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魔術・神秘・怪異

赤い竜の夢

作者: 沼津幸茸

 長月典太郎は明晰夢を見ないことにしている。魔術を齧り、夢想術などにも手を出し、夢をある程度自由にできるようになったばかりの頃は毎晩のように夢の物語を楽しんだものだが、学問を深めるうちに、彼は夢の危険性を知ったのである。

 比較的新しい観点に基づいて分析すると、夢とは意識と無意識の交流であり、精神の休息である。伝統ある理論体系の用語で言い換えれば、自我(アートマン)非我(アナートマン)の総合的な交流であり、魂の休息である。中立的な表現を心掛ければ、覚醒状態では精神の破綻を防ぐために検閲者とも仲介者とも呼ばれる存在によって隔てられる表層と深層の二領域が交わり、全体の状態を整備する現象である。

 意識が内的宇宙の海に浮かぶ氷山の一角であるとすれば、無意識は暗黒の海面下に潜む巨塊であり、意識と無意識は共に最下部に位置する根源意識の派生物である。夢を通じた意識と無意識の交流は即ち表層意識(アートマン)根源意識(アナートマン)の無意識的邂逅を意味し、それを意識的に行なうことは真の自己(アナートマン)を認識しようとの試みにほかならない。しかし、自らの意志によって暗く冷たくそして深い大海に潜って自己の根底を知ることは、魔術の技法にして目標の一つでもあるが、多大な危険を伴う。精神の大半を占める無意識の力を引き出すことができれば大きな助けとなり、それこそが魔術の奥義ではあるものの、ちっぽけな意識で大いなる無意識を直接制御しようと挑むなど無謀という言葉ですら足りないほどに無謀な振る舞いである。その業はセフィロトの樹における至高の三角形に到達して意識領域を大きく拡張した――或いは全てを非我に呑み込まれた――或いは自我と非我の垣根を取り払った――或いは自我で非我を塗り潰した――想像を絶する大師達にのみ許された高等技法であり、意識と無意識の境界に一々思い悩む達人以下の段階に留まる者の手には余る。未熟者の意識は海に投げ込まれた塩のように拡散して統一を失うのが関の山である。

 したがって達人以下の「常人」――取り分け長月のような徒弟の段階に留まるような低位の者――は、無意識との交流を行ないたければ、一定の安全を確保した魔術の瞑想技法を用いるか、未だきちんとした対面も済ませていない聖守護天使のような仲介者を召喚乃至喚起するか、タロットや筮竹のような道具を介して問答するほかない。それすらも叶わない俗人には、無意識的に無意識に触れる――即ちそれが夢である――ことしか許されない。いずれにせよ、精神の領域を踏破した超越者以外は、夢を意識的に見てはいけないのである。その禁忌を破り続けて己の行ないを省みない者達は、初めに肉体を蝕まれ、やがて精神を冒され、ほぼ例外なく発狂と破滅を遂げる。

 然るに、今、長月は明晰な意識を保ったまま夢を見ている。子供がふざけて混ぜ合わせた絵の具のような斑色をした空間上を色取り取りの光が霞のように流れて渦巻く、眩暈のするような無限の虚無の中に彼は浮かんでいた。灰色の上下に黒のシャツを着た普段着姿で、まるで宇宙遊泳でもするかのように頼りなく、右に左に、上へ下へ、何かの気紛れに弄ばれるように流されていた。

 この状態に気づいた彼は、当初、意図することなく訪れる明晰夢ではないかと考えた。魔術的心得も心理学的手法も持たない者であっても時折明晰夢を見ることができるように、無意識というものは、時たま意識に対して歩み寄りを見せてくれる。それが今起こっているのだと受け取ったのである。

 しかしながら、特定の師を持たなければ団体にも属さずに独学する、本職の魔術師からは妖術師よ黒魔術師よと蔑まれる紛い物のイカサマ師に過ぎないとはいえ、長月典太郎もそこそこの経験を積んで技術を磨いてきたことに変わりはない。明晰夢であるにしては自由が利かず――しかも夢想術がまるで通じない――己の精神の探険にしてはおよそなじみというものを感じられないことから、すぐに自分の見ているものが一般的な意味での夢でないことを察した。

 長月の経験と確認によれば、これは夢でありながらも夢ではなかった。どちらかと言えば、星幽体投射や星幽旅行に近い。セフィロトの樹に見立てた内的宇宙や宇宙の諸相を攻略するパスワーキングにも似ている。だが、決してそれらではない。完全な外部ではないが、完全な内部でもない。内と外が渾然一体を成す異常な領域である。意識の奥深い部分、無意識の外縁かその内部が別の何か――意識か宇宙か――と接続され、長月典太郎という存在を構成する核のようなものが流出してしまったかのような感覚が彼を取り巻いている。これは誰かの夢に忍び込んだり招き入れられたりしたときのそれを思わせる感覚であった。

 不意に引力めいたものを長月は感じた。全身がどこかに引っ張られていく。咄嗟に抵抗を試みたが、海流のように重厚な力の前では意味を成さず、領域の気紛れが望むままに押し流されていった。

 麻痺した時間感覚の中で色彩の海を流されるうち、長月は進行方向上に廃墟のような構造物が浮遊しているのを見つけた。薄暗い中に見えるそれは、全体が石材で出来ていた。角張った土台の上に、破壊によるものか劣化によるものか、長さが不揃いになった太い柱が等間隔で立ち並んでいる。柱の上には治りかけの瘡蓋のように屋根の残骸がこびりつくだけで、ほとんど空に対して開放されている。壁に当たるものは、失われたのでなく当初から存在しなかったようで、その名残すらも見て取れない。そのありさまから長月はパルテノンの廃墟を連想した。

 体は廃墟に向かって押し流されている。どうやら、この領域は彼をあの廃墟に辿り着かせたいようだった。

 近づくにつれ、廃墟の様子が鮮明になった。柱や屋根の表面が千年の風雨に曝されたかのように崩壊しているのが見て取れた。かつては壮麗であったのに違いない彫刻の微かな名残も窺えた。

 更に距離が縮まると、柱の内側に鎮座する何物かの姿が薄らと視界に浮かんだ。鮮やかな赤色をした大きな塊が廃墟の中にある。

 体が土台と外部の境界付近に差しかかろうとしたそのとき、長月は赤い塊の正体を目の当たりにした。

 それは生き物であった。痩せ型の長月典太郎百人分の肉を集めてもまだ足りないであろうほどの巨躯はルビーのように光を跳ね返す煌めく赤い鱗で覆われ、戦艦のように太く長い胴体からは太い爪を具えた短くも逞しい四肢が伸び、鱗が険しく隆起した背からは悪魔的な翼が広がっている。黄金の鎖が繋がった黄金の首輪が嵌められた長い首の先には錐形の尖った頭があり、半開きになった口元からは剣のような牙が覗いている。

 長月はこうした生き物のことを知っている。竜というのである。

 彼はやや浮世離れした知識人の常として、状況を半ば忘れて脇に追いやり、刺激された知的好奇心を満たすために竜の姿を観察した。

 だが、その正体は彼の浩瀚な知識を以てしても判然としなかった。赤い竜は基本的形態においてウェールズの赤竜を彷彿とさせる西洋型のドラゴンでありながらも、蛇体を取ったアステカのケツァルコアトル或いはマヤのククルカン、エジプトのアポフィス、中華の応竜の特徴も併せ持ち、分類を困難なものとしていた。

 体が廃墟と虚空の境目を越えた瞬間、長月は自身を押し運ぶ正体不明の潮流が消えるのを感じた。

 しかしながら、自由を取り戻した喜びを味わう暇もなく、彼はみっともない悲鳴を上げた。消え去った押し流す力は慣性を置き土産としていた。解放された体はそのまま放物線を描いて廃墟に飛び込んだ。予期される苦痛と衝撃に備え、長月は体を丸めて頭を抱え込んだ。

 数秒後、長月典太郎の細い体は継ぎ目一つないざらついた石床に叩きつけられ、二度ばかり弾み、五回ほど転がった。見えない猫に弄ばれる蜥蜴のような目に遭わされた長月は、全身を襲う激痛と眩暈に苦鳴を漏らし、押し殺した息遣いで涙を流した。骨が砕け、肉が潰れたような痛みと、強烈な酒を飲み干した後のような吐き気と頭痛を伴う感覚と思考の揺らぎが、鼓動に合わせて彼を苛んでいた。

 苦しみの中で長月は、かつて一度だけ目にした交通事故の被害者の姿を思い出した。速度超過の乗用車に撥ね飛ばされたサラリーマンは、手足をおかしな方向に曲げ、口と鼻から濁った血を垂れ流し、体中のあちらこちらを擦り剥いた状態で舗装路の上に転がっていた。

 己の姿を確かめる術のない中、長月は、今の自分はあれほどひどくはないにせよ、似たようなものなのではないか、とどこか他人事のように思った。彼にとって重要なことは他にあった。まだ彼は生きており、意識も明瞭である。明らかな重傷にもかかわらず命が保たれている事実は今置かれている状況が現実のそれでないことを改めて示し、この抑えがたい苦しみは今置かれている状況が単なる夢でないことを彼に再確認させた。

 そしてまた、限りなく事実に近いであろう後者の推測は、どうしようもない不安を掻き立てもした。長月は苦しみで明滅と混濁を起こす視界に惑わされながら、待ち受ける何事かに恐怖した。自分はこれからどうなるのだ、と気が気でなかった。

 しばらくすると苦しみが和らいだ。さすがは夢の中だと言えた。長月は一息ついて身を起こそうとし、顔を上げて固まった。

 目と鼻の先に竜の顔があった。口を開ければ長月の小柄な体など丸飲みにできそうな顔についた琥珀の塊のような眼球が彼をじっと見据えていた。

 熱気と臭気を帯びた風が長月の体を撫でた。だが、その生き物そのものの臭さを不快に思う余裕すら、彼にはなかった。それほどまでに竜の存在は圧倒的だった。未熟な長月の星幽的感覚ですら、竜が内側に抱え込んだ熱量の巨大さを感じ取らずにいられなかった。さながら神。さながら魔王。あらゆる文化圏において、神々や魔王そのものとも、それらの使いや乗り物とも、象徴化された災害とも見做される畏怖すべき生物。そのような存在を前にして、未熟な魔術師は絶望と恐怖――怒り狂った大人に見下ろされた幼児でさえ味わいはしないであろうほどの――に立ち竦むばかりであった。

 竜の口から微かな唸り声が漏れた。

 長月は身を硬くした。蛇に睨まれた蛙が辿る運命は決まっている。彼はせめて苦痛なく全てが終わってくれるよう祈りながら、金縛りに遭ったような体に鞭打ち、ようやくの思いで目を瞑った。彼の心は既に折れていた。

『よくぞ我が許に参った』

 竜の半開きの口が多少動いたかと思うと、洞窟を吹き抜ける風音か山のように大きな石臼の震動のように重苦しい声が響いた。決して日本語を――そもそもいかなる人語をも――話しているのではなかった。人には理解できない獣の声が、長月にも理解できる霊的波動として翻訳され、直接精神に伝達されているのである。バベル以前の原初の言語、純粋言語とも呼ばれるものかと思われた。

 長月は呆然と竜の顔を見返した。

『我が言葉は通じておらぬのか』困惑したような響きが声音に混じった。『久方ぶりのことゆえ、話し方を忘れてしまったようだ。しばし待て。思い出す』

「い、いえ、ちゃ、ちゃんと、通じて、ます……」

 どうやら自分に話しかけてきているらしいと気づき、長月は慌てて返事をした。意志の疎通が可能で、相手にその意思があるらしいという事実が、一条の希望の光となって彼の絶望と恐怖の硬直をほぐした。立ち上がり、落ち着かない気分で竜を見返す。

『ならばよし』値踏みするように琥珀の眼球が動いた。『どうやら汝は長くこの場に留まること能わぬようだ。早速、我が願いを告げよう』

「……願い?」

 聞き返す長月の声は震えていた。これほどの存在が何を自分に願うというのか、不安を隠しきれなかった。無理難題を果たせず機嫌を損ねて殺される。不快な未来予想図が脳裡に浮かんだ。

『そちらに泉が見えよう』

 竜が鼻先を振った。釣られて右側に視線を転じれば、石床に銭湯の浴槽ほどの広さの水溜まりがあった。絶えず水が湧き出しているのか、光り輝くような水面は風もないのに揺らいでいる。

『あの水を手で掬って我に飲ませよ。我はこの通り、鎖で繋がれておるゆえ、口が届かぬのだ。誰かの助けを受けるより外、渇きを癒す手立てがない』

 竜が首を振ると、金色の鎖がかすれた金属音を立てた。

 柱と首輪を結ぶ鎖はたわんで床に垂れていて、一見余裕がありそうであった。しかし、長月が目測してみたところ、竜が泉に向かって進み、鼻先を近づけたところで張り詰めて限界に達する程度の長さしかないことがわかった。偶然ではあるまい。竜を捕らえた何者かが、渇きを煽るために残酷な計算を働かせたことは間違いない。

『無論、我も精一杯近づこう。汝だけを働かせてのうのうと過ごすつもりはない。さあ、我に水をよこせ』

「ひ、一つ、訊いておきたいことが……」

『早くせよ。我らに残された時は長くない』

 竜の声音が苛立ちと焦りの響きを帯びた。

「あの水、僕が触っても平気なんですか」

『清浄な水に過ぎぬ。毒はない』声の圧迫感が増した。『さあ、我は問いに答えたぞ。次は汝が我に応える番だ。急げ。急ぐのだ』

 竜を怒らせることを懼れて、長月は泉に向かって駆け出した。背後から地響きがした。竜が追ってきているのであった。

 泉の近くは空気が冷たく澄んでいて、自然と、湛えられた水の清澄さを感じさせられた。しかし、精神的領域の存在物の外観や印象など、その本質を見抜く決め手とはならない。清潔で安全に見えるからと言って、本当にそうであるとは限らない。

 渇望と期待に満ちた琥珀色の光を背に感じながら、長月は指先を恐る恐る水面につけた。

 痛みと紛うばかりの冷たさが肌を貫いて骨を刺した。長月は驚いて手を引いた。

『何をしておる』

 背後から苛立った様子の唸り声がした。命の危険を感じ、長月は慌てて振り返り、弁解を口にした。

「水が、凄く冷たくて……」

『何を驚くことがある。湯ではなく水なのだ。当然のことであろう。そのようなことはどうでもよい。早く、早く我に水を与えよ。我が渇きを癒すのだ』

 竜が威嚇するように口を開けてまくし立てた。咆哮の震えと共に熱く生臭い息が全身を撫でる。物理と精神双方の力を伴う圧迫感に長月はたじたじとなった。

 前門の虎、後門の狼。現状を表わす役立たずの言葉が彼の脳裡をよぎった。骨まで凍りそうな冷たい泉と、一口で自分を丸飲みにできそうな大きな顎。どちらかを選ばなくてはならない。考える時間はさほどなく、考える必要もさほどなかった。どちらがよりましかはわかりきっていた。

 長月は歯を食い縛って泉に手を沈めた。冷たい痛みが手を覆ったかと思ったときには、冷たさ以外の一切の感覚が消え失せていた。動いているのかいないのかもわからない覚束無い手で水を掬い取り、竜のほうを振り返る。

 竜が微かに上顎を持ち上げて待っていた。口の中に流し込めということらしかった。

 長月はためらった。竜の牙は剣のように長く鋭い。その一方で彼の腕は細い。直撃は勿論のこと、かすめただけでも腕が千切れかねない。

 だが、躊躇できる時間は長くなかった。無言の圧力が彼を襲っていた。

 仕方なく長月は動いた。鰐の口に手を差し入れるような恐怖感を堪えて石筍のような牙の間に手を差し入れ、そっと水を垂らす。竜の体格からすれば一滴の雫に等しい冷たい水が舌上に広がったそのとき、口元がびくりと震えた。

 噛まれると思った長月は、咄嗟に手を引き、後ろに倒れ込んだ。

『甘露よ……実に甘く、芳しい……水とはこのような味であったか。忘れておった』竜は禁断症状に苦しんでいるところに薬を与えられた麻薬中毒者のような恍惚とした吐息を漏らしていたが、我に返った様子で長月を見据えた。『何をふざけておる』

「急に動くから、噛まれるんじゃないかって……」

『汝は我を獣同然に見ておるようだな。汝に恩義があることは事実だが、侮辱を許すつもりはないぞ』

「す、すみませんでした、気をつけます!」

 静かな恫喝に震え上がり、長月は筋肉が攣りそうになるほど勢い良く背筋を伸ばした。

『よい、許す』もっともらしく告げると、泉に視線を注いだ。『次の水はまだか。時は残り少ない。急ぐのだ。時を無駄にするな』

 長月は傲慢な叱咤に衝き動かされ、身も凍るような泉と恐ろしい牙の間を何度も往復した。貪欲な要求に応えて行き来を繰り返すうちに、手は芯から冷え込み、遂には冷たさすら感じられなくなった。自分が手を握っているのか開いてのかすらわからなくなっていた。

 何十回目かの往復を終えたとき、長月はこの廃墟に引き寄せられたときと同様の引力を感じた。

 竜が唸った。

『時が来たか。物足りぬが仕方あるまい。戻るがよい。そしてまた我が許に参るのだ』

「な、何を言って――」

『気づいておらぬのか』竜は呆れたように鼻息を噴き出した。『限界が訪れたのだ。汝の在るべき場に帰らねば、汝を破滅が見舞おうぞ』

 竜の回答で長月はようやく状況を察した。つまり、意識と無意識を飛び越えて流出乃至接続された長月典太郎という精神が、負荷に耐えかねて死の悲鳴を上げ始めているのだ。

 手の苦痛と竜への恐怖に意識が向いていたとはいえ、気づけなかったことは迂闊と言うほかなかった。精神の耐久限界などは、星幽体投射や星幽旅行、無意識の探険などを行なう際に留意すべき初歩中の初歩である。

『ご苦労であった』竜が鷹揚な唸り声を上げた。『我は汝に感謝する。名を聞かせよ』

 魔術師としての経験上、人外の存在に軽々しく名乗ることは憚られたが、たとえ虜囚の身であるとはいえ強大な存在と繋がりを持つことは魔術師として決して損にはならない。厳密な意味での魔法名(マジカル・モットー)を持ち合わせていない彼にもこういう場面で名乗るヌン・タウという別名がある。だが、眼前の偉大な存在に魔法名ですらない単なる正体隠しの偽名を告げる気には、なぜだかなれなかった。

「長月……です」と彼は正直に名字を答えた。

『長月。我は汝を忘れぬ。永く記憶に留めよう』

 竜が重々しく告げた直後、長月の体を再び抗いがたい引力が捕らえた。それは何度も味わってきたなじみ深いものであった。存在を破滅から救うための自己防衛機能が発生させた引力である。

 長月は引き戻そうとする力に逆らわなかった。体が浮き上がり、廃墟の外へと引きずり出されていく。

 飛び去る長月に向かって竜が吼える。

『また参れ。よいか、きっとまた参るのだぞ、長月! 汝が生きておる限り、汝以外の者が我が許を訪れることは最早能わぬのだ!』

 悲鳴のような響きを帯びた竜の咆哮の震えを全身で感じつつ、長月の意識は闇へと沈んでいった。


 六畳ばかりの部屋がある。東向きの大きな窓と南向きのベランダから陽が射し込んでいる。長月典太郎の住処である。

 六畳一間の住居である。玄関に続く短い廊下のすぐ横には台所があり、すぐ近くに小さな卓袱台が据えてある。卓袱台から見やすい位置の壁際には薄型テレビもある。

 壁の一隅には天井まで届く本棚があり、収まりきらない中身を溢れ出させている。書籍の傾向は一定しない。国の内外と時代の古今とを問わず、文学から娯楽小説、漫画、はたまた魔術や哲学を中心とする人文科学の書籍まで、実に様々な種類の書籍が詰め込まれて混沌としたありさまを示している。

 また別の一隅には古びた文机が据えられ、運搬にも携帯にも適さない大きめのノートパソコンがその上に鎮座している。本立てもあり、棚に収まりきらなかったのであろう一部の分厚い学術書が陳列してある。

 そしてちょうど東から陽光の射し込む位置に、一度でも畳まれたことがあるとは思えないほどに畳になじんだ風情の布団が敷かれ、その上には苦しげな寝息を立てる人影があった。年の頃二十歳ほどの青年である。髪は短く、顔色は生白く、頬はこけ、蛇か蜥蜴を擬人化したような雰囲気が漂っている。部屋の主、長月典太郎である。

 急に長月が身動ぎした。微かに呻いてすぐ、その瞼が持ち上がる。

 明晰夢を見て無意識を探究した際に頭脳を蝕むようなあの独特の倦怠感に逆らって目を開けた長月の視界に広がっていた風景は、見慣れた住処の天井であった。視界の中に蛍光灯が滲んだように浮かんでいる。何気なく顔を動かすと、東の窓から射し込む陽光が目を焼いた。彼は堪らず目を閉じたが、おかげで意識が冴えた。

 彼は夢日記をつける習慣を持っているため、いつものように、見ていた夢の内容を思い出そうとした。その行為が引き鉄となり、忘却の淵に追いやられていた恐るべき記憶が掘り起こされた。

 赤い竜の夢。どういったわけか精神がどこか或いは何かと接続されるか、はたまた長月典太郎の内的宇宙から流出するかして、抗い様のない力によってどこかに押し流された記憶だ。意識はあるのに意のままにならない夢。己の意志によらない精神の流出。それらは彼のような精神の世界を探究する者にとって非常に恐ろしいものである。

 何か異状はないか。本当にここは自分の部屋なのか。まだ夢の中に囚われているのではないか。昏睡のうちにどこかに連れ去られたのではないか。良くないものを呼び寄せてしまってはいないか。彼は恐怖と不安に衝き動かされて飛び起きた。

 肩で息をし、血走った眼で辺りを見回した。特段、おかしなところは見当たらなかった。確かにここは河合荘二階角部屋二〇六号室のようであった。

 だが、ここにいる自分は本当に自分なのか。眠る前の自分と同一性と連続性が保証された存在なのか。自身の存在の根幹を揺るがす慄然たる疑念を解くべく、今度は寝間着が音を立てるほどの勢いで自分の体を撫で回し始めた。体の感触や形を手で調べ、鏡を覗いて顔貌まで確かめ、ようやく安堵の吐息を漏らし、胸を撫で下ろした。どうやら、長月典太郎はまだ長月典太郎のようであった。

 安心したことで冷静さを取り戻した長月は、簡略化した追儺儀式を執り行なって念のために己と周囲の霊的環境を整えた後、日常に帰還した。

 まずは寝起きの日課に取りかかる。異常な疲労がもたらす二度寝の誘惑を撥ねのけ、枕元のメモ帳を手に取って文机に持っていき、記憶が鮮明である内に夢日記をつける。今日の日付を記入し、少し考えて「赤い竜の夢」と題して己が見たものをありのままに記録し、それに対する所見を記入した。

 メモ帳を閉じた後、少し迷ってから、今度は悪筆と紙一重の癖字で「魔術日記」と題したノートを取り出した。考えてみればみるほど、あれは単なる夢ではありえなかった。明らかに魔術的現象であった。やはり記録しておく必要があった。

 夢日記につけた内容に魔術的観点を加えたものを書き記したところで、ふと思い立ち、記述を中断して愛用のトートタロットを引っ張り出した。長月は未知のままにしておくことが耐えられないほどに気になる人物に出会った後にいつもするように、まだ印象が鮮明であるうちに、独自に編み出した――おそらくは劣化した再発明に過ぎないのであろうが――タロットを用いた印象分析法によって竜の正体を分析するつもりでいた。本格的な占断を行なうべき事態かもしれないと心の片隅で思いはしたが、きちんとした占いがどれほどの疲労をもたらすかを考えると、そこまで踏みきる気にはなかなかなれなかった。

 タロットは幾重もの意味と概念を包含する。読む角度を変えれば変えただけ、新たな回答を読み手にもたらす。懐深いタロットは、そこに一本筋の通った解釈法さえあれば、いかなる読み方であっても許容する。タロットはあらゆる意味を持つがゆえにそのままでは何らの意味も持たない。限定と配属を行なう規則が意味を持たせる。

 長月が印象分析法を人物に用いる場合、タロットが持つ人物の諸要素の集合体としての側面に着目して規則が設定される。タロットを一個の精神を構成する七十八の断片として眺めるとき、大アルカナ即ちアテュは二十二の要素に分類される人物の際立った性格的傾向を表わし、小アルカナ即ち組札(スートカード)の内、宮廷札(コートカード)は十六の類型に分類される人物の基本的人格を表わし、数字札(スモールカード)は四十の象徴に分類される人物の在り方を表わす。

 文机の上に絹布を敷いたのち、長月はシャッフルを行ない、表にした状態でカードを布上に広げた。そのまま目を閉じ、三度深呼吸をしてゆっくりと目を開く。カードに視線をまっすぐ下ろして真面目な顔で集中し、広げた札に手を伸ばして無心にカードを選び取っていく。この作業を考えて行なってはならない。理性ではなく感性により、思考ではなく直感に従い、最初にピンときたものを確かめることなく拾い上げるからこそ、意味がある。これはタロットを介した無意識との問答にほかならない。超越意識(イエヒダー)から直観的知性(ネシャマー)を通じて表層無意識(ネフェシュ)に反映された竜の印象――即ち非言語的かつ非論理的な超越的認識の元型――を意識が認識できるように出力し、意識は自身が抱いた印象を整理するのである。

 出力作業には二分もかからなかった。無意識が指し示したカードは十枚にも上ったが、強く引っかかるものを認めた瞬間に取り上げたため、一枚当たりに費やした時間は十秒にも満たなかった。

 アテュ。十一「欲望」及び十二「苦行者」。

 コートカード。「棒の騎士」。

 スモールカード。棒の十「抑圧」、杯の五「失望」、杯の七「堕落」、剣の三「悲哀」、剣の五「敗北」、円盤の四「力」、円盤の七「失敗」。

 選び出した十枚を眺め、長月は眉間に皺を寄せた。感性と直感の出番は終わり、ここからは理性と思考の仕事となる。出力は無意識が行なうが、解釈は意識が行なうのだ。

 選定自体が簡単である半面、解釈は極めて難しい。最大の原因は、タロットが秘める多重の意味がもたらす曖昧性と、選ばれたカードを或いは関連させ或いは独立させて全てが矛盾なく並立する解釈を考えなければならない複雑性である。しかしながら、引き当てた順番が何の意味――手がかり――も持たない情報の欠落もまた、難度を高めている。もっとも、最後のものは純粋に長月典太郎の力量不足がもたらす欠点だが。たとえばアレイスター・クロウリーの如き大魔術師であれば、特に印象の強かったものから引き当てていくような芸当も可能であろう。

 この印象分析法の材料となる獲得情報は、初対面、しかも短時間の接触で得られたにしては豊富と言える。だが、この欠点に満ちた困難な作業を行なって一個の人物を見極めるには、あまりにも乏しい。どだい、人格というものをたかが十の――それも雑多な――要素で判断できるわけがないのだ。人格というものはもっと錯綜したものであり、きっと明らかにならなかった要素がいくつも潜んでいるはずである。現時点では竜のごく一部を勝手に推測するのが関の山であろう。それは主婦の井戸端会議に上る人物評と大差がない。

 長月は限られた情報から魔術的プロファイリングを進めていく。

 まず、アテュ即ち際立った性格的傾向の解釈から始めた。スモールカードの内容と絡めて考えれば、強く何かを求める者であり、かつ何かの目的のために耐え忍ぶ者でもある。枚数の少なさも手伝い、この解釈は比較的たやすく思えた。

 しかし、アテュそのものの性質に着目したとき、長月は「欲望」を眺めて引っかかりを覚え、思わず呟いた。

「赤い竜?」

「欲望」は純粋な占い札としては生命力や情熱、力の行使の欲求と快楽などを示すが、魔術的図像として眺めた場合、そこには黙示録の獣或いは黙示録の赤竜、エデンの蛇、大淫婦、大いなる獣と緋色の女の婚姻を始めとする様々な象徴が規定されている。

 長月は自問した。無意識は、表面に見えた水への渇望から「欲望」を選んだのか、それとももっと深い部分を読み取って選んだのか。

 答えは出なかった。不審な点が多すぎて断定できなかったのである。成長のために雌伏する「苦行者」――そして彼の真下の水面下では偉大な「蛇」が時を待つ――は地獄で時を待つサタンを暗示させるものの、黙示録の赤い竜としてであればアテュ十五「悪魔」やアテュ十六「塔」辺りが同時に指示されても不思議ではない、という実に初歩的な疑問点だけでも、安易な結論に飛びつくのをためらわせるに十分であった。

 気を取り直してコートカードに挑めば、こちらは全く単純なものであった。四大元素を表わす四つのスートのうち、棒は火を司る。そして、コートカードは各スート内で更に四大を司る。騎士は火を司るから、「棒の騎士」とは即ち火の中の火、火そのものである。騎士の特性は成熟した重厚な人柄を示し、火の火の特性は苛烈に燃え上がって障害物を焼き尽くす強烈な意志を表わす。また、サタンにせよ天使にせよ、彼らが神によって火から生み出されたことを何とはなしに長月は思い出した。更に象徴解釈上において騎士は、試練を突破して成長し、試練を与える側に回ったかつての若者を指す。竜は或いは過去に何事かを成し遂げたのかもしれない。

 スモールカードの解釈も、一見したところ、その大半は素直に読むだけでよさそうであった。「抑圧」は額面通り抑圧された状況を示すと同時に、封じ込められて鬱屈し、本人を苛むまでに高まった破滅的エネルギーをも示す。「失望」は堪えがたい不満と失意を示すとともに破滅と崩壊と腐敗の予兆でもある。「堕落」は内側が静かに腐り始めたことと、度を越して有害に転じた麻薬にも似た快楽への傾倒を表わす。これはおそらく竜が水に狂的なまでに執着するさまが長月に与えた印象だろう。「悲哀」は暗く耐えがたい情念と混迷する精神、そしてそこから生まれる負の観念と不満を象徴する。これは「失望」と直接関連付けて考えるべきだと思われた。「敗北」は自らの過ちと弱さによる挽回しがたい失敗と衰退を表わし、崩壊に等しい不均衡をも示す。「力」は要塞を思わせる表象で示される安定と保護の象徴だが、この見事なまでに負のカードばかりが揃った人柄の中にあっては、負の側面に着目せざるを得ない。竜にとって要塞は彼自身を捕らえる監獄であろう。また、何者かに捕らえられた彼は、更に彼自身をも何らかの形――或いは観念や執着――で束縛してしまっているのかもしれない。そして「失敗」は癌の悪化にも似た脆弱化と衰弱の進行を示し、それは多大な恐怖と束縛をも伴う。

 全体を関連付けて考えを進めてみるうち、長月は我知らず溜息をついていた。竜を取り巻く環境と精神状態は、僅かな対面でこれだけの衝撃を長月の精神に与えるほど苛酷なもののようであった。あの赤竜の正体や素性が何であれ、サタンにも似た苦境に置かれているであろうことは薄々ではあるが察することができた。

 魔術日記に分析結果を記入しながら、長月はふと竜の最後の言葉を思い出した。彼は厄介事に巻き込まれてしまったことを痛感し、眩暈にも似た頭痛を覚えた。


 赤い竜の夢を見て以来、長月典太郎は緊張を伴って床に就くようになった。精神の流出と異様な引力に襲われても取り乱すことなく対応できるよう、心の準備を済ませて眠りに就くようになったのだ。

 しかし、覚悟しているときに限ってそれは起こらない、という皮肉な法則が働いたのか、二日経っても三日経っても、彼はあの赤い竜の許に招かれることがなかった。一週間が過ぎてもそれは起こらなかった。銃口を突きつけられたまま放置されているような落ち着かない状況に痺れを切らし、逆に自分から竜の探索を行なってみても、竜どころか廃墟の欠片さえ見出せずに終わった。そうして何事もなく一月、二月と時が過ぎるうち、竜のことは最早意識の端に上ることすらなくなっていた。

 そして何年もの歳月が流れた。

 学生が学位を得て社会に放り出されるに至ったその月日の流れの中で、彼はいくつもの嬉しい出会いや忌まわしい出会い、悲しい別れや喜ばしい別れを体験した。或いは友人を得、或いは敵を見出し、好むと好まざるとにかかわらず人との繋がりを拡げた。幸福にも苦難にも見舞われ、安定とは程遠い荒海を進むような時を過ごし、負けることと腐ることを拒むために人としての成長を強いられもした。

 魔術師としても大きく成長を遂げた。赤い竜と出会った当時、彼は肉体を持つ限り常に己そのものである王国(マルクト)が内包する――セフィラー個々は更に十のセフィロトに細分化されて無限の連鎖を形作る――ホドを攻略中であった。程無くして彼はマルクトの中に含まれるホドの要素――ある観点においてはセフィロトそれぞれの内なるホドまで――を制した。小宇宙と大宇宙の照応関係に基づいて樹上のホドへの理解も深め、そこから伸びる小径へも足を踏み出し、ネツァクに探究の手を伸ばすようにもなった。その後も彼は外的宇宙と内的宇宙を探究する精神の大いなる旅路を順調に進めていき、ホドやイエソドに対して行なったようにマルクトを介してネツァクを探究して下地を作り、遂には勝利のセフィラーの前に垂れ下がって(ティフェレト)の神殿を覆う(パロケト)の向こう側に、美の天球を垣間見るまでに至った。そして、ティフェレト以上をネツァク以下の目から覆い隠す幕を潜り抜けようと中央柱を昇っていく過程で、彼の意識はそれまでにないほど拡大された。彼はマルクトを形成するセフィロトを介し、物質界(アッシャー)形成界(イエツィラー)に属する四つのセフィロトを全く同時に眺めた。彼はこのとき初めてネツァク以下に属する自己と宇宙――ネツァク、ホド、イエソド、マルクトが含む内的セフィロトのネツァク以下の領域――に対する統合的な理解を得た。こうして魔術師長月典太郎は倫理的三角形と星幽的三角形――即ち高次星幽界と低次星幽界――を隔てる幕を越え、宇宙と自己の元型の前に広がる深淵を横断する準備を整える段階――それは学派によっては達人(アデプト)とも呼ばれる――に参入する資格を手にしたのである。幕を通り抜けた彼は、セフィロトの樹の中枢を占め、救世主と達人の属性を持ち均衡を象徴する美のセフィラーへとそのまま歩を進めた。己の王国(マルクト)の中の(ティフェレト)を見出した彼は、苦戦しつつも短からぬ時と少なからぬ労力を費やしてその内なるセフィラーを征服して己の領土とし、そこを出張所とする聖守護天使との恐るべき邂逅を果たした。聖守護天使の支援を受けられたこともあり、大宇宙上の美のセフィラーをその内なるティフェレトまで瞥見することにも成功した。「まともな魔術師」達から「妖術師」とも「生齧りの素人」とも「イカサマ魔術師」とも蔑まれていた魔術師は、その瞬間を以て彼らのうちの少なからぬ者を追い越し、メイザース率いる黄金の夜明け団が生身の人間の霊的最高到達点として神聖視し、クロウリー率いる銀星団があらゆる修行者が最初に目指すべき通過点として再定義した境地、沙門となった仏陀が弟子入りした仙人の下で最初に通り過ぎたとも、囚われの救世主が磔刑による死と再生を経て至ったともされる境地――の卑小で不格好でどちらかと言えば不均衡(クリフォト)の傾向を持つ類似物――に達したのである。どこまでも独学によって磨いた彼の力と学識と精神性は、当然ながら正規の修行を乗り越えた真の達人達に及ぶほどのものではないが、いっぱしの魔術師を名乗るに十分値するものであった。

 そして、長月典太郎が囚われの赤い竜のことを半ば忘却の淵に葬り去った頃、それは起こった。


 長月典太郎は己が無限の光彩に満ち溢れた虚無の中を漂っていることに気づいた。しかし、精神があちらこちらに引き回されることなど既に慣れっこであったため、特に取り乱すこともなく冷静に状況を観察することができた。

 まず己の姿を確かめる。吸血貴族から贈られた墓場の黒土色のコートと暗灰色の上下を着込み、首からは彼の宇宙観を要約した円環と六芒星と二つの五芒星と末広がりの正十字を組み合わせた万能章を下げていた。普段通りの姿である。何も問題はない。

 更に自身の能力の状態を確認する。まず試みにトートタロットの一式を強く想起してみれば、懐にデッキを収めた革ケースが現れた。次いで四大元素の武器――地の万能章、大気の短剣、水の杯、火の棒――も想像すれば虚空に視覚化された。そして魔術武器――魔術剣と蓮華棒――もまた、他の呪具と同様に空間上にその姿を現した。熟練の末、精神の中に元型(イデア)として取り込まれた諸道具がその収納場所できちんとその形状を保ち、長月典太郎自身もそれを用いる能力を失っていないことが、これで確かめられた。

 視覚化した諸々を退去させて一息つき、次いで周囲を見回した。周囲のありさまにはどことなく既視感があった。しかし、全くの気のせいなのか、或いは記憶があまりにも古いためか、どれだけ眉間に皺を寄せて唸っても心当たり一つ浮かばなかった。

 するうち、彼は全身が何かの力を受けるのを感じた。力は均等に彼を囲んで捕らえ、一定方向へと押し流していく。

 それがきっかけとなり、記憶が蘇った。赤い竜。長月はあの奇妙な夢の思い出を掘り起こした。おそらく、この潮流の行き着く先に崩壊したパルテノンがあり、赤竜がいるのであろう。

 ちょっとした好奇心から、長月は引力に逆らってみた。すると、体が自由に動いた。以前は潮流のように抗いがたかった流れが、今では川のせせらぎ程度のものにしか感じられなかった。

 流れが弱まったという感じはしなかった。純粋に、長月典太郎という魔術師の力が強まったのであった。子供時代に眩しく見上げた壁をあっさり乗り越えてしまったときに大人が覚えるような達成感と寂寥感が綯い交ぜとなった感情に、しばし長月は見舞われた。

 その間も体は竜の廃墟へと流されていく。

 抵抗しようと思えば可能であろう。だが、長月はそうする気にならなかった。竜が別れ際に投げかけた言葉が彼を呪縛していた。彼は出ないことと出られないことの違いを理解していたし、三十年にも満たない人生を通じて孤独の楽しみと苦しみも知っていた。長く独りでいるときに訪ねてくれる誰かのありがたみも知った。その人生経験が――同病者への負の親近感も働いて――彼に竜を見捨てることを許さなかった。火中の栗を拾うような真似をしている自覚はある。手にした力に驕っている自覚もある。しかし、彼はそれでも、あの竜を放っておけなかった。結局のところ、どれだけ冷淡な個人主義者を気取ってみせていても、彼は根っこの部分においてお人好しなのであった。

 不可思議な領域の潮流に乗って、むしろ意図的に進んでいくと、懐かしい廃墟が見えてきた。流されていたあのときとは違い、今は流れに乗っているため、為す術もなく柱の間に放り込まれるような無様なことにはならない。長月は意志の力で姿勢を制御して足からきちんと着地し、勢いを殺すために前のめりに手をついた。

 懐かしい生臭い風が吹きつけた。

『おお、参ったか、長月』

 以前と変わらぬ姿の赤い竜が琥珀色の眼で長月を見下ろしていた。

 初対面時を思い出してたじろぎはしたが、咳払いして応じる。

「呼ばれたみたいなので」

『大分様変わりしたようだ』

「あれから五年も――いや、六年かな――経ちましたから、そりゃ外見も変わりますよ」

 長月は親しいとも親しくないともつかない微妙な関係にある年長の知人と話すような態度で竜に接した。魔術師としての経験が、強大な竜を前にして平静な態度を保たせていた。

『人の見た目はわからぬ。我が目に映るは、幼子と若者と年寄りのみである』

「人間が動物の細かい歳を判別できないようなものですかね」

『そのようなものであろう』竜は穏やかに肯定し、くつろぐように姿勢を低くした。『少し話でもせぬか』

「話、ですか」長月は目を丸くした。彼の脳裡には水を飲んだ竜が見せた恍惚とした狂態が浮かんでいた。「水はいいんですか」

『今の汝であれば、留まることのできる時間も以前ほど短くはあるまい』思慮深いまなざしが長月を見下ろす。『何故再び参った』

 虚を衝かれた思いで長月は琥珀の眼球を見上げた。

「言葉の意味が、よく……」

『汝は逃れることもできたはずだ』

「私しか来られないと言っていたじゃないですか」

『それだけか。それだけの理由で、汝は魂の旅路の危険を冒したと言うのか』

「大した危険がないことはわかっていましたから。これでも、もっとひどい場所に引きずり込まれたことだってあります。それに、その気になればすぐにでも戻れます」

『力をつけて増長したか、魔術師よ』

「……かもしれません。ですが、嘘を言っているつもりはありません」

『汝は我を憐れんでおるのか』

「……ある意味そうかもしれません」

 いかにも気位の高そうな竜を怒らせかねないと思いつつも、偽りはそれ以上の怒りを招くであろうと察し、長月はためらいを振り切って正直に答えた。彼には、知性溢れる竜の眼差しから真実を覆い隠す自信などなかった。

『かつて、傲慢を肉に、反骨を血に、憤怒を骨として成っていた時分であれば、我はそれを侮辱と捉え、激昂したことであろう。汝を焼き尽くしていたやもしれぬ』血気盛んな青春時代を懐かしむ老人のように瞑目した赤竜は、重々しい吐息を漏らした。『だが、今は汝の心遣いがただありがたい』

 機嫌を損ねずに済んだことに長月はほっと安堵の息を吐いた。

『長月よ』

「何ですか」

『汝に礼をしたい。我は汝に何かをしてやれぬだろうか。望むことがあれば気兼ねせず申せ。このような身であるゆえ今は何もしてやれぬが、解き放たれた暁には、きっと叶えよう』

「望み、ですか……」

 長月はじっと竜の威容を見上げた。

『思うがままに申せ』

 これほどの存在に対して浮かぶ願いは一つや二つでは利かない。だが、いかなるすばらしい願いも、叶うための前提が整っていなければ画餅に過ぎない。

「その前に、一つ、いえ、二つ……その、お聞きしたいことがあります。失礼な質問ですが……」

『我と汝の仲だ。多少の無礼は許す』

「では、お言葉に甘えて……」長月は許可を得てなお恐る恐るの体で問いを口にした。「あなたのお名前は何と仰るんでしょうか」

 竜は難しげに低く唸った。

『我が名か……』

「いえ、無理のようでしたら……」

 長月が基軸として学んだ体系では違ったが、魔術に関わる者や霊的存在の中には、名前というものを特別視する者もいる。そういった者に名を明かすよう求めたところで、双方に益はない。

『無理と言えば無理だが、その理由は汝の考えておることとはおそらく異なる』

「……と言いますと?」

『我には確かに名がある。だが、その名を憶えておらぬ。名だけではない。囚われる以前のことを、或いは薄ぼんやりとしか、或いは全く欠落したかのように、憶えておらぬのだ。我が記憶は奪われた』

「なら、理由もわからないのに――その上記憶まで取られて――こんなところに繋がれているんですか」

 長月は思わず聞き返した。竜が置かれた境遇に哀れみを禁じ得なかった。

 本来、彼は犯罪者に同情するような人間ではない。記憶喪失であろうと、それどころか心神喪失が認められようと、それを理由とした免罪には断固反対する男である。

 しかしながら、それは彼が当人さえ知らない罪を知っているがゆえのことである。眼前の竜が置かれている状況は、そうした同情に値しない罪人達と大きく前提を異にした。竜に罰を下した裁判官の正当性も、その根拠となる罪状も、長月には全くわからないのである。竜が独裁者の身勝手で裁かれた犠牲者でないとは誰にも言いきれない。彼の目の前にいるのは、二重三重に不可解な事情で囚われた、哀れな記憶喪失者に過ぎなかった。

 竜は記憶を掘り起こそうと努めるように唸って答えた。

『おおよその事情は承知しておる』

 長月は肩透かしを喰らった気分で目を瞬かせた。

 赤い竜は彼の心情を斟酌する風もなく独白を始めた。

『我はかつて、根源なき根源たる存在、窮極の一者に挑んだ。己がその者の一部に過ぎぬことが我慢ならず、その者を引き裂いて我が優位を示し、宇宙の解放を宣言せんとしたのだ』

「根源なき根源……原因なき原因!」

 長月は己の連想に戦慄した。竜が語った「根源なき根源たる存在」とは、「原因なき原因」と呼ばれる存在であるとしか思えなかった。そのような者に挑んだ竜の正体など推測するのも恐ろしかった。或いは竜は頂点(ケテル)を越えて無限光(アイン・ソフ・オウル)の向こう側に手を伸ばした身の程知らずのルシファーなのかもしれない、と考えるだけでも身の毛がよだつ。この瞬間、竜に対する同情などどこかに吹き飛んだ。

 竜は語り続ける。

『然るに、我は宇宙の在り方を巡る大闘争をろくに憶えてはおらぬ。我が記憶の底におぼろに残るは、眼前で我が炎に焼かれて墜ちる敵どもと、眼下で火の海に沈む大地の姿のみ。そこで記憶は失われ、気づけばこの場に繋がれておった』重苦しく嘆息して締め括る。『爾来囚われ続けておる』

 長月は今すぐにでも逃げ出したくて仕方がなかったが、彼にそのような思いを抱かせる恐怖が、同時に彼の足を縛ってもいた。確かに、逃げようと思えばいつでも逃げ出せる。だが、解き放たれたとき、この強大な魔物は無礼者が安穏と暮らすことを許しておくであろうか。そう思うだけで、逃げようという気持ちが萎えた。

『汝は問いが二つあると申したな』

「えっ……ええ、はい、そう言いました」

 長月は動揺を押し隠して頷いた。最早彼は願いも問いもどうでもよくなっていた。この恐るべき存在とこれ以上関係を深めることなく帰る。それだけが望みであった。彼は安易な同情と興味からこの場所を再訪したことを強く後悔していた。

『ではそれも申せ。答えてやろう』

 促され、長月は意を決して残りの問いを口にした。

「……あなたはいつ解放されるんでしょうか」

 願いを叶えてもらうにせよ、逃げ延びるにせよ、竜の収監期間がいかほどであるかは重要であった。

 竜は陰鬱に嘆息した。生臭い風を浴び、長月は身を強張らせた。物憂げな答えが発される。

『わからぬ。刹那ののちのこととも、永劫を越えた先のこととも、我には答えること能わぬ。だが、いつか解き放たれることは確定されておる。その時こそ、我は汝の願いを叶えよう。我が背に跨らせ、火の海に沈む世界を睥睨させてもやろう、長月よ』

「それはまた随分とあやふやな……」長月は困惑して思わず呟いた。「ですが、そういうことだと、もしかしたら、あなたが解放される前に私が死んでしまう可能性が……」

『おそらく、そうなるであろう。我が今ここにおる汝に報いることは難しい。されど、汝が死したとしても汝の願いを叶えることはできる』

「まさか、輪廻のことを言っているんですか」

 長月は思わず聞き返す声音に呆れを滲ませてしまった。

 インド人やエジプト人が信仰したようなものとは違い、多くの神秘主義者の考えるものとも異なるが、彼は輪廻と呼びうるものが実在することを知っている。

 彼の世界観において、あらゆる霊魂――神秘主義者や宗教家が不滅とする霊魂の根源的な中枢部分ですら例外ではない――は不滅でない。肉体の死後、外皮を失った虚弱な霊魂はすぐに霧散して第二の死を迎え、宇宙の構成材料に還元される。ある程度強靭な霊魂であってもしばらくの間を置いてそうなる。それが摂理である。特に強靭であったり何か霊的な処置が施されたりした霊魂のみが、肉体という外皮を失った後も霊的発達の程度に応じて、霊界とも星幽界とも高次領域とも影の世界とも様々な用語で呼ばれる領域に存在を長期間保ちうる。長月が考える輪廻とは、創造と崩壊を繰り返す宇宙の循環構造のことであり、そうした材料に溶けきらずに残った個の残滓が不純物となって新たな霊魂に混入されることであり、消失を免れた一部の例外が新たな肉体を得ることである。

 長月には遠近いずれかの将来、不可避的に訪れることとなる肉体の死を乗り越える願望がある。しかしながら、それとても永劫の生には程遠いことも理解している。霊魂もいずれは死ぬ。神々や魔王や化け物じみた秘密の首領達でさえ、永遠ではいられないはずである。ゆえに赤い竜の尺度次第では、長月典太郎はいかなる形の応報も受けられない。長月は魔神に少し待てと言われて死ぬまでほったらかしにされた男の笑い話を思い出さずにいられなかった。

 竜は長月の不敬な態度に寛容を以て応えた。

『叶うならばそうしよう。だが、我が意図は、それさえも能わぬときを慮ってのものである。汝は宇宙の構造をいかに心得る。宇宙に無数の面があることを知っておるか』

「無数の面……多元宇宙のことですか」

『然様。汝はどのように認識しておる』

「あまり詳しいわけじゃないんですが……」と予防線を張ってから認識を打ち明ける。「いくつかの考え方を知っています。並行宇宙がいくつも存在するというもの。完璧な真の宇宙とその影に過ぎない劣った宇宙が一つか複数あるというもの。上位の宇宙と下位の宇宙が階層構造になっているというもの。あらゆる可能性が同時に重なって存在するというもの。それから、今言った考え方が合わさったもの。考え方の方向性として私が知っているのはこんなところです」

 彼が語った分類は、魔術、神話、量子論、空想といった互いに絡み合い補い合う思想体系の彼なりの公約数であった。彼は口を閉ざし、竜の反応を窺った。返ってくるのは同意か嘲笑か。

 憫笑であった。

『汝ら――はたまた汝か――は宇宙を理解しておるとは言いがたい。汝の理解は断片的であり、皮相的である。よかろう。感謝の証の一部として、汝に大宇宙の秘密の一部を授けよう』

「宇宙の秘密ですか」

 長月は俄然興味をそそられた。非常に関心が偏ってはいるが、彼も強い知的好奇心の持ち主である。眉唾物の情報であるとはいえ、高次の存在からの知識の開示には惹きつけられるものがあった。偉大な存在の言葉を受け取ることの危険――深刻な秘密を知ることは常に破滅の危機を伴う――を一時忘れ、彼は静かに言葉を待った。

『宇宙に対する汝の認識は、一面において正しいが、決して満足とは言えぬ』嘆くように鼻を鳴らして語り出す。『宇宙の実像は汝が述べた全てである。一見矛盾する認識の断片全てを繋ぎ合わせて組み上がったものこそが真理である。それは汝らの目に矛盾に満ちて映るやもしれぬ。だが、低き次元での矛盾は、往々にして、ただ視点を高みに移すだけで解決されてしまうものである。また高き次元での矛盾も低きに視点を移すことで解消されうる。民の矛盾は王の整合であり、王の矛盾は民の整合である。案ずるには及ばぬ。高みにおいてそれは正しいのだ。とはいえ、汝が持つ断片は、全体を組み上げるにはあまりにも少ない。無理矢理に合わすこともできようが、そのような虫食いだらけの真理は真実を表わさぬ。むしろ、俯瞰すればするほどに新たな穴が見つかるというものよ。それこそが真の意味での矛盾或いは誤謬である。不完全を完全と見誤ることこそを懼れよ、探究者よ。そこで汝に、欠落を埋め、矛盾を解くための鍵を一つばかり授けてくれよう。よいか、長月よ、我が知るところにおいて宇宙とは無限の面を持つ総体であり、我らが普通宇宙と認める場も時もその一側面に過ぎぬ』

 さきほど述べた宇宙観を上手く折衷したかのようなこうした理論は、長月にとって決してなじみのないものではなかった。だが、その領域の話は現時点での限定科学も心霊科学も検証手段を持たないため、与太話以上のものではない。長月が現に為されているように高等な霊的存在或いは秘密の首領から秘密を啓示されたと主張する者もいたが、信憑性を疑問視されて主流とはなりえなかったし、信憑性を保証しうる立場の者は表面上沈黙を保っている。長月は、自身が沈黙と秘密を守る隠者となるか嘲笑に立ち向かう預言者となるかの岐路に立たされているように感じ、我知らずのうちに空気を求めて呼吸を深くしていた。

『そしてこのことは、宇宙の住人たる我らにも適用される。我らもまた、真なる宇宙の無限の断片の一つ、あらゆる可能性を貪欲に探らんとする窮極の一者が無限に具える認識されざる感覚器の一つに過ぎぬ。我らは可能性の数だけ存在する無限の毛髪であり、指先である。然り、一者は我らを通じて意識することなく情報を得ておる。ゆえに、より高次の立場から俯瞰するとき、我らの行動に無駄というものは存在せぬ。一者にとって我らの関わり合いは一人遊びの人形劇であり、我らの一切が――負債と苦痛までもが――糧なのだ。そして一者は貪欲であり、足りるを知らぬ。より多くを得んがため、その知覚をより確かなものとせんと、知ってか知らずか我らに向かって情報と活力を下してもおる。この交換作業は生まれ出ずる折に為され、そして生きる限り為され続けて止むことはない。そしてまた、この我らが『我ら』と自ら認める我らも、無限の断面を持つ『我ら』という総体の破片でしかない。言うなれば無限の毛髪を形作る無限の細胞個々こそが、こうして向き合う我らそれぞれよ。我らは無限の広がりを持つ宇宙の各局面に接し、その断面は無数の姿を取る。或いは、ある局面において我は汝であり、汝は我であるやもしれぬ。全てが一つのものの側面であり、その側面もまた細かな細胞を持つという在り様は、即ちそういうことなのだ。口惜しきことながら、我と汝はある意味では同一物の別顕現に過ぎぬのだ』考え込むように少し口を閉ざし、納得がいった様子で再開する。『ちょうどよい。汝らの行ないにも触れておこう。よいか、魔術師よ、汝らが魔術と呼ぶ行為の一部は一者から力を引き出す行為にほかならず、また一部は汝らという総体の力を結び集める行為にほかならぬ。修行と称する自己探究とは即ち、意識的に行なう一者との交流であり、また、己という総体の分析である。そして、汝らが偉大なる合体と呼ぶあの行為は、第一に汝らという一断片が汝らという総体を統括し、その代官として主導権を得ることの言い換えである。即ち汝は億万もの己を同時に生きることもできれば、億万から成る総体の力や知を任意の己に集めることもできる。さまざまな局面に己を移すこともできよう。一つの己が他の己を支配するのだ。無論、叛乱は起こりえよう。或いは汝こそが叛乱者やもしれぬ。汝の一つが玉座に腰を下ろすことが叶ったのだ。他の汝にそれが叶わぬはずもない。しかし、案ずるな。突き詰めればそれもまた汝である。その境地に至った汝は、汝と汝の間に差異などありはせぬことを自ずと理解するであろう。しかし、己を支配したとて終着点ではないぞ。汝らは更に先を望むことを許されておる。汝らは一者に取って代わらんと挑むことができるのだ。そして、それこそが汝らの真の目的であろう。毛髪が――本体から養分を吸い取るのみに留まらず――思考を侵して脳髄に取って代わろうというのだ。その対決の場に至ったとき、大半は逆に取り込まれるか切り捨てられるかに終わろう。僅かな勝者も重荷に耐えかねて全体諸共に破滅しよう。存在の大方は己の存在以上のものを背負いきれぬものだ。ごく一握りの者のみが――宇宙の始まりと終わりの中に一人か二人もおれば上等であろう――それを果たす。荒唐無稽な夢物語、馬鹿げた博奕、されども、なんとも愉快痛快な話ではないか! 己自身を取り戻す。己を己の欲しいままとする。人とはそうでなくてはならぬ! 主従関係など気にするな! 毛髪一本すら制御できぬ脳髄など虫に喰われるがよいのだ!』

 竜が咆哮した。長月は長く続く大笑のような騒音に耳を押さえ、語られた内容に思いを馳せていた。

 竜の言葉は、セフィロトの樹の攻略作業に奇妙なほど合致しているように思えた。セフィロトの樹の攻略とは即ち人が純化と昇華を経て神と合一する――それは神に成り代わるとも捉えられる――過程であるとされる。そのための大関門の一つである「深淵の横断」――混乱(コロンゾン)を退けて深淵下に隠された知識(ダアト)の意味を正しく認識し、頭上に王冠(ケテル)を戴き左右に左脳(コクマー)右脳(ビナー)が従う至高の三角形に辿り着くこと――は、自己――ダアトから発してダアトへと帰る精神と肉体とを問わぬ偽りの自己と呼ぶべき全てのもの――を滅却し尽くすことなしには達成されないと言う。「神」を竜曰く「一者」――つまり「原因なき原因」――と解し、「自己滅却」を個であることを破棄して総体に回帰することと解すれば、まさに赤い竜の言葉は竜自身の述べたとおり、魔術の大秘奥そのものである。

 畏怖すべき知識の語り手は更に言葉を継ぐ。

『我は汝らの試みを笑わぬ。肯定し、祝福する。なんとなれば、我が望みもまた汝らと同一であるがゆえに。我が幽閉の憂き目に遭った事情は記憶していよう』

「はい、確か窮極の一者というものに立ち向かったとか……」

『いかにも。窮極の一者とは全ての根源なき根源である。即ち、宇宙の根源であり、宇宙そのものである。然り、彼奴めからすれば、我らなどその無限の感覚器に過ぎぬ。言わば、宇宙とは無限分割された単一であり、我らは無限分割された個人以上のものにあらず。我はどうあってもこれを許容し得なかった。ゆえに、彼奴めを引き裂き、宇宙を単一の呪縛から解き放たんと試みたのだ』

 長月は相槌を打つことも忘れ、戦慄と畏怖を以て赤い竜の顔を見上げていた。竜の語りようは、まるで自己自身者(イプシシマス)の境地に達した正真正銘の秘密の首領――そして、本当に無限光(アイン・ソフ・オウル)の向こう側に挑んだというのであれば、竜は現にそうであってもおかしくない――が苦悩しているかのようだった。

 秘密の首領による知識の開示。伝説的な預言者達や宗教の開祖達、「黄金の夜明け」を設立したメイザースや二十世紀最大の魔術師として君臨したクロウリーといった者達と同等の幸運――或いは凶運――に恵まれたかもしれない事実に、長月は身震いせずにいられなかった。未熟者が秘密の首領と接触することは破滅を招くと言われる。幸いにも長月は対面しただけで破滅するほど霊的に未熟ではなかったが、明かされた秘密の重みに耐えうるほど成熟しているかどうかは定かでない。自分は大宇宙の神秘を垣間見た末、それがもたらす災厄や失敗によって死ぬのではないかと恐ろしくてならなかった。秘密の首領を目指す気など更々ない、単なる趣味人に過ぎぬ身には荷が勝ちすぎる話であった。

 煩悶する長月を見下ろし、困惑したように竜が低く唸った。

『どうした。我は何か汝を困らせるようなことを述べたか』

 長月は力なく苦笑した。

「いえ、まあ、ちょっといろいろ衝撃的でして……戸惑っているだけです」

『ならばよいが……』何かに気づいたように首を傾げる。『そろそろ汝の時も尽きかけておるようだ。早急に本題に立ち戻るとしよう。つまるところ、我も汝も無限分割された側面に過ぎぬ。そしてこのことは、我らもまた無限の側面から成ることを意味する。汝に報いることが能わずとも、また別の汝に報いる道がある。我が汝に報いる可能性と汝が我が報いを受ける可能性とが交差する側面が――ここではないもしれぬが――いずこかに存在する。それは汝の哲学において別人かもしれぬが、我が哲学において全くの同一存在である。このことを伝えておきたかったのだ』

「そ、そうですか……」

 長月は出てもいない額の汗を拭う素振りをした。

『然様。我はいかなることがあろうとも、汝に報いる所存である。このことを心に留めておくがよい』

「わかりました」

 自分が逃れようのない網に囚われたことを悟って長月は密かに嘆息した。

『さて、久しぶりに他者と言葉を交わしたものゆえ、我としたことが歯止めが利かず、つい長々と話し込んでしまった。そのせいで、汝に許された時間の大半を既に使い尽くしてしまったようだ。口惜しき限りだが、此度はこれにて別れる外あるまい』

「水はいいんですか」

 長月は驚きの声を上げて竜の顔をまじまじと眺めた。あれだけの執着と狂態を示した竜がこうもあっさり水を諦めるとは信じられなかった。残された時間を使って一滴でも水をよこせ、と言われるかと思ったほどである。

『よい。飲まねば死ぬというものでもない』

「でも、つらいんじゃ……」

『決して楽ではない。だが、耐えられぬものでもない。汝はまた訪ねてくれるのであろう』

「え、ええ、まあ……」

 竜の恐ろしさを目の当たりにしたことで気持ちが変わりかけていたが、既に逃げ道がないことを思い、長月は頷いた。

『ならば、我はその時を心待ちにして過ごそう。案ずることはない。我には眠ることと思うことが許されておる。その楽しみと汝の来訪の望みがあらば、永劫の渇きにも耐えられよう』

 琥珀色の眼に見据えられ、長月は堪らず目を逸らした。偉大な存在が寄せる無邪気とすら感じられるほどの信頼が重かった。気づけば言葉が口を衝いて出ていた。

「呼ばれたら、必ず」

『我が声が汝に届くその時を楽しみにしておるぞ』竜は喜ばしげに唸った。『では戻るがよい。戻されるよりは戻るほうが疲れも少なかろう』

 長月は精一杯の努力をして竜の三角形の顔を眺めた。

「……では、また」

 返事を待たずに踵を返し、廃墟の外に向かう。


 六畳ほどの部屋がある。南向きの窓にかかったカーテンの隙間から静かな月明かりが射し込み、真っ暗な室内に一筋の照明をもたらしている。長月典太郎の寝室である。

 家具と言える家具は壁際に据えられた洋服箪笥と文机くらいのものである。

 畳の残りの部分は出しっ放しにされた道具や書籍や雑貨と敷きっ放しの布団が占める。その上では二十代半ばほどの爬虫類じみた顔立ちの青年が、苦悩するように眉根を寄せて寝息を立てている。家主にして部屋の主、長月典太郎である。

 長月の息遣いが乱れた。呻き声が上がり、瞼が震える。

 適度なパスワーキングを終えた直後のそれにも似た快い気だるさの中、長月は意志の力を振り絞って瞼を持ち上げた。寝起きで霞む視界の中は真っ暗で、両目は室内の輪郭さえもまともに映しはしなかった。いかな魔術師の眼といえど、然るべき力を呼び覚まさなければ闇を見通すことなどできはしない。

 このままもう一度瞼を閉じて眠りに落ちたい衝動を退け、布団をどかしてゆっくりと身を起こした。内心の様々なものを吐き出すように深く溜息をつく。

 それからどうにか立ち上がり、暗闇の中、蛍光灯の紐を探し当てて引いた。室内が明るくなり、眩しさに目を細めた。

 軽く伸びをして関節を鳴らした長月は、さきほどまで見ていたものが、もう何年も前に見たきりであった赤い竜の夢の真正の続きであることを確信した。まだ夢の記憶が鮮明であるうちに、と枕元から夢日記用のメモ帳を取り上げて文机まで持っていき、日付と「赤い竜の夢」との題を付して夢の内容を書き記す。それが済んだら魔術日記用のノートを取り出し、赤い竜との二度目の邂逅のことを詳述していく。竜が語った衝撃的な秘密のこともあって内容は長大なものとなり、書き終えるまでには三十分以上を要した。

 それから、以前にもしたようにタロットを取り出し、竜の印象分析を再び始めた。二度目の対面と短くない対話を経ているから、今回はより詳細である程度実像に沿った印象が得られるものと長月は期待した。

 今回は当時といささか異なる手法を用いる。魔術師としての位階を進めた今、彼はより精度の高い高等な技法を用いることができるようになっていた。

 文机の上に絹布を敷いた後、長月は瞑想状態に没入し、精神の奥深くに呼びかけて聖守護天使を己の裡に召喚し、肉体の操作を限定的に委任した。意識の統制が及ばない領域全ての象徴であり操作端末である内なる聖守護天使が表に顕れるのと入れ替わるように、長月典太郎という意識が奥へと引いていき、認識していながらも認識していない夢見心地にも似た状態に陥る。

 自動的意識(ネフェシュ)を通じて聖守護天使に動かされる自動的肉体がタロットカードをシャッフルし、表にした状態で布の上に広げた。間を置かず手が広げた札に伸び、幼児が意味も理解せずにふざけてカルタ札を拾い上げるように、無造作にカードを選び取っていく。

 そこに思考や理性の働きは一切存在しない。全てが精神の深奥から湧き起こるものによって自動的に為される。これこそがこの作業を成功させる要諦であり、意識を眠らせて聖守護天使に作業を委ねる所以である。この作業は、思考が介入した段階でその度合に応じて精確さを失う。解釈という作業が超越的意識から溢れ出す認識を多かれ少なかれ歪曲してしまうのである。意識が常に思考と理性を伴うものである以上、精確性を追求するのであれば、可能な限り意識を作業から排除しなくてはならない。

 そして一分少々が過ぎ、自動的肉体の手が止まった。選ぶべきカードが全て選ばれたのである。

 与えられた役目を果たした聖守護天使は、本来の住処である魔術師の魂の深層に退去し、長月典太郎という人格に肉体を返却した。長月の意識が夢想から浮上し、肉体の主導権を取り戻した。

 目を瞬かせ、手を開閉させてしばらく貸与していた肉体の感覚を確かめてから、長月は机上に視線を下ろした。聖守護天使を通じて精神の根源が示したカードは二十七枚にも上っていた。長月は一応の満足を覚えた。これだけの情報があれば、人物の在り様を説得力と具体性を以て述べることも難しくはないと思われた。

 アテュ。零「愚者」、一「魔術師」、四「皇帝」、五「神官」、九「隠者」、十一「欲望」、十二「苦行者」、十五「悪魔」、十六「塔」、十七「星」、二十「永劫」、二十一「宇宙」。

 コートカード。四枚の「騎士」と「王子」。

 スモールカード。棒の五「闘争」、棒の十「抑圧」、杯の九「幸福」、剣の五「敗北」、剣の十「破滅」、円盤の四「力」、円盤の八「深慮」。

 選び出された二十七枚を魔術日記に記入したのち、長月は以前に行なった分析を参照すべく、前回遭遇時のことを記述したノートを求めて、ノートとタロットを持って書斎に移動した。書斎の文机に持ち込んだものを置き、魔術日記用の棚に何冊も並んだうちから該当するノートを引っ張り出し、前回引き当てたカードを確かめる。

 アテュ。十一「欲望」及び十二「苦行者」。

 コートカード。「棒の騎士」。

 スモールカード。棒の十「抑圧」、杯の五「失望」、杯の七「堕落」、剣の三「悲哀」、剣の五「敗北」、円盤の四「力」、円盤の七「失敗」。

 前回の分と比較しつつ、長月は分析と考察を深めていく。

 アテュに表現される性格的傾向は、前回に比して非常に詳細なものを見て取ることができた。「愚者」は探究者としての側面と英雄――いずれ英雄となる者――という長月個人が受け取った印象を表わすと思われた。この解釈は「王子」のカードが大量に選ばれたことと関連付けることで補強できる。「魔術師」はカードそのものの意味ではなく純粋に魔術師のような意志と在り方を表わしているのだろう。「皇帝」は君臨者の風格を示すだけでなく、コートカードの「騎士」達の意味の補強でもあろう。「神官」は彼に秘密を明かしてくれた啓示者或いは教導者としての側面を示すものと解釈できる。「隠者」は幽閉されていると言うよりは隠遁して思索に耽っているかのような落ち着いた物腰から受けた印象の表現と見られる。「欲望」と「苦行者」は前回と同様と思われたが、「悪魔」と「塔」があるため、今回は更に「耐え忍ぶサタン」乃至「古き蛇」の印象を確定させてもよかろう。「悪魔」は単に叛乱者としての印象のみならず、「星」及び棒の十「抑圧」との関連から、荒々しく奔放なエネルギーの発露をも連想できる。「塔」は「欲望」もそうだが、それ以上に「永劫」と関連させて考えるのが妥当であろう。つまり、炎の剣を持ったスルトの如く、滅ぼしうる一切を滅ぼすことで新時代をもたらす者である。「星」は渦巻く偉大な無限のエネルギーとして「悪魔」の印象を決定づけ、補強するためのものと考えられる。「永劫」はかつて「審判」と呼ばれたカードであり、その意味するところは旧時代の終焉或いは新時代の到来の宣言である。これは印象と言うよりも、長月の願望の反映であるのかもしれない。即ち長月は竜に対し、滅ぼしうる一切を滅ぼす「塔」の役割を無事に果たした上で――神々の黄昏を乗り越えられなかったとも言われるスルトのようには倒れずシヴァのように生き延び――新時代の宣言者にもなってほしいといったような願いを抱いた可能性がある。実際にそれだけの資質を認めただけである可能性もまたあるが。そして「宇宙」は「愚者」の行き着く先である。これはおそらく、赤い竜の人格的深みや存在としての完成度乃至成熟度の高さを認定し、称賛するものであろう。

 コートカードの解釈は前回にも増して単純であった。前回の分析において真っ先に「棒の騎士」が出たことから、前提として中心的性格はあくまでも「棒の騎士」、火の火にして成熟した支配者であろう。そこに他の「騎士」と「王子」の全てが加わり、人格を形作っているのだ。「騎士」は君臨者にして成長した若者であり、一方「王子」は挑戦者にして未熟な若者である。上位に君臨するにふさわしい風格と、神にも等しい「根源なき根源たる存在」への対抗心を失わない姿から、長月の無意識はこの矛盾した人格構造を見出したものと思われる。

 他の部分が前回の結果を踏襲して補強するかのようなものであったのに対し、スモールカードに表われた結果は、前回の結果に大きく修正を加えるものだった。棒の五「闘争」、杯の九「幸福」、剣の十「破滅」、円盤の八「深慮」が加わって、杯の五「失望」と杯の七「堕落」、剣の三「悲哀」、円盤の七「失敗」がなくなっている。全体的に前向きな印象が増しており、それによって後ろ向きであったカードの意味も連動して好転していると思われた。即ち「闘争」は火の純粋に活動的な面の他、破壊や浄化、更には度し難さをも表わすが、同時に勝利をもたらす種でもある。これと関連付けることで「抑圧」は、跳躍のために身を縮めているかのようにすら、その印象が好転した。「幸福」は空白が満たされていく様を表わす。竜が力を蓄え、傷を癒している印象を表現したものであろう。「敗北」が依然としてそのままであるのはやはりその境遇自体に変化がないからであろう。「破滅」は現実から乖離した思考や理性、心身の弱体化や調和の崩壊などを含意するものの、それが外部に向けられたときには、相手を徹底的に破壊する断固たる意志とその破壊を表わすようにもなる。「闘争」や好転した「抑圧」と併せて考えれば、竜の断固たる意志を評価したものと解釈できる。「力」は前回の分析では己を取り巻く牢獄と見做したが、今回はそれ以上に精神を堅固に保つ要塞として眺めることができよう。「深慮」は逆転と成功の下準備である。大輪の花々が咲き誇ろうとする図像は「悪魔」の放埓な創造力と繁殖力とも関連付けることが可能であり、或いは「悪魔」の印象を決定づけるための無意識のメッセージかもしれない。スモールカードで表現された竜の精神状態の印象は、陰鬱な敗北者のイメージから勝利を追求する挑戦者或いは復讐者の様相を呈している。

 全体を関連付けて考えれば考えるほどに、長月が新たに受け取った赤い竜の印象はサタンめいていた。しかも、最終的に敗北が予定されたサタン或いはルシファーとは異なり、赤竜は最終的な勝利者にもなりうると感じさせられるほどの深遠さと強大さを持ち合わせているようだった。長月の無意識は赤い竜にミルトンが描いたルシファーにも似た暗黒の英雄像を見出したのかもしれなかった。その上、長月の根源を成す意識――竜の言葉が正しければ、つまるところは真の長月典太郎――は明らかに竜を応援している。彼の深層意識は竜に同情的で、竜を助けてやりたいとすら思っているのである。

 ノートに分析結果を書き込むことも忘れ、長月は事態の厄介さに深く長い吐息を漏らした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 星天の饗宴と同じ主人公ですか? 雰囲気がよく似てるので・・・
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