33 芽生える
王宮舞踏会を早退してから一夜が明けた、朝。
――ツカ、ツカ、ツカ、ツカ。
全く熟睡できなかったセレナが朦朧とベッドで膝を抱えていると、不意に時計の秒針の如き足音が聞こえてきた。セレナはびくっと身を固くする。
未だ九割方が飴色に染まったままの長髪を両手で掻き集め、カーテンを閉めるように顔の前へ引き寄せる。そうやって無意味に地毛に埋もれてはみたものの、近づいてくる足音から逃れられるわけもなく。
――コンコン。
「!」
ついにノックされてしまった扉を、セレナは蒼白な顔で見上げた。
(昨日あれほどお怒りだったのに……出勤前のご挨拶には、普段通りいらっしゃるのね)
そういう律儀なところが彼の美徳であり魅力だと思う反面、未だ気持ちの整理がついていないセレナには重荷でもあった。
――いっそのこと、今すぐ俺の魔力を吸い尽くしたらどうだ? そうすれば……どこへでも好きな所へいけるぞ?
ベッドから降り立った途端、彼の言葉を思い出して膝が動かなくなる。
セレナはジュードの魔力を吸い尽くしたくないし、どこにも行きたくなんかない。好きな所など一つもなかった自分が、たくさんの〝好き〟を見つけられたこの場所に、ずっといたい。許されるのなら、いつまでも、彼の側に――。
「……っ」
心からそう願っていただけに、ジュードの台詞はセレナの薄い体をいとも簡単に突き破った。
二度と塞ぐことは出来ないんじゃないかと思うほどの、巨大な風穴を開けてしまったのだ。
(きっと、ジュード様にとっては大した言葉じゃなかったんだわ。でも私はまだ……普段通りにご挨拶できる自信が……ない)
セレナは空虚になった体に鞭を打ち、やっとのことで扉を押し開ける。いつもと変わらないはずの扉がやけに重たく感じた。
「ぉ、おはようございます……」
「セレナ、昨日口走ったことは全て忘れてほしい。本当にすまない」
どうにか笑顔らしきものを浮かべながら声を発したセレナは、唐突な謝罪に「えっ?」とたじろぐ。呆気に取られているうちに、ジュードは分度器で測ったかのように狂いのない角度で頭を下げた。
「! あ、あの、ジュード様。どうか頭を上げてくださいっ」
「無理だ。君に合わせる顔がない」
セレナは恐縮しながらおどおどと声をかける。しかし彼は、ひたすら床に向かって喋り続けた。
「ある人に助言されたんだが、しばらく君と距離を置いてみようと思う」
「えっ?」
「今の俺はまるで暴走状態なんだ。魔力量は常人かそれ以下にまで削減されているはずなのに、なぜか体が言うことを聞かない。特に口だ。このままでは、また君に心にもないことを言ってしまいそうで怖い」
ジュードは食いしばった歯の隙間からフゥーッと息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。ようやく見えた彼の顔は、自分よりはるかに憔悴しきった土気色をしていた。
セレナが言葉を失っていると、ジュードは落ち窪んだ漆黒の瞳を弱々しく動かし、飴色に染まった長髪を視認した。
「幸い、当分は魔力を吸収してもらう必要もないだろう。すまないが、少し頭を冷やさせてくれ」
「ぇ、ぁ、はい……」
「では、仕事に行ってくる」
「ぃ、行ってらっしゃいませ」
――ツカ、ツカ、ツカ、ツカ。
規則正しい足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
それきりジュードは――何とも極端なことに――エルファルド男爵邸へ帰ってこなくなった。
◇◆
王宮舞踏会から二週間が過ぎた。
「ぁ……!」
朝早く水やりをしに外へ出たセレナは、地面を見るや否や小さく声を上げる。
春の花が枯れ落ちて殺風景だった庭園に、たくさんの小さな双葉が芽吹いていたのだ。
(ジュード様と一緒に植えたひまわりの種が、ついに発芽したんだわ……!)
目映い初夏の陽光に照らされて、自信満々に両腕を広げる新芽たち。
セレナは嬉しくなって、立ち尽くしたままキラキラと目を輝かせる。それから思い出したように手にしていたじょうろで水を撒き、より一層青々とした葉をそっと指先でつつく。白黒の種皮をかぶった新芽はぷっくりと力強く、セレナの悪戯に負けじと地に根を張っていた。
「今すぐ、ジュード様にお伝えできたらいいのに」
セレナはしゃがみ込んだまま、彼のいない邸を見上げて呟く。
ジュードから『少し距離を置きたい』と言われた時、セレナは自然と実父と継母のような関係を想像した。同じ屋根の下に住んではいるが、互いに積極的に顔を合わせようとはせず、必要最低限の会話しかない状態。
ところがジュードの言う〝距離〟は、セレナの想像を遥かに超えていた。あの日仕事に出て以来、彼はずっと騎士団本部で寝泊まりしているのだ。
(まさか、ここまで徹底して遠ざけられるなんて。ジュード様らしいと言えばらしいけれど……)
足音を聞くことすらできないとは思っていなかったセレナは、この二週間、ため息ばかりついていた。ようやくほとんどが白に戻った髪の毛先側、わずかに残る飴色の部分を撫でてはみたが、胸の風穴を吹き抜ける冷風に抗うことなどできない。
髪色と呼応するように、心もまた、日ごとに白く枯れていく。
そんなセレナの元へ王宮から招待状が届いたのは、一週間前のことである。
(いけない、そろそろお部屋に戻らなきゃ。ミラが張り切ってくれているでしょうし)
セレナは今日、ヴィオラ主催のティーパーティーへの出席を予定していた。
もちろん、ジュードのいない邸で過ごす孤独感に耐えかねたからという理由ではない。
――魔喰いの異能を使いこなしたくはないですか?
そんなことを言われては、無視することなどできなかったのだ。
もしもこの呪われた体を自在に操ることができたなら、ジュードの魔力暴走を防ぎつつ、彼の魔力を根絶させてしまう心配から解放されるかもしれない。
肌に触れただけで勝手に発動してしまうこともなく。記憶を引き込んでしまうこともなく。軽やかな袖なしドレスを着て、逞しい腕の中へ思い切り飛び込めたなら――どんなにいいだろう。
ヴェルディア家と関わるべきではない。彼ならそう言うかもしれないが……ジュード不在の今、セレナは一人で決断するしかなかった。
「セレナ様、お待ちしておりましタ!」
私室に戻ると、案の定ミラが準備万端で待ち構えていた。セレナはあれよあれよと身ぐるみを剥がされ、気付いた時には爽やかな若葉色のドレスに召しかえられていた。白い長髪はドレスと同色のリボンを巻き込みながら編み下ろされ、胸元では黄鉄鉱のネックレスが揺れている。開いた首回りをケープで覆い、肘上まである長手袋を付けたら完成だ。
「ふぅ~。どうやらミラは、またもや芸術を生み出してしまったようですネ」
ミラはやりきった表情で額の汗を拭う。
「このお姿を拝見できないなんて、おかわいそうな旦那様! アワレ! フビン!」
「ぉ、大袈裟だわ」
「そんなことないですヨ! あぁ~ッ、肖像画に残しておきたいですがそんな時間もないですシ……。もしミラにも魔法が使えたら、ビューンとひとっ飛びして旦那様を連れ戻して参りますのニ」
「風魔法が使えても、空を飛ぶのは無理だと思うわよ……?」
もしそんなことが出来るなら、とっくにそこらじゅうの風魔法使いが馬車を捨てているだろう。
ミラは「そうですカ」と肩を落とす。セレナは苦笑いを浮かべながら尋ねる。
「ミラは生まれつき魔力がないのよね? やっぱり、魔力はあった方がいいなと思う?」
「いえ、それはないでス」
思いのほかきっぱりと言い切ったミラに、セレナはきょとんと目を丸くする。
「えっ、どうして……?」
「確かに『魔法が使えたら便利かモ?』と思うこともありますガ。ミラの生まれたクレドという小国には、有名な昔話があるんでス」
「昔話?」
「ハイ。――昔々、魔力を競い合って喧嘩ばかりしていたクレド人の元にカミサマが現れましタ。カミサマは国中の人から魔力を奪い、喧嘩をやめさせましタ。人々はとても反省し、みんなで助け合って幸せに暮らしましたとサ。めでたしメデタシ!」
(それって、めでたい結末なのかしら……?)
セレナは内心疑問を抱く。結果的に、ミラのような若者が異国で出稼ぎをしなければならないほど貧しい国家になったのだとしたら、それを幸せと言っていいものか。
ところがミラは、一切淀みのないミントグリーンの瞳をセレナに向けて言う。
「だからミラは魔法を使えないからって悲しんだりしませン。魔力がないのはクレド人の誇りなのでス!」
「誇り……」
「魔力がないからこそ、こうやってセレナ様をハグできますしネ!」
「っ!」
ミラはぎゅうぅっとセレナを抱きしめ、頬を摺り寄せる。その温もりはセレナの凝り固まった思考を緩やかに溶かし。
「セレナ様、お気をつけて行ってらっしゃいまセ」
胸にぽっかりと空いた風穴の一部を、甘く埋めていくような気さえした。




