19 幸せの基準値
絹糸のような白髪が朝日を反射し、閉ざされた部屋に無数の輝きを振り撒く。
「ん……ぅ……」
じっとりと汗をかいたセレナは、朦朧としながら唸り声を上げる。全身が重怠く、額の汗を拭おうにも腕が全く上がらない。
と、そのとき。ぼやけた視界の真ん中に大きな手のひらが現れて、セレナの額をハンカチで拭っていった。
(……お兄様……?)
「――気がつかれましたか?」
鼓膜を柔く揺さぶる低い声に、セレナは思わず「……ぇ?」と呆けた声を出す。
瞼を開くと、こちらを真っ直ぐに見下ろす漆黒の双眸と目が合った。
「ジュ……ド……様⁉」
「まだ無理はしないでください」
じわじわと目を見開いたセレナは、驚きのあまり飛び起きようとする。ところが、やけに全身が重くて上手く起き上がれない。そのうち、ジュードにそっと肩を押し戻されてしまった。
これは一体どういう状況だろう……、とセレナは天蓋を見つめながら必死に記憶を辿る。
そう――確か自分は、森の中で酷い嵐に晒されていた。記憶を覗いたことでジュードに見放されたが、『彼を授爵式に送り出せただけでも良かった』と心から清々しい気分で、眩しい雷光をいつまでも眺めていた。誰かの役に立てたことが嬉しくて、思い残すことなんか何もないと思いながら。
ところがジュードに抱え上げられ、凍えた体が意識を手放す直前――また一つ心残りが生まれてしまったのだ。
(私、生きているのね……)
セレナは横になったまま辺りを見渡す。どうやら、エルファルド男爵邸の私室に戻ってきているみたいだ。窓の外は抜けるような青空で、昨日の嵐が嘘みたいに小鳥が囀っている。
それにしても気になるのは……やたらと部屋が暑いことと、あれほど拒絶感を露にしていたジュードが自分の部屋にいることだ。
(……他には誰もいないのかしら?)
疑問を抱きつつ足元へ視線をやったセレナは、ぎょっと目を瞠る。自分の首から下に、大量の毛布がてんこ盛りで重ね掛けされていたのだ。
体が動かしにくいと思ったのもそのはず。セレナは今、ミルフィーユの最下層のような状態なのである。
「あの、ジュ……男爵様」
「どうしました? 気分が優れませんか?」
「いえ、あの……毛布が苦しくて……」
「!」
ふぅ、とセレナが火照った息を吐くと、ベッド脇の椅子に腰掛けていたジュードが弾かれたように立ち上がる。
彼は騎士らしいきびきびとした口調で「失礼します」と言って、セレナに重ね掛けされていた毛布を素早く回収し始めた。軽い羽毛布団一枚となるまで剥いだところで、セレナが夜着姿であることに気がついたのかピタリと手が止まる。それからこちらに背を向けて、足早に窓を開けに行った。
薄く開かれた窓から、新鮮な空気が入り込む。何度か深呼吸してのぼせた頬が冷めてきたセレナは、ようやく体を起こした。
「……起き上がって平気なのですか?」
窓際から戻ってきたジュードは、ベッド上に座るセレナを見て声を強張らせる。眉根をぎゅっと寄せた固い面持ちは、心配しているのか怒っているのかよくわからない。
「だ、大丈夫です。少し風に当たりたくて」
「わかりました。ですが、心配なのでせめて一枚羽織ってください」
「は、はい」
(心配しているお顔だったのね……)
肩に薄手のブランケットをかけてもらいながら、セレナは彼の難解すぎる表情を少しだけ理解する。そのうちに、ジュードは再びベッド脇の椅子に腰掛けた。彼は薄手のズボンにブラウス一枚という軽装で、室温が高かったせいか漆黒の短髪は汗ばんでいた。
騎士団の制服や正装しか見たことがなかったセレナは、珍しい普段着姿の彼をついまじまじと眺める。一方のジュードは、何やら険しい目つきで膝に肘をついて指を組み合わせていた。
しばしの沈黙の後。
「あの、俺……謝りたくて」
ジュードは言葉を選ぶように何度も口を開いたり閉じたりしながら、一段と低い声で喋り出す。
「命を投げ捨てさせるほど貴女を追い詰めてしまったのは、全て俺の責任です。許しを請うためではなく、ただ心から後悔しているということをお伝えするために、どうしても謝りたかった。だから、目が覚めてくれて……本当に……」
はぁ……っ、とジュードは自らを落ち着かせるようにゆっくり息を吐き、片手で顔を覆った。
見たことがないほど狼狽えた彼の様子に、セレナは何も言えずただ次の言葉を待つ。するとジュードは顔を覆っていた手を静かに下ろし、見ているこちらまで苦しくなるような歪な顔で言う。
「生きていてくださってありがとうございます」
「……――!」
言葉がすっと溶け込んで、胸の真ん中が温かい。
忌み嫌われる魔喰いの自分にそんなことを言う人がいるなんて――セレナは込み上げる様々な感情を受け止めきれず、一筋の涙を零す。
「⁉ 申し訳ございません。俺、また何か失礼を」
「いえ、違、っ……違うんですっ。嬉しくて……ふふ」
「ッ?」
「男爵様、もう十分ですからどうか謝らないでください。私はとても幸せです」
泣きながら笑顔を浮かべたセレナがそう言うと、ジュードは「!」と息を呑んだ。
「……幸せ、ですか……?」
「ええ。記憶に無断で立ち入った私を助け、許し、こんなにも素敵な言葉をくださるのですから。男爵様は本当にお優しい方です」
「……ッ……」
戸惑った表情を見せるジュードに、セレナは心から感謝を込めて言う。すると彼は、もっと戸惑った様子で瞳を揺らした。
「セレナ様は……幸せの基準値が低すぎます」
「えっ?」
「それから俺のことを買いかぶり過ぎです。俺はただ、失うのが怖くて大切な物を作ることから逃げてきた臆病者なのです」
ジュードは膝の上で拳を握ると、意を決したように背筋を伸ばして言う。
「貴女の異能のおかげで魔力が概ね制御可能となったのに、不躾な態度を取り続けていたのは不適切だったと反省しています。これからは、セレナ様の基準値を標準化すべく善処したいと思っていますので、改めてよろしくお願い致します」
「っ? ……んん?」
難しい言葉をたくさん並べられ、セレナは途中からほとんど理解できなくなっていた。
「えっと……男爵様、ご提案なのですが」
「はい。何でしょうか」
「授爵式を終えられた今、男爵様が私に敬語をお使いになる必要はなくなりましたよね?」
「ッ? ああ、確かにそうですね」
「でしたら、気軽な口調でお話しいただけないでしょうか? お恥ずかしい話ですが、私、男爵様がお使いになる言葉が時々理解できなくて……」
俯きがちに肩を縮こまらせて言うセレナに、ジュードはパチパチと瞬きをしてから真顔で言う。
「なるほど。わかりま……――わかった」
「ありがとうございます。今日から私のことは、どうぞセレナとお呼びください」
「はい、セ……セレ……――? すみま……すまない。慣れるまで少し時間がかかりそうだが努力しま……――する」
「お願いします」
まるで止まりかけのオルゴールのようにぎこちないジュードに、セレナは堪えきれずにくすくすと笑みを零す。
「……そんなに笑わなくてもいいだろう」
「ふふ、ごめんなさい。つい……。っ?」
謝りながら彼を見上げたセレナは、思わず目を奪われた。薄っすらと頬を染め気まずそうに当てどころなく視線を彷徨わせるジュードは、紛うことなく照れていたのだ。常時岩肌の如く固い彼の表情が、ここまで緩んでいるところは初めて見る。
セレナは貴重な絵画を鑑賞するように、ぼうっとジュードを見つめる。ずっと漆黒だとばかり思っていた瞳はよく見れば淡い茶色が溶け込んでいて、光を受ける角度によっては飴色にも輝く。まるで彼の分かりにくい優しさを体現しているようだ。
――タタタタタタタ……!
「っ?」
そのとき。長閑な朝の静けさを打ち破る威勢のいい足音が、扉の向こうから近づいてきた。
程なくして、礼節も減ったくりもなくバンッと部屋の扉が開く。
「おはようミラ」
「――セレナ様ッ! お目覚めになられたのですネ!」
入ってくる前から足音の主に気づいていたセレナがそう言うと、ミラのミントグリーンの瞳からぶわっと涙が溢れる。一流メイドとしての矜持はどこへやら。一目散にベッドまでやってくると、ジュードには目もくれずにセレナをぎゅぅっと抱きしめた。
「良かったでス! 本当に良かったでス‼」
「心配かけてごめんね」
わんわん泣き始めるミラを慰めるべく、セレナは優しく彼女の背中を撫でる。
(誰かに抱きしめられるなんて……何年振りかしら)
くすぐったいような安心感に包まれて、セレナはふわりと微笑む。ふとジュードを見上げると、彼はなぜか少し不機嫌そうに顔をしかめていた。突如蚊帳の外に追い出されたせいだろうか。
「ミラ、セレナに朝食を用意してくれ」
「かしこまりましタ。……ン?」
「胃に優しいものが良いだろう」
ジュードは、ぽかんとするミラにそう言ってからスッと立ち上がる。
扉の前まで来たところでどこか名残惜しそうに振り向いた彼は、セレナの目を真っ直ぐに見て口を開く。
「仕事から帰ったら、また様子を見に来る」
煉瓦のように角ばった背中には不釣り合いな、柔らかい声色。
抱き合ったまま困惑するセレナとミラをよそに、扉はゆっくりと閉まっていった。




