8 始まりの朝
露を纏った中庭の花々が、朝日を受けて砂糖菓子のように煌めいている。
「セレナ嬢。入ってもよろしいですか?」
「っ、はい」
コンコン、と貴賓室の扉をノックする音に続き、ロウェルの声。ミラに身支度をしてもらっていたセレナは、鏡台の前から立ち上がり居住まいを正す。
「ぉ、おはようございます」
「おは――っ⁉」
中に入ってくるなり口をあんぐりと開けて固まってしまったロウェルに、セレナはおろおろと胸の前で拳を握る。
(何か失礼なことをしてしまったかしら……?)
昨晩セレナは、専属メイド・ミラの手によって体の隅々まで丁寧に磨かれた。
もちろん「自分で洗うので」と断ったが、ミラは「心配ごムヨウ!」と全く聞く耳を持ってくれず……。恥ずかしくて顔から火が出そうだったが、身を任せるしかなかったのだ。
「あの、ロウェル様……?」
「おやおやおや、これはこれはこれは――」
ふと気がつくと、セレナの髪も肌も、目が覚めるほど真っ白に光り輝いていた。
絡まりがほどけた長髪は華奢な背中いっぱいに広がり、光沢を帯びて流れ落ちる様は高級な絹糸のよう。さらにミラは、床に引き摺っては不便だろうと言って、その髪を美しく編み下ろしてくれた。
そして今朝――編んだ髪に摘みたての花を挿し、襟のつまった慎ましやかな長袖ドレスを纏ったセレナは。
「――なんとお美しいっっっ!」
埃まみれでみすぼらしかった昨日の少女とは、似ても似つかない姿へと変貌を遂げていた。
髪に挿した花々も嫉妬するであろう、匂い立つような美。ロウェルは目を瞠ったまま手放しでセレナを褒め称える。
「いやぁ、驚きました! さすがだミラ、実に見事だ」
「恐縮でス」
言葉とは裏腹に、ミラは全く恐縮せず得意げにえっへんと胸を張る。褒められ慣れていないセレナは、ひたすら居たたまれない気持ちになった。
「セレナ嬢、早速ジュードのところに参りましょう! あいつがどんな顔するか見物ですね」
「えっ?」
ロウェルはそう言って、戸惑うセレナを先導する。「行ってらっしゃいまセ」とお辞儀をするミラに、セレナは助けを求めるような視線を送ったが、ミラは美しく仕上がった芸術作品でも見るように満足気な笑みを浮かべるのみだった。
軽やかな足取りのロウェルに続き、セレナは昨晩歩いた回廊を引き返す形でいそいそと歩く。明るい時間に見ると、改めて騎士団本部の広大さに驚く。
昨日の朝まで、セレナの世界は三歩歩くと壁にぶつかるほどの広さしかなかった。それなのに今は、歩けど歩けど遮るものがない。
「……ふぅ」
似たような石造りの廊下がしばらく続き、セレナは少しくたびれてきた。八年間の幽閉生活で、すっかり体力が落ちてしまっているらしい。
一方、前を行くロウェルは、鍛え抜かれた長い脚で弾むように歩き進める。何やら鼻歌交じりで上機嫌な彼は、転びそうになりながら交互にちょこちょこと足を動かすセレナに全く気づいていないようだ。
「はっ……はぁ……っ……」
セレナの白桃のような頬から、血の気が失せていく。
「お~い、ジュード! セレナ嬢をお連れしたぞ~」
ようやく目的地に到着したのか、ロウェルが大手を振りながら声を張り上げる。セレナはもう息も絶え絶えで顔を上げることすらままならないが、足元に広がる正方形の石床模様を見るに、どうやら正門近くの広場まで来たようだ。
「おはようございます」
どこか不機嫌そうなジュードの低い声が、セレナの鼓膜を揺らす。ロウェルとの温度差が何とも著しい。
「馬車の手配は済んでいるな?」
「問題ありません。――ッ!」
「ん? どうした?」
朝に相応しい清々しい笑顔で会話していたロウェルの脇を、急に血相を変えたジュードが素早く通り過ぎる。はて、と首を傾げたロウェルが振り向くと。
「……と、危ないな」
「⁉」
ジュードの腕の中に、青ざめてぐったりとしたセレナが倒れ込んでいた。
「うわぁぁ! セレナ嬢、大丈夫ですか⁉」
「団長……何やってるんですか」
「私、速く歩きすぎでしたよね! あぁぁ、気がつかず申し訳ありません!」
「馬車の中に寝かせましょう。あと声うるさいです」
ジュードはセレナを軽々と抱きかかえ、広場に止めてあった一台の馬車の中へと運び込む。騎士団の制服に身を包んだジュードは指先まである手袋をはめており、セレナもまた長袖のドレスを纏っているせいか、昨日のような魔力吸収は起こらない。
「……? ――っ⁉」
一瞬気を失っていたセレナは、抱き上げられた浮遊感で目を覚ます。そして、気を失う前よりもっと青い顔になった。
「ぇ、ジュード様っ?」
「危ないので動かないで下さい」
ピシャリと諫められ、セレナはそれ以上何も言えずに黙り込む。
布を被ってまで人との接触を避けてきたセレナにとって、ジュードにお姫様抱っこされている状況は完全に異常事態。小さな唇をパクパクと無意味に動かし目を回す。しかしジュードは一切顔色を変えることなく、無言で馬車のタラップを上っていく。
そっと座席に下ろされたセレナの頬は、激しい動悸で噴き上げられた血潮でうっすらと赤く染まっていた。
(びっくりした……。魔喰いの私を抱きかかえるなんて、そんな人が世の中にいるのね)
ヴェルディア家にいた頃、セレナは長すぎるベールの裾を踏んでよく転んでいた。しかし、長年共に生活してきた使用人も、血のつながった家族も、誰一人セレナに手を貸そうとはしなかった。
それなのに、昨日初めて会ったジュードが何も迷うことなく自分に手を差し伸べてくれるなんて。
「あの、ご、ご迷惑をおかけして申し訳ございません……」
「いえ」
嬉しさを上回る戸惑いが、セレナの頭を下げさせる。ジュードもまた、優しい言葉をかけるでもなく無感情にそう言って、すぐさま向かい側の席に腰掛ける。結果、馬車の中は妙な緊張感に包まれてしまった。
「さあさあ参りましょう! お~い、出してくれ」
遅れて乗ってきたロウェルは、場違いなまでに明るい声で御者に合図をする。三人を乗せた馬車がゆっくりと動き始めた。
「……あの、どこへ向かっているのですか?」
セレナは隣に座るロウェルに尋ねる。本来なら夫であるジュードに尋ねるべきなのかもしれないが、窓枠に肘をついて押し黙っている彼よりも、正直ロウェルの方が親しみやすいのだ。
(ジュード様も、私のことがお気に召さないようだし……)
セレナが心の中で言い訳をしていると、ロウェルが言う。
「エルファルド男爵邸です。先の戦争で活躍したジュードへの褒美として、陛下が用意して下さったんですよ。授爵式はまだですが、邸宅自体はもう完成しておりいつでも住むことが出来ます。最低限必要な使用人の手配も私がしておきました。皆、信頼のおける者たちですよ」
「邸宅を丸ごと褒美に……すごいです」
「おや、他人事のようにおっしゃいますね。今日から貴女が、その邸宅の女主人ですのに」
「!」
セレナは思わずごくりと唾を呑む。まるで風魔法で気圧を操作したかのように、痩せた双肩にどすんと重みがのしかかった。
「はっはっは! そんなに気負うことはありません。何せジュードも新米男爵ですからね。二人でゆっくりと家庭を築いていけばいい。な、ジュード?」
「…………」
ジュードは相変わらず黙りこくったまま、難しい顔をして外を眺めている。何を考えているかわからないが、表情からして好ましいことではないだろう。
(仕方がないわ。私と一つ屋根の下で暮らすなんて、誰だって嫌に決まっているもの……)
しおしおと項垂れるセレナは、昨晩彼に言われたように鈴生りのスズランのようである。ただし枯れかけではなく、燦々と白く輝くスズランだ。
「おいおい、何暗い顔してるんだよ。やっと広い庭のある家で暮らせるんだぞ? あんなちっぽけな中庭より、よっぽど派手に土いじりができるぞ?」
「……土いじりって。その言い方はやめてください」
「お前の大好きなお花をいっぱい育てられるじゃないか! 喜べ!」
「だから……! ッ……もういいです」
ようやく口を開いたジュードだったが、園芸の趣味を暴露されてしまったことが気まずかったのか、ロウェルを睨みつけたきりそっぽを向いてしまう。再び重苦しい空気が漂う馬車内で、ロウェルは悪びれることなく「……実は」とセレナに笑顔で耳打ちする。
「ジュード自身、魔力暴走のせいで騎士団本部の居室から移住できずにいました。貴女のおかげで、空っぽの邸がようやく主人を迎え入れることが出来るのです。あいつに代わってお礼を言わせてください」
そう言って「ありがとうございます」と微笑むロウェルと、恐縮して首を横に振るセレナの様子を一瞥し――ジュードは人知れず眉間の皺を深くする。
彼の瞳には、息を吹き返したように美しく咲き誇るセレナへの戸惑いと、汚泥に足を取られながら純白の絹を手渡されてしまったような煩いの色が、交互に立ち現れていた。




