1.プロローグ
僕の恋人の名前は、唯笑という。
〝いつも笑っているように〟
そんな願いを込めて心優しい両親が授けた、命の次、二つ目のプレゼント。
唯笑と僕は、保育園以来の幼馴染だった。
お遊戯の王子様と王女様役で仲良くなり、小学校では気心の知れた異性の友達として、中学校では気になる異性の一人として、同じ時間を過ごした。
彼女はその名の通り、いつも笑っていた。
嬉しい時には花が咲くように。辛い時には眉根を寄せて困ったように。悲しい時にも気丈に口角を上げて、光が散るように、淋しく明るく笑った。
僕はそんな彼女に、いつしか心惹かれていた。希望を打ち鳴らす鐘のように、いつも笑っている彼女に。
彼女が笑うだけで、周りにいる人は何となく幸せな気分になる。気づけば自然と微笑み、辛く悲しい時でも、未来を信じてみたくなる。
僕が彼女と付き合い始めたのは、中学二年生。
霧のように染み透る冷気が重い、冬の頃。
――身近な人の死。
祖母の死に見舞われたお婆ちゃん子の僕は、今の自分がありありと感じている悲しみを、本当の意味で誰とも共有できないことに、感傷的になっていた。
でもそのことを、決して同級生に悟らせないようにしていた。
だけど……唯笑だけは僕の心情に気づいていたんだと思う。
昼休みの喧騒の中、連れ立って遊びに行く仲間に、
「日直の仕事があるから、ゴメン」
努めて明るく笑って誘いを断り、一人、寂寥に身を委ねていると。
「ユ~ウちゃん! 何してるの?」
「唯笑……学級日誌だよ。なんだ、唯笑は遊びに行かなくていいのか?」
「えへへ。ん~~、いいのっ!」
いつの間にか傍にいて微笑みかけてくれた。
その彼女の優しさが有り難くて……でも何処か自分が情けなくて……。
気付けばある日の放課後、僕は彼女に尋ねていた。
「どうして唯笑は……僕の傍にいてくれるんだ?」
すると唯笑は一呼吸挟んだ後、躊躇いがちに笑った。やがて、いつもとは違う落ち着いた……何かを慈しむような表情で僕に言った。
「優しいユウちゃんが、好き……だから。悲しくて、辛くて、それでも人に優しくしようとしてるユウちゃんが、好きだから」
その瞬間、僕は愕然として目を見開いた。
止まった時間の中、果たして僕は人に優しくあろうとしていたのかと疑問を持ち、いや、そんな事実はなかったと思いながらも……ふと、そうだったのかもしれないと思い至った。
〝皆にやさしくねぇ、ユウ〟
生前よく言っていた祖母の言葉が、脳裏を過り――。
「ユウちゃんのお婆ちゃん……私も、大好きだったよ」
その時僕は、葬式の日に流せなかった涙を流し、彼女の想いに応えた。
「僕も、僕も唯笑が……いつも笑っている唯笑が……大好きだよ」
それから僕たちは、以前にも増して一緒にいるようになった。
同じ高校に進学する為に一緒に受験勉強をして、高校では中学に引き続き同じ陸上部に入って……休日は恋人として二人で出かけた。唯笑は高校でも、やっぱりいつも笑っていて、僕は彼女のその姿に満足していた。
彼女は――正にその名の唯笑という在り方が――僕の誇りだった。
だから願っていた。
いつまでも、いつまでも、彼女が僕の隣で笑っていますように……と。
「あは! あはは、あはははは! あははははははははははは!」
その唯笑が今、ciel mauveの世界で狂ったように笑っている。
元いた世界では、決して見せない笑い方で。壊れた、犯された、過去の自分を冒涜するような笑い方で。
そして死人のように静まり返った夜の中、ナイフを片手に、二人の間に横たわった距離を詰めてくる。
尋常ならぬ俊敏さで。
銀色に煌めくその切っ先で、僕の命を奪おうと……。
報われぬ世界の最果て。青ではなく紫が支配する天球の中で、僕は覚悟を決めて、彼女に相対した。
――初撃、その初撃さえ退けることが出来れば。
僕の静かな願いは湿った夜の底に沈む。
やがてその時がくるのを、呼吸を震わせて待ちながら……。