った何かを僕に向けて放った。



『俺達は、戦士じゃない。殺し屋だ。正々堂々と戦う必要がどこにある? 剣戟を交わしあうなんて、全く馬鹿げた話だ。使えるものは全て使え。目を眩ませ、自分の存在を見失わせたら、俺たちの勝ちだ』



 フミトの戦闘スタイルを忠実に踏襲する彼女。


 人間は顔めがけて何かを投げられた際、咄嗟にそれを手で防ごうとしたり、顔を逸らそうとする。


 それは殆ど本能的な反射行動で、訓練されていない人間には、それを押さえつけることが難しい。


 だがそれをやった瞬間には、隙が出来る。僕は彼女の動きに意識を研ぎ澄ませ、それ以外は視野の外に流そうと努めた。


 致命傷に至らなければ、どうということはない。僕の目的は無傷で彼女を殺すことではなく、共に……。



「――ッ!?」



 慄然とすることに、唯笑が投げた二本の金属針は狙い違わず、仮面に穿(うが)たれた僕の目に向かって空中を進んできた。



 ――なんて精度だ!?



 脳はその現状を認めた瞬間、一瞬にして瞳孔が針に刺し貫かれるイメージを呼び起こし……。


 寒気を切り裂いて迫り来る針を前に、僕は咄嗟に顔を逸らして()けた。



 つまりは――。



 唯笑に向けていた筈の視線を、一瞬だけ逸らしてしまった。

 みすみす死角を作り、そこに潜り込ませてしまった。


 驚きに目を剥き。一秒が精神を擦り減らす。

 唯笑は、当然ながら元いた場所にはいない。



 ――ありえない、速過ぎる。



「くっ!?」



 戦慄の予感が走ると、僕は閃きに促され、前方に飛び込みように回転した。突如、刃物が振り下ろされる音が虚空に響く。



 恐怖と安堵がない交ぜになった感慨のまま、()()()()()()との距離を取る。


 そして視界に、狂気に口の端を歪めた”組織の殺し屋”を認めた。




「あははぁ。よく避けたねぇ。あは! あははは! あははははは!」




 激しい鼓動が臓腑から熱い息を吐き出させ、視界に白く煙る。毛穴という毛穴から汗が滲み出てくる。


 それはコンマ一秒が紡ぎあげた、偶然の閃き。

 僕は間違いなく今、()()()()()()()()


 願いを果たさぬまま、(むくろ)を路上に晒すところだった。

 彼女を一人、この世界に置いて……。


 荒く息を吐き、立ち上がる。


 血が逆流するような恐怖が過ぎ去ると、体は急に暑さに(うるさ)くなった。顔に張りつけた仮面と皮膚の間に汗が走り痛痒(つうよう)を覚え、面を脱ぎ棄てたくなる衝動に駆られる。


 腕が(なま)っているのは自覚していた。この日の為に自分なりに鍛錬を繰り返して、勘を取り戻そうともした。


 それでも……二人の力量差は圧倒的で……。

 フミトが”不気味”と称した彼女の腕を前に、暫し唖然となる。



「ふ~~ん、まぁいいやぁ。あは! あはは、あははははははははははは!」



 息を落ち着け、生唾を飲み込みながら修羅の笑い声を聞く。


 しかし殺しで肝心の初撃は防いだ。その事実が僕を昂らせる。その場合、一端身を潜めて奇襲を狙うか消耗戦に持ち込むしかない。


 彼女の任務は、裏切り者を消すこと。

 ならば――。



「それじゃ……いっくよぉぉ! あは、あははは! あはははは!」



 僕との間に生まれた僅かばかりの距離を一息で詰め、唯笑は消耗戦を――ナイフの応酬を仕掛けてきた。


 舞いながら獰猛な蛇を自由自在に操るかの如く、唯笑のナイフ捌きは一つの極みにあった。


 銀の煌きが恐るべき速度でうねりながら、執拗に僕の首筋を狙ってくる。


 また亡霊が死に濡れたその手で生者を奈落に引きずり込むように、戦闘を自分の流れに引きずり込む為、ナイフを持たぬ彼女の右手は応酬の間隙を縫って針を放つのに余念がない。



「あは! あはははは! たっのぉしい!! あはははは!」

「はぁ、――ツッ! はぁ、はぁ」



 絶え間ない連撃を捌くのに僕は必死だった。致命傷には至らないものの、幾つもの傷が体に刻まれ、確実に体力と血液を奪われていった。


 そして上半身ばかりに意識を集中していると――。



「あはぁ!」

「――ぬあっ!」


 

 地を這う蛇。靴の仕込みナイフに足の皮を切り裂かれる。

 注意が足に向いたら、今度は死の刃が僕の喉元に迫り、



「――くっ!」



 後方に跳び、それを避ける――が、暗闇の中、光る何かが僕に向かって飛来した。



 蛇が陽炎(かげろう)のような赤い舌を吐き出す。



 ――っ!? ナイフの投擲!?



 気づいた時には遅く、心の臓をめがけて飛来するそれに対し、僕は咄嗟に上体を回転させ、左肩で受け止めた。


 女の細腕から投擲されたとは思えない速度のナイフは、肉を裂き、骨を削る。




「――――――――――――――――ッア!」




 言葉にならない激痛が体を走り抜けると共に、目の奥で薪をくべた火のように痛みが爆ぜて、視界が歪む。


 命を奪う任を帯びた存在が、その隙を逃すはずもなく……再び生まれた僅かな距離を、スペアナイフを取り出しながら詰め、僕の急所めがけて渾身の突きを――。




 あぁ、ついに、この時が来たか。




 僕は痛みに意識を乗っ取られそうになる中、敬虔な祈りでその暗闇を穿(うが)ち、光を取り戻した。そしてナイフを逆手に持ちかえ、仮面の留め具を左手で外し、凍てついた路上に投げ捨てる。


 修羅は笑顔のままに、僕に向けて突進してくる。

 彼女の眼には、僕の体を脈打つ心臓しか映っていない。



「あは、あはは! あははははははは!」



 それを丸呑みせんと、蛇が大口を開ける。


 命の連鎖。永劫の過去に光源を持つ、生の輝き。

 その過去からの光をまた一つ消さんと、襲いかかって来る。


 心臓の音が別れを惜しむように体全体に響いた。それと共に、太陽に向かって開く花弁のように、心臓が彼女に向って大きく開くのを感じる。


 呼吸を落ち着け、僕は叫んだ。

 最後の脈動を、全てそこにぶつけ。



 彼女の名を。最愛の人の名を――。









「唯笑ぇぇえっっ!」









 ナイフが体に突き刺さる瞬間。世界の動きが緩慢になった。

 自分の体に異物が侵入してくる不快な感覚。


 皮膚を通し、肉を裂き、神経を断ち、骨を掠め、冷たい感触が心の臓を(えぐ)る。


 食道を(さかのぼ)り、激流のように湧き上がってくる血液。鉄の味が充満した口内。抑え切れず、外にその血をまき散らした。




「――ブェッア!」

「あは……あは? あははは?」




 修羅が吐き出されたどす黒い血を浴びる。


 目標にナイフを突き刺した時点で、本当なら直ぐにでもその場を離れなくてはいけない。でも彼女は困惑に身を竦ませ、その態勢のまま動けずにいた。


 ゆっくりとナイフの柄から手を離す。



「ゆ……え…………」

「あは? ユウ……ちゃん?」



 体が重く、意識が遠く、視界が暗く、世界が薄い。


 僕は不如帰(ほととぎす)のように赤く口を染め、血を吐き出しながら……渾身の力を込めて、驚きに目を見開いている唯笑の耳の上に、拳を打ち下ろした。








「――あがぁっ!」








 逆手にナイフを持ったままで。




 唯笑は人ならざる声を上げると、白目を剥き、醜く顔を歪ませた。突き刺さったナイフが、一つの無骨な髪飾りのようだった。


 その光景を認めた瞬間。

 元いた世界で、唯笑に髪飾りをプレゼントした日のことを思い出した。


 それは付き合い始めて間もない頃のことで……僕は女の子の誕生日に何をプレゼントしてよいか分からず、結局、祖母が好んだ百合の花を模した髪飾りを贈った。


 でも量産品だった為に、数か月で髪を留める金具が悪くなってしまった。そんな安物にも関らず唯笑は喜んでくれて、その髪飾りを髪に留め――。



『値段なんて関係ないよ! ユウちゃん、本っ当に、本当にありがとねっ!』


 

 心残りが……あった。


 どうして僕は、この世界でも唯笑に髪飾りを買ってあげなかったんだろう。そんなものは、娼館に商いに来る男が、幾らでも扱っていたというのに……。



 結局、僕がこの世界で唯笑にプレゼント出来たのは、ナイフの髪飾りだけ――。



 ごめんね…………唯笑。

 でもようやく、ようやく……。



「ゆ、え……こ、れで、ぼく……た、ちは……」

「ユ、ウ……ちゃ――」



 僕たちは、もつれ合うように路上に倒れた。

 命が結晶のように弾け、その煌めきに過去が照らしだされる。



『ユエ……ちゃん?』

『うん、いつも笑ってるようにってお名前なのぉ』


『お~~い悠ぅ! お前、部活は決めたか?』

『あ~、陸上部……とか?』

『うっわ、適当かよ!?』


『悠、私たちお婆ちゃんのお墓参りに行くけど』

『あっ、僕も行くよ! 父さんと母さんだけじゃお婆ちゃんも寂しいだろうし』

『ほぉ、()もなかなか()()ようになったな』

『母さん……今のって』

『悠、こういうのは突っ込んだら負けよ』


『ユ~ウちゃん♪ 明日の修学旅行、楽しみだねぇ』

『ははっ、興奮して眠れなくならないようにな』

『もう! そうやって直ぐに子供扱いするんだからぁ』

『いや、別にそんなんじゃ。痛い、痛いってば。はは、あはははは』



 人生の一切が眩い光を伴い、通り過ぎていく。その中で僕は過去を辿り、現在へと行きついた。


 僕にも、僕にも……確かにあったのだ。一人の人間として、無邪気に、当たり前に生を享受出来た時代が。

 

 父がいて母がいて、友人がいて……そして何よりも隣には唯笑がいて……。

 僕を取り囲む世界は色彩に溢れ、いつも微笑みを投げかけてくれていた




「……あ、く……唯笑……ごぅほ! ゆ……え……」




 僕はうつ伏せに倒れる唯笑に向け、懸命に手を伸ばした。だけど放り投げられた彼女の手に、あと少しが、あと少しが届かない。


 ナイフが刺さった状態のまま、右腕だけで這い進もうと試みるも、力が、全く入らず……。


 僕の世界は端から徐々に、死に食われていった。この視界から、最後の一ドットが失われた時、僕の命は終わる。


 僕は唯笑の手を取るのを諦め、ひび割れた陶器のような意識の中で彼女に尋ねた。




「ゆ……え……きみの、じ……ん、せ、いは……どう、だ……った?」




 頭から血を路上に垂れ流した最愛の人から、言葉は返ってこなかった。


 苦笑が血に濡れた唇から零れ、それもいいさ……と僕は思った。今頃唯笑は、この世界から解放され、きっと心地のいい夢を――。



 僕はそのまま冷たい路上に顔をうつ伏せ、死が物憂げな腰を上げ、僕に覆いかぶさるのを待った。


 

 その中で考えた。魂のことを。深い谷底の清らかな泉のように人の内に眠る、人の死と共に、煙のように消えいくもののことを。


 決して観察できない、魂のことを。おそらく自分自身の存在をも知らぬ……悲しい魂のことを。



 魂は火、肉体は薪。

 薪が尽きれば……火もまた消える。



 もし、その魂というものが存在するとしたら……。

 僕の魂はどこへ向かうのか? どこへ帰るのか?


 それは……この紫空の世界に捕らわれたままなのだろうか?

 ciel(シエル) mauve(モーブ)。僕と唯笑の魂は……一体、どこへ……?



 意識が薄らぐと共に急速に明滅し始め、体が途端に安らかになる。生の発端である死が僕に微笑みかけ、終焉にして始原の営みの中へ、僕を……。



 だが一刹那の後。僕はある違和感を覚え、心地よい路上の枕から最後の力を振り絞って顔を上げた。



 視線の先には、僕と同じように地に伏したまま顔を上げる唯笑の姿が。

 僕を見ながら懸命に口を動かし、何事かを呟こうとする彼女の姿が。








 ――最後の薪が、バチリと爆ぜる。











「わ、たし……ユ、ウ……ちゃ、……んに、……あ……え、て……しあ……わ……せ、だ…………った、よ」














 そう言って彼女は、(ただ)、笑った。

 僕に向けて、唯、幸せそうに笑った。






















 こうして、僕と唯笑の人生は終わった。

 何も出来ず、ある一つ以外は何も手に掴めないような、そんな人生だった。



 それから数時間後……明け始めた紫空の下、雪の降る凍てついた路上で、フミトと組織の人間が僕たちを見つけた。


 構成員がそれぞれの亡骸を死体袋に詰める傍ら、彼は前髪で表情を隠しながら黙ってその場に立っていた。


 だが構成員らはその作業に難航し、結局、僕らを大男用の袋に投げ込んだ。












 なぜなら――。





























 死後硬直した二人の手は、固く、固く結ばれていたのだから。


























 あたかも一つに溶け合った……魂のように。
























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