第9話 作られしもの
キャット・キラーは産業スパイ。
それを知らされた須藤は、これまでの推理を見直してみたくなった。
その取っ掛かりに選ばれたのは、砂漠館だった。
放送室のドアを開けたとき、担当者はいなかった。管理が適当なようだ。
須藤はカメラをテーブルに置いて、タッチパネルを見つめた。
ミーアキャットの声真似事件は、紗美原の推理で解決した。須藤も昨日までは、そう思い込んでいた。ところが、紗美原の推理――キャット・キラーが自然公園に潜む産業スパイだという推理を聞いて、不審な点が浮かび上がった。
それは、【18】という番号についていた、あの土だ。染崎が押した痕跡だと、クリスは主張していた。須藤も、あのときはそう思った。しかし、染崎はミーアキャットの音声など、使っていなかった。あれは、クロオウチュウの鳴き声だったのだ。
では、だれがどのタイミングで、【18】のボタンを押したのだろうか。須藤には、それがわからなくなった。そして一晩考えた結果、ある疑念にたどりついた。
キャット・キラーが、染崎とクリスのトラブルを知っていたとしたら、どうなるだろうか。クリスと同じ推理をして、染崎がミーアキャットの音声を使ったのだと、誤解したかもしれない。そして、そのトラブルが悪化するように、土を塗ったのかもしれない。あるいは、紗美原のように正解へたどりついたあと、クリスをはめるために、そうしたのかもしれない。
(仮にキャット・キラーの仕業だとすると……染崎とクリスのトラブルを、すぐに把握できたってことだよな……寮の人間か?)
あのときクリスは、染崎を呼び出すため、寮へ向かった。犯人は、染崎が呼び出されたところを目撃したか、あるいは、もどって来た染崎の愚痴を聞いたか、そのどちらかになる。
須藤には、後者の可能性のほうが、高いように思えた。染崎を呼び出しただけでは、トラブルかどうかわからないからだ。寮に帰った染崎が、砂漠館での出来事を話した。そのほうが、もっともらしかった。
(あのとき寮にいたメンバーを調べれば、キャット・キラーの正体がわかる……?)
須藤は、自分の推理を確かめるため、寮へと向かった。
到着すると、染崎は食堂のフロアで、いつものようにラーメンを食べていた。
おしゃれな木製の丸テーブル。4人がけで、それがいくつも並んでいた。
オープンキッチンには、料理をしている職員の姿もあった。
パスタをゆでているのだろう。トマトソースの匂いがした。
須藤の接近に気づいて、染崎は箸を止めた。
須藤は、気軽に挨拶した。
「となりに座っても、いいか?」
「メモリーカードの件ですか? 俺は盗んでませんよ」
須藤は、関係ないと答えた。染崎は警戒しつつも、席を勧めてくれた。
どこから切り出すか――染崎がキャット・キラーの可能性もあった。
須藤は、少し離れたところから攻めてみた。
「クリスとは、もう仲直りしたのか?」
「メモリーカードよりもイヤな質問ですね……あいつ、なにか言ってました?」
「いや、『染崎とクリスがケンカしてる』って、ほかの職員から聞いてな。どうも、噂が広まってるんじゃないかと思うんだが、だれかに話したのか?」
「話すわけないでしょう……須藤さんが広めてるってオチですか?」
おっと、危ない。須藤はニガ笑いしつつ、否定した。
すると、染崎はしばらく麺をすすってから、首をひねった。
「あのとき、食堂には人がいましたからね。クリスについては、俺も愚痴りましたし」
ビンゴだ。須藤は徐々に網をしぼっていく。
「6時半頃だったよな? けっこう、盛況だったろう?」
「ええ、寮の人間が、8割方いたんじゃないですか。みんなサッカー中継を観てました」
須藤は落胆した。十数人はいたという計算になる。
「特定の奴が聞き耳を立ててたとか、そういうことは?」
「そんなの覚えてません」
染崎の返事がぶっきらぼうだったので、須藤はそれ以上、追及できなくなった。根掘り葉掘りたずねたら、今度は須藤が怪しまれることになるからだ。
「須藤さん、食べに来たんじゃないんですか? まさか質問だけじゃないですよね?」
「あ、ああ……もうちょっと空いてから……」
「こんにちは、おふたりさん」
ふりかえると、例の口髭の研究員――酒向が立っていた。
白衣姿の酒向に、染崎は眉を持ち上げた。
「珍しいですね。寮の飯が懐かしくなりましたか」
「いや、研究所のほうで食べて来た。新島博士の使いで、ついでに寄っただけだ」
酒向はどうやら、須藤に用事があるらしかった。
勝手にとなりへ座って、手揉みをした。
「じつは、ひとつ頼みがあるんだ……研究所のほうからね」
○
。
.
「須藤と言います。よろしくお願いします」
須藤は名刺を渡して、頭をさげた。
勝ち気な感じの若い女性職員は、興味無さげに名前をいちべつした。彼女は飼育員の制服を着て、空いた手を腰にあてていた。ショートヘアで、よく日焼けしていた。手のゆびが長く、人目をひいた。化粧をほとんどしていないことが、須藤にもわかった。
「酒向さんから、話は聞いてる」
「今回は、撮影の許可をいただき、ありが……」
「あんた、素人だってうわさがあるけど、ほんと?」
いきなり急所を突いてくる質問だった。
ごまかすのもマズいと思い、須藤は正直に答えた。
「動物を専門にしたのは、今年になってからです」
「……ま、いっか。来てちょうだい」
ツンとしたショートの後ろ髪が、こちらに向けられた。
彼女の名前は、秋乃千晴。ネコ科の動物が専門の職員だった。染崎と並んで、若手に属するだろう。須藤は、掘沿いにライオンエリアを巡回したあと、見知らぬ建物に入った。そして、ひとつの檻のまえに立たされた。野生動物特有の匂いが、あたりにただよう。
檻のなかには、巨大なライオンが一匹いた。たてがみがひどく小さかった。メスと勘違いしたほどだ。カメラを構えるのも忘れて、須藤はしばらく見入っていた。
パークのライオンたちよりも、ひと回り大きな肉食獣。その威容とはうらはらに、瞳は憂いをおびていた。
「彼がどういう子か、わかる?」
須藤は、予習してきたことを、思い出しながら答えた。
「ライガーですね。ライガーは、父親がライオンで、母親が虎のハーフを言います。ライオンとタイガーの合成語です。逆の場合は、タイゴンと呼ばれます。ライガーは、普通のライオンよりも大きくなる傾向を持ちますが、オスのたてがみは逆に小さくなります。それから……」
須藤は、そこで言いよどんだ。
「それから?」
「ライオンと虎は、もともと夫婦になる動物じゃありません。ライガーには、いろいろな遺伝子疾患が見られます。骨折しやすいとか、子供ができないとか……」
秋乃は顔色を変えずに、こくりとうなずいた。
「そう、ライガーは自然界にはいないんだよ。人間の見せ物なんだ」
秋乃の物言いが、あまりにも率直だったせいで、須藤は困惑した。
「ここのライガーは、どこから連れて来たんですか?」
「カメラマンなのに、ずいぶんと突っ込んだ質問をするんだね」
「調べ物をしていて、気づいたんです。ライガーは、サーカスなどの興行に使われていた動物で、現在は交配が倫理的に禁止されてる、って」
秋乃は、須藤の下調べに感心したのか、事情を教えてくれた。このライガーは、日本で交配させたものではなく、東南アジアの某国から寄付されたらしい。
「寄付の名目は、なるべく長生きさせること……なんだけど、本音は客引きだよ」
「客引き、というのは?」
「うちの自然公園は、半分以上が自費で運営されてるのさ。半官半民。純粋な研究ばかりじゃやっていけないから、見せ物が必要になるわけ」
須藤は、遺伝子改造ペットのことを思い出した。おそらく、あのペットたちからも、収入を得ているのだろう。民間企業に売り込めば、高値で買ってくれそうだった。
「ところで、写真を撮って、どうするの?」
「酒向さんの話では、パンフレットに使いたいそうです」
「ふん、あいつの考えそうなことだよ。宣伝ばかりうまくて」
秋乃は「ご自由に」と言い残して、その場を去った。
ひとりきりになった須藤は、しばらくシャッターを押し続けた。
ライガーは檻のすみっこに寝そべり、ときどき大きなあくびをするばかりだった。面白そうな絵が撮れない。たまに声をかけてみたけれど、なにも反応がなかった。
「いいよなあ、おまえは……寝てりゃエサがもらえるんだから……」
「お仕事は、順調ですか?」
ふりむくと、紗美原が立っていた。
さっきの発言を聞かれたと気づき、須藤は頭をかいた。
「す、すみません、失言でした」
「いえいえ、ペットに対しておなじことを考えるひとは、多いと思いますよ」
紗美原は白衣のポケットに手を入れて、檻のほうへ近寄った。
ライガーは一瞬だけ興味を示して、それからプイッとそっぽを向いた。
「紗美原さん、嫌われてますね」
「この子の担当医は、私なんです。もう10回は診ています」
紗美原の返事を受けて、須藤はまた失言だったことに気づいた。
「ほんとすみません……動物のことは、いまだによくわからなくて……」
「人間に愛着を持つ動物は、多くありません。人間がライオンを恐れる以上に、彼らは私たちを恐れています。お医者さんなら、なおさらですね」
子供だって、お医者さんが嫌いですから――紗美原は、そう付け加えた。
失言のバーゲンセールにならないよう、須藤は口をつぐみ、シャッターを切った。
「外には出さないんですか? パークのほうが、見栄えもいいと思うんですが」
「ここ数日、体調が悪いようです」
紗美原は、須藤の仕事を確認しに来たわけでも、偶然通りかかったわけでもなく、ライガーの容態を診に来たらしかった。
「病気ですか?」
「もともと体の弱い個体ですからね……」
須藤は、ライガーをみやった。
たしかに、元気のない印象を受けた。
「人間のエゴですね。かわいそうだ」
「日常的に見る動物の多くは、人間のエゴが作り出したものです。犬や猫だけでなく、豚や牛、サラブレッドですら、もともと野生にいた動物ではありません」
お説教されたのだろうか、それとも――判然としなかった。
真意をたずねようか迷っていると、うしろで鉄製のドアがひらいた。
秋乃だった。
「終わった? 檻の掃除をしたいんだけど」
ふたりとも、終わったと答えた。
「それじゃ、出てってちょうだい」
帰り道、須藤は昼下がりの自然公園を、紗美原と散歩していた。
入園客の多い場所を避けて、灌木に囲まれた小径を選ぶ。
鳥の声、風のざわめき――のどかな風景とは異なり、会話の内容は物騒だった。
「キャット・キラーは、これからも犯行を続けるんでしょうか?」
「……」
紗美原はポケットに手を入れたまま、空をあおいだ。
聴診器が太陽に反射して、キラリと光った。
「わかりません……犯人の狙いは、そこまで明白ではありませんから」
「産業スパイなんでしょう?」
紗美原は、その綺麗なひとさしゆびと中指を立てた。2の数字。
「狙いは、ふたつあると思っています。ひとつは、すでに説明したとおり、お金です」
須藤は、もうひとつの目的をたずねた。
「園内の不祥事です」
「不祥事……?」
「キャット・キラーが遺伝子改良ペットを傷つけているのは、血液と細胞を回収するためだと踏んでいます。しかし、この仮説では、虐待した動物をわざわざ見つかるように放置したことの説明がつきません」
須藤は、パチリと指をはじいた。
「スキャンダルを起こすためですか」
「キャット・キラーを雇った企業は、野逢自然公園から情報を収集しつつ、同時に潰すことを考えているようですね。半官企業ですから、そういう不祥事には、マスコミが簡単に飛びついてくれます」
紗美原の推理には、納得できる点がもうひとつあった。上層部が、連続虐待事件を公にせず、極秘に調査していることだ。なにも知らされていないクリスは、外壁の欠陥工事を疑っていた。これが相手にされなかったのも、スキャンダルを恐れたからだろう。
須藤は、
「情報を抜きつつライバルに不祥事を起こさせる……犯人は、手慣れてますね」
と嘆息した。
「おそらく、その業界では、名の通った人物だと思います」
須藤は、相手の性別や年齢、その他の特徴に目星がついているか、とたずねた。
「男性か女性か……という点については、なんとも言えません。これまで治療した動物の傷口から察するに、それほど力がない……女性と思わせる節もあります。しかし、犯人は動植物に関する知識が豊富なのですから、意図的に調整することもできるでしょう」
「年齢も性別もわからないってことですか……ほかには、なにか?」
紗美原は、なにかを言いかけて、ふと足を止めた。
「すこし寄りたいところがあります……お付き合いいただけますか?」
ふたりは通常のルートからはずれた。
木漏れ日のなかを歩く。小径から、さらに奥まった小径へ。
なにやら神聖な雰囲気がして、須藤は無言になった。
林が途切れて、小さなほこらのようなものが現れた。
「これは……お墓ですか?」
無骨な石に、【動物慰霊碑】と掘られていた。
紗美原はなにも言わずにひざを折って、両手を合わせた。
須藤も真似をした。自然公園のなかですっかり忘れていたが、生き物はいつか死ぬ。来園者の目からは、巧みに隠されているだけだ。おそらく、研究室でも――
となりで立ち上がる音が聞こえて、須藤は目を開けた。
「先日の小犬は、亡くなりました」
「えッ……」
須藤は、言葉を失った。あのとき、治療は簡単に終わった。傷口も浅く見えた。
紗美原は墓碑を見つめたまま、事情を説明してくれた。
「あの子は、遺伝子改良をほどこされたペットで……免疫不全だったのです」
「そうですか……俺がもっと早く駆けつけていれば……」
「須藤さんのせいではありません。免疫が働かないのであれば、いずれは……」
死は、なんと速やかにおとずれるのだろう。
須藤はこれまでのキャリアから、そのことを知っていたはずだった。
「キャット・キラーも、容赦がなくなってきた、ということでしょうか?」
「それはわかりません。免疫不全を知らずに刺した可能性も……」
そのときだった。背後で草むらをかき分ける音が聞こえた。
ふりかえると、秋乃が立っていた。右手に水桶と花束を持っていた。
「先客がいるなんて、めずらしいね」
秋乃はそう言って、つかつかと墓碑に近寄った。
花束を換える。その秋乃の横顔に、須藤は淋しげなものを感じた。
それから秋乃は、ずいぶんと長く手を合わせ、目を閉じていた。
その光景を、ふたりは黙って見守っていた。
墓参りが終わったあとも、3人は無言で小径をもどった。
林から出たところで、秋乃は、
「じゃ」
とだけ言って、その場を去った。
須藤はついつい、
「秋乃さん、なんだかとっつきにくいかたですよね」
と、口をすべらせてしまった。
「秋乃さんは、とても優しくて……心の強いかたですよ」
「よくご存じのかたなんですか?」
「ええ……前に勤務していた動物園で、一緒でした」
同僚と聞いて、須藤はふと思った。
紗美原の経歴を、彼は詳しく知らないのだ。
だが、紗美原もまた、須藤の経歴を知らないはずだった。
翌日、須藤はライガーの檻を、ふたたび訪れた。
パソコンで確認してみたところ、いい絵がまったく撮れていなかったからだ。
すると、ちょうど鍵を持った秋乃が、飼育室のまえを歩いていた。
「おはようございます」
声をかけると、秋乃はふりむいた。
「おはよ……今日も撮影?」
須藤は事情を説明した。
「というわけで、外で撮影するチャンスって、ありませんか?」
秋乃は、手に持っている鍵を見つめた。
「……今から運動の時間だけど」
「そこを撮影させていただくことは、できませんか?」
秋乃は黙って、作業服のそでを払った。決めかねているようにみえた。
「……了解。ジープで並走するから」
「ありがとうございます」
「勘違いしちゃダメだよ。あたしが拒否したら、あんたは研究所のメンバーに頼むだろ。そのあと、公式に依頼があって、うんたらかんたら、になる。そういうのが面倒だから、あらかじめ許可してあげるってわけ。わかった?」
須藤は、もういちどお礼を言った。口では厳しいことを言っているけれど、秋乃が優しい女性だと言うのは、昨日のお墓参りで、なんとなくわかった気がした。それに、紗美原の評価を、須藤は信用したかった。
「何時からが、よろしいでしょうか?」
「30分後に、また来て」
須藤は、園内をぶらぶらしてから、ふたたび秋乃のもとを訪れた。彼女はとっくに準備を終えていた。須藤は先に、ジープの助手席へ腰を下ろした。
秋乃は、パークへ続く方向のとびらを開けた。ライガーは、あまり散歩に乗り気ではないのか、しばらく秋乃の顔色をうかがっていた。
「どうしたの? 体の具合でも悪い?」
ライガーは、違うと答えたのか、しっぽを振って檻を出た。
秋乃もジープに乗り、あとを追う。追うと言っても、ライガーの足取りは緩慢だった。須藤はシャッターチャンスをうかがいつつ、周囲の景色を眺めた。草原と灌木。それに支えられた青空。
「今日は、天気がいいですね……ん?」
遠くから、2頭のメスライオンが駆けて来た。
須藤が指摘すると、秋乃はけげんそうな顔をした。
「様子がおかしいね……」
「こっちに向かって来てますよ」
ライオンたちが、エリア境の石を飛び越えた瞬間、秋乃の顔色が変わった。
ジープの無線機を抜き取る。
「もしもし、こちらP3、こちらP3、ライオンの様子が変です。麻酔銃を……」
ライガーの雄叫びが、秋乃の声をかき消した。
彼もまた、2頭のメスライオンへ向かって突進した。
じゃれあうのかと思っていた――そんな須藤の前で、メスライオンたちは、ライガーの左肩に噛みついた。須藤は思わず、その瞬間を写真に撮った。
○
。
.
一台のトラックが、研究所の前庭へ駆け込んだ。あたりは騒然としていた。スタッフ総出で、運ばれて来たライガーを搬送する。数人がかりだと言うのに、埒が明かなかった。
トラックのそばにいた紗美原は、
「須藤さんも手伝ってくださいッ!」
と大声を出した。
「は、はい」
須藤はカメラをわきへ置いて、協力した。噛まれた肩からは、大量に出血している。重傷なのかもしれない。紗美原の表情は、そう告げていた。
玄関がひらかれ、手術台のある部屋へ移動した。正式な診療施設でないことは、素人の須藤にも分かった。とりあわせの器具を運び込んだ、即席の病院。紗美原は他のスタッフに指示を出しつつ、須藤にも声をかけた。
「須藤さんは、部屋の外で待機してください」
「はい」
「ひとの出入りを、なるべくチェックしておいてください」
最後の指示の意味を、須藤は汲み取れなかった。男手が必要になるかもしれない、ということなのだろうか。ひとまず部屋を出た。
廊下のソファーに腰をおろす。玄関から駆け足が聞こえた。クリスだった。
「須藤さんッ!」
静かにするように、須藤は手で合図した。
クリスはソファーのところまで来て、声を落とした。
「なにがあったんですか?」
自分の目で見たことを、須藤はクリスに伝えた。
クリスは、信じられないような顔をして、
「あのルートは、ほかの動物から見えないようになってます」
と言った。
「匂いで判断したんじゃないのか?」
「散歩の時間は、風下になるように設計されてるんです」
現にこれまで、事故は起こっていなかった。クリスは、そう付け加えた。須藤は、クリスがいつもよりそわそわしているので、不思議に思った。パークの設計ミスに繋がる可能性があって、焦っているのかもしれない。
「クリス、今はライガーの治療が先だ」
「ええ……そういえば、秋乃さんは? 彼女が責任者じゃないんですか?」
須藤は、周囲を見回した。
どこにもいなかった。
「変だな……一緒にトラックへ乗ったはずなんだが……」
「トラック?」
「現場の近くに、たまたまトラックが停まってた。それで運んだんだ。大変だった」
手当り次第に従業員を集めて、なんとか乗せた。
志賀が即席担架の作り方を知っていて、大活躍だった。
「診察室は?」
「このとびらの奥だ」
「ここは、標本用の解剖室でしょう?」
「改造してくれたみたいだ。ずいぶん手際が良かった」
クリスは、納得のいかないような顔をした。
彼の疑念がどこへ向けられているのか、須藤ははかりかねた。
「紗美原さんが治してくれるさ……きっと」
手術は2時間経っても終わらなかった。
何度も輸血用のパックが運び込まれる。
須藤とクリスは、厳粛な面持ちで、結果を待ち続けた。
「須藤さん、クリスくん」
急に声をかけられて、須藤たちは顔を上げた。
作業服姿の染崎が立っていた。
「どうなりました? 助かりましたか?」
「まだだ」
染崎は、解剖室に視線を向けた。
「まさか、ここで手術を?」
「ああ」
「これは、ダメかもしれませんね。即席の治療室なんて……」
須藤は、主治医が紗美原であることを教えた。
染崎は首をたてに3度ふって、
「そうですか……それはグッドニュースです」
と言った。そして、須藤のとなりに座った。
両手を組んで、呼吸をととのえている。
走って来たことは、一目瞭然だった。
「どうした? なにかあったのか?」
「バッドニュースです……秋乃さんが、上層部に呼ばれました」
「ん? どこがバッドなんだ?」
「上層部は、秋乃さんを疑っているんですよ」
須藤は、目を細めた。事情聴取なだけで、なにかの間違いだろう、と。
ところが染崎は、思いもよらないことを口走った。
「動機の観点からして、秋乃さんは疑われてもしょうがないんです」
「しょうがない……? 動機……? どういう意味だ?」
染崎は、しばらく口をつぐんだ。
「須藤さんは、なにも聞かされていないんですか?」
「いや……なにも……」
「秋乃さんは、あのライガーに父親を殺されているんです」
「!?」
須藤は、自分の耳を疑った。
「ライガーが……秋乃さんのお父さんを……? 嘘だろう?」
「ほんとうです。彼女は以前、九州の動物園に勤めていました。紗美原さんも、同じ職場だったはずです。3年前、そこで事故が起きたんです。ご存じありませんか?」
「俺は3年前、日本にいなかったから……」
須藤はうっかり、自分の経歴をしゃべってしまった。
だが、染崎は気にとめなかった。
「新聞にも出ていましたよ。スタッフが動物に殺されるだけでもニュースなのに、それがあのライガーですからね。秋乃さんとライガーがここへ異動したとき、ほんとうに驚いたくらいです」
ひとりでまくし立てていた染崎は、ようやくひと呼吸おいた。
須藤は、ここまでの情報を、なんとか頭のなかでまとめた。
「つまり……秋乃さんが復讐で、ライガーをライオンに襲わせたってことか?」
「上層部は、そう読んでいると思います」
須藤が先を言いかけたとき、解剖室のドアがひらいた。




