人体模型に告白練習をする憧れの人を見てしまった
放課後のチャイムが鳴ると、教室はあっという間にざわめきに包まれた。
同級生の一人が、机の脇に立って声をかけてきた。
「影山、帰ろうぜー」
「いや、今日は先生に呼ばれてるから行かなくちゃ」
「そっか。じゃ、また明日なー」
軽く手を挙げて、彼は友人たちの輪に戻っていった。
そこへ、息を切らせた女子が教室に飛び込んできた。バスケ部の子だ。
「ねえ、日向は!?」
誰かが答える。
「あ、もう帰ったよ」
「今日も居ないの!?試合の助っ人頼みたかったのに!最近どこ行ってるのー!!」
がっくりと肩を落として、彼女はまた走り去っていった。
最近、か。
言われてみれば、思い当たる節があった。日向さんが、いつもより早く教室を出ていく日が増えている。今日も、誰かに声をかけられる前に、足早に廊下へ消えていった。いつもなら、笑いながら誰かと一緒に教室を出ていくはずの人なのに。
──僕の、憧れの人。
もちろん、本人は知らない。知られてはいけないと思っている。そもそも、僕と日向さんでは住んでいる世界が違う。
彼女は学年でも一、二を争う有名人だ。運動神経抜群で、頼まれれば色々な部活の助っ人に入る。「勝利の女神」なんて呼び方までされているのを、僕も聞いたことがある。それだけの人が、なぜか帰宅部だ。理由は知らない。
対して僕は普通の帰宅部で、教室でも目立たない地味メガネ。
住む世界が違う人を、勝手に好きになって、勝手に遠くから見ているだけ。それで十分だった。
教室を出て、廊下を歩きながら、今日のVチューバー配信のことを考える。
前回はゲーム実況だったから、今日は雑談回にしようか。何を話そう。最近あったこと、コメントで拾えそうなネタ……そうだ、たまには初恋の話題でもリスナーに振ってみようかな。
そんなことを考えながら職員室の前まで来ると、担任がすぐに僕を見つけて手招きした。
「影山、悪いんだけど、これ準備室に戻してきてくれないか」
差し出されたのは、返却し忘れていた解剖図の教材だった。
「なんで僕なんですか」
「他のやつ、みんな嫌がるんだよ」
「嫌がる?」
「知らないのか?理科準備室、最近女の声の幽霊が出るって噂になってるだろう」
言われて、思い出す。そういえば昼休み、購買の前で誰かがそんな話をしていた。あの時は興味もなく素通りしたけど、まさか自分に回ってくる話だとは思わなかった。
噂では、誰もいない部屋から、誰かを恋い慕うような女の声が漏れてくるのだという。『すき……』と、ただ一言だけ。姿を見た者は誰もいない。それなのに、聞いた全員が「あれは絶対にこの世の者じゃない」と怯えて口を揃える。
姿が見えないからこそ、あの狭く冷たい準備室のどこかに、執念深い怨霊がべったりと張り付いているような気がして気味が悪いのだ。
「先生も行けばいいじゃないですか」
「俺は……その、これから職員会議があるから」
完全に目が泳いでいる。壁にあるホワイトボードには、来週の会議予定表が堂々と貼ってある。今日じゃない。
「頼む!影山こういうの平気だろ!?俺は駄目なんだって!!」
「まあ、平気ですけど……」
理不尽だ、と思いながらも、僕は教材を受け取った。逆らうだけの気力もなかったし、面倒事は早く済ませるに限る。それが省エネというものだ。
理科準備室は、三階の一番奥にある。放課後の廊下はもう静かで、部活動の声が遠くの窓から漏れて聞こえるくらいだった。
引き戸が、なぜか少しだけ開いていた。不思議に思いながら近づくと、隙間から声が漏れているのに気づく。
「……すき」
足が止まった。
女の声だった。低く、押し殺すような、でも確かに聞こえる声。
──幽霊。
まさか、と思う。思うが、足は動かない。噂というのは大抵くだらないもので、こういう時に限って本当にありそうな気がしてしまうのが厄介だった。
もう一度、声がした。
「か、か、影山くん……」
は?
自分の名前が聞こえた気がして、僕は開いた隙間にそっと顔を寄せた。そこにいたのは、密かに想いを寄せる日向さんだった。扉に背を向けるように、人体模型と向き合っている。
え、なんで。いや、それより。
横顔が真っ赤だ。胸の前で両手をぎゅっと握りしめて、人体模型に向かって喋りかけている。
「私と、つ、つつつき合ってくださっ……あ、噛んだ……もう一回」
咳払いをして、仕切り直す。
「好きです!私と、つき合ってください!」
静まり返った準備室に、日向さんの張り詰めた声が響く。……告白の練習、なのか。相手が、内臓の丸見えな人体模型だという事実に、頭がついていかない。でも、そんな困惑も、さっき聞こえた「好き」の一言の威力の前では、大して意味を持たなかった。
「よし!大分形になってきた!噛まないように言えるには、あと一週間練習すればいけるかな!」
一人で頷いて、拳を握る。
「そもそも、影山くんが素敵すぎるんだもん。緊張する方が当たり前!えーい!私頑張れ!」
深呼吸を一つ。
「付き合えたらあの、無自覚天然タラシボイスが間近で聞けるはず!ついでに大接近して……喉仏も触らせてくれるかな……きゃー!!」
黒髪のポニーテールが左右に揺れている。
僕の頭の中で、何かが音を立てて止まった。『タラシボイス』それは、僕自身が配信の中で、リスナーから何度も言われてきた言葉そのものだった。
いや、まさか。
心臓が、変な音を立て始めた。僕が好きな女の子が、僕のもう一つの顔を知っている?そんな都合のいい話があるわけがない。そう思ったのに。
「日向……さん?」
恐る恐る、扉を開けた。カラリ、と引かれる音がした。
だが、日向さんは反応しなかった。
人体模型の前に立ち、こちらに背を向けたまま、何かをじっと見つめている。
「……好き」
一瞬、心臓が跳ねる。
日向さんも、口をついて出た言葉にハッとしたのか、慌てて自分に言い聞かせ始めた。
「あああぁ……むり、推しが尊すぎてやっぱり告白なんて烏滸がましい……いやでもあの声を生で聞いてみたい……」
頭を抱えたまま、身悶えている。完全に自分の世界に入っていた。
僕はそっと一歩、足を踏み入れた。
「そうだよ、告白なんて分不相応。だったら、せめて……普通に話しかけるくらいなら……」
日向さんは、自分を納得させるように小さく頷いた。
もう一歩、近づく。
「そう、まずは日常の話題から入るのがセオリーで……あ、そうだ、こないだの雑談配信で言ってた、前の日の生配信が盛り上がりすぎて次の日思いっきり寝坊しちゃったって話、あそこから入ろう。心配してるアピールできるし」
僕の足が止まりかけた。
あの時は休みの日だったから、寝坊しても実害はなかった。次の雑談配信で、何気ない話として一度口にしただけだ。
それを、日向さんは覚えていた。
「影山くん、あの時ちゃんと起きられた?大丈夫だった?って聞いて、それで、それでね、『日向さんが心配してくれるなんて』みたいな流れになって……ならないか、そんな都合よく……でも万が一……」
人体模型を相手に、一人二役の会話が続く。
棚と棚の間を抜け、実験台の横を通る。人体模型まで、あと数歩。
「それで、それで最後は、いつもの締めの挨拶みたいに、優しいトーンで『おつかれ』って……」
その言葉を聞いたところで、僕は足を止めた。
日向さんのすぐ後ろ。手を伸ばせば、触れられる距離だった。なのに声をかけられない。僕は、ただ黙って彼女の背中を見つめていた。
日向さんは一度、口を閉じる。しばらく人体模型を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……違う」
ぽつりと呟く。
「私、ただのファンだったのに」
その言葉に、僕の胸の奥が妙にざわついた。
「配信を見るだけでよかったの。声が聞ければ嬉しくて、面白い話が聞けたらそれでよくて。新しい動画が上がったら嬉しくて……」
そこで、少しだけ笑った。
「推しなんだから、それで十分だったはずなのに」
胸の奥が、また変に跳ねた。
「でも……学校で声を聞いちゃって」
そこで一度、言葉を切った。
「本人だって気づいちゃって。そしたら、気になるじゃん……」
「どんな顔して喋ってるんだろうとか。普段はどんなこと考えてるんだろうとか。休み時間、何してるんだろうとか……」
そこで、一度言葉が途切れた。
視線が泳ぐ。
「……喉仏」
小さく、独り言みたいに繰り返した。
「学校で影山くんが喋ってるとこ、初めてちゃんと見て。声が、配信と同じ声だって気づいて。そしたら、喋るたびに喉仏が動くのが見えて……」
思わず自分の喉に手がいきそうになった。いや、なんで僕が気にするんだ。
「配信ではずっと声だけだったから、知らなかった。あの声が、こんな風に体から出てるんだ、って……」
両手で頬を押さえた。
「なんか、えっちだって思っちゃって。触ってみたい、って……」
人体模型の目をまっすぐ見つめた。
「だったら……」
ぎゅっと胸元で手を握った。
「私だけの特別になってほしい」
心臓が、大きく鳴った。
「みんなが好きな影山くんじゃなくて……私が一番近くにいてもいい人に、なってほしい」
そこまで言って、日向さんは顔を真っ赤にした。
「……だから」
一度、深呼吸。
「そういうわけで、影山くん。私と、付き合ってください……」
「……それ、ずるいだろ」
思わず、声が漏れた。
日向さんが振り返る。
「……え?なんで影山くんが……?」
本当に、ずるいと思った。
僕はずっと、日向さんのことが好きだった。
教室の中で笑っているところも。誰かに頼まれて、困ったように笑いながら助っ人を引き受けているところも。廊下で友達に囲まれているところも。
遠くから見ているだけでよかった。僕なんかが手を伸ばしていい人じゃない。だから、勝手に好きになって、勝手に諦めていた。
それなのに、今、目の前にいる日向さんは、顔を真っ赤にして僕を見ている。
『私だけの特別になってほしい』
その言葉が、何度も頭の中を巡る。
それは、推しに向ける言葉じゃない。ましてや、配信者に向ける言葉でもない。目の前にいる僕に向けられた言葉だ。
「…………」
胸の奥が、熱い。
信じられないくらい嬉しい。
それと同時に、ずっと届かないと思っていたものが、突然目の前まで来てしまったような戸惑いがあった。
僕が好きだった人が、僕を好きだと言っている。
「……日向さん」
「ひゃいっ」
名前を呼んだだけなのに、日向さんの肩が跳ねる。その反応が可笑しくて、少しだけ笑ってしまった。たぶん、僕も同じくらい緊張している。
「……あのさ」
「は、はい……」
喉が妙に乾く。こんなこと、配信ならいくらでも言えるのに。今は、全然言葉が出てこない。
「そのー……」
日向さんが固唾を飲んでいる。
僕も一度、息を吸った。
「告白、なんだよね。これ」
「……っ」
日向さんの目が、ゆっくり見開かれる。
「受け取っても、いい?」
日向さんは固まった。まるで、聞こえなかったみたいに。
「……日向さん?」
「…………」
瞬きを二度。それから、口が小さく開いた。
「あっ」
閉じる。
「あっ、あっ……」
両手が口元へ上がる。肩が小さく震えている。
「日向さん?」
「…………っ」
何か言おうとして、結局言葉にならない。
「えっと……大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないです……」
「ですよね」
返事をした瞬間。
「ぴぎゃあああああ!!!」
理科準備室に、悲鳴が響き渡った。僕は思わず耳を塞いだ。
「声、大きい」
「だって!!」
日向さんは両手をぶんぶん振りながら、こちらを指差した。
「だって今!!影山くんが!!」
「うん」
「受け取ってもいいって!!」
「言ったね」
「え……影山くんが、恋人……?本当に!?」
「その、僕で良ければ」
言ってから、自分でも気づく。たぶん、僕も顔が熱い。日向さんほどではないと思いたいけれど、さっきから心臓が妙にうるさい。
日向さんは、また固まった。
「とりあえず、ライン交換する?」
一拍置いて、日向さんの固まっていた表情がふっと緩んだが、そこでみるみる真っ青になった。
「交換日記で!!」
「……交換日記?」
予想外すぎる返答に、僕の思考が一瞬止まった。
「はい!交換日記!ノートに書いて、交換するやつです!」
「いや、それは知ってるけど……なんで?」
日向さんは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、勢いよく言い切った。
「ラインとか、スマホでリアルタイムに繋がったら、爆発しちゃうので!!」
「爆発……」
「影山くんから直接連絡が来たら、多分その場で成仏します!」
「幽霊はもう出なくなるかもしれないけど、日向さんの方が幽霊になりそうだね、それ」
「そうなんです!だから交換日記みたいな、時差のあるやつがいいんです!!心の準備ができるので!」
謎の必死さで力説する日向さんを前に、僕はもう突っ込む気力もなくなっていた。
ただ、少しだけ笑ってしまう。僕がずっと遠くから見ていた人は、思っていたより、ずっと変な人だった。たぶん僕は、そういうところも好きなんだと思う。
窓の外で、部活動の終了を告げる放送が流れている。そろそろ、帰らないといけない時間だった。
「じゃあ、日向さん帰ろっか。……手、繋いでも良いかな」
「う、うん……あ!でも一つだけお願い!絶対に喋らないで!」
「へ?」
「隣り合った状態でタラシボイス聞いたら、確実に腰が終わる!」
「わ、わかったよ」
正直、半分も理解できていない。でも、日向さんが本気なのは伝わってきた。
これだけ「タラシボイス」に弱いなら、うっかり配信の音声でも聞かせようものなら、きっと大変なことになる。おまけに、こんな浮かれた状態でマイクの前に座ったら、僕自身、何を話してしまうか分からない。
今日の配信は、中止にしよう。そう心の中で決めた。
理科準備室の幽霊騒動は、こうして両想いという結末とともに、静かに幕を閉じた。
なお、帰り道の僕は、日向さんの隣で一言も喋らなかった。
繋いだ手だけが、ずっと熱かった。




