11.慟哭
あの夜以降、唯笑はフミトから本格的に技術指導を受け始め、殺しをやるようになった。
「あはぁ、ユウちゃん、ただいまぁ~。あはははははは!」
「唯笑……」
「あははぁ! 今日もちゃ~~んと殺して来たよぉ! ねぇねぇ? 凄いぃ? これでお薬も買えるよぉ!」
「唯笑、もう体を拭いて寝よう。なっ?」
悲しいことに、気が触れてしまった今の唯笑には殺しの才能があった。
体が強張ることも、ましてや精神が強張ることもなく……笑顔さえ浮かべて、目標に対して躊躇いなく毒を盛り、刃を振るった。
またナイフはもとより不意打ちの手段や飛び道具の扱い方、その他、戦闘で必要となる絡め手に関しても、フミトから熱心に教わっているようだった。
まるで唯笑の全存在が殺しの道に没入することを欲したかのように、彼女は忘我の先にある獣じみた俊敏ささえ身につけ、その後一年足らずで殺し屋として生彩を放つようになった。
その成長速度はフミトの言を借りるならば「不気味」と評される程のものだった。
「唯笑う……か、ユエの両親も皮肉な名前をつけたもんだ」
彼女が訓練を初めて間もない頃。執務室で僕が首領とフミトに町の状況を報告した後、フミトがポツリと言った。
意味を理解しかねた僕は、彼に疑問の眼差しを向ける。
「アイツな……戦闘訓練の時、狂ったように笑ってるんだ。飲み込みも速く、身のこなしもいいが、それだけが問題だ……ユエは殺しを楽しんでる節がある」
翌日の正午を少し回った頃、僕は戦闘訓練を見学に行った。
確かにその時、唯笑は笑っていた。フミトと模擬ナイフで応酬をしているにも関わらず、呼吸をするように。つまりは意味がないのに、唯、笑っていた。
「あは、あはははははは! 気持ちいぃ! あははは! あははははははは!」
「ったく、このキ○ガイがっ! 殺しの時は、絶対に声をあげるんじゃねぇぞ!」
「そんなの分かってるよぉ! あは! あはは! あははははははははは!」
僕はそんな光景を見ていられず、一人、踵を返した。胸を締め付ける遣る瀬無さを感じ、思わず空を見上げる。
紫空の世界。ciel mauve。
一筋の透明な寂しさが、空から僕に注がれているような心地になる。
彼女の喜色に富んだ瞳の色を見て分かった。フミトが言うように、唯笑は今の仕事を楽しんでいた。
当初の目的は、僕の鎮静薬を買う為だったのかもしれない。しかしお金が十分手元にある状態にも関わらず、唯笑は日々、嬉々として仕事に出向いていた。
以前、彼女は娼館の娼婦でありながらも、その実どこにも所属していなかった。帰属のない、枠のない、宙ぶらりんな状態。
その状態が、彼女の精神を密かに苛んでいた……と、遅まきながら気づいた。自分の存在意義を見つけられないのは苦しい。例えそれが、どんな些細な意義であっても。
唯笑はこの世界での存在意義を、僕の望み通りに、常に笑うことで果たそうとした。だがそれには……無理があったのだ。それは所詮、強制された物に過ぎないのだから。
今、唯笑は殺しの現場に身を投じることに喜びを感じ、それが彼女の存在意義にまで昇華しているように感じられた。
”狂う”ということがどういう事なのか、専門家でない僕には分からない。ただ嘗ての唯笑は、現実に押し潰され、彼女の精神から消えてしまった。
その中で、ひょとすると”狂う”ということは、精神の逃避であると同時に、現実へ適応する為の一つの手段なのかもしれないと考えた。
意識を持ってしまった人間。自我を持った存在が、苦しみの中で生き延びるための手段。
そして今、この世界に適応した別の唯笑が存在意義を得て……。
精神に強く留められている。
彼女はもう、唯笑でありながらにして唯笑ではなかった。僕は本当の意味で、あの晩に彼女を失ってしまったのだと知る。
彼女の優しさ、心根の美しさは変わっていない。僕に向ける親愛の情はいよいよ深く、無邪気に僕を愛してくれた。
でも……僕やフミト以外には、冷淡で残酷で、容赦がなかった。
僕が戦闘訓練を見学する幾日か前。唯笑をフミトの直属の部下だと知らない末端の構成員が、下卑た笑みで彼女の手を取り、暗がりに連れ込んだことがあった。
――その後、男は無残な死体で発見された。
彼女は僕やフミト以外には懐かなかった。明るく笑わなかった。ただ無言で口の端を歪め、虫けらを見るみたいに冷たく笑った。
だが戦闘訓練では笑っていた。
僕に向ける声音とは違う、純粋な興奮に歓喜する声音を上げていた。
彼女は間違いなく、今、この世界に所属していた。
それが嬉しいことなのか、悲しいことなのか……僕には判断がつかなかった。
唯笑が仕事に赴き、自室で一人の晩。
僕はそのことを思い、一人で感情を処理した。
枕に顔を埋めると、胸を引き裂かんばかりの慟哭がこみ上げて来た。やがてそれは、けたたましい号泣となって外に迸り出る。
その声を外に漏らさぬように、僕は更に強く枕に顔を埋めた。枕を噛みしめ、血の出るまで自分の手を噛んだ。
皮肉なことに、唯笑の買ってくれた薬草のお陰で仕事は順調だった。彼女の稼ぎもあり、暮らしも随分と楽になって広い部屋を割り当てられ、ベッドも二つになった。
殺した男の夢にうなされる回数も、月日と共に減っていった。その日々の中で、僕はciel mauveの世界を観察した。
日本と違い明瞭な四季はなく、こちらの世界の暦の一年を通じて温暖ではあったが雨が少なく、冬の時期に相当する季節には酷く冷え込んだ。
また自然はありのままの姿で僕に開かれていたが……それに溜息を吐くことは滅多になかった。紫の空とのコントラストは、美を著しく阻害する。
それでも、寒い季節に降りしきる雪だけは、純粋に美しいと感じた。悲しみの欠片のように、紫の空から舞い落ちる白い結晶。
淀んだ石造りの街の景色は、雪のために美しく、儚く、陰惨に見える。人の欲望や生活の苦しさが作った風景の傷口を隠す、包帯のように……。
気候と土壌の関係か、作物も豊富とはいかず、物価は不安定。
皆、自分の生にしがみ付くのに精一杯だった。
偶には唯笑と二人、近くの森にピクニックに出かけることもあった。その際にふと、この町から逃げ出そうかという思いが頭を過る。
しかし、次の瞬間に思わず自嘲した。
どこに逃げるというのだ……一体?
ciel mauveの紫空からは何処へ行っても逃れられない。例え他の町に逃げたとして、そこで僕らは何をする? どうやって生きる?
こちらの世界の言葉は流暢に話せるようになったが、まともな職にありつけるとは思えない。再び同じような稼業につかざるを得ないことは明白だった。
いや、ひょっとすると更に……。
「あはぁ、ユウちゃんどうしたのぉ? 難しい顔ぉ、あは、あははははは!」
「唯笑……いや、何でもない。帰ろうか、ほら手を出してごらん」
「うん! あはっ! あははっ! あはははははははは!」
そうしている内に、この世界に来て、こちらの暦で四年が過ぎようとしていた。