7.小屋にて
黒馬はどれだけ驚いたのか、地面に蹄鉄のあとが抉れるほど残っていた。その蹄跡を辿って追いかけることができたのだけど、なかなか馬の姿も陛下の姿も見えてこない。
「ごめんね。もう少し頑張ってね」
栗毛は大人しく、私の言うことを聞いてくれていた。
「あ、池だ」
デートで訪れた公園にあった池よりも小さな池がある。
一度、馬から降りて、水を飲ませてあげる。
その間、周囲を散策していると、草で覆われた先に黒いものが落ちているのを見つけた。
よく目を凝らしてみて、はっと気づいた。
人だ。近くに黒馬の姿はない。きっと彼を振り落として、どこかに行ってしまったのだろう。
「陛下!」
呼びかけて近づくと、地面に転がっている陛下は、頭から血を流していた。
「陛下……アルベリクス様、ご無事ですか!」
指がピクリと動く。
生きてる。
傍に近寄ると、仰向けに倒れていた陛下が、うっすらと瞼を開いていた。
金色の瞳と目が合う。それから陛下は、口角を上げる笑みを浮かべた。
無事だと伝えたいのだろう。だが頭を打っていて、意識も朦朧としているはずだ。
どうしたらいいのだろう。
とりあえず、持っていたハンカチを傷口に当てる。血の量は多く見えたけれど、傷自体は小さく別状はなさそうだ。だけど頭を打っているので、下手に移動させることはできない。
ここに陛下を放置することもできない。困り果てていると、陛下の手が伸びてきて私の頬に触れた。
「私は、大丈夫だ。そなたが、無事でよかった」
「ですが、アルベリクス様。このままだと」
馬の腿に刺さっていた矢はどこから飛んできたのだろう。陛下を狙ったのか、それとも偶然か。
それに、あの後すぐ現れたボルテール公爵も怪しい。
憶測だけで疑うことはできないけれど、どうしてあんなにタイミングよく現れたのだろう。応援を呼んでくれるように頼んだけれど、果たして私たちの姿は見つけられるのだろうか。
ポツっと、何か冷たいもので頬が濡れた。
雨だ、と気づいた時には、雨脚は強まっていた。
「確か、来る途中に小屋があったはずだわ」
森の中には、休憩やいざという時のために、ちょっとした物資を保管するための小屋が設置されていることがある。
あの小屋はきっとそういうものだろう。きっとこのあと来るだろう捜索隊にも、目星となる場所のはずだ。
あそこまでたどりつければ、もしかしたら助かるかもしれない。
「頭は痛くないですか? 気持ち悪さとかはありますか?」
「……問題ない」
「それでは少し、移動しましょう」
「世話になる。……すまないな。落ちたときに全身を打ったみたいで、思うように動かないんだ。でも、自分の足で歩くことぐらいは、可能なはずだ……」
手を貸しながら、陛下はおぼつかない足取りで立ち上がる。
私の肩と、馬の体を支えに、小屋に向かって歩き始めた。
小屋に着いた時にはもうすでに全身がずぶぬれだった。
馬を屋根あるところにつなぎ、私たちは小屋の中に入った。
小屋の中は無人だったけれど、暖炉があり、薪も常備されているようだ。
暖炉に薪を置き、どうやって火をつければいいのだろうと途方にくれていると、おぼつかない足取りで陛下がやってきて、手早く火をつけてくれた。
「軍にいたとき、これぐらい朝飯前だったからな」
自信満々に言う陛下に称賛を送ると、私たちは同じく常備されていたタオルで体を拭く。その間お互い別の方向を向いていたけれど、濡れた髪や顔をただ拭くだけなのに少し居心地が悪かった。
体を拭き終わったけれど、服ばかりは替えがないのでどうしようもない。ここで脱ぐわけにはいかないし、暖炉の火で体を暖めながら待つことしかできないだろう。
燃える火を眺めていると、陛下がポツリと呟いた。
「……今回も、私を狙った刺客だろう。巻き込んでしまって、すまなかったな」
私は言葉を詰まらせる。
今回の狩りは遊戯的なものとはいえ、隣国の大使や陛下も参加することが決まっていた。だから警備はいつもよりも厳重に行われていたはずだ。
それなのに、陛下を弓で狙った者がいる。
ふと、狩りが始まる前に、ボルテール公爵が言っていた言葉を思い出した。
『私は今回の狩りで、少なくとも一匹は仕留めるつもりでいますので』
あれが、もし陛下のことを指しているのであれば――。
「それ以上考えるな。少なくとも、何も証拠がないのに、あの男を犯人だと断定することはできない。そんなことをすれば、外交問題になるからな」
「……なぜ、私の考えていることがわかったのですか?」
「顔を見たらわかる。難しい顔をしているではないか。……それに、あの男は胡散臭い。疑いたくなる気持ちもわかるからな」
冗談めかしてそう言いながら、陛下は口角を上げていつもの笑みを浮かべた。あの不器用ながらも、私を安心させようとするような笑みを。
「だが、あの男も外交のために帝国に訪れているのだ。こんなにわかりやすく、私を暗殺しようとはしないだろう。犯人は別にいる」
陛下のその言葉には、なぜか確信めいたものを感じた。
もしかして陛下は、もうすでに犯人がわかっているのではないだろうか。
陛下を恨んでいて、今回の狩りに参加している人といえば……。
再び浮かんだ予感があったが、私がその予感を口にしようとする前に陛下が声を出した。
「ラシェル」
「はい、なんでしょうか」
「私は常に命を狙われている。あまりいい君主ではないからな、多くの人からは冷血だとか怖れられているだろ」
返事ができなかった。
「だから、私といると、これからもそなたに迷惑をかけるかもしれない。そなたの命が脅かされる危険性もある。……それでも……それでも、私と……」
陛下の声がどんどん小さくなっていき、ふと途切れた。
「――アルベリクス様?」
呼ぶが、反応がない。俯いたまま、微動だにしない。
嫌な予感がして、近づいて顔を覗き込むと――。
微かに寝息が聞こえてきた。
ほっと胸を撫でおろす。
起こすのも忍びないのでこのままにしておこうと離れようとした時、陛下の身体が傾いて私の肩にもたれかかってきた。
動けなくなってしまった。動いたら起こしてしまうかもしれない。
私はそっと、陛下の顔を覗き込んだ。こんなにじっと見つめていたら、告白する以前なら不敬罪として捕まっていたかもしれない。
いまの私は陛下の婚約者だ。こうして、まじまじと見ても怒られないだろう。
だからじっと見つめて、いつもは鋭く光っている金色の瞳がないことに少し物寂しさを感じて、唇の隙間から寝息がもれるのに微笑ましさを感じていた。
「……こうしてみると、寝顔が弟にそっくりね」
最近はあまり会話もなくなってしまった弟だけれど、そんな彼も寝ている時だけは無防備な寝顔をさらしていた。
寝ている時だけは、すべてのしがらみから解き放たれたかのように、安心したように眠っていた。いまの陛下みたいに。
そんなことを思いだしたからか、恋しくなってしまった。
「……弟に、会いたいわ」
呟いて、すぐに口を閉じる。
浮かんだ複雑な気持ちに、蓋をするように。




