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殺されかけて逃げ延びた放蕩息子、親孝行のために覚醒する~王座なんていらない。弟に国を押し付け、俺は愛する嫁と辺境でのんびり暮らす~

作者: くるり
掲載日:2026/02/20

「アルス! また貴様はそんなところに入り浸って! 商会の顔に泥を塗る気か!」


王都の一等地にそびえ立つ『テトロン商会』の執務室。

父であり、一代で男爵の地位まで上り詰めた傑物、エドワード・テトロンの声が響く。


目の前には、豪奢なソファーに深く腰掛け、気だるげに前髪を弄る青年――アルスがいた。


「いいじゃないか、親父。あそこの酒場、エルフの踊り子もいれば、隣国の没落聖女まで給仕をしてるんだ。情報の宝庫だよ」


「言い訳は見苦しい! 街の噂では『テトロン商会の三男坊は、女のケツを追い回すことしか能がない空っぽの金食い虫』だと持ちきりだぞ!」


エドワードは顔を真っ赤にして怒鳴るが、その瞳の奥には、隠しきれない慈しみと……一抹の申し訳なさが滲んでいた。


それもそのはずだ。

アルスの正体は、商会の息子などではない。

十数年前、王宮の政権争いで「呪われた瞳を持つ不吉な子」として暗殺されかけた、この国の第一王子なのだ。


当時、御用商人だったエドワードが彼を密かに救い出し、世間の目から隠すためにあえて「放蕩息子」という偽のレッテルを貼って守り続けてきた。


(……親父、そんなに申し訳なさそうな顔をしないでくれよ。俺はこの生活を気に入ってるんだ)


アルスは心の中で呟く。

実際、彼が夜の街で「遊んでいる」のは、半分は真実だが、半分は偽りだ。

彼に救われ、職を与えられ、悩みを解決してもらった女性たちは数知れない。

彼女たちはアルスの「協力者」として、世界中の機密情報を彼に運んでくる。


だから、アルスは決めていた。

自分を命がけで育ててくれたこの「父」が、新興貴族として他の門閥貴族から蔑まれている現状を、放っておくわけにはいかない。


「わかったよ、親父。そこまで言うなら、俺は家を出る」


「なっ……!? アルス、それはどういう……」


エドワード会長が狼狽えるのを尻目に、アルスは口角を吊り上げ、不敵にニヤリと笑った。

その表情は、先ほどまでの「遊び人」のそれではなく、獲物を定める冷徹な策士、あるいは国を統べる王族の風格を帯びている。


「これを見てくれ」


アルスが机に放り出したのは、一通の古びた書状。

そこには、地方の貧乏貴族である『スタニス子爵家』の紋章が刻印されていた。


「スタニス子爵家……。領地は痩せ、借金まみれで、今や誰も寄り付かないという没落寸前の家ではないか。なぜこれを?」


「親父、俺を誰だと思ってる。あそこの娘……リィア嬢は、この国でも指折りの『真面目すぎる』令嬢だ。金策のために自分を売りに出すほどにな。……そして俺とこの商会は、金は唸るほどあるが、評判は最悪の放蕩息子」


アルスは指をパチンと鳴らす。


「俺がそこへ婿入りして、商会の資金と俺の……ちょっとした『特技』を注ぎ込めばどうなる? 子爵家は救われ、親父は子爵家という強固な後ろ盾を得る。Win-Winだろ?」


エドワードは絶句した。

「……お前、自分の立場をわかっているのか? あんな辺境へ行けば、これまでのような贅沢はできんぞ。それに、今だからこそ上手く隠れられてるというのに……」


「大丈夫さ。俺の『遊び仲間』たちが、あちこちで煙に巻いてくれる。それにさ――」


アルスは立ち上がり、窓の外に広がる王都の景色を眺めた。

その瞳が、一瞬だけ、人智を超えた黄金色の輝きを放つ。


「親孝行くらいさせてくれよ。俺をここまで生かしてくれた、世界一の父親なんだからさ」


「アルス……」





数日後。

テトロン商会の三男坊が、ついに愛想を尽かされて貧乏子爵家へ「売られた」という噂が王都を駆け巡った。


馬車に乗り込むアルスの背後に、高級クラブのホステスや、街の看板娘、さらには女騎士までが駆けつけ、涙ながらにハンカチを振っている。


「アルス様! 行かないで! 私、誰に人生相談すればいいの!?」

「あの方こそ真の紳士だったのに……!」


それを見たリィア・スタニス子爵令嬢は、馬車の窓から顔を出し、引きつった笑みを浮かべた。


「……なんてこと。お父様が連れてきた『救世主』って、ただの女たらしのクズじゃない……! 私の人生、終わったわ……」


こうして、伝説の第一王子による「貧乏領地無双」の幕が上がったのである。





ガタゴトと揺れる馬車の中で、リィア・スタニスは頭を抱えていた。

隣に座る青年――アルス・テトロンは、窓の外を眺めながら鼻歌を歌っている。


「……ねえ、アルスさん。確認しておくけれど、うちは本当に貧乏よ? 王都のような高級クラブも、綺麗で妖艶な女性もいないわ」


「ああ、知ってるよ。親父……エドワード会長からも散々聞かされた。『スタニス領は不毛の地で、魔物が出るだけの岩山だ』ってね」


アルスは屈託のない笑顔を浮かべる。

リィアはその能天気さに、さらに胃が痛くなった。


(お父様は『テトロン商会の息子なら、商才があるはずだ』って期待していたけれど……。この人は王都の女たちに泣いて惜しまれるほどの遊び人。きっと領地に着いたら、すぐに退屈して逃げ出すに決まってるわ)


スタニス領は、かつては鉱山で栄えたものの、今や魔力の枯渇した「死んだ山」と化している。

借金返済の期限は半年後。それまでに金策の目処が立たなければ、スタニス家は取り潰しだ。


「着いたわ。ここが私たちの……スタニス子爵邸よ」


馬車が止まった先には、壁にひびが入り、庭の草は伸び放題の、お世辞にも豪華とは言えない屋敷があった。

出迎えたのは、年老いた執事一人だけ。


「……ひどいもんだね」


アルスがぽつりと漏らす。

リィアは「やっぱりね」と自嘲気味に目を伏せた。


「ええ、そうよ。嫌なら今すぐ王都へ――」


「いや、違うんだ。『宝の山』を放置しすぎてて、もったいないなと思ってさ」


「……は?」


アルスは馬車を降りるなり、地面に膝をつき、土を指で掬った。

彼の瞳が、一瞬だけ、誰にも悟られぬ速度で黄金色に明滅する。


王族のみが継承する、万物の理を見通す『聖瞳』。

それは、偽りの放蕩生活の中で磨き上げられた、最強の鑑定スキルでもあった。


【鑑定結果:スタニス領の土壌】


【鑑定結果:スタニス領の土壌】


原因: 特有の鉱毒……ではなく、実は「超高濃度の肥料成分」が固まっているだけ。


現状: 栄養がありすぎて、普通の作物は根腐れして枯れる「贅沢な死地」。


解決策: この環境でしか育たない『幻の香草』の種をまく。


「リィアさん。ここ、水は出る?」


「え、ええ。裏の井戸があるけれど、最近は枯れかかっていて……」


「よし、ちょっと散歩してくるよ。夕飯までには戻るから」


アルスはひらひらと手を振って、屋敷の裏手にある枯れた森へと消えていった。


「ちょっと! アルスさん!?」


リィアの呼びかけも虚しく、彼は軽やかな足取りで姿を消す。

「やっぱり、現実逃避したんだわ……」と肩を落とすリィア。


しかし、その1時間後。

スタニス領全体を、凄まじい地響きが襲った。


「な、何事!? 地震!?」


慌てて外へ飛び出したリィアが見たのは、枯れていたはずの井戸から、天高く吹き上がる水流だった。

そして、その中心で「あー、ちょっと出力強すぎたかな」と頭を掻きながら戻ってくるアルスの姿。


「アルスさん! 一体何を……!?」


「ん? ちょっと詰まってた魔力の通り道を掃除しただけだよ。これで明日から、この山の枯れ木はそのうちちゃんと育って魔導具素材になるはずだ。親父の……テトロン商会に流せば、借金なんてすぐ完済できるよ」


アルスは事もなげに言い放つ。

リィアは呆然と立ち尽くした。

目の前の「放蕩息子」が放つ、抗いがたいほどに高貴で圧倒的なプレッシャー。


「……あなた、本当にただの商人なの?」


「ただの商人だよ。……今はね」


アルスはいたずらっぽく微笑むと、「さて、腹が減ったな。貧乏貴族の粗食ってやつを楽しみにしてるよ」と、ボロ屋敷の中へ入っていった。


この日を境に、スタニス領の、そして王国の歴史が塗り替えられ始めることを、まだ誰も知らない。





翌朝、アルスはリィアに連れられ、村の中央広場へと向かった。

そこには、痩せこけた体で力なく座り込む領民たちがいた。


「リィア様……。もう、今年の作物は全滅です。土が黒く変色して、何を植えても一日で枯れてしまう……」

「やはり、この土地は神に見放されたのでしょうか……」


絶望の淵にいる領民たちの前で、アルスは一歩前へ出た。

リィアが止める間もなく、彼は広場の石段に飛び乗る。


「おい、みんな! 暗い顔して座ってても腹は膨れないぞ。……ところで、この中で『一番働きたくない奴』は誰だ?」


領民たちが、呆然としてアルスを見上げる。


「な、何を言っているんだあんたは……」

「俺はアルス。今日からこの家の婿になる男だ。いいか、俺は遊ぶのが大好きだ。だから、お前らにも『楽に稼いで、早く仕事を終えて、旨い酒を飲む生活』をさせてやろうと思ってな」


アルスは懐から、一袋の小さな種を取り出した。


「これは王都の『遊び仲間』から譲り受けた、特殊なハーブの種だ。普通の土地じゃ育たないが、この死んだような黒い土……実は最高級の肥料が詰まった宝庫なんだよ。そこにこれをまけば、一週間で金に変わる」


「そんな馬鹿な……。この土は呪われていると言われているのに……」


「呪い? 違うな。これは『神様の食べ残し』だ。栄養がありすぎて普通の野菜が腹を壊してるだけさ。だが、この草はその『食べ残し』が大好物なんだ」


アルスはニヤリと笑い、領民の一人に種を手渡した。


「信じるか信じないかは自由だ。だが、俺についてくれば、半年後にはこの領地を王都の貴族が羨む『香りの都』にしてやる。どうだ、俺と一緒に、このクソみたいな現状を笑い飛ばしてみないか?」


アルスの背後に、一瞬だけ、かつての「第一王子」としての覇気が立ち昇る。

領民たちは、その圧倒的な自信に、いつの間にか気圧され、そして……瞳に小さな火を灯した。





「さあ、みんな! 仕上げだ! このハーブが銀色に輝き始めたら収穫の合図だぞ!」


アルスの号令とともに、領民たちは腰を上げ、一斉に鎌を振るった。

わずか一週間。

呪われた黒い土を埋め尽くしたのは、王都の香水商が喉から手が出るほど欲しがる幻の香草『シルバー・バルサム』の絨毯だった。


「信じられん……。たった一週間で、こんなに……!」

「アルス様、この草、本当に高く売れるんですか?」


不安げな領民たちに、アルスは収穫したばかりのハーブを掲げてニヤリと笑う。


「高く売れるどころか、争奪戦になるさ。もうテトロン商会のキャラバンを呼んである。これは全部、前金で買い取らせるから安心しろ」


領民たちから、地鳴りのような歓声が上がった。

リィアはその様子を、夢でも見ているかのような心地で眺めていた。


「アルスさん、あなたって人は……。でも、ハーブが売れても、来年からはどうすればいいの? この草が土の栄養を吸い尽くしてしまったら、もう何も育たないんじゃ……」


「リィアさん、逆だよ」


アルスは、ハーブを引き抜いた後の土を指差した。

かつてはドロドロと黒光りしていた不気味な土が、今はふかふかとした、香ばしい匂いのする黄金色の土に変わっている。


「このハーブは、土に溜まってた過剰な成分を全部吸い取って、代わりに土地を浄化する性質があるんだ。……試しに、そこにあるジャガイモの種芋を植えてみてくれ」


リィアは半信半疑で、言われた通りに種芋を埋めた。

すると、アルスが少しだけ指先から魔力を流し込み、成長を促す(※ここは内緒だ)。


数分後、土がモコモコと盛り上がり、立派な葉が茂った。

引き抜いてみると――。


「……っ!? なにこれ、こんなに大きくて……宝石みたいに綺麗なジャガイモ……!」


「ハーブで土地の掃除は終わった。これからは、何を植えても王都の最高級品を超える『ブランド野菜』が育つ。――借金返済? そんなの、今月の出荷分だけでお釣りがくるよ」


アルスは、驚きで固まっているリィアの鼻先を、ひょいと突いた。


「言っただろ? ここは『宝の山』なんだって」


「……っ。もう……本当に、あなたって人は……!」


リィアは驚愕のあまり、言葉を失っていた。

その瞳に宿ったのは、先ほどまでの熱い感情――ではなく。


(……なんなの、この人。ただの放蕩息子じゃなかったの!?)


それは、得体の知れない強者に対する、深い「尊敬」と「困惑」の混じった眼差しだった。


自分が何年もかけて解決できなかった領地の問題を、この男はたった一週間、しかも「遊び仲間のコネ」と「よくわからない理屈」だけで解決してしまった。


(王都の女たちが泣いて惜しんだのは、顔がいいからだけじゃない……。この圧倒的な有能さに、みんな惹かれていたっていうことかしら……)


リィアは、自分の隣で飄々としているアルスの横顔を盗み見る。

泥にまみれたはずの彼の立ち振る舞いは、なぜか王宮で見るどの高位貴族よりも、凛として、高く貴いものに見えた。


「アルスさん……あなた、もしかして、わざと『放蕩息子』のフリをしていたの?」


「ん? 何のことだい? 俺はただ、楽して美味いもんが食いたいだけだよ」


アルスはリィアの真剣な問いを、いつもの軽いノリで受け流す。

だが、その視線の先――。

領地の境界線から、砂煙を上げて近づいてくる豪華な馬車の列を捉えた瞬間、彼の瞳から温度が消えた。


「ひゃっひゃっひゃ! 景気が良さそうですなぁ、スタニス子爵家の方々は!」


下卑た笑い声を響かせながら現れたのは、この領地の借金を牛耳る悪徳高利貸し、バロウだった。


「リィア様、お久しぶりですなぁ。……おや、そこにいるのはテトロン商会の『粗大ゴミ』……おっと失礼、アルス様じゃありませんか」


バロウは馬車から降り立つと、これ見よがしにアルスを見下した。


「王都での噂は聞いておりますぞ? 父親に愛想を尽かされて、こんな掃き溜めに売られたとか。……まあ、精々この不毛の地で、泥水でもすすって――」


バロウが言葉を切り裂いたのは、アルスの「ニヤリ」という笑い声だった。


「……掃き溜め、ね。あんた、目は節穴か? それとも、自分の利益に目がくらんで、目の前の『宝の山』も見えなくなったのかい?」


アルスは一歩、また一歩とバロウへ近づく。

その足取りに合わせて、周囲の空気が重く、鋭く、張り詰めていく。


「バロウ。あんたの後ろにいる『飼い主』に伝えておけ。――この領地(庭)を荒らす奴は、相手が誰だろうと容赦しねぇってな」


アルスの瞳が、人知れず黄金色に輝き、バロウを射抜いた。


「な、なんだその目は……! たかが商会の、それも放蕩者の分際で私を脅す気か!」


バロウはアルスの放つ威圧感に思わず後ずさるが、背後の護衛たちを見て強気を取り戻した。

彼は懐から一枚の羊皮紙――契約書を取り出し、汚い指でそれを弾く。


「いいですか、リィア様。スタニス家が我がバロウ商会に負っている借金は、利子を合わせて金貨五百枚。本日中に返済できなければ、この領地の全権利と、貴女の身柄を……ゲヘッ、いただくことになっております!」


リィアが息を呑む。

「そんな……返済期限はまだ半年先のはずよ!」


「昨今の不況により、我が商会も資金繰りが厳しくなりましてなぁ。契約書の『特約条項』に基づき、期限を繰り上げさせていただきました。文句があるなら王都の法廷で争いますかな? ――まあ、一文無しの貴族にそんな暇はないでしょうが!」


リィアは絶望に顔を歪めた。

「そんな……あまりに横暴だわ……」


だが、その時。

アルスの、低く、冷徹な笑い声が響いた。


「クハッ……。特約条項、ねぇ。バロウ、あんた王都で商売してる割には、法律の勉強が足りないんじゃないか?」


アルスはリィアの手から、バロウが突きつけていた契約書をひょいと奪い取った。


「な、何をする! 返せ!」


「見ろよ、リィアさん。ここだ。……『不測の事態により債権者が不利益を被る場合、期限を繰り上げることができる』。バロウ、あんたはこれを盾にしてるわけだ」


アルスは契約書の一箇所を指差して、バロウを嘲笑う。


「だがな、バロウ。あんた、昨夜『金獅子亭』で贅沢に飲み明かして、王都の商工会に多額の寄付をしてたそうじゃないか。資金繰りが厳しい? 笑わせるな。……証拠なら、俺の『飲み仲間』たちが喜んで証言してくれるぜ」


「な……な、ぜ、それを……!?」


バロウの顔が、一気に土気色に変わった。

アルスの「遊び仲間」――それは王都中の酒場や情報網を掌握する、最強の情報ネットワークなのだ。


「さらに言えば、この契約書……スタニス家の前当主と結んだものだが、スタニス領は現在『特産品開発による経済復興特区』の申請中だ。この状況での一方的な権利譲渡は、王国商法第118条により『不当搾取』とみなされる。……おい、リィアさん」


アルスは呆然とするリィアに、優しく、だが力強い口調で言った。


「貴族の戦い方は、剣を振るうことだけじゃない。知識という武器を使い、民を守る盾となる。それが『上に立つ者』の義務だ」


「アルス……さん……」


リィアの目に、これまで見たことのない、深い尊敬の光が灯る。

一方、追い詰められたバロウは顔を真っ赤にして叫んだ。


「ええい、黙れ! 理屈はどうでもいい! 護衛ども、やれ! 抵抗するなら力ずくで――」


その瞬間。

アルスの瞳が、黄金色に激しく明滅した。

彼がただ一歩、踏み出す。


「……跪け(ひざまずけ)」


その一言は、言霊となって周囲の空気を圧壊させた。

「ひっ……!?」

「がっ……あ……!」


屈強な護衛たちが、まるで見えない巨人に押さえつけられたかのように、次々と地面に膝をつく。

それは魔法ではない。血筋のみが許される、王者の覇気。


「バロウ。今すぐその紙切れを食って、ここから失せろ。さもなくば……あんたの商会、明日には王都から消えてるぜ?」


「ひ、ひぃぃぃ! も、申し訳ございません! 退散します、退散しますぅぅ!!」


バロウは悲鳴を上げながら、護衛たちを置いて馬車へと逃げ帰っていった。



静寂が戻った広場で、リィアは震える声で尋ねた。


「アルスさん……。あなた、一体何者なの? その力、ただの商人の息子とは思えない……」


「……何者でもないさ。ただの、親孝行がしたいだけの三男坊だよ」


アルスはいつもの「ニヤリ」とした笑みを浮かべ、彼女の頭を軽く撫でた。

だが、その視線の先。

逃げていくバロウの馬車の陰で、一羽の伝書鳥が王都の方角へ飛び立つのを、アルスは見逃さなかった。


(……動き出したか、王太子派の連中め。俺の『死』を確認しに来るつもりか?)


アルスの戦いは、まだ始まったばかりだった。





バロウたちが逃げ去り、領民たちの歓声が響く中、領地の入り口から一台のボロい馬車がトボトボとやってきた。


「……リィア、すまない……。やはり、どの商会も相手にしてくれなかった……」


馬車から降りてきたのは、スタニス子爵家の当主――リィアの父、カイル・スタニス子爵だった。

服は泥に汚れ、肩を落としたその姿は、金策に走り回って完全に打ちのめされたことを物語っていた。


「お父様! お帰りなさい!」


「ああ、リィア。……っ、すまない。私の力不足だ。バロウの返済期限が早まったと聞いて、慌てて王都へ行ったが……。エドワード男爵からお預かりしたアルス殿の歓迎会すらできず、こんな……」


父は、そこに立っていたアルスに気づき、慌てて頭を下げた。


「アルス殿! 申し訳ない! テトロン商会のご子息を婿に迎えながら、私は……。今すぐ食事の用意を……いや、もううちにはそんな蓄えも……」


あまりに必死で、情けなくも心優しい義父の姿に、アルスは思わず苦笑した。


「お義父様、顔を上げてください。歓迎会なら、ほら!もう勝手に始めちゃってますよ」


「え……?」


父が顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。

絶望に沈んでいたはずの領民たちが、見たこともない銀色のハーブを抱え、満面の笑みで踊っている。

そして、目の前の畑には、立派に実った野菜が山をなしていた。


「な、なんだこれは……。私のいない数日の間に、何が起きたんだ……?」


「お父様、聞いて。アルスさんが……アルスさんが全部救ってくれたの。バロウも、さっき追い払ってくれたわ!」


リィアが興奮気味に、これまでの「奇跡」を父親に説明する。

父は呆然とアルスを見つめ、やがてその場にへなへなと座り込んだ。


「アルス殿……。君は、本当にあの『放蕩三男』なのか……? エドワード殿は、なんて素晴らしい息子を私に……っ」


父の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「お義父様。俺は、親父に恩返しがしたくてここに来ました。でも、あんたみたいな人が治める領地なら、守る価値がある。……これからは俺がついてます。だから、そんなに卑屈にならないでください」


アルスは父の肩をポンと叩き、いつもの「ニヤリ」を見せた。


「さて、お義父様も帰ってきたことだし、今夜こそ本当の歓迎会といきましょう。食材なら、そこら中に腐るほどありますからね」


父は涙を拭い、何度も「ありがとう、ありがとう」とアルスの手を握りしめた。

その光景を見て、リィアは確信した。


(この人は、ただの有能な貴族じゃない。……絶望を希望に変える、本物の『主君』の器を持っているんだわ)





スタニス領の「シルバー・バルサム」を原料とした香油や薬草茶は、テトロン商会の流通網に乗るやいなや、王都で空前の大ブームを巻き起こしていた。


スタニス領の「シルバー・バルサム」は、ただ香りが良いだけではなかった。

アルスが遊び歩いていた(とリィアは思っている)頃、高級クラブの女性たちから聞き出した「肌の悩み」を解決するための、独自の精製方法を導入したのだ。


「いいかい、リィアさん。女性にとって、美しさはどんな武器よりも役に立つはずだ。このハーブの成分を濃縮して、火力を微調整しながら混ぜ合わせれば……」


そうして出来上がったのは、『スタニス・エッセンス』。

一滴で肌に吸い込まれ、翌朝には「十歳若返る」と噂される伝説の化粧水だ。

それもこれもスタニス領でしか育てられない「シルバー・バルサム」のおかげだ。


そんな折、スタニス子爵家へ一通の招待状が届く。

差出人は王立貴族院。領地復興の功績を讃えるための、公式晩餐会への招集だった。





「アルスさん、私……こんな立派なドレス、何年も着ていないわ。それに、王都の人たちはきっとあなたのことを……」


豪華な馬車の中で、リィアは不安げにドレスの裾を握りしめていた。

彼女の心配はもっともだ。王都でのアルスは、いまだに「家を追い出されたクズ息子」という認識なのだから。


「いいじゃないか、リィアさん。最高に綺麗なドレスだよ。それに、噂なんてのは、上書きするためにあるんだ」


アルスは、テトロン商会が総力を挙げて仕立てた最高級の正装に身を包んでいた。その姿は、かつての放蕩者の影など微塵もなく、見る者を圧倒する気品に満ちている。


リィアは、周囲から聞こえてくる「没落子爵家」や「放蕩息子」という陰口に身を硬くしていた。


(……やっぱり、王都は怖い。アルスさんは笑っているけれど、本当は傷ついているんじゃ……)


その時。

エドワード・テトロン男爵が、アルスの姿を確認するや、並み居る高位貴族を突き飛ばさんばかりの勢いで駆け寄ってきた。


「アルス……! アルスじゃないか!」


会場が静まり返る。

(見ろ、エドワード会長が怒り狂っているぞ)

(ついにあの放蕩息子を公衆の面前で説教する気か?)


そんな周囲のゲスな期待を、エドワードの次の一言が粉砕した。


「よくぞ、よくぞスタニス領を救ってくれた! 我が息子ながら、なんという見事な手腕だ……っ!」


エドワードはアルスの両肩をガッシリと掴み、涙を浮かべて笑った。

かつて「放蕩息子」という偽のレッテルを貼ってまで守り抜いた愛息子。

その彼が、今や自分の足で立ち、一つの領地を再生させて戻ってきたのだ。


「……久しぶりだね、親父。約束通り、スタニス子爵家を『王都で一番の取引先』にして持ってきたぜ」


アルスがいつものように不敵にニヤリと笑うと、エドワードは深く、深く頷いた。


「ああ、もちろんだとも! 既に陛下には、スタニス領の『魔法の化粧水』を献上してある。今夜の主役は、我が息子アルスと、リィア嬢……貴方たちだ!」


当初、アルスを「クズの放蕩息子」と笑っていた貴族たちは、リィアの姿を見て絶句した。


「……な、何なの、あの輝きは……!?」

「スタニス子爵令嬢……。以前はもっと、こう……生活に疲れたような顔をしていたはずなのに!」


リィアの肌は、内側から発光しているかのように滑らかで、真珠のような光沢を放っていた。

あまりの美しさに、野次を飛ばそうとしていた若手貴族たちは言葉を失い、逆に貴族の婦人たちが、鬼のような形相でリィアに詰め寄った。


「リィア様! もしや、そのお肌の秘訣は『スタニス・エッセンス』ではなくて?立ち話で構いませんわ、その……その美肌の秘密を教えてくださいませ!」

「おいくらお出しすればよろしいの!? 我が家の一等地の別荘と交換でもいいわ!」


「え、ええ!? そ、それは……」


困惑するリィアを助けるように、アルスが彼女の腰を引き寄せ、ニヤリと笑った。


「淑女の皆様。……残念ながら、この『スタニス・エッセンス』は月間わずか百本しか生産できない超希少品でして。現在はテトロン商会の超上級会員様……いわゆる、俺の『遊び仲間』の紹介がないと手に入らないんですよ」


「そんな……! アルス様、私を仲間に入れてくださいませ!」

「我が家にも娘がおりますの! ぜひ紹介させて!」


さっきまで「粗大ゴミ」扱いしていた夫人たちが、今やアルスの袖を掴んで必死に媚びを売っている。

かつてアルスを蔑んでいた貴族たちは、妻や娘たちから「どうしてアルス様と仲良くしておかなかったの!」と吊るし上げられる始末。


「……あーあ、ひどいもんだね。お義父様、これが貴族の戦い方ですよ」


アルスは、背後で口を開けて固まっているカイル子爵にウィンクした。

カイルは震える声で、「アルス君……君は、商売の皮を被った魔術師か何かか……?」と呟くのが精一杯だった。


一方、その光景を苦々しく見つめる一団があった。

王太子とその取り巻きたちだ。


「……フン、女子供をたぶらかす小細工を。化粧品ごときで、我が王家の威光が揺らぐとでも思っているのか」


王太子は、手にしたグラスを指先で粉砕した。

だが、彼の婚約者である公爵令嬢までもが、アルスの持つ化粧水の瓶を熱烈な眼差しで見つめていることに、彼はまだ気づいていなかった。





「……ふん、見苦しいな。たかだか化粧品ごときで、これだから卑しい家柄の者は困る」


冷ややかな声が会場に響き、談笑していた貴族たちがサッと道を開けた。

現れたのは、豪奢な毛皮を羽織り、金髪をなびかせた青年――第一王子(自称)、ヴィルヘルム王太子だった。


「お久しぶりですな、ヴィルヘルム殿下」


エドワードが商人の仮面を被り、深く礼をする。

だが、ヴィルヘルムはその挨拶を無視し、アルスを不快そうに睨みつけた。


「テトロン男爵。貴殿は新興貴族とはいえ、陛下に仕える身だろう? その不肖の息子……確か王都を追われた放蕩息子だったな。そんなゴミを晩餐会に連れ出すとは、王家への侮辱と受け取っても良いのだぞ?」


会場に緊張が走る。リィアはアルスの腕をギュッと掴み、震えていた。

だが、アルスは動じない。

それどころか、ヴィルヘルムの目を真っ向から見据え、あろうことか「ニヤリ」と不敵な笑みを浮かべた。


「……何がおかしい、無礼者め!」


「いえ。殿下ともあろうお方が、ずいぶんと『小物』なことをおっしゃるなと思いまして」


「なっ……!?」


周囲から悲鳴のような息を呑む音が漏れる。エドワードの額から脂汗が流れた。


「殿下。俺のような『放蕩者』に難癖をつけるより、まずはご自身の婚約者殿を気遣われたらどうです? 先ほどから、彼女……俺たちが持ち込んだスタニス領の化粧品に夢中のようですよ。王家の威光よりも、女一人の心も掴めない。それが王族の『格』というものですか?」


アルスが指し示した先には、王太子の婚約者である公爵令嬢が、スタニス領の美容液をうっとりと眺め、リィアに話しかけようとソワソワしている姿があった。


「貴様ぁ……! 商人の分際で、この私を教導する気か!」


ヴィルヘルムが激昂し、腰の剣に手をかける。

その瞬間――。


アルスの瞳が、人知れず黄金色に深く、鋭く輝いた。


「(……跪け、偽物)」


声に出さない、魂に直接響くような『王の威圧』。

ヴィルヘルムの身体がガクガクと震え出し、膝から力が抜けていく。


「あ……あ……っ……」


「おっと、殿下。足元がふらついているようですよ。飲みすぎですかね?」


アルスがサッとヴィルヘルムの腕を支えるふりをして、耳元でだけ聞こえる低域の声で囁いた。


「……あんたの席、もうすぐ空くぜ。精々今のうちに、高い椅子を楽しんでおけよ」


「……っ!!」


恐怖で顔を白紙のようにしたヴィルヘルムは、アルスを突き飛ばすようにして、逃げるようにその場を去っていった。

周囲には「王太子殿下は体調を崩されたようだ」という困惑が広がる。



ヴィルヘルム王太子が顔を真っ白にして逃げ出した後、会場には困惑と、アルスへの畏怖が入り混じった空気が漂っていた。


「……アルス、やりすぎだ。あの方は次期国王(の予定)なのだぞ」

エドワードが小さく溜息をつきながら、周囲に聞こえない声で釘を刺す。


「ごめんよ親父。でも、あいつがリィアを『ゴミの嫁』扱いしたのが、どうにも我慢できなくてさ」


アルスはそう言うと、隣に立つリィアの手をそっと取り、エドワードの目を真っ直ぐに見据えた。


「見てくれよ親父。リィアは今まで領地の切り盛りが忙しくて、自分のお洒落をする暇もなかっただけなんだ。磨けばこんなに綺麗なんだぜ。……親父もそう思うだろ?」


「あ、アルスさん……っ」

突然の直球な褒め言葉に、リィアの顔がリンゴのように真っ赤になる。


「綺麗で真面目で、こんなにいい奥さんの所に婿入りできて、その上俺のやりたいように自由にやらせてくれて……。俺は今、めちゃくちゃ幸せなんだ。それを『ゴミ』なんて言われて、黙って笑ってられるほど、俺は大人じゃないんだわ」


アルスの言葉には、王族としての覇気ではなく、一人の男としての、嘘偽りのない本心が宿っていた。


エドワードは驚いたように目を見開いた後、ふっと目尻を下げ、これまでにないほど優しい顔で笑った。


「……そうか。そうだったな。私の息子は、いつの間にかそれほどまでに大切なものを見つけていたか。」


エドワードはリィアに向き直り、紳士の礼を取った。


「リィア殿。息子が……いや、我がテトロン商会の最高顧問が大変失礼した。これからも、この馬鹿な息子を……アルスをどうかよろしくお願いします」


「そんな、テトロン男爵……! 私の方こそ、アルスさんに救われてばかりで……」


リィアの瞳に、じわりと涙が浮かぶ。

これまでの苦労、貧乏貴族としての孤独な戦い。

それが、この二人の「テトロン親子」によって、すべて報われたような気がした。


一方、その様子を遠巻きに見ていた貴族の夫人たちは、アルスの愛妻家ぶりに一気に色めき立った。

「なんて情熱的なの……!」

「放蕩息子だなんて嘘よ、あの方こそ真の騎士ナイトだわ!」





その夜、スタニス領へ戻る馬車の中で、リィアはアルスの肩にそっと頭を預けた。


「……アルスさん。さっきの言葉、嬉しかった。でも、私が綺麗になったのは、あなたが私に『余裕』をくれたからよ」


「はは、俺はきっかけを作っただけ。リィアさんが元々持ってた輝きが、ようやく表に出ただけだよ」


アルスはリィアの肩を抱き寄せ、窓の外の夜景を見る。

その表情は穏やかだが、心の中では次なる一手を練っていた。


(……やべ。ついカッとなって、やりすぎちまったか?)


本当は、ただの「婿入りした元放蕩息子」として目立たず、適当に商売を成功させて、リィアや親父と平穏に暮らしたいだけなのだ。


王権争いなんて真っ平ご免。狙われるのも、殺し合うのも御免だ。

だからこそ「遊び人」のフリをして牙を隠してきたというのに。


(リィアを馬鹿にされたもんだから、無意識に『王の威圧』を出しちまった……。あのバカ、腰を抜かしてたけど……変に疑われなきゃいいが……)


アルスは隣で幸せそうに眠るリィアの寝顔を見つめ、小さくため息をついた。





一方その頃、王宮の奥深く。

ヴィルヘルム王太子は、自室でガタガタと震えながら、何度も酒を煽っていた。


「……ありえない。あんなことがあってたまるか」


脳裏に焼き付いて離れない、あのアルスの黄金の瞳。

そして、全身を押し潰さんとしたあの圧倒的なプレッシャー。

あれは、ただの商人の息子が持てるような代物ではない。


「あの『王の威圧』を使えるのは、正統なる血筋の者のみ……。だが、あの『呪われた瞳の第一王子』は、十数年前に死んだはずだ。エドワードの奴が、死体を確認したと報告してきたはず……!」


ヴィルヘルムは震える手で、机の上の資料をなぎ払った。



「もし生きていたのなら、いや、ありえない……おい、影を呼べ! スタニス領へ刺客を送る。それと、あの化粧品の製法を奪え。あれが王都に広まれば、スタニス家の発言力が増しすぎる……!」


アルスの「平穏に暮らしたい」という願いとは裏腹に、運命の歯車は、彼を再び凄惨な権力争いの中心へと引きずり込み始めていた。





「……アルスさん、どうしたの? 怖い顔して」


翌朝、領地に戻ったアルスは、朝食の席でリィアに顔を覗き込まれた。


「ん? いや、『今日は天気がいいから、絶好のお昼寝日和だな』って考えてただけだよ」


「もう、相変わらずね」


リィアは呆れたように笑うが、アルスは気づいていた。

屋敷を取り囲む森の中に、王都から放たれた「殺気」が混じっていることに。


(……はぁ。せっかくリィアといい感じになれたから新婚気分を満喫しようと思ったのに。目立ちたくないって言ってるのに、なんで向こうからやってくるかなぁ、もう)


アルスはトーストを口に放り込みながら、「遊び仲間」に合図を送った。





「ふあぁ……。今日は絶好の野良仕事日和だね、リィアさん」


スタニス領の柔らかな日差しの中、アルスは鍬を肩に担いで、のんびりとあくびをした。

隣では、作業着姿も板についてるリィアが、やる気満々で野菜の苗を抱えている。


「ええ! アルスさんが耕してくれたおかげで、土が本当にふかふかなんだもの。今日もたくさん植えましょう!」


「はいはい。じゃあ俺はあっちの森に近い方の畑を見てくるよ。リィアさんは無理せず、こっちの陽だまりでやってて」


「わかったわ、お願いね」


リィアが楽しそうに作業を始めるのを見届け、アルスは森の境界線へと歩き出す。

その瞬間、彼の細められた瞳から、のんびりとした温度が消えた。


(……東に三人、西に二人。それと、屋根の上に腕利きが潜んでるな。平穏を邪魔する奴は、掃除の時間だ)


アルスが木陰に入り、パチンと指を鳴らす。

すると、何もない空間から、黒い装束を纏った『護衛』が音もなく姿を現した。


「……お呼びでしょうか、アルス様。」


「よしてくれ、シャロン。今はただの農家だ。……で、あいつらは?」


シャロンは、王都でアルスが入り浸っていた高級クラブ遊び仲間だ。

だがその正体は、アルスが密かに組織した情報網の凄腕の隠密だ。


「王太子直属の『影』ですね。ご丁寧に毒矢まで用意して。リィア様を狙う不届き者も混じっています」


「……そうか。リィアに手を出そうとしたのは、どいつだ?」


アルスの声が一段、低くなる。

その周囲の草木が、彼の怒りに触れたかのように一瞬で凍りついた。


「左の三名です。……いかがいたしますか?」


「俺が畑の隅で『お昼寝』してる間に終わらせろ。死体はハーブの肥料にするのも汚らわしい。跡形もなく消せ。……ああ、それと」


アルスは、リィアがこちらを振り返ったのを察知し、瞬時に「のんびりした婿殿」の顔に戻った。


「あはは! リィアさーん、こっちの土も最高だよー!」


「よかったわねー!」


リィアが手を振り返すのを確認し、アルスは冷徹な横顔をシャロンに向ける。


「……目撃者は出すな。仕事だ、シャロン」


「御意。すでに仲間を2人配置しております。お任せください。」


シャロンが影に溶け込むように消える。

次の瞬間、森の奥で「ガッ」「……っ!?」という、骨が砕ける音と短い断末魔が数回響いた。

しかし、それは風の音にかき消され、リィアの耳に届くことはない。


アルスは大きな木の下に腰を下ろすと、麦わら帽子を目深に被り、文字通り「お昼寝」を始めた。

その足元、茂みの奥で、王太子の放った精鋭たちが、誰に倒されたのかも理解できぬまま「掃除」されていく。


(……やれやれ。これでしばらくは静かになるといいんだけど。ヴィルヘルムの野郎、俺の『威圧』をよほど怖がってるらしい。……バレなきゃいいんだが、あいつの性格なら、次はもっと面倒な手を使ってくるだろうな)


アルスは帽子の中で、黄金色の瞳を僅かに光らせた。


「アルスさーん! お茶が入ったわよー!」


「おー、今行くよー!」


アルスは「遊び仲間」たちが完璧に仕事を終えた気配を感じ取ると、何事もなかったかのように立ち上がり、愛する妻の元へと駆け寄っていった。





王都、王太子の私室。

ヴィルヘルム王太子は、報告を待つ間、爪を噛みながら部屋を往復していた。


「……遅い。遅すぎる。スタニス領に送った五人の『影』から、なぜ連絡が途絶えた!?」


彼が送ったのは、王家が秘匿する暗殺部隊の精鋭だ。

没落寸前の貧乏貴族の屋敷を急襲し、放蕩息子と小娘の首を撥ねるなど、赤子の手をひねるより容易いはずだった。


そこへ、青ざめた顔の側近が駆け込んでくる。


「で、殿下! 報告によりますと……スタニス領に潜入した部隊は、全員消息不明! 形跡すら残っておらず、まるで『この世から消えた』かのように……!」


「馬鹿な……! あの五人は、一国を混乱に陥れるほどの手練れだぞ!? たかが地方の領民や、落ちこぼれの商人に何ができる!」


ヴィルヘルムは机の上のグラスを叩き割った。

だが、その脳裏に、あの日晩餐会で浴びせられた「黄金の瞳」のプレッシャーが鮮明に蘇る。


あの、心臓を直接握り潰されるような、抗いようのない威圧感。

歴代の王の中でも、選ばれし者のみが発現させたという伝説の権能。


「……黄金の瞳。王族の『聖瞳』。……そして、あのアルスという男の年齢。まさか、まさか、まさか!!」


ヴィルヘルムの記憶が、十数年前の「ある事件」に繋がった。

当時、王宮の政権争いで『不吉な瞳』を持って生まれた第一王子は、病死したとして処理されたはずだった。


「あの時、死体を確認したのは……テトロン商会のエドワードだ。あの男、もしや死んだと嘘をついて、王子を自分の息子として育てていたのか!?」


ヴィルヘルムは全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。

もしアルスが本物の第一王子であり、その力が覚醒しつつあるのだとしたら。

自分は今、「偽物の王太子」として、本物の「太陽」を相手に喧嘩を売っていることになる。


「アルス・テトロン……いや、アルス・グランツ! 貴様、生きていたのか……! 私の地位を奪いに来たのか!?」


ヴィルヘルムの叫びは、恐怖ゆえに狂気を帯びていた。

彼はアルスの「平穏に暮らしたい」という願いなど、微塵も信じていない。自分なら復讐を考えるからだ。


「……ええい、こうなれば力ずくで証明してやる。近衛師団を動かせ! 『不当な軍備増強の疑い』でスタニス領を包囲しろ! 白日の下に引きずり出し、あの瞳を抉り取ってやる!!」



その頃、スタニス領。

のんびりとお茶を飲んでいたアルスは、ふと王都の方角を見て、眉をひそめた。


「……あーあ。静かにしててくれれば、こっちも何もしないのに。やっぱり、ヴィルヘルムの奴、気づいちゃったかな」


「アルスさん? どうしたの、そんな顔して。お茶のおかわり?」


リィアが心配そうに覗き込んでくる。

アルスは瞬時にいつもの「頼りない放蕩息子」の笑顔に戻った。


「いや、ちょっと嫌な予感がしてさ。リィアさん、しばらくの間、領民のみんなには『避難訓練』って名目で、頑丈な地下倉庫に食料を集めておくように伝えてくれる?」


「避難訓練? 急にどうしたの?」


「いや、ほら。俺、遊び人だからさ。遊びの基本は『備え』なんだよ」


アルスはニヤリと笑ったが、その瞳の奥には、領地と愛する妻を守るための、冷徹な王の決意が宿っていた。





スタニス領の静かな朝は、地響きと共に破られた。

王都から差し向けられた王太子直属の正規軍、三千。

それが「反逆の疑い」という大義名分を掲げ、小さな子爵領を完全に包囲したのだ。


「アルスさん! 王宮の軍隊が……! 私たち、どうなっちゃうの!?」


リィアが震える声でアルスにすがりつく。

屋敷の門前では、カイル子爵も腰を抜かさんばかりに狼狽えていた。


「落ち着いて、リィアさん。お義父様も、そんなに震えないで。……ただの『大口のお客様』が来ただけですよ」


アルスはいつものようにニヤリと笑うと、懐から一通の書状を取り出した。


「さて、掃除よりは『商談』といこうか」



領主館の前、馬上でふんぞり返る王太子の前に、アルスは一人、丸腰で歩み出た。


「無礼者! 跪け! 反逆者アルス・テトロン!」


王太子の側近が怒鳴るが、アルスは鼻で笑って一通の手紙を差し出した。


「反逆? 心外だなぁ。俺たちはただ、王都で大流行中の『スタニス・エッセンス』の増産に励んでいただけでね。……ほら、これを見てくれ。あんたたちが今朝食べた『兵糧』の納品書だ」


「……何だと?」


王太子が不審げに手紙をひったくる。

そこには、王宮へ兵糧を納入している大手商会――つまりテトロン商会の傘下企業からの、緊急通知が記されていた。


『本日をもって、王太子直属軍への食料、及び馬の飼料の供給を一時停止する。理由は契約違反である』


「な、なんだこれは!? 私がいつ契約違反をした!」


「いや、親父エドワードが言ってたぜ? 『領地の平和を乱す不心得者に売る飯はねぇ』ってさ。……殿下、知ってるかい? 軍隊ってのは、一日飯を抜くだけで、ただの重い鎧を着た集団に変わるんだ」


アルスが指を鳴らすと、領地の丘の上に、アルスの「遊び仲間」たちが率いるテトロン商会の馬車隊が姿を現した。


そこから漂ってくるのは、スタニス領特産野菜をふんだんに使った、胃袋を直接掴むような芳醇なスープの香り。


「おい、兵士諸君! 腹が減ってるだろ? 戦う理由は知らないが、スタニス領は『お客様』を歓迎する。武器を置いて、このスープを飲むなら、おかわり自由だぞ!」


アルスの声が響き渡る。

行軍で疲れ果て、さらに「食料供給停止」の話を聞いていた兵士たちの士気が、一瞬で瓦解した。


「……あ、あの、いいんですか?」

「毒なんて入ってないぜ。俺の嫁さんが丹精込めて作ったジャガイモだ」


一人、また一人と武器を置き、スープの列に並び始める兵士たち。

「貴様ら! 戻れ! 逆賊の飯を食うな!」と叫ぶ王太子だが、空腹に勝てる軍紀など存在しなかった。


「……ヴィルヘルム。あんた、軍を動かすのに一番大事な『軍事力』を商人に握られてるって、気づかなかったのか?」


アルスが冷徹な黄金色の瞳で王太子を射抜く。

その瞳を見た瞬間、王太子の脳裏に「本物の王」の幻影が重なり、彼は落馬せんばかりに仰け反った。


「貴様……貴様ぁ……っ!」


「いいから帰れよ。それとも、ここでスープの列に並ぶか? 殿下なら、特別にハーブティーもつけてやるぜ」


アルスは笑いながら、呆然と立ち尽くすリィアの元へ戻っていった。

一滴の血も流さず、三千の軍を胃袋で制圧した「放蕩息子」。

その噂は、またたく間に王国全土へ広がっていく。





「アルスさん。……あなた、本当は誰なの?」


兵士たちが満足げに帰路についた夜。

リィアは、暖炉の前で静かにワインを飲むアルスに、ずっと抱いていた疑問をぶつけた。


「……ただの商人の三男坊だよ」


「嘘よ。商人に軍を止められるはずがないわ。それに……あなたのその瞳。黄金色に輝くのを、私は見たわ」


アルスはグラスを置き、少しだけ困ったように眉を下げた。


「……バレちゃったか。リィアさん。俺がもし、とんでもない『厄介者』だとしたら、どうする?」


「……私は、あなたの奥さんよ。あなたがどこの誰であっても、それは変わらないわ」


リィアの真っ直ぐな言葉に、アルスは覚悟を決めた。


「わかった。……じゃあ、俺の本当の名前を教えるよ。――アルス・グランツ。君がさっき追い返したヴィルヘルムの、兄になるはずだった男だ」


スタニス領の小さな屋敷で、ついに真実が明かされる。

そして、その告白を、屋根裏で聞き耳を立てていた「王宮の影」もまた、聞き逃さなかった。






国王崩御――。

その急報は、スタニス領を包囲していた軍が解散して数日後、雷鳴と共に王都から届いた。

ヴィルヘルム王太子は父王の死を逆手に取り、即座に「臨時国王」を自称。

反対派を次々と投獄し、王都は恐怖に支配されていた。


「アルスさん……行くのね」


「ああ。これ以上あいつを野放しにしたら、親父の商会も、俺たちのこの領地も、全部めちゃくちゃにされる」


アルスは、テトロン商会が総力を挙げて用意した、純白に金の刺繍が施された軍装を身に纏う。

その姿に、もはや「放蕩息子」の軽薄さは微塵もない。


「リィア、俺と一緒に来てくれ。……一緒に俺の生き様を見届けてほしい」


リィアは力強く頷き、アルスの手を取った。

「ええ、どこまでも。あなたが『ただの商人』だった時から、私はあなたの味方ですもの」


王都、戴冠式の間。

ヴィルヘルムが王冠に手をかけようとしたその時、重厚な扉が轟音と共に弾け飛んだ。


「その王冠、あんたには少し重すぎるんじゃないか? ヴィルヘルム」


静まり返る会場に、一人の男の声が響く。

壇上のヴィルヘルムが顔をひきつらせた。


「貴様……アルス・テトロン! 警備兵、何を連中を入れた! この逆賊を今すぐ捕らえ――」


「警備兵なら、今ごろ俺の『遊び仲間』たちとティータイム中だよ。……それより、よく見てみろ。あんたが『ゴミ』だと呼んだこの男を」


アルスの背後から現れたのは、エドワード・テトロン。

彼は震える手で、一枚の羊皮紙と王家の紋章が入った指輪を高く掲げた。


「これこそが先代国王より賜った密書! 十数年前、王宮の毒牙から逃れ、第一王子アルス・グランツ殿下をお救いせよとの密命を受けた証である!」


会場の貴族たちがどよめく。

ヴィルヘルムは狂ったように笑った。


「ハハハ! 証拠などいくらでも偽造できる! 魔法も使えず、商いと女遊びにうつつを抜かした男が王子だと!? 笑わせるな、証明してみせろ!」


「……証明、か。あんたには、これだけで十分だろ」


アルスが一歩、前へ出る。

その瞳が、かつてないほど鮮烈な黄金色に燃え上がった。

それは『聖瞳』の真の覚醒。


「跪け。――王の御前だ」


「……っ!? あ、あああ……っ!」


黄金の光が会場を包み、圧倒的な覇気が津波のようにヴィルヘルムを襲う。

ヴィルヘルムは自らの意志に反して、ガタガタと震えながらその場に崩れ落ち、額を床に擦りつけた。


「この瞳……この力……本物……本物なのか……!」


周囲の貴族たちも、その神々しいまでの威圧感に、次々と膝をついていく。

アルスは震えるヴィルヘルムを一瞥もせず、階段を登り、リィアの手を引いて玉座の前に立った。


静寂を破ったのは、アルスの呆れたようなため息だった。


「……はぁ。やっぱり、この椅子、硬くて座り心地が悪そうだ」


跪いたまま震えるヴィルヘルムを見下ろし、アルスは冷徹な黄金色の瞳を向けた。


「おい、ヴィルヘルム。あんた、そんなに王になりたかったんだろ? だったら、今日から死ぬまでその席で働け」


「……えっ?」


顔を上げたヴィルヘルムに、アルスは指先を向ける。

黄金の光がヴィルヘルムの胸元に吸い込まれた。


「今、あんたの心臓に『王の眼』の制約をかけた。もしあんたが民を虐げたり、私利私欲に走ったりすれば……その瞬間に、心臓が止まる。――これであんたは、世界一『真面目に働くしかない』王様だ。おめでとう」


「そ、そんな……! 殺されるより過酷な……!」


絶望するヴィルヘルムの隣に、アルスは一人の男を招き入れた。

公爵家の中でも「堅物で真面目すぎる」と評判の、アイザック公爵だ。


「アイザック公爵。あんたを今日から宰相に任命する。この『新王』が少しでもサボったり悪巧みをしたりしたら、遠慮なく叩き直してやってくれ。お目付け役、頼んだぜ?」


「御意に……。このアイザック、骨身を惜しまず、陛下を『教育』させていただきます」


ヴィルヘルムはさらに青ざめた。





「……いいのかい、アルス。王位を捨てて」


心配そうに声をかけたのは、エドワード・テトロンだ。


「いいんだよ、親父。俺には堅苦しい仕事や立場より、スタニス領でのんびり過ごすのが楽しいんだ。いや、それに、何よりさ――」


アルスは、隣で少し困ったように、でも嬉しそうに微笑むリィアの肩を抱き寄せた。


「俺には、スタニス領で待ってる『最高の嫁さん』と『宝の山(ハーブ園)』があるからね。……親父、商売の方は任せたよ。スタニス領の特産品、これからも高く買ってくれよな?」


「……ハハハ! 全く、お前には敵わないな!」





数日後。

王都の喧騒を離れ、ガタゴトと揺れる馬車がスタニス領へと入っていく。


「……あ、アルスさん! 見て、村のみんなが出迎えてくれてるわ!」


リィアが窓の外を指さしてはしゃいでいる。そこには、アルスが「掃除」してくれたおかげで平和を取り戻し、黄金の土で豊かな実りを得た領民たちが、笑顔で手を振っていた。


「ただいま、リィアさん。……さて、もう王様ごっこはおしまいだ。まずは、あの枯れかけてた裏山の果樹園を復活させようか。リィアさんの好きな果物、いっぱい植えてさ」


「ええ……! でもその前に、アルスさん。今日は奮発して、美味しいお肉を焼きましょう。私、お料理の腕も磨いたのよ?」


「それは楽しみだ。……あ、でも、あんまり美味すぎると、また王都の連中が嗅ぎつけて来ちゃうかな?」


「その時は、また『放蕩息子』のフリをして追い返してくださいな」


二人は顔を見合わせて笑い、夕焼けに染まる我が家へと馬車を進めた。


王都では、新王ヴィルヘルムがアイザック宰相に連日徹夜で説教され、泣きながら書類仕事に追われているが……それは、スタニス領ののんびりした平和には、何の関係もない話である。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

今回はなかなか長くなってしまった気がします。

短編にしては長すぎますよね……

もうほんとここまで読んでくださってる読者様に感謝しかありません。


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