10.事実の重み
その夜、いつものように娼館の使用人に先導され、唯笑の仕事部屋に訪れると、
「あはぁ~~! ユウちゃんだぁ。あは、あはははは、あははははははは!」
唯笑を唯笑として貼り付けていた精神の留め具が、全て外れてしまったように……彼女は焦点の合わない目で、死にかけた鳥が叫ぶように笑っていた。
変わらない現実に思わず拳を握りしめ、臍を噛む。
『おい、ユウ……お前、嬢ちゃんに何をした?』
唯笑の異変に気づいたフミトに執務室に呼び出され、そう尋ねられた際。僕は彼女との間に起こった事を、虚飾を交えず、ありのままに話した。
『そうか……ふざけるなぁぁあ!』
すると彼は眉を吊り上げてソファから立ち上がり、怒りの形相で僕に掴み掛った。
『お前……嘘の一つも抱え切れねぇような男だったのか!? 何故だ、何故……騙し続けなかった? あぁ!? 一度騙したんなら、最後まで騙し通せよ! ……クソッ! 何で、何でお前も……』
冷静な男が見せる、初めての激情だった。
だがその言葉は、なぜか痛々しく僕の耳に響いた。不思議と、彼が彼自身に怒鳴りつけているように聞こえたからかもしれない。
精神の平衡を失ってしまった唯笑の娼館での価値は、驚く程に下がった。娼婦の中には仕事が嫌になり、わざと気狂いを演じる人間もいるらしいが……残念なことに、唯笑のは真正のそれと判断された。
僕は貯めていたお金で、唯笑を身請けした。
そして僕にあてがわれた狭い部屋で、彼女と二人の生活を始めた。
「あはっ、あはは! ユウちゃん、ねぇねぇ、どこいくのぉ? あはは!」
「唯笑、今から仕事に行ってくるから、いい子で待っててくれよ」
「仕事って殺しぃ? 殺しだよねぇ? あははは、誰をぉ? 誰を殺すのぉ?」
「唯笑……お願いだ、僕を困らせないで――」
「あははは、殺しだ殺しだぁ~、ユウちゃんは人殺しだぁ~あはははは!」
僕の殺しの腕は、日増しに鈍っていった。
背後から目標に近寄り、毒針やナイフを煌めかせる瞬間。或いは、敵対する組織の人間と殺し合いを演じる時。
殆ど条件反射的に、死んだ男の顔が頭の中に去来し――。
「ユウ、お前……またしくじったな」
「……すまない」
そう言葉を返すと、フミトは苛立たしげに頭を掻き毟った。そして直感ではなく、確信に近いものを滲ませた表情で、
「お前……死体の顔を見たな」
「――っ!?」
答えずとも、その反応が全てを如実に物語っていた。
フミトはソファから立ち上がると、殊更大きな溜息を吐いてみせる。盗み見た瞳には苛立ちとは正反対の……静かな、青みだつような悲しみが灯っていた。
彼はその感慨のまま、僕にゆっくり視線を向けると、
「もう……お前はいい。今後は町の警備の役に回ってくれ。金はうんと安くなるがな……嬢ちゃんを身請け出来たんだ。文句はないだろ?」
片頬を窪ませ、口だけで笑いながらそう言った。
「でも……それじゃ、殺しは誰が?」
気後れを感じ、僕は思わず尋ねる。
彼は目を逸らして、ゆっくりと答えた。
「……さぁな?」
それ以降、僕は組織の管轄する縄張りの警備をしたり、フミトに請われて構成員の戦闘訓練を請け負い、生計を立てた。
殺しはもう……しないし、出来なかった。
その為、対立する組織の資金源となる人物や支援者を暗殺。或いはこちらに向けられる刺客を駆除することが出来ず、組織は被害を被った。
僕の他にも、フミト直属の殺しを専門にする部下が何人かいた。しかし、金を第一の目的としている彼らには毒の使用が許可されておらず……時にはフミトが現場に出向いているという噂も耳にした。
その間、僕は人の間から外れてしまった自分が出来る仕事を、懸命にこなした。今思えばその時期は苦しくもあり、それと同時に楽しくあったのかもしれない。
「あはぁ。ユウちゃん、おかえりぃ! あは、あははははは!」
「ただいま、唯笑。いい子にしてたかい?」
家に帰れば……壊れてしまったけど、大切な人が、唯笑がいて。死に晒されるような経験もなく、貧しかったが、慎ましやかな生活を……。
だが二人の生活は、弱い光源から発せられた光が、深い暗闇の中を進むように、徐々に先細って行った。
それと言うのも生活費の他に、僕には”あるもの”が必要になったからで、
「うあぁぁぁぁぁぁあ!? あっ!?」
僕は未だに、殺した男の夢にうなされていた。
無意識の領域に一度入ったものは、簡単には出て行かない。むしろ夢に出れば出る程に、男の印象はいよいよ強まり、殆ど妄念となって僕に憑りついた。
また一度起きてしまった後は酷く精神が昂り、眠りにつくことが出来ず……。
「あはぁ、ユウちゃんまた飛び起きてるぅ。あは、あははは!」
「唯笑……ごめんな、また起こしちゃって」
「お薬ぃ! あは、あははぁ! 早くお薬飲みなよぉ。あはははは!」
「あ、あぁ」
そんな時は、フミトが回してくれた鎮静作用のある薬草が役立った。しかしそいつは、驚くほどに値が高かった。
フミトが僕を搾取している訳ではなく、純粋に貴重な薬草のようだった。僕は薬草を煎じたものを飲み下しながら、自分が悪循環に迷い込んだことを知る。
眠れないと碌な仕事が出来ず、収入が減る。収入が減ると生活費を賄うことが苦しくなり、鎮静薬も買えず……鎮静薬がないと眠れない。
眠れない日々の辛さは、正にその当人にならないと分からない。
一晩に数時間しか眠れない状態が何週間も続くと、極限まで疲れ果て、今度は疲れ過ぎて眠れなくなる。
――ここに意識を持ってしまった人間存在の、奇妙な逆説が存在する。
ベッドで静かに体を横たえていると、日々の不安や将来のことが頭の中を駆け巡り、ますます眠れなくなる。ようやく眠れたかと思えば、今度は悪夢で叩き起こされる。
お酒に手を伸ばそうかとも考えたが、フミトに黙って頭を左右に振られた。やめておけ、今よりもっと辛くなる……と。
そんな状態が何か月も続くと文字通り、現実が死にたくなる程の辛さで圧し掛かって来る。唯笑はそんな憔悴しきった僕の顔を、時折不思議そうに眺めていた。
「あはぁ、ユウちゃん眠れないのぉ?」
「うん……まぁね」
「あはぁ? あははははぁ? お薬はぁ? お薬はぁ?」
「もう……手元にはないんだ」
「そっか~、あは! 最近、ユウちゃん人を殺してないもんねっ! あははは!」
「……さっ唯笑はもう寝な。いい子だから。ねっ?」
僕は唯笑の健やかな寝息を聞きながら、自分の苦痛を眺めた。肉体の苦痛を、精神の苦痛を、明りの灯らない部屋で一人じっと眺めた。
僕は彼女を守ろうとして、自分のエゴで人を殺した。でもその守ろうとした彼女を、僕自身が壊し……今、その欠片を必死になって胸に抱きしめている。
人間そのもののような滑稽な生き方に苦笑する。
またその際、自分に別の可能性が無かったであろうかと思案する。だが何度考えてみても……僕はこの道を取らざるを得なかった。
追憶の中で人は、当時の自分を鑑みて、そこに幾多もの選択肢があったかのように幻想してしまう。
しかし人は結局、選べる道しか選んで来ていないのだ。
追憶に、情念の色は映らない。
その当時の自分が持つ、燃え立つような情念の色は……。
だから勘違いしてしまう。
あたかも、そこにはもっと多くの選択肢が存在していたかのように。
今の自分には、そのことが手に取るようにはっきりと分かった。
その誤謬が、人間が持つ、その大きな悲哀が。
そして想った。
選べる道の果て、必死になって自分が手に入れた物のことを。壊れた彼女と僅かな自由。眠れない日々と、仮初の平和のことを。
やっぱり何度思い返しても、今思えばそれは幸せな時期だった。
これから訪れるciel mauveの世界を覆う空のような、救いのない未来に比べれば。
ある日、深夜に近い時間帯に仕事から戻ってくると、にわかに興奮した唯笑が大金と大量の薬草を手にし、落ち葉のように乾いた笑いをまき散らしていた。
「あは、あははははは! ユウちゃんが帰ってきたぁ! あははははははは!」
「唯笑……このお金は? それに鎮静薬も……こんなに沢山」
すると彼女は「あはぁ」と首をかしげた後、事も無げに言った。
「あはは! 殺して貰ったに決まってるよぉ。あは、あははは!」
冷たい戦慄がその場に走る。
僕は唯笑の言葉の意味が分からなかった。
「唯笑、今……なんて?」
「あははははは! だ~か~ら~! 人を殺して貰ったんだってばぁ。あはぁ、あはは! ユウちゃんと一緒ぉ。これで私も人殺しぃ。あは、あははははは!」
僕は部屋を飛び出し、首領の執務室に向かって駆けた。首領は留守で、フミトがだらしない恰好でソファに腰掛けて酒を飲んでいた。
「フミト! これは……これはどういう事だ!?」
「おぉ、ユウか? どうだ~警備の仕事は~?」
剣呑としたとした僕の言葉を、鷹揚な言葉で覆うフミト。
僕はその態度に焦れ、声を荒げる。
「今は! 今は、そんな話をしてる場合じゃ!」
「おいおい、随分じゃないか。まぁいい、あの嬢ちゃん……よっと、ユエのことだろ?」
フミトは面倒臭そうに答えると、ソファから立ち上がった。酒臭い息を僕に吐きかけ、へらへらと笑う。
僕は幻滅に眉を痙攣させながら、
「唯笑がさっき……殺しを、殺しをしてお金を貰ったって――」
掴みかからんばかりの勢いで、彼に詰め寄る。するとフミトは急に顔を引き締め、猛禽類のような鋭い目つきで僕を射抜き、言った。
「事実だ」
覚悟していたにも関わらず……フミトの言葉はナイフの鋭さをもって、僕の意識に突き立てられた。
「フミ……ト……?」
「俺達の縄張りと他の組織の縄張り。その中間地点にユエを立たせ、目標に買わせた。女の殺しは楽だ。花を売る振りをして、殺しをさせる。ユエは精神はイカちまってるが、奇麗な顔をしてるからな。驚くくらい簡単にことが進んだ」
すると彼から紡がれた言葉という言葉が、統制を失って狂い始めた群衆の如く、僕の意識の上で暴れた。
――唯笑が、人を……殺した?
そしてさんざん暴れ回った後に、冷酷な真実だけを残して去って行く。
僕は愕然と、その場に膝を折り項垂れた。思考が停頓し始め、事物が上手く認識できず、混乱した。
「そ、そんな……そんなことって!」
現実を恐れ、意識は自然と逃避の道を選ぶ。そんな僕の胸倉をフミトは掴んで面を上げさせると、光を失いかけた目に挑むように迫った。
「いいか、ユウ。よ~く覚えておけ。異世界で生きるってことは、そういうことだ。ciel mauveの世界だけなじゃい。元いた世界のことを考えてみろ。目の色も、骨格も違う上に、言葉が通じない人間が突然現れたらどうする? 暖かく手を差し伸べるってか? どんな冗談だよそれは!? 無視する、気味悪がる、そればかりか排斥して隅に追いやろうとする。ならそんな奴は、どうやって生きればいい?」
僕はフミトの問い掛けに対し、現実を拒むように頭を左右に振る。
嘗て現実を、これ程までに恐れた事はなかった。
「人の間から離れて、人間じゃなくなって生きていくしか方法がない! 現にお前もそうして……お前がユエの純潔を守りたいがために、人を殺す道を選んだ。ユエもユエのエゴで……壊れちまったあのエゴで、お前を守りたいと思った。だから、殺しを自ら進んで申し出た……ただそれだけだ。ただ……それだけのことだ」
彼が手を離すと僕はその場に崩れ落ち、両手を床に着いた。茫然自失となり、「そんな……唯笑が……」と虚ろに呟く。
そうしている間にも……。
情け容赦なく、時間だけは着実に滴り落ちていった。