13.友との別れ
唯笑が涙を見せた、その幾日か後の夜。
仕事を終えた僕は、首領の執務室の扉を叩いた。
首領は留守で、ソファに腰掛けたフミトが一人、静かに酒を呷っていた。そんな彼に報告を済ませ、雑談を交わした後……僕は突如として話を切り出した。
「フミト……僕は唯笑と、この世界から去ろうと思う」
すると酒杯を傾けていたフミトの手が止まる。杯を口元から離しながら、酒の味が急に変質してしまったかのように顔を顰めた。
「去る……だと? ユウ、お前まさか『蒼穹派』の技術を……」
「ソウキュウ派……? それは、たしか例の宗教の」
傍らに立つ僕を、彼は暫く胡乱な目つきで眺めていた。しかし僕の反応が芳しくないことから、自分の考え違いに気づき、
「いや、何でもない。それで……どうやってこの世界から離れるつもりだ?」
再び酒を呷りながら、僕に訊ねた。問われた僕は素直に自分の心の動きを、思いを、その陰影すら漏らさずに伝えた。
その間フミトは目をつぶり、泡立つ感情が弾け飛ぶのを防ぐ、シャンパーニュのコルク栓のように押し黙っていた。
話し終えると同時に、鋭く研ぎ澄まされた重々しい沈黙が部屋を包み込む。
フミトは切れ長の目をゆっくり開くと、ナイフで突き刺すように僕を睨みつけ、
「……ダメだ」
と否定の言葉を紡ぎ、続けざまに霰のように言葉を降らせた。
「いいかユウ……それは逃げだ。ユエはいつ正気に戻るとも限らん。お前はその間、自分が何も出来ずにいるのが辛いだけだろ? だがな、花はただ咲けばよく、風もただ吹けばいい。それと同じように、人にはただ寄り添えばいいんだ……しかし、そのただ寄り添うということが、実は何よりも難しい。お前はその戦いから逃げようとしてるんだ。だから認められない。ユウ、安易な道に逃げるな……そんなことなんざ、いつだって……」
僕は気後れを感じながらも、口の奥から言葉を引っ張り、フミトの話を遮った。
「ハルカさんに……フミトは寄り添えたのか?」
次の瞬間、杯が乱暴にソファー前の低いテーブルに置かれる。それと共に周囲の温度が急激に下がったかのように、底の見えない深く冷たい憎悪が部屋に膨れ上がった。
「……お前、今なんて言った?」
沈黙に響く、薄い刃物で背を撫でられるような、戦慄を催す声。人格も感情も感じさせず、身を重たげに、フミトはゆらりと立ち上がった。
「そういうフミトは、ハルカさんに寄り添えたのか? ……って聞いたんだ」
物怖じせず尋ねた僕に、前髪で表情を隠したフミトが、体を左右にゆらゆらと揺らしながら緩慢な動作で近づき……。
額を僕の額にぶつけ、僕の世界を血走った双眸で威圧する。
「――誰から聞いた?」
すべてを忘れ、怒りの青白い光に覆われたフミトの言葉に静かに答える。
「誰からでもない。組織にいれば……嫌でも聞こえてくる」
目に見えないものを、目で捉えようとする努力。瞳の奥の感情の揺らめきを眼に収めんとして、彼は僕を睨め続けた。
だが暫くすると「はっ」と自嘲するように唇の端を歪め、踵を返して再びソファに腰を下した。
「そうかい……ならこの際だから言っちまうが、俺はお前に幾つか嘘をついていた。春香の件もその内の一つだ。俺は……お前とユエのように……春香と二人でこの世界に来た」
それからフミトは杯を手にし、酔うように話し始めた。
組織の構成員から漏れ聞こえてきた、凄絶な物語。
――異世界に生きた、男娼と娼婦の悲しい物語を……。
「春香は殺されちまった。このciel mauveの世界にな……あいつはよく言ってたよ、あの紫の空を見てると気が狂いそうになるってな。ははっ、俺一人を置いて……あいつは逝っちまったんだ。……その時から俺は誓った。必ず……この世界に復讐すると」
そこでフミトは一気に酒を呷った。あたかも、古く苦い思いを飲み下すように。
「復讐……? どうやって?」
僕は痛々しい思いに苛まれながらも、尋ねずにはいられなかった。
するとフミトは迷いなき声音で、折れそうになった時、恐らく自分自身に何度も言い聞かせたであろう言葉で答えた。
「この世界で……生き続ける。春香を殺し、忘れた世界で……俺だけは最後の最後までこの世界に踏みとどまり、春香を覚え続ける。それが俺の復讐であり、俺のエゴだ。だから……ははっ、生き残る為ならどんなことだってするさ」
初めてこの男を理解できた喜びと共に、
「そうか……僕たちは、全く違った方角を向いてるんだな」
「……………」
決してお互いを分かり合えない嘆きが、二人の間には横たわっていた。仄暗い虚無感が、鏡の上の曇りのように僕の意識に影を落とす。
喜ばしいような、やはりうら哀しいような……二つのエゴ、二つの生き方。
異世界に燃える二つの魂の――。
「なら僕は僕のエゴで、唯笑とこの世界を去ろうと思う」
二度目となるその言葉に、フミトは何も答えなかった。ただ僕を見る目に言い知れぬ寂寥、漠たる寂しさのようなものを灯らせるだけで……。
彼に『それは逃げだ』と言われた時、心が風に吹かれた木立のように、ざわめかなかったといえば嘘になる。
けど僕はもう、僕の選択を曲げるつもりはなかった。
これから取るべき一歩を考えると、様々な感覚、生々しい思い出、暗闇に僕を引きずり込み何処かへ放り出した願い、欲望、エゴ。そういった物が、旋風となって通り過ぎた。
一切が通り抜けていく中で、今が一つの好機であることを知る。
恐らくその一歩を踏み出さなければ……僕は、僕たちは再び、その旋風に弄ばれ……。
『ユウ、ちゃん……私、私、もう……』
気づけば手に汗をかいていた。心の澱みが掻き回され、見まいとしていた汚いものが、ぬらぬらと目の前に浮き出たかのようで……。
思わずそれを舌で舐め取る。
僅かな塩辛さには、生の心地がした。
唾液に濡れた手の一部が、蝋燭の光でぬらぬらと光る。拳をぎゅっと握り込んだ。恐れるべきでないと自分に言い聞かせる。
――僕という存在の間を、無限の速度を持つ何かが通り過ぎていった。
僕はそのままフミトに、今後の計画について話した。
組織を裏切ったと見せかけた僕が、敵対する組織に偽の情報を売る。そのことで敵対する組織の主力を罠にかけ、最終的には殲滅を図る。
それは取引という形を取り、功利主義的な計算からいえば悪くないものの筈だった。
僕の要求に比して、その計画は大きすぎたかもしれない。しかし出来るなら、この世界でフミトに受けた恩を返したいと願ってもいた。
彼の目的がこの世界で生き延びることにあるのなら、組織の基盤を盤石にすることは重要な意味を……。
「ははっ、面白い計画だ。その為にお前は汚れ役を買って出ると? その為にお前のエゴに付き合えと、そういう訳だな? ……ふざけるなっ! 俺が、俺がそんな誘いに乗ると思うのか?」
「乗らないなら、首領に話を持ち掛けるだけだ。僕だって、こっちの言葉はもう不自由なく話せる。いや、だけど……フミトは必ず乗る」
僕は確定した未来を語る予言者の様に、厳かに断言した。それが気に食わないのか、フミトが吼え立てるように言葉をぶつけてくる。
「なんだとっ!? …………何故そう思う?」
「フミトは……そういう男だからだ。なぁ、どうして僕と唯笑は揃ってこの娼館に買われたんだ?」
すると彼は、何をそんなことを、と呆れたように肩を竦め、
「ユエは上玉の上に異世界人だ。高く娼館で売れる。お前は単純に奴隷として……」
「なら、どうして僕は唯笑と出会えたんだ? 唯笑が悲鳴を上げた時、フミトはどうしてあんなタイミングよく現れた? それは……全て、全てあんたが僕と唯笑を会わせる為に――」
フミトは馬鹿らしいと鼻を鳴らし、杯に酒を注いだ。
「おいおい、同じ世界の出身者だからって、俺がお前たちに特別に目をかけてるとでも思ってるのか? 阿呆がっ! お前らは俺の駒に過ぎない。いいだろう、教えてやる。それはだな……お前を殺しの道具にするためだ。ユエの純潔を人質に取れば、お前は必ず殺しの誘いに乗って来ると思った。この世界でも、自ら進んで殺しをやりたがる奴は少ない。唯笑の娼婦としての収入も……まぁ少しは目減りしたが、お前から全て回収出来た。殺し屋をタダで飼える。組織にとって、これほどに美味しい話もないからな。その目論見があったから、お前たちを揃って娼館で引き取っただけの話だ」
彼は全てをあけすけに語ると、突如としてわざとらしく笑った。
僕は彼の語った事実に、多少なりとも衝撃を受けた。だがフミトの笑いは寒々として、乾いていて……僕にはどんな感慨も湧きおこらなかった。
「そうか…………それでも僕は……フミトのお陰で唯笑を守ることが出来た。感謝してる、有難う」
「はぁ? お前を人間の道から踏み外させた俺に礼を言うなんざ……そうか、ユエにあてられて、お前もついに狂っちまったのか? こりゃ可笑しい。傑作だな」
フミトは殊更に自分を貶めるような言葉を紡ぎ、手を叩いて腹を揺らした。
人生の最奥に潜んでいる大きな悲哀が、彼の精神をすっぽりと包みこんでいるように感じた。刺しこまれた言葉の棘先。その苦痛が彼の魂に浸み込んでいるように……。
「フミト……」
「あぁ? 何だよ、急に改まって」
酒で濁った眼をしているものの、嘘のように整った彼の顔をマジマジと見つめる。凄絶な経験がいよいよ彼の美貌を磨きあげ、神話時代の神すらも嫉妬するような美しさに、暫し見惚れる。
『俺がお前を助けてやる』
『お前、殺しをやれ』
『分かってる! だから、もう喋るな!』
『ど~だ~警備の仕事は~?』
僕のこの世界での唯一の幸運にして不幸は、彼と巡り合ったこと。
彼がいなければ、唯笑とは永遠の離別の彼方にあり、彼がいなければ、僕と唯笑が人を殺める稼業につくことも……なかったのかもしれない。
でも僕は間違いなく彼に感謝していた。気恥ずかしくて表には出さなかったが、明るい光を恐れるような淡い親愛の情すら、彼に……。
「僕はフミトを……この世界で出来た、たった一人の友達だと思ってる」
万感の思いを抱き、たった一人の友を、友人を眺めて言う。
フミトは目を逸らし、吐き捨てるように言った。
「……よせよ。友達だなんて……気色悪い」
ふと感傷的になっている自分に気づく。
僕は不貞腐れた子供のようにそっぽを向いている彼を可愛く思い、
「フミト、今まで本当に有難う。計画に乗る気になったら、誰か使いを出して教えてくれると嬉しい。それじゃ……」
彼にそうとだけ伝え、そのまま踵を返した。
だが扉を開き、部屋を退出する間際、
「お前は……お前は、たった一人の友人すら見捨てていくのか?」
フミトが自分を嫌悪するような苦渋に歪んだ声で、僕に問いかけた。
僕は顔だけ向き直ると、その問いには答えずに言った。
「フミト……お前は生きろよ。この世界で……ハルカさんと共に」
執務室を退出すると、背後からは杯が床に叩きつけられて割れる乾いた音と共に、彼の自暴自棄な笑い声だけが聞こえてきた。