11 話 騎士ギルディオ
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「ギルディオ・サン・ローエヌ。皇太子直属第二親衛隊副団長の任を一時解き、本日これより国賓であるリツキ殿の専属護衛を命じる」
「御意」
エルケ殿下からの命令で、私は国賓となったリツキ様という少年の護衛をする事となった。
あの、樹海での行幸。視察と狩り。
私は護衛の一人として殿下の傍らに居た。
あの時。
妙な気配を感じ、ほんの数秒、殿下から視線を外した。
わずかなその間に殿下が術式で転移されてしまうなど、あってはならぬ失態を犯した。
犯人である術者はすぐに捕縛したが、殿下がどこへ転送されたのかをなかなか吐かなかった。
だが樹海の奥の木々から、鳥たちが慌てて空へ向かい飛び去って行くのを確認した事で、方角だけは辛うじて判明。すぐにその方角へと向かう。
樹海を進んでゆくと大きな炸裂音がした。
遠くに微かに煙も見える。
その場で何かが行われているのは確かなようだった。
急ぎ現場へと駆けつけると、槍を持った男が今まさに殿下を襲おうとしていた。
他の者に捕縛を命じ、私は殿下の元へと駆け寄る。
大した怪我はしていない様子にほっとしたと同時に、真剣な殿下の視線の先を見る。
立ち上がりよろけそうになる殿下を支え、ともに移動した。
倒れている者を一目見て、これはもう駄目だろう、と思った。
流れ出ている鮮血の量がかなり多い。
いくら術式で補正しても、これでは体力の方がもつまい。
苦しそうにあえぐ姿に、すぐに楽にしてやったほうが良いのではないかと、殿下に陳述したくなった程だ。
けれど殿下は諦めてはおられず、城への移送を求めた。
城への移送に私は加えられず、捕縛した者達の連行と取り調べ官への引き渡しを任された。
任務遂行直後、先に城へ殿下と戻られていた親衛隊団長より自宅での謹慎を申しつけられる。
どの様な理由であれ、あの時私が殿下を御守り出来なかった事は事実。
恐らく謹慎は一時的なもので、会議の後、降格か親衛隊からの任を解かれる事になるだろう。
至極当然の事に異論など考えもしなかった。
だが、私に下された命は違った。
親衛隊副団長の任は一時解かれただけで、国賓が居城している間だけの護衛だという。
その後の事はまだ決められていないという説明に、これはもしかすると今回の失態における信頼を取り戻せるのかもしれないという期待が湧き、天の采配に感謝した。
が、その思いが浅はかだったと、すぐに思い知らされる事となった。
あの倒れていた少年が殿下の御命を救った者であり、護衛対象の国賓である事を知った。
殿下の御命を救ってくれた事に対する恩義は私とて口で表せない程に持っている。
だが心の中でとはいえ、私はあの時、彼の少年の生命を終わらせようとさえ考えていたのだ。
状況はどうあれ、殺意を持った事は確か。
そのような自分が、その少年の護衛に相応しいとは思えなかった。
であれば、この少年の護衛として選考され命じられた事そのものが罰なのだと。
私の処断を精霊長様方が決めて下さるのだろうと、そう考えていた。
護衛の最終選考において精霊長様方からの質疑は簡素ではあったが、眼光の奥にはかなり強く冷徹さを感じた。
尤もだと、素直にその視線は理解できた。
主を護るための存在であるのならば、主を害するものに容赦などないだろう。
素直に死を覚悟したが、精霊長様方は何故か私を傍仕えの護衛として認めて下さった。
理由は解からない。
が、任命されたからには心より御仕えしようと、そう思った。
そして、対外的には四大精霊長様全ての加護を受けている事としているが、本当は精霊王様自らが隷属の御印を授けていて、四大精霊長様は精霊王様からこの少年の守護を命じられているのだという、信じられない事実をも知った。
うっかり口を滑らせられるような内容ではないのだ。
それらの事実を口外出来ぬ様枷を付けられたが、至極もっともな処置であると自らも望んだ。
実際にお会いしたのは風の精霊長様と水の精霊長様だけだが、この御二柱だけでも重圧な神力を感じるのに、この少年は四柱すべての精霊長様だけでなく、その上位の精霊王様まで使役できるというのだ。
精霊王様がどのような思慮でこの少年に隷属の御印を授けられたのか、愚人たる私には皆目見当もつかないが、御印を授かる者達は皆、やらねばならぬ役割を持つのだと聞き及んでいる。
しかも四大精霊長様を守護に遣わせる程の役割とは、この少年はどれ程の責を背負っているのだろうかと不安になる。
が、それでも。
殿下や精霊長様方の期待に応えるべく、一騎士としてこの任を全うしようと改めて己に誓った。
精霊長様方に連れられ、他の傍仕え達と共に寝室でこの離宮の主となる方と顔合わせをされた。
寝台の上で横たわる少年……リツキ様の顔は蒼白く、生気が欠けている。
聞けば、前日心臓が止まりかけたとかで、疲労からか未だ目覚めていないのだと。
身体の状態などは、御殿医師長からも色々と注意事項を説明された。
目覚められたリツキ様に、ようやく傍仕え全員が紹介され、挨拶を許された。
リツキ様は穏やかな笑みで皆を受け入れて下さった様子である。
クーノ殿によって梳られている真っ直ぐな癖のない髪は天の大君の色。
サイナム殿の動きを追っているその瞳は、空のような青。
寝台の上に居る為、予想した背丈や身体つき、その顔立ちをざっと見る限り、リツキ様はまだ少年の域を出ていない様に見える。十四、五くらいであろうか。
他人と触れ合う事が少なく、人に対してあまり慣れていないと説明は受けていたが、精霊長様方に対してはあれほど饒舌なリツキ様の口が、私達に対してはいつも重い。
戸惑うように声をかけてくるその仕草は、まるで弟の幼い頃のようで、つい目が細まってしまう。
そして今日、リツキ様から初めて名指しで呼ばれた。
「ギルディオ」
扉の横で立哨をしていた私はすぐに寝台の側へと向かう。
「何でしょうか、リツキ様」
「うん、ちょっと散歩したい」
少し恥ずかしそうに告げられた言葉に笑みが浮かぶ。
自分で動いてはならない。動きたい時は私かレオーノ殿の手を借りるようにとの、昨日の御殿医長殿との約束をきちんと御守りになるらしい。
だが、移動できる状態かどうか、確認だけはしておかねばならない。
「少しお待ちください。……ナイル殿、宜しいか?」
「先程診た御様子では大丈夫かと。ただし長時間は許可できません」
診断では幸いにも移動が可能らしい。
リツキ様を落胆させずに済み、私も安堵する。
「了解した。様子を見てこちらの判断で切り上げる。……それで宜しいですか、リツキ様」
「うん」
楽しそうな返答が寄越され、すぐに移動の準備が整えられた。
私がリツキ様を抱えて移動する間は、同じ騎士のレオーノ殿が護衛として同行するという分担を既にしておいたので、レオーノ殿も気を引き締めている様子だ。
クーノ殿が薄くて長いクッションみたいな物を用意し寝台へと置き、リツキ様の身体をその上へと移動させる。
「騎士様方の防具服や籠手は硬くて、直接ではリツキ様の御身体に負担になります。痛みや疲労を軽減させる為、この上にリツキ様をお乗せして、そのまま抱えて頂きます」
尤もだと頷き、言われた通りにクッションごとリツキ様を抱え上げた。
「!……」
一瞬、落としてしまうかと動揺した。
改めてきちんと左腕にリツキ様の背の位置を正し、しっかりと抱きかかえる。
軽かったのだ。
末の妹よりも軽いのではなかろうか。
クッション越しからも判るほどの肉の無さ……予想していたより遥かに軽いリツキ様を抱えつつ胸を痛める。
大量に出血した状態での傷や毒の治癒術式の使用で、術式を行使する代償として身体中の筋肉がそれに置換され目減りしただけでなく、その時の毒が心臓を動かす機能を半分壊してしまったのだと。
筋力だけでいうのなら、半年から一年ほど寝たきりの容体と同じで、ひとりで立つ事はまず出来ないのだと。
指も手も辛うじて動かせるだけ、なのだと。
腕を上げ続ける事はまだまだ難しく、匙を持つのがやっとなのだと。
大きな大きな怪我を負って、まだ六日。
傷だけは完全に治癒しているけれど、決して安堵できる容体ではないのだと、御殿医長殿から、そう聞いてはいた。
刺客によって行われた最初の仕掛けである殿下の転移。
それさえ防げていれば、殿下の身が危険にさらされる事も、この年若い少年が瀕死の傷を負う事もなかったのだ。
けれど、起こってしまった事実を覆すことは出来ない。
出来るのは叶う限りの償いだけだ。
「言葉でも指さしでも構いません。指示をお願いいたします」
こくり、と。頷きがあった。
寝台を背にする様に向きを変えた。
その瞬間。
「うわー……こんなだったのかー」
リツキ様の口から言葉が零れ落ちる。
昨日、移動の許可を御殿医長に求めたリツキ様に対しては、無茶な事を言う方だと、瞬間感じた。
けれど、御殿医長はそれに制限付きでも許可を出した。
その意を今考えてみれば、確かに心の安寧には必要ではないかと、そう考える。
意識の無いまま何度も居場所が変わり、しかも寝ている状態のまま身動きもとれない。
自分の居る場所がどのようなものなのかを知らないというのは、確かに不安でしかないだろう。
身体に不調が診られればすぐに止めるしかないが、僅かでも身の回りの環境を知ることで心の安心を増やしていってもらえればと思う。
一通り寝室を見渡し、ベランダを覗いた後、隣の部屋の手洗い場へと向かった。
次は浴室と使用人の待機部屋。
どの部屋も興味深そうにあちこち見ている。
次は寝室とは繋がっていないので一度廊下へと出る事になる。
気を引き締めて開けられた扉から廊下へと出る。
主人の居る部屋外に立哨の護衛が居るのは当然なのだが、リツキ様はその事を御存じなかったらしい。
抱えている腕にリツキ様の身体の震えを感じ、立哨兵に退け、という視線を送る。
素直にその指示に従った立哨兵だったが、次の瞬間に固まってしまった。
「ご苦労様」
リツキ様からのたった一言。
労いの言葉。
王侯貴族階級に及ばず、上流階級に属する者達は、使用人を人間と思っていない者も多い。
見ればこの立哨兵は若い。
これまでどの様な場所でどの様な役目についていたのかは知らないが、リツキ様からかけられた言葉に俯き固まっている状態から察するに、恐らく初めての労いなのだろう。
リツキ様はお優しい方なのだと、そう感じた。
向かいにある応接室や食堂を案内し、説明を加える。
「王陛下やお客様との会食などは、こちらの食堂で行われる事が多いです。ですが、基本的にお食事の場所は離宮の主様がお決めになってよい事になっておりますので、お断りになれない場合を除き、寝室で摂られてもベランダで摂られても構わないんですよ」
「それは、助かる」
にこりと笑うリツキ様に問う。
「使用人の居住区や厨房などの案内は、如何しましょうか?」
「……混乱しそう……だから、明日にするよ」
あっさりと答えが返ってきた。
呼吸はゆっくりだが、まだ辛そうではない。
ただ顔色の悪さは隠しようがなかった。
同じ様に気づいたレオーノ殿もリツキ様に声をかける。
「お加減は、大丈夫ですか?」
リツキ様はにこりと笑い、視線を他へと向けた。
「うん。大丈夫……あ、外、庭園になってるんだ綺麗ー」
今いる場所は屋根のある通路で、壁の一部が大きな窓としてくりぬかれ、外にある庭園の木々や花を楽しむ事が出来るようになっている。
と、リツキ様の口元から変わった音がこぼれ出た。
ぴるる、ぴぴぴ、ぴるるるるる、ぴ
「?」
宙を見、繰り返されるその音をさすがに怪訝に思ったのか、レオーノ殿が先に口を開いた。
「リツキ様?」
声をかけられたリツキ様は苦笑しながら言う。
「ごめん。精霊たちが挨拶に来てて……」
レオーノ殿の瞳が真ん丸になっている。
珍しいものを見たと同時に、リツキ様の特殊な力を目の当たりにした事で私も驚いていた。
あれが、精霊語というものなのか。
精霊語はその発声からして、習得が難しいものなのだと聞いていたが、リツキ様だから出来る事なのだろうと、いとも容易くその言葉を紡いでいた事を呆然と納得するしかなかった。
私には精霊の姿など見えはしないが、そこに確かにいるのだろう。
リツキ様が宙に向かい、人の言葉で再び声をかけている。
「はいはい、君たちもお仕事に戻ってね…………ん?」
突然、リツキ様の視線が私へと向けられる。
目線より上という事は私の髪とか、その上に何か居るのだろうか?
「どうしたの? ギルディオに用事?」
リツキ様の視線が頭から移動し、中空で止まる。
「なにが?………………ああ……もう。落ち着いて、ここきて、直接伝えて?」
リツキ様の指が御自分の額を示し、目を閉じる。
一瞬だけ、そこが光ったように感じた。
「大丈夫。心配ないから」
目を開けたリツキ様は一言そう言い、真剣な顔で眉を寄せ、いきなり傍に居たレオーノ殿のマントを掴んだ。
「レオーノ。ギルディオと変わって」
「え?」
「交代して俺を持って。早く」
「は、はい!」
レオーノ殿が動揺して視線を私に向ける。
私とて事情がさっぱり理解できないのだが、リツキ様の希望であるならと、リツキ様を丁寧にレオーノ殿へと抱きかかえさせた。
その直後。
「スイ!」
「御前に、あるじ様」
リツキ様の声に、いきなり傍に水の精霊長様が現出した。
「この子を道案内にして、ギルディオと転移して」
「何事ですか?」
「行けば判る。行って、助けろ」
中空を指し示し、水の精霊長様にそう命じたリツキ様に言う。
訳が判らない。
私の職務はリツキ様を御護りする事であるというのに、何故突然、水の精霊長様と共に移動しなくてはならないんだ?
「ちょ……お待ちください! 何事なのですか? 職務中ですので、私はここを離れるわけには」
「そういう事、言ってる場合じゃないから」
「いえ、ですが!」
「俺が命じたとでも何でも、後でなんとでもいえるから」
「駄目です!」
リツキ様はその意思を譲るつもりはないらしく、押し問答に発展してしまったその時、後方から声が掛けられた。
「何の騒ぎだ?」
「殿下!」
現れたのは護衛を連れたエルケ殿下だった。
助かった、殿下にも口添えをしてもらおうと、そう思った矢先。
リツキ様が私より先に口を開いた。
「ああ、丁度良かった。皇太子から命じてあげてくれませんか?」
「何を、ですか?」
「緊急事態なんです。ギルディオに、今すぐ、家に帰れ、と」
「…………許可しよう。ギルディオ・サン・ローエヌ、これより帰宅を命じる」
「な……はい」
緊急事態だというリツキ様の言葉に、殿下から直接帰宅を命じられてしまった。
命じられれば従うしかないが……
しかも緊急事態? 我が家? 何なのだ、それは。
「絶対に、欠けさせないで、スイ」
「お任せくださいませ、あるじ様」
リツキ様の言葉が短くそう告げられ、水の精霊長様が返答した直後。
私の視界から、殿下もリツキ様も消え失せた。
いや、違う。
水の精霊長様の御力で転移させられたのだ。
今、目の前にあるのは離宮の風景ではなく、紛う事なき我が家の一角。
そして、緊急事態の意味をも知った。
「イリーゼ?」
その場は私の屋敷にある客間のひとつ。
そして、そこに倒れ伏しているのは、私の妻、イリーゼであった。
意識がないのか、呼びかけても返事がない。
「イリーゼ!」
「騎士ギルディオ。まずは主治医を呼びなさい」
叫ぶ私に、水の精霊長様が静かに告げる。
「彼女は良い場所で倒れられた。寝台もある」
イリーゼの身体が浮き、寝台へそっと置かれる。
「彼女の身を案じるなら、急ぎなさい」
「はい!」
私は客間から飛び出し、主治医へ連絡を取る様、使用人に命じた。
主治医の家は近い。
ものの数分で駆けつけてくれた主治医や助手達と共に、私は再び客間へと向かった。
こちらを見る気配もなく、水の精霊長様は口を開く。
「先程、破水しました。彼女の意識は戻っています。騎士はこちらで彼女の手を握り、声をかけなさい。医師はわたくしの補助を……湯と布の用意も早めに」
「!……まだ産み月まで、ひと月はあります!」
「心配はありません。……用意を早く」
水の精霊長様に命じられた主治医が私に呟く。
「……旦那様……あの……」
「説明は後でする。今はこの御方に従ってくれ」
「……判りました」
主治医は使用人に命じ、次々と必要なものを室内へと運び入れ始める。
私はイリーゼの手をしっかりと握り声をかけ続ける。
「私が傍に居る。しっかりしろ」
「…………あな、た……」
イリーゼの微笑みが再び苦痛にゆがめられ、私の手が強く握り返される。
そんな中、水の精霊長様の優しい声が聞こえた。
「中でそのように暴れていると、出る事が難しくなりますよ」
水の精霊長様は、そっとイリーゼの腹の上に手をかざす。
「それは、わたくしが決めてあげますから、ただ、出る事だけを考えてなさい。力を抜いて……そう。あなた。そのまま、ゆっくりと横に回って、そう、上手ね」
その言葉に、主治医が近寄り様子を見つつ、イリーゼの耳元で口を開いた。
「奥様! ゆっくりと息を吐いて、しっかり吸って。……いきんでください!」
「…………っ!」
「もう一回!」
「………………っつ!!」
「よし!」
主治医は素早く、けれど丁寧に赤子の鼻や口の膜を取り除いた。
「ん……ぎゃぁ! ふぎゃぁぁ!!」
「よしよし。元気だ」
手早く処置をし、産湯に浸けるよう傍らの助手に手渡した。
私の視線は赤子からイリーゼへと向かう。
元気な子の出産に、さぞかし安堵しているだろうと思っていた予想が裏切られる。
「イリーゼ?」
「…………っく……」
再び握りこまれる手。
水の精霊長様の声が再び聞こえてきた。
「次はあなたよ。力を入れちゃダメ。そう、苦しいけど少しだけ我慢して。大丈夫だから、ゆっくりと回って……」
再び主治医が近寄り、イリーゼの耳元で声を上げる。
何度目かのいきみの後、主治医が生まれた赤子を見て眉をしかめた。
「心配ありません。無理せず確実に外してあげて」
水の精霊長様の言葉に主治医が従う。
どうやら、へその緒が赤子の首に巻きついていたらしい。
ゆっくりとへその緒を外し、鼻や口の膜を外し終えた主治医の顔が曇る。
泣かないのだ。
逆さにして尻を叩いているが、それでも泣かない。
主治医の顔に焦りが見えた。
が。
「大丈夫。抱いていて……」
水の精霊長様は、抱かれた赤子の胸にそっと指を当てた。
「せっかちさんね。呼吸は、出てからするものですよ」
ふいっと、水の精霊長様の指先に水球が現れ、弾け消えた。
途端。
「ふぅ…………んぎゃあ! んぎゃぁああ!!」
賑やかな産声がその場に響き渡った。
こちらの赤子も処置の後、産湯へと運ばれてゆく。
イリーゼが目を潤ませながら私を見上げている。
私はまだ握ったままのイリーゼの手に口づけ、もう片方の手でイリーゼの顔にかかる髪を払いのけた。
「よく、頑張った」
「あなた…………ギルディオ……」
「双子だと、何故教えてくれなかった」
「心配、かけたくなくて……ごめんなさい」
「…………無事で、よかった……」
安堵した私の傍に、主治医と助手が赤子を連れてやってきた。
イリーゼの左右の脇に、産着にくるまれた赤子を抱かせる。
「奥様の右手の子が最初の御子で男の子。左手の御子は女の子です。危ない出産ではありましたが、よく頑張りなさった」
赤子達をきゅっと抱きしめるイリーゼを見て幸せを感じた後、私は、はっと我に返った。
一度立ち上がり、寝台の反対側に立っている水の精霊長様に向かい跪座を成す。
「水の精霊長様の御助力がなければ、妻も子も危ない所でございました。厚く厚く御礼申し上げます」
私の言葉で、ようやくこの場の人間がその存在をあらためて知り、畏れからか、皆平伏してしまった。
何と、イリーゼまで動こうとしていた。
だがそれを止めたのは、他ならぬ水の精霊長様だった。
「あなたはまだ、静かに身体を休めないといけませんよ。赤子の為にも、ね」
「は、はい!……有り難うございます」
そう言い、水の精霊長様は赤子達の額とイリーゼの額に軽く口づけをする。
「この屋敷を守る精霊達は、ここに住む者たちを大切に思っています。伝えられる力など殆どないのに、それでも。守護する場を離れてまで、この家の主の元へ緊急の事態を伝えようとしていたのですから…………精霊達に愛されている家人と、その新しき住人に、祝福を」
告げられた言葉に、先程三人が口づけを受けた額が淡く光る。
水の精霊長様は微笑み、イリーゼに言う。
「今後数年、あなたと赤子達に病悪は近寄れません。健やかに育てなさい」
「あ……有難う御座います。有難う御座います!」
突然の僥倖にイリーゼは涙を流しながら礼を言っている。
水の精霊長様の視線が、私の方へ向けられた。
先程までの笑みなど全くない、氷の様な眼差しだった。
「礼は、わたくしにではなく、あるじ様へ。わたくしは、一人も欠けることなく助けろという、あるじ様の主命に従っただけですから」
「!」
ようやく、頭の中でリツキ様の一連の言葉が繋がった。
行って、助けろ。
まだ共に過ごして僅かに二日だが、リツキ様の口から命令口調を聞くのは、これが初めてだったことに気付いた。
精霊長様方へだけでなく、私達使用人に対してさえ「お願い」や「頼み」の言葉しか使われなかった。
そんなリツキ様が命じた言葉。
そして。
一人も欠けることなく助けろ。
それが受け取った主命なのだとしたら。
水の精霊長様を再び見れば、その表情は憂いに満ちていた。
当たり前だ! 私は何を呆けていた!
子の生誕の場に、私自身を間に合わせるという意味もあったのだと。
[家族]を欠けさせるなという主命に、私自身が含まれているという事に、何故気づかなかった!
あの時、すでに顔色の悪かったリツキ様。
その顔色を、容体を、水の精霊長様も見ているという事に、何故気がつかなかった!
私は主治医に聞く。
「後はそなた達だけでも、大丈夫だな?」
「はい。御安心下され」
「では任せる。……イリーゼ、子供たちを頼む」
「はい、あなた」
私は水の精霊長様へ告げた。
「職務に戻ります。御一緒に連れ帰って下さいませ!」
「よいのですか?」
「家族の無事は水の精霊長様の御墨付でございましょう? 今は……あの御方の方が心配です!」
「判りました。では」
ここに来た時と同じように、突然、家族の居た景色が消えた。
再び見えたのは、離宮の職場でもあるリツキ様の寝室。
そして。
慌ただしい医師の群れ、だった。
生真面目な大型犬ぽい騎士ギルディオ。