23 君を知りたい
迎えに来たジュードに連れられてやってきたのは、エルファルド男爵邸一階のダイニングルーム。
この邸に来て早二週間が経つが、今までずっと私室で食事を摂っていたセレナが足を踏み入れるのは初めての場所だ。
(素敵……。何だかとても落ち着くお部屋だわ)
温かみのある赤ワイン色の壁、良く磨かれた寄せ木細工の床、天井に吊るされたシャンデリアや調度品はどれも素朴で趣深い。
花瓶には庭から摘んできたばかりの花々が咲き誇り、燭台の上で揺れるろうそくの灯火が二人分の食器を柔らかく照らしていた。仰々しい雰囲気の中で延々と父の説教を聞かされていた生家の晩餐会場よりも、はるかに心安らぐ空間である。
セレナとジュードが長いテーブルの中央を挟むように向かい合って腰掛けると、数人の使用人達が静々と食事を運び始める。程なくして、ジュードのグラスに黄金色のシャンパンが注がれた。
「セレナもシャンパンでいいか?」
「ぁ、私、お酒はまだ飲んだことがなくて……。お水を頂ければ十分です」
「そうか。ならば俺も水を貰おう」
ジュードがさも当然のようにそう言うと、シャンパンの入ったグラスは忽ち回収され、二人のグラスには透き通った水が注がれた。
「あの、どうぞお気遣いなく。男爵様のお好きなものをお飲みになってくださいませ」
セレナは何だか申し訳ない気持ちになってそう言うが、ジュードの表情はとても穏やかで瞳の奥が飴色に輝いている。
「いや。君と同じものがいい」
「っ……?」
――旦那様はセレナ様に気を遣いたくて仕方がないのだと思いますヨ。
ミラが言っていたことを思い出し、セレナはそれ以上は何も言わず、食事を楽しむことにした。
男爵邸で振る舞われる食事は普段からとびきり美味しいが、どうやら今晩のディナーは料理長が腕によりをかけているらしい。味はもちろん見た目も芸術作品のように美しく、一皿、また一皿とコース形式に配膳される料理の数々にセレナは幾度も目を輝かせる。
一口、また一口と小さな唇の間へ運べば、今にも落ちそうになる頬を片手で支えてやらないといけなくなる。それほどの絶品なのだ。
「……フ」
「!」
(今のってまさか……笑い声?)
ジュードの口元から零れた微かな音を敏感に聞き取ったセレナは、驚きのあまり咄嗟に顔を上げる。二週間も一緒にいるのに、彼が笑っているところは今まで一度も見たことがないのだ。
しかし、残念ながらジュードの顔はいつもと変わらず無表情のままだった。
(うーん……確かに笑い声だったと思うのだけど、気のせいかしら?)
気を取り直して食事を再開したセレナは、彼の手元に視線を落としてハッと気がつく。ぱくぱくと食べ続けている自分とは対照的に、ジュードのフォークとナイフは先ほどからほとんど動いていないのだ。
コース形式のため、セレナが一皿平らげてしまうと、彼の皿にまだ料理が残っていても次の料理へと差し替えられてしまう。
「男爵様、召し上がらないのですか?」
夢中になって料理を堪能していたセレナは、自らの食いしん坊過ぎる振る舞いを恥じつつ尋ねる。頬を染めながらナプキンで口元を拭いていると、ジュードはなぜか彼自身も食事の手が止まっていたことに今気づいた様子で「あ……」と数回瞬きをした。
「……君が物を食べているところを初めて見たと思って、つい見入ってしまっていた」
「えっ?」
「気を遣わせてすまない。俺も頂こう」
彼は臆面もなくそう言うと、メインディッシュのステーキを几帳面に切り分けてから静かに口元へ運んだ。普段は死滅しているんじゃないかと思うほど微動だにしない彼の表情筋が、肉を咀嚼するべくもぐもぐと働きだす。肉汁を含んだソースで濡れた唇はしっとりと輝き、しばらくすると喉仏が音もなく上下した。
この一連の動作を繰り返すジュードから、セレナはどうしてか目が離せなくなる。
「私も……男爵様が何かを召し上がっているところを初めて見ました」
「ッ?」
「ふふ、なぜでしょう。確かについ見入ってしまいますね」
「……ッ!」
くすくすと笑みを零すセレナを前に、ジュードの耳は火が灯ったように赤く染まっていく。ひどく当惑した様子で視線を泳がせるジュードであったが、まもなく運ばれきたデザートの皿に目を奪われていたセレナは、そんな彼の挙動に全く気付いていなかった。
春の陽だまりのように心地いい時間はあっという間に過ぎ――賑やかだった食卓の上は、いつしか食後の紅茶のみとなる。
(い、いよいよね……。本当に大丈夫なのかしら……?)
のんびりと食事を楽しんでいたセレナだが、ミラに指南された〝わがまま〟を忘れたわけではない。ごくりと紅茶で喉を潤してから、意を決して「ぁ、あの」と緊張した面持ちでジュードに話しかける。
「どうした?」
「男爵様にお願いごとがございまして……。実を言うと、もともと用意して下さっていたドレスがどれもきつくなってしまったのです」
「そうか。確かに、初めて見た時は随分と痩せていたからな。やっと健康的な体つきに戻ったのだろう」
「ええ、おかげさまで。それで、その……新しいドレスを買いに行きたいのですが」
「もちろんだ。費用なら心配いらないし、自由に外出してもらって構わない」
「ぃ、いえ、そうではなく……」
困り顔でティーカップへと視線を落とすセレナを、ジュードが怪訝そうに見つめる。セレナは飴色の液面に映る自らの顔としばらく対峙してから、ふぅと呼吸を整えて口を開いた。
「――ぃ、一緒に買いに行ってくださいませんかっ?」
「……は?」
「ぅぁぁ、あの、私、お店で服を買ったことがなくて、だから、ついて来て下さると心強いと言いますか、その……」
しどろもどろになりながらもミラの指示を完遂したセレナは、居たたまれない気持ちでジュードの返事を待つ。ただでも忙しい彼にこんなお願いをしたら迷惑に違いないでしょうに……、と疑心暗鬼になりながらも顔を上げてみると。
「俺と……一緒に……?」
どういうわけか、ジュードの瞳は瞬きを繰り返す度に輝きを増していった。
まるで光の玉でも呑み込んだように体の内部から生気が漲り、彫りの深い彼の顔面から一切の影を追い払ってしまったのだ。その表情はどこからどう見ても迷惑そうなんかではなく、むしろその逆である。
「……わかった。次の非番の日でいいか?」
「! はい、ありがとうございます」
(すごいわミラ……! 理屈は全くわからないけれど、確かに男爵様はとても喜んでいらっしゃるように見える)
やはりミラは一流メイドに違いないわ、とセレナが心の中で嘆息していると、ジュードが喜びを隠しきれない表情のままで言う。
「実は、俺からも君に頼みがあるんだ」
「っ? ええ、何でもおっしゃてくださいませ」
「以前に、今後の魔力吸収について『週に一度・十五分』と話したのは覚えているか? 今日でちょうど授爵式から一週間が経つ。良ければ今から君の部屋で魔力を吸収してもらえないだろうか」
「はい、もちろんです。それが私の役目ですから。……ただ」
セレナは自分がこの素敵なお邸に置いてもらっている理由を再確認して力強く頷くが、すぐにある問題を思い出して表情を曇らせた。
「私……きっとまた、男爵様の記憶を勝手に覗いてしまいます。自分ではどうにも制御できないのです」
「構わない。だが、どんな記憶を見たのかその場で俺に教えてくれ」
「は、はい、承知しました」
「それからその……記憶を明け渡す代わりと言っては何だが、俺にも君のことを教えてくれないだろうか?」
何やら決まりが悪そうに低い声で言う彼に、セレナは「えっ?」と灰青色の瞳を丸くする。まるで先ほどのセレナのように俯き加減で視線をずらしていたジュードだが、小さく一呼吸置いてからぎゅっと眉の辺りに決意を込めて喋り出した。
「あの嵐の晩――いなくなった君を探そうにも、君が行きそうな場所の検討がまるでつかなかった。君について何一つ知ろうとしてこなかったことを、深く後悔したんだ。だからセレナ。俺は今、君のことをもっと知りたいと心から思っている」
「私のこと……?」
セレナには、昔語りができるような経験などほとんどない。
何せ、人生の大半を物置部屋で過ごしてきたのだ。趣味もなければ嗜好もない。特技といったら、人より少々耳の聞こえがいいという程度。
魔喰いの異能とともに歩んできた道のりは、あまりにも空虚で無価値である。
「そうおっしゃられても、私には何もお話しできることがありません」
「大袈裟に考える必要はない。そうだな……例えば、今晩の食事は何が一番気に入った?」
「っ? ぇ、えっと……はじめに出していただいたトウモロコシの冷たいスープでしょうか」
「他は?」
「ぁ、あとは……。あ、デザートのいちごタルト! 艶々してとても綺麗で、お味もびっくりするぐらい美味しかったです」
「セレナは甘いものが好きか?」
「はい! 好きです!」
(あれっ、本当だわ。私って甘い味のものが好きだったのね……)
セレナ自身初めて知った嗜好。そんなものが存在していたことにしみじみと驚いていると。
「――フ。そうか、それはいいことを知った」
「……っ……!」
今度ばかりは、セレナの気のせいではない。
燭台の上のろうそくは既に半分以下の長さまで溶けていて、今にもとろけ出しそうなほど柔らかな眼差しを浮かべるジュードを優しく照らしていた。




