27 教え合いは公平に
主人と女主人のみならず、使用人達も新米が多いエルファルド男爵邸。
この邸において、人生経験豊富な執事長アルバートの存在は、長老と呼びそうになるくらい皆の支えとなっている。
そんな彼の妙案とは――セレナとジュードが互いの知識を補い合うという、至極単純なものだった。
「男爵様、左手で私の右手をぎゅっと持ってください」
「あ、ああ……」
男爵邸一階の大広間。
仕事から帰宅したジュードに、セレナはうろ覚えながらもダンスの基本姿勢を教え込む。
「次に右手を私の脇の下へ差し入れて、背中に軽く添えていただけますか?」
「ッ、こんなに近接して大丈夫なのか……?」
「平気ですよ。お互い長袖ですし、手袋もつけていますし」
「いや、そうではなく……」
「続いてステップの説明に移りますね。まずは――」
飴色混じりのジュードの瞳は、先ほどから四方八方に泳ぎ続けている。両耳とも真っ赤に熟れて、今にもポロリともげ落ちそうだ。
ところが、セレナは彼の異変にまるで気付いていない。人にものを教えること自体が初めてなので、ひどく張り切っていたのだ。
そんな状態で三十分間みっちりと練習をした後、二人は揃って夕食を摂る。それから一度解散し、互いに入浴を済ませ、すっかり夜も更けた頃。
――コンコン。
「失礼する」
ノックの音に続いて、部屋着姿のジュードがセレナの私室にやってきた。出迎えたセレナも、手袋の他には、夜着の上に羊毛のケープを羽織っただけの格好である。
……とはいえ、二人の間に新婚夫婦らしい甘やかな雰囲気は全くない。
「まずは、王族についての基本解説からしていこう」
「よろしくお願いします」
なぜなら、今度はジュードが講師になる番だからだ。
舞踏会で話題になりそうな時事問題や社会情勢を教えに来たジュードは、真剣そのものの表情でティーテーブルの前に腰掛ける。続いてセレナも、彼の真向かいに腰を下ろした。
テーブルの上には、参考資料として今日の新聞が置かれていた。一面にはヴィオラの肖像画がモノクロで印刷されている。その表情は凛として美しく、けれどもどこか悲哀に満ちていた。
伏し目がちの眼差しは、およそ花嫁に似つかわしいとは言えず――。
「……つまり、王子達は伝統的に四人の女性と婚姻関係を結ぶことになる」
「えっ?」
新聞に気を取られていたセレナは、淡々と解説を続けていたジュードの声をうっかり聞き流してしまっていた。思わず素っ頓狂な声を上げると、ジュードは「聞いていなかったか?」と首を傾げた。
「も、申し訳ございません! お忙しい男爵様が時間を割いて下さっているというのに、私ったらぼーっとしてしまって」
「気にするな。夜も遅いし、今日のところはやめにして横になってはどうだ?」
「いえ、大丈夫です。舞踏会まで日がないですし頑張らないと!」
やる気に満ちたセレナが両手で拳を握ってみせると、ジュードは「そうか」と呟いて立ち上がった。そして、ベッドの上に置かれていたブランケットを手に戻ってくると、セレナの膝上にふわりと広げる。
「ならば続けるが、くれぐれも無理はしないでほしい。いいな?」
「っ……わ、わかりました」
(……この感覚、昨日と似ているわ)
セレナは膝掛けをきゅっと握り締めながら考える。
カァッと喉の奥が熱くなるような。胸の真ん中がドクンと跳ねて、普段は気にも留めない心臓の位置がはっきりとわかってしまうような。そんな不可解極まりない感覚。
つい先日までは、ジュードに微笑みかけられると『彼の腕の中に飛び込んでみたい』という子どもじみた欲求に駆られていた。ところが今はその真逆。ジュードに触れられたら最後、ぷちんと心臓が弾けてしまいそうで何だか怖い。
(私、どうしちゃったのかしら……。男爵様はこんなにもお優しいのに『怖い』と思うだなんて)
「王族は、どの魔力属性に対しても平等な態度を示す必要がある」
「っ! ぁ、はい」
胸に手を当てて自問自答していたセレナは、講義を再開したジュードの声にびくっと姿勢を正す。必死に集中力をかき集めて返事をすると、彼は静かに続きを話し始めた。
「火、水、土、光、風――五属性のどれかを贔屓または卑下すれば、内乱の火種となる可能性があるためだ。ルシアン殿下は光属性の魔力をお持ちのため、火、水、土、風の魔法属性を持つ四人の女性とご結婚されることになる。……新聞によると、ヴィオラ嬢は水属性らしいな?」
「ええ。彼女の母親のカミラ様が水属性でしたので」
「つまりヴィオラ嬢は〝水の妃〟に抜擢されたというわけだ。殿下は数年前に火、土、風の妃とも婚姻関係を結ばれていて、ずっと水属性の令嬢を探していたらしい」
セレナは「なるほど」と呟いて、新聞に映る異母妹の肖像画に視線を落とす。ヴィオラはまだ成人したばかりの十六歳。一回りも年の離れたルシアン王子と結婚し、しかも他に三人も妃がいるとなれば、この憂いを帯びた陰鬱な表情も納得がいく。
「ヴィオラ、大丈夫でしょうか……?」
「おそらく、ヴェルディア伯爵が本人の意思も聞かずに娘を推薦したのだろう。あまり君の父親を悪く言いたくはないが、実の娘を幽閉するような男だからな」
ジュードは眉間に皺を寄せ、威嚇するような目つきになる。
「妹君を心配する気持ちは尊いが、本音を言えば、俺はもう君にヴェルディア家と関わってほしくない。ヴェルディア伯爵はもちろん、閉じ込められていた君のことを長年傍観していたカミラ夫人やヴィオラ嬢に対しても、決して良い印象は持てないからな。もし君がまた傷つけられたらと思うと……正直、魔力暴走を起こさずにいられる自信がない」
「っ⁉」
「だから約束してくれセレナ。王宮舞踏会では、ヴェルディア家の人達と関わらないと」
真剣な眼差しのジュードに見つめられ、セレナは思わず身動きが取れなくなる。彼の瞳の奥には、うっすらと赤い光が燻っていた。
「……はい、約束します。私はもう『セレナ・ヴェルディア』ではなく『セレナ・エルファルド』なのですから」
セレナがそう言うと、ジュードの眉間に込められた力がふっと和らいだ。赤色の眼光も煙の如く消え去る。
……と思った次の瞬間、彼の瞳は星を宿したかのように煌めきだした。何やら恍惚とした表情で「セレナ・エルファルドか……」と呟くジュードに、セレナは戸惑いながら声をかける。
「それはそうと男爵様。舞踏会に向けて、魔力吸収の頻度を増やした方がよろしいですよね?」
「あ、ああ、そうだな……」
「授爵式の前のように、毎晩いらっしゃいますか?」
セレナは、ハッと我に返った様子のジュードに尋ねる。
「そうしてもらえると助かるが……ダンスや教養の特訓もあるし、君の負担にならない頻度で構わない」
「お気になさらないでください。実を言うと、最近は男爵様の記憶を旅するのが少し楽しみなのです」
「なッ⁉」
「騎士団に入団したばかりの頃の男爵様が一生懸命訓練に励まれているところや、お若い頃のロウェル様とのやり取りなど、拝見していてほっこりします」
「ッ……どうにも不公平だな」
むっとした表情をする彼がいつもより幼く見えて、セレナはついくすくすと笑みを零す。するとジュードはもっとしかめっ面になり、おもむろに手袋をはめたセレナの手を掬い取った。
「っ、男爵様?」
「俺だって、もっと君のことを教えてもらわないと割に合わない――」
ジュードの声色が急に熱を帯びる。
艶やかな眼差しで見つめられたセレナは、またもや例の感覚に陥っていた。
「俺が仕事でいない間、何をして過ごしているんだ?」
ジュードはそう尋ねながら、セレナの手袋をしゅるりと引き抜く。新雪のように白い手の甲や薄桃色の爪が露になる。
「……ぇ、ぁ、あの……」
「近々庭を夏仕様に手入れするのだが、植えたい花はあるか?」
言葉に詰まるセレナに畳みかけるように、ジュードは質問を重ねる。彼は懐から砂時計を取り出すと、剥き出しのセレナの手に自らの手を重ねた。
「幼い頃、好きだった遊びは?」
吐息を纏った彼の声は、セレナの敏感な鼓膜をこれでもかと震わせる。思考力がみるみる奪い去られていく。
砂時計はサラサラと砂を下段に落とし、セレナの白髪は毛先から飴色に染まり始めていた。
「苦でなければ、家族との思い出話も是非聞きたい。少なくとも兄上とは仲が良かったんだよな?」
彼の魔力が手のひらを伝って流れ込む。普段なら、その感覚に意識を集中させているうちに自然と記憶の世界へ引きずり込まれてしまうのだが、今のセレナはそれどころではなかった。
飴色の瞳は溢れんばかりの慈愛に満ちていて、このままでは骨の髄まで跡形もなく溶かされてしまいそうなのだ。
けれど、同時に。
「俺は、君の兄上に近づけているだろうか?」
「……っ……?」
どことなく物憂げな笑みを浮かべる彼のことが気がかりで、目が離せなかった。




