21 感想
夜が更けるほどに――雲の上を歩くようだったセレナの気分は急降下し、暗い地の底へと転がり落ちていく。
徐々に項垂れていく主人を見かねてか、突然ミラが元気よく口を開いた。
「セレナ様、こうなったら旦那様のお部屋に突撃しましょウ!」
「えっ? ……えっ!」
セレナは戸惑う間もなくミラに手を引かれ、あれよあれよと廊下に連れ出される。日が落ちてから私室を出るのは初めてだ。
……いや、よく考えれば、この邸で自分の部屋以外の場所へ行くことすら初めてである。
人生の大半を幽閉されていたセレナは、行動の自由がある今も積極的に部屋を出ようという気持ちにはなれずにいた。一度だけ自らの意思で庭に出てみたら、うっかりゴーレムを土に還してしまったし……。それ以来、ずっと私室で何をするでもなく静かに過ごしてきた。
(もう扉に鍵を掛けれらているわけでもないのに。勝手に出歩くのには、まだ抵抗があるのよね……)
セレナはざわざわと落ち着かない胸に手を当てながら、身を縮こまらせて廊下を歩く。ミラが着せてくれるドレスはどれも素晴らしいものばかりだが、どうしても肌の露出が多い。いつも通り長手袋を付けているものの、一切肌を見せずに生きてきたセレナにとっては、鎖骨が露になっているだけでも立派な不安要素なのだ。
(誰ともすれ違いませんように……誰ともすれ違いませんように……)
万が一にでも使用人達と接触してしまったら……、と気が気じゃなかったセレナだが、祈りが通じたのか、何事もなくジュードの部屋の前まで辿り着く。
「それでは、ミラはお邪魔にならないように退散しますネ」
「! ぇ、ぁ、待っ」
ミラは何やら生温かい笑顔で「ごゆっくリ」と言って一礼すると、狼狽えるセレナを置いてすたすたと廊下を戻っていってしまった。ぽつんと取り残されたセレナのこめかみを、たらりと冷や汗が流れ落ちる。
(ど、どうしましょう。急に押しかけてはご迷惑じゃないかしら……?)
右往左往しながら散々悩んだ挙句、セレナは小さな拳で恐る恐る扉をノックした。
――コン、コン。
「男爵様……?」
耳を欹てて待つも、返事は返ってこない。
――コン、コン、コン。
「男爵様、セレナです。入ってもよろしいでしょうか?」
やはり返事はない。
それどころか、セレナの耳をもってしても、扉の向こう側からは物音一つ聞こえてこないのだ。
(お部屋にはいらっしゃらないのかしら? それか、返事が出来ないような状況という可能性も……)
ためらいつつドアノブに手を掛けてみると、鍵はかかっていなかった。
セレナは嫌な胸騒ぎを覚えながら、ゆっくりと扉を開ける。
「し、失礼いたします……」
中に入った途端、ソファの肘掛けにぐったりともたれかかるジュードの姿がすぐさま目に飛び込んできた。セレナはサァッと青ざめ、弾かれたように駆け出す。
「――男爵様っ! 男爵さ……ま?」
ところが。数歩近づいたところで、すぅすぅ……と健やかな寝息が聞こえてきた。
立ち止まったセレナはしばしその場で瞬きをしてから、そろりそろりと慎重に彼の元へ歩み寄る。
息を殺してそっと覗き込んでみれば――案の定、ジュードは単にソファでうたた寝をしているだけだった。
「……ふふ」
意外にも無防備な寝顔に、セレナはつい笑みが零れる。常時全方位を警戒しているような鋭い眼光――起きているときのそれがない今、ジュードから感じる威圧感はゼロと言ってもいい。
(子どもの頃の男爵様は、きっとこんなお顔立ちだったのでしょうね……)
幼い頃の彼の記憶を何度も見てきたセレナだが、視点そのものが彼ゆえに、少年時代のジュードの姿を見ることは一度もなかった。だから勝手な想像に過ぎないのだが……そのせいで、とある心残りのことを思い出していた。
セレナは記憶に導かれるように、彼の目と鼻の先まで来てしゃがみ込む。
「……おやすみなさいませ、男爵様」
すぐに立ち去ればいいものを――手袋越しにそっと彼の手に触れてしまった。
「ッ……?」
「‼」
ぴくりとジュードの瞼が痙攣し、セレナは声にならない叫びを上げる。
(もう一度寝てくださいますように……もう一度寝てくださいますように……!)
懸命に祈りを捧げるも、どうやら今回は天に届かなかったようで。
「誰だ……? ――ッ⁉」
ジュードは完全に目を覚ましてしまった。とろんと潤った飴色の瞳がセレナの姿を捉えた瞬間、彼はソファから転げ落ちそうな勢いで飛び起きる。
「……セレナ⁉ どうしてここへ」
「も、申し訳ございません! お夕食の時刻を過ぎてもいらっしゃらなかったので……」
「夕食……? ッ!」
ジュードがハッと息を呑んだ瞬間、壁際に置かれた立派な振り子時計がボーン、ボーンと時を告げた。彼がセレナを夕食に誘ってから、ゆうに三時間は過ぎていた。
しばし振り子時計を刮目して見ていたジュードだが、ようやく状況を理解したのか忽ち顔面から血の気が引いていく。
「本当にすまない……。自分から誘っておきながらこの不始末、一体どう責任を取れば……」
「そんな、お気になさらないでください!」
見ていられないほどの悲愴感を漂わせる彼に、セレナは慌てて胸の前でジタバタと手を振る。
「そもそも男爵様が睡眠不足なのは私のせいではありませんか。お夕食はまた今度にして、どうぞこのままお休みになってくださいませ」
「いや、それでは俺の気が済まない。何でもいい、何かお詫びをさせてくれないだろうか?」
「えっ? ぁ、ええっと……」
どう遠慮しても食い下がりそうにない、力強い眼差し。困ったセレナは必死に頭を回転させる。
うんうん悩んだ末、ついに閃きが降りてきた。
「では、一つだけお願いを聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。何でも言ってくれ」
「ひと言で構いません。このドレス姿をご覧になった感想を教えていただきたいのです」
(この前ミラが張り切って身支度をしてくれたとき、何もご感想をいただけなくて拗ねていたものね……。これならお言葉をいただくだけですもの、男爵様のご負担も無きに等しいわ)
セレナは我ながら名案だと思いながら、気軽な気持ちで依頼する。
しかし、セレナの予想に反して、ジュードは「ッ⁉」と大きく目を見開いた。しかも、みるみる表情がいかめしくなっていく。
「感想……感想か……」
まるで一から〝感想〟という言葉の定義を考え始めているように、彼は酷く難しい顔をして黙り込んでしまった。
「ぁ、あの、やっぱり大丈夫です。変なお願いをしてしまって申し訳ありません」
明らかに困らせていると気づいたセレナは、即座に前言撤回を試みる。
しかし、その途端に黙り込んでいたジュードが顔を上げた。
「いや、問題ない」
「本当ですか?」
「ああ。だが少し考える時間をくれないか」
そう言って、彼は再び静かに煩悶し始める。絶え間なく揺れる瞳の振動は振り子時計よりもはるかに速く、逡巡した様子で口を開いたり閉じたり……何だか忙しない。
(本当に、大丈夫なのかしら……?)
どんどん顔色が曇っていくセレナを見てか、ジュードはついに意を決し、くぐもった低い声で喋り始めた。
「枯れそうだった花が、ふいに息を吹き返した時に感じる心境……とでも言ったらいいか」
「っ?」
「わけもなく非凡に感じ、目がひとりでに吸い込まれる。それでいて、またいつか弱るのではという不安が胸に押し寄せ、手放しに愛でられない。これが君をひと目見た時の感想だ」
「……んん?」
ひと目見ただけでそこまで複雑なことを考えられるのね……、と寝起きでも冴え渡る彼の頭脳に感心しきりのセレナだが、あいにくと理解が追い付いていなかった。
「申し訳ございません。出来れば、もう少し簡単なお言葉で教えていただけないでしょうか?」
「! あ、ああ……そうだな」
ぎくりと姿勢を正したジュードの瞳に、焦りの色が浮かぶ。
彼は再び激しく視線を泳がせながら、より一層歯切れの悪い声で続けた。
「つまり、その、有り体に言うと……――綺麗だということだ」
ジュードは広い手のひらで口元を覆い、目を伏せて俯きがちに言う。表情こそよく見えないが、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
ところが対するセレナは、頬を赤らめるでもなく呑気な笑顔を浮かべて言う。
「ありがとうございます! ミラに、そのように伝えますね」
「……は?」
「おやすみなさいませ」
ジュードが決死の覚悟で呟いた、逃げも隠れもしない誉め言葉。
セレナはそれを、自分に向けられたものとは露ほども思っていなかった。




