12.涙
そんなある日の朝、薄明かりに促されて目覚めると、隣のベッドの唯笑が、幼い子供のような泣きな方でえぐえぐと涙を流していた。
「唯笑……?」
「あ、……ユウ……ちゃん」
「どうしたの? どこか痛いの?」
常ならぬ様子に不安を覚え、隣に腰を下して彼女の手を握る。すると唯笑は泣きながらも気丈に、儚げに笑った後に言った。
「夢、……夢を見たの」
その笑顔と言葉を前にした僕は、思わず息を飲む。
僕には唯笑が、嘗ての唯笑を取り戻しているように見えた。現実に押し潰された彼女の精神が、一時的に戻ってきたかのように……。
僕は内心の動揺を悟られぬように、眉根を寄せて、押し出すように無理やり微笑み、
「そう……どんな夢?」
手の檻に捕らえた蝶を、壊さぬよう、崩さぬよう、細心の注意を払って取り扱うように、そっと唯笑に尋ねた。
すると彼女は、震えた声でこう答えた。
「私と……ユウちゃんが……一緒に、学校に通う……夢」
聞き終わるや否や、僕の秒針は動きを止めた。
学校に通う……夢。
それはこの陰惨な世界にあって、何と牧歌的で温かな響きだろう。
記憶の底に沈殿した思い出が、一度に湧き上がってくる。様々な温かい感情と共に。幾多の笑顔と共に。無数の未来と共に。
『ユウちゃ~ん、急がないと学校に遅刻するよぉ!』
『お~い、待ってくれってば唯笑ぇ!』
『あはは、ほらほら。急いで、急いでぇ』
その思い出が眩ければ眩いほどに、現実との落差に打ちのめされた。全身の血液が一度に凍りついたかのような、寒々とした思いに襲われる。
何か言葉を繋ごうと試みるが……声帯が麻痺してしまったかのように、口を開いても言葉が出てこない。
俯きかけた顔で、思わず唯笑の瞳を見る。感情の運動によって瞼が震え、水の膜が温かく光っていた。
唾を何度も飲み込む。だが知性が記号の使い方を忘れたかのように、言葉を吐き出すことが出来ず……。
「あの頃は、幸せ……幸せ、だったな……」
「ゆ、え…………唯笑ぇえ!」
彼女の瞳から涙が零れるのと同時にようやく声を上げ、左手で細い体を抱き寄せた。そして頭を右手で胸にかき抱き、そのまま強く、強く力を込めて抱きしめた。
すると堰を切ったように唯笑の激情が世界に溢れ、それと共に熱い雫が……。
「ユウ……ちゃ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! ユウちゃぁぁあぁん! うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
胸には寂寥が嵐の様に吹き荒れていたが、歯を食いしばりそれに耐えた。
彼女と一緒にこのまま泣くことが出来たら、どれだけいいだろう。衝動に駆られながらも、指先に力を込め、ブルブルと震えさせながらそれを遣り過した。
灼けるような憂愁と、こもった哀愁とが混じり合い、両眼から流れることを欲する。でもそれが一筋でも流れてしまえば、声を上げ、泣き叫んでしまうだろうという確信があった。
「ユウちゃあぁぁん! ユウちゃぁっぁぁぁん!」
「くっ、ゆえ……唯笑ぇ……」
僕は彼女の恋人として、彼女を甘えさせてやりたかった。
胸でただ一人、泣かせてやりたかった。
だから瞳の奥の欲求に耐えた。
顔をくしゃくしゃにして……一人、耐えた。
一分とも、十分とも、一時間とも思える永遠の中。
唯笑の泣き声は、次第に嗚咽へと変わり……やがて彼女は僕の胸に顔をうずめたまま、籠った声で、問いかけるような言葉を紡いだ。
「ユウ、ちゃん……私……自分が、どうにかなっちゃったって……分かってるよ」
自嘲が湛えられたような響きを持つからこそ、その言葉は一層に悲しく、僕を静かで透明で空白な感慨の中にそっと取り残す。
やがて空虚が冷たい感触を伴い渦を巻くと、彼女は涙に濡れた面を上げ、悲哀に顔を歪ませて僕に尋ねた。
「でも……ねぇ、教えて……ユウちゃん。狂ってるのは、やっぱり……私なの? それとも……この……世界なの? ねぇ、教えてよ……ユウ、ちゃん……私、私、もう……」
その言葉は啜り上げる声の間から、途切れ途切れに、壊れ物のような形で出てきた。弱々しく連なる声は、発せられて空気に触れる度、次々と灰色になって死んでいくようで……。
「唯笑……やっぱり、元に……」
僕は彼女の瞳の中に、清らかな小川のように澄んだ、陽の光に美しく輝くものを見た。だが僕の感慨も空しく、その直後に彼女の瞳は曇り、それと同時に世界に物悲しい笑い声を――。
「あはっ! あははは! あはははははははははは!」
白紙のように褪めた僕の心は、静かに彼女の名を求めた。
「唯笑……」
その中で考えた。
恐れるような気持で――考えた。
この世界が狂っている訳では…………………ないのだ。
世界は常に、そこにありの儘に存在するだけ。狂う、狂わないの対象とすべきものではない。何故なら世界こそが、一つの現実だからだ。
なら唯笑が狂っているのか? 唯笑だけが狂っているのか?
心やさしい、あの唯笑が……。
『ユウちゃんのお婆ちゃん……私も、大好きだったよ』
胸の中を寂しいものが、一条の飛行機雲のように通り過ぎた。思わず頭が垂れ下がると、涙がとめどなく、雪解け時の泉のようにあらゆる感慨を伴って湧き出でた。
世界は、現実は、余すことなく僕らに開かれている。けど僕らの存在は、どこまで行ってもこの世界で沁み入ることは出来なかった。
フミトのように才覚がある訳でもなく、特殊な才能もない。ただありの儘の人間。ありの儘の凡人として、異世界に遣って来てしまった。
その中で僕らは、必死に生きた。
だけど僕らの居場所はこの世界にはなく……彼女は狂い、僕も……。
『ユウちゃん。狂ってるのは、やっぱり……私なの? それとも……この……世界なの? ねぇ、教えてよ』
僕は彼女に対して、何がしてやれるだろう?
異世界の現実に蝕まれ……精神の平衡を失ってしまった彼女に……。
その時になって、ある考えが僕を捕まえた。
紫空の僅かな隙間から、一本の震える細い光が僕の心に射し込み、小さい、燃える松明のような閃きをもたらす。
――ただ一つ……出来ることがあった。
狂ってしまった彼女に対して……無力な僕にも出来ることが。
そのことに気づいた僕は、自身に対し空恐ろしい何かを感じた。棘だらけの薔薇を臓腑に収めてしまったように、ちくちくと情緒が痛む。
しかし疑念さえ、淡い夢のように僕の確信を暈すだけで……。
その考えは篝火のように燃え続け、やがて生ぬるい薄靄のような期待や欲望、不安。僕の心を静かに覆っていたそれらの物を、一挙に退けさせた。
その為に僕の心は全くの空虚で、がらんどうで……。
中身のない、底に腐食穴が開いたブリキ缶のように一切がないからこそ、不思議と満たされた感に打たれた。
涙を手の甲で拭い、面を上げる。そして乾いた笑いをまき散らしている唯笑を、愛しい物をみるように目を細めて眺めた。
――唯笑を、彼女を、この世界から……。
心は夜露を吸った草花のように、得体の知れぬ瑞々しさで湿っていた。