第7話 キャット・キラー
こうして、メモリーカード盗難事件は、新たな幕開けを迎えた――そう、あれは幕開けに過ぎなかった。事件の翌日、須藤はクリスといっしょに、医務室へ立ち寄った。そこで紗美原から、思いもよらない話を聞かされた。
須藤は、目を白黒させながら、
「キャット・キラー……? なんですか、それは?」
とたずねた。
椅子に腰かけた紗美原は、足を組み、ペン回しをしていた。
薬品の香りが、須藤の鼻をくすぐる。となりには、クリスも腰を下ろしていた。
「一種の……コードネームのようなものです」
「コードネーム……スパイごっこですか?」
雰囲気に呑まれかけた須藤は、思わず茶化してしまった。
紗美原は、くすりとしたものの、どこか空々しかった。
「動物虐待事件の犯人の通称です」
「通称……俺は、耳にしたことがないですね」
同席していたクリスも、知らないと言った。
「極一部の関係者しか使っていません」
「関係者?」
「キャット・キラー対策のメンバーです」
なにがなにやら、須藤は、狐につままれたような気分だった。自分を笑わせようとしているのではないかと、そう疑ったくらいだ。
「これから話すことは、絶対に口外しないでください」
須藤は、しないと即答した。
クリスは迷ったようだが、けっきょく誓った。
「動物虐待の犯人は、自然公園の関係者です」
須藤とクリスは、ちらりと視線をかわした。
おたがいに、薄々予感していたようだった。
須藤は、
「どう受け取ればいいんでしょう……確定事項ですか?」
とたずねた。
「これまでの状況証拠から、ほぼ間違いありません」
「犯人はだれかわかっている、と?」
紗美原は、首を左右にふった。
「特定はできていません」
どういうことだろうと、須藤は思った。
犯人が特定できないのなら、部外者の線も残るのではないだろうか。
ところが、クリスはその点には頓着しないで、
「そいつを僕たち3人で捕まえる、ってことですか?」
と、ノリ気を見せた。
紗美原はひとさしゆびを立てて、その通りです、と告げた。
須藤はおどろいた。
「どうして、この3人なんです? 警察のほうが確実でしょう?」
「不祥事を起こしたくないのがひとつ……もうひとつは、信頼です。私が知っている職員のなかで、確実にシロだと言えるのは、あなたとクリスくんだけです」
須藤は、その説明になぜか違和感をおぼえた。
信頼されているのはうれしかったものの、なにかが引っかかった。
一方、クリスは若者らしい反応を示した。
「了解ですッ! 僕たちで捕まえて、警察に突き出しましょうッ!」
紗美原は、須藤にも承諾を求めた。
須藤はどこか混乱していたが、
「……わかりました。協力します」
と、最後には了承した。
「ありがとうございます。では、作戦会議を……」
そのあとふたりは、作戦会議と称する一方的な指示を受けた。あるいは、指示を受けたように、須藤は感じた。そう表現するほうが、正確だろうか。須藤たちはなにも提案しなかったのだから、一方的に受けたというのは、フェアは評価ではないかもしれなかった。
彼女の作戦は、こうだ。これまでの被害動物の発見場所から、犯人の活動領域を特定することができる。キャット・キラーは、傷つけた犬や猫を、現場まで運ばないといけないからだ。園内で偶然発見した動物を傷つけているとは、考えられない。それが、彼女の推理だった。
ここから、須藤とクリスが選ばれた理由も、明らかになってくる。まず、クリスはこの自然公園の設計者だ。物陰になっている場所は、完璧に把握していた。犯行現場まで、安全に移動できるルートを割り出すことができるだろう。次に、須藤はカメラマンだ。その怪しいルートを見張って、写真を撮ることができるだろう。どちらも、合理主義者の紗美原らしい人選だった。
「だけどなあ……」
須藤は嘆息した。
彼の目のまえでは、クリスが園内図を片手に、歩き回っていた。
石造りの壁の背後で、他人から見えるかどうかをチェックしたり、木から木へ、どのくらいの間隔で移れるのか、スマホで計ったりしていた。
須藤は首からカメラをさげ、その作業を見守っていた。
「……」
紗美原は、なにかを隠していないだろうか。もっとも、それを問う勇気は、須藤にはなかった。その理由のひとつは、須藤もまた紗美原に大きな隠し事をしているからだった。その秘密について、須藤は今、触れる気が起きなかった。
いずれにせよ、紗美原がなぜ犯罪捜査をする気になったのか、それが問題だった。
動物を傷つけるひとは、赦すことができません
それが、昨日の答えだった。もっともらしい。もっともらし過ぎて、須藤は逆に不安になった。
そもそも、新島博士が取り調べをしていたとき、紗美原が現れたのは、偶然なのだろうか。とても、そうは思えなかった。助けに来てくれた、と考えるのが、一番ハッピーな解釈であり、そうであった欲しかったが――須藤は、クリスに声をかけた。
「どうだ? 突き止められそうか?」
調査を始めてから、かれこれ2時間が経過していた。
ただついて歩くだけでも、そうとうに体力を消耗した。
クリスは疲れたようすも見せず、返事をした。
「ええ、だいたい」
クリスはさらに5分ほど調べて、須藤に駆け寄った。
「たぶん、このルートだと思います」
クリスは、自然公園のマップを、木製のテーブルのうえに広げた。
たぶん、という言い方とは裏腹に、自信に満ちた表情だった。
「赤い色鉛筆のラインを見てください」
地図には、全部で9本の赤いラインが引かれていた。どれもぐにゃぐにゃしていたが、よくよく見れば、ある一定の規則があることに気づいた。
「全部、自然公園の北側へ向かってるな」
9本のラインは、角度とルートこそ違え、おおよそ北のほうで収束していた。
「はい。一点で収束してるわけじゃありませんが、方角は同じです」
「待てよ……自然公園の北側にある施設って言えば……」
クリスは、力強くうなずいた。
「研究所です」
テーブルに手をついて立ったまま、須藤はしばらく地図を見つめた。
この情報の意味を、考えあぐねていた。
「犯人は……研究員ってことか?」
「僕は、ふたつの可能性があると思います」
須藤は、詳細をたずねた。
「僕が特定したルートは、犯人が動物を現場へ運ぶときに利用したルートです。帰り道に使ったものではありません。研究所の近くで動物を虐待したのか、それとも、犯人がもともと研究所にいたのか、それはわからないんです。動物を虐待したときだけ研究所の近くを利用したのなら、犯人は普段、別のところに住んでいるんじゃないでしょうか」
「研究所の近くで動物を虐待するのは、リスクが大き過ぎないか? あのあたりには、監視カメラもあるんだぞ?」
須藤は、じぶんの姿が監視カメラに映っていたことを、おぼえていた。
けれども、クリスはその点にも配慮していた。
「外部を映すカメラは、正門と裏口にしかありません。他のカメラは、中庭と施設内を映すだけです。高い壁で囲まれていますから、研究員に気づかれる心配もありません」
須藤は、クリスの説明に納得しなかった。野逢自然公園には、もっと人目につかない場所が、いくらでもある。わざわざ建物のそばを選ぶ必要はない。実験器具の搬送でもしているのか、研究所には、トラックもやたらと出入りしていた。
「……わかった。とりあえず、そのルートを順番に調べてみないか?」
須藤は、地図の写真を撮らせてもらった。
あとで紗美原にも、画像ファイルを送っておくことに決めた。
「よし、手分けして捜そう。俺はこっちから西の5本、クリスは東の4本だ」
「了解です」
○
。
.
5本のルートのうち、須藤は4本目まで調べあげた――成果なし。
一縷の望みをたくして、最後の一本に取りかかる。あのクラゲ水槽から研究所へ続く、茂みの多い一帯だった。美味しいものは最後に食べる――ではないけれども、ここが一番あやしいので、後回しにしていた。
クラゲ水槽に向かうと、ちょうど古谷が、記録を取っているところだった。
日頃のお礼もかねて、須藤は声をかけた。
「あら、須藤くんじゃない」
古谷は眼鏡のフレームをなおして、にっこりと笑った。
初対面のときと比べて、ずいぶん印象が変わったな、と須藤は思った。あのときは、そうとう機嫌が悪かったのだろう。あとで聞いてみれば、前任者のとんずらで、ストレスが溜まっていたようだ。
「今日は、どうしたの? クラゲの観察?」
また機嫌が悪くならないように、そうだと答えておいた。2、3枚、写真を撮る。ジェリーフィッシュは、今日もくるくると元気に回っていた。綺麗だから、撮っていて悪い気はしない。
「最近、研究室のほうへ来てくれないのね。クラゲちゃんたちが寂しがってるわよ」
「ちょっと時間がないもので……頼まれごとが……」
「ま、そのうち訪ねてちょうだい。紅茶くらいはおごるから」
三角フラスコで淹れられた紅茶を思い出して、須藤は少し気分が悪くなった。
賞味期限も切れていたような気がする。
「ひとつ質問しても、いいですか?」
「なにかしら?」
「このあたりって、古谷さん以外に、だれも来ないんですか?」
質問がやや唐突だったからか、古谷は眉をひそめた。
「そうねぇ……ときどき、水質管理の業者が来るくらいかしら」
なぜそんなことをたずねるのか、と、古谷は聞き返してきた。
「キャット・キラーなら、こういう辺鄙なところを狙うかな、と思って」
「きゃっときらあ? ……なに、それ?」
しまった、と須藤は思った。
ボロが出ないうちに、退散する。
「すみません、クラゲの写真は、そのうち送りますよ」
その場を去ろうとすると、古谷に呼び止められた。
「ちょっと待って……もしかして、動物虐待事件の話?」
マズい。そう感じたと同時に、チャンスだとも思った。
「なにか、ご存知ですか?」
古谷も古谷で口を滑らせたらしく、ボールペンをくちびるに添えて、悩んでいた。
静かに時が流れる。
「……須藤くんになら、話してもいいかな。私、犯人を見た気がするの」
須藤は、あっけにとられた。
「犯人を……見た……?」
「見た、とは言ってないわ……見た気がするだけ」
「どういう意味か、説明してください」
古谷は逡巡した。まったく自信がないようだった。
ボールペンをキュッとにぎりしめて、ようやく口をひらいた。
「荷物を持って、研究所のほうから歩いてくるひとを見たの」
「荷物? カバンですか?」
「紙袋だったわ」
単なる疑心暗鬼だろう――口にこそ出さなかったものの、須藤はそう思った。
古谷も疑いのまなざしを感じたのか、すぐに言い直した。
「袋から、赤い液体がにじんでいたの」
今度は、須藤が迷う番だった。
たしかにそれは、重要な目撃情報に思われた。
紙袋から赤い液体を垂れ流すシーンなど、ふつうはお目にかかれない。
「包みを持っていたのはだれだったか、教えてもらえませんか?」
「……」
「古谷さん?」
「……」
彼女はいきなり右手を振って、須藤の懇願をさえぎった。
「ごめんなさい。やっぱりナシにして。私はなにも見てないわ」
それはないだろう、と須藤は思った。
絶対に他言しない。そう念押ししてみたが、古谷の返答は変わらなかった。
「ほんとうにごめんなさい……それじゃ、また研究室に来てね」
須藤は呼び止めようとした。しかし、思い直してやめた。
彼女のうしろ姿を見送ったあと、軽く肩をすくめ、ふたたび地図を確認した。クラゲの水槽エリアから北のほうへ、くねくねと曲がったコースが延びている。そちらの方角を見やっても、通路は見えなかった。
「……けもの道みたいなもんか」
須藤はカメラをかまえて、茂みのほうへ近づく。隙間が現れて、そこから林に入れた。ここを通れば、だれにも見つかる心配はない。須藤は意を決して、隙間から体をすべり込ませた。軽い腐葉土の感触が、靴底をおそった。
1分と進まないうちに、須藤の視界に人影が映った。
「……クリス?」
担当するコースの本数を、間違えたのだろうか。
須藤は、こっそりと声をかけた。
反応はなかった。
「おい、クリス、なんでここにいるんだ? なにか見つかって……ッ!?」
須藤は、クリスの左手を目にして、言葉に詰まった――紙袋を持っている。
「クリス……なんだ、その紙袋は? なんだか赤いが……クリス?」
クリスは振り向かない。さらに林の奥へと向かう。
須藤は駆け寄って、クリスの肩を引いた。
「おい、どうしたんだ? さっきから呼んで……」
須藤の頬を、鈍い光がかすめた。
○
。
.
医務室に駆け込んだ須藤を、紗美原はおどろきの表情でむかえた。
背中にクリスを背負っていたから、だけではない。
その腕に傷ついた小犬をかかえ、須藤自身も頬から血を流していた。
「なにがあったのですか?」
「先に治療をお願いしますッ!」
須藤は、息絶え絶えになっている小犬を手渡した。
紗美原もすぐに事態を察し、聴診器を耳につけた。
須藤はクリスを、待合室のソファーに寝かせた。左目のまわりに痣ができている。須藤が殴った痕だった。ほかに外傷がないことを確認して、脈と呼吸をみた。
「須藤さん、救命の経験はおありですか? こちらは手一杯です」
「任せてください。人間の手当には自信があります」
須藤は濡れタオルを用意して、クリスの痣を冷やしてやった。
1分と経たないうちに、クリスは目を覚ました。
「……ここは?」
クリスは、あらためて痛みをおぼえたらしい。端正な顔をゆがめた。じっとするように指示してから、コップに冷水を入れて飲ませた。ひと息ついたクリスは、それまでの出来事を思い出すように、しばらくひたいを押さえた。
「……僕、熱中症かなにかで倒れました?」
「いや……まあ、その話は、あとでしよう」
混乱しているのは、須藤も同じだった。林でクリスに襲われた須藤は、反射的に顔面を殴った。一発でノックアウトしてしまった。事務職のクリスと、山男のような須藤の体格差は、思ったよりも大きかった。果物ナイフで襲われたのだから、妥当な対処だったと信じている。
クリスは、須藤のことをキャット・キラーと勘違いして、襲いかかったのだろうか。須藤は、最初そう思った。ところが、クリスの持っていた紙袋のなかから、一匹の傷ついた小犬を見つけた。
なにがなにやらわからなくなった須藤は、紗美原の診療所に駆け込んだ。クリスを背負いつつ、小犬を安静に運ぶのは、骨が折れた。前職で鍛えた体力のおかげだった。
「紗美原さん、そっちは?」
ふりかえった須藤に、紗美原の真剣な横顔がうつった。
そのくちびるからは、一番恐れていた質問が飛び出した。
「園内で、なにを目撃されたのですか?」
「……」
しばらく押し黙ったあと、林のなかで目撃したことを、須藤は伝えた。
おどろかれるかと思ったが、紗美原は冷静な反応をみせた。
「やはり、そうでしたか」
「やはり?」
紗美原は包帯を適当な長さに切って、傷口に巻き始めた。
邪魔してはいけないと思いつつも、須藤は好奇心を抑えられなかった。
「やはりって、どういう意味ですか?」
「……静かに……だれか来ました」
ノックの音――須藤は腰を浮かせた。
「紗美原くん、クリスがここにいないかね?」
○
。
.
取調室――メモリーカード紛失事件のときに使われた、あの部屋だった。須藤の向かいがわには、新島博士のほかに、酒向研究員も同席していた。あの事件のとき、いっしょに探してくれた、口髭のある中年の男性だ。
須藤の説明を、博士はけげんそうに聞いていた。
「ようするに、クリスが果物ナイフで襲いかかって来たと、そう言うのかね?」
「はい」
新島博士の質問に、須藤ははっきりとした口調で答えた。
博士はテーブルにひじを乗せ、両手を組んだ。
「クリスは、なにも覚えていないと言っている」
「それについては、なんともお答えできません。記憶がないのか、あるいは……」
「嘘をついている、と?」
須藤は、肯定も否定もしなかった。そもそも、なにが起こったのか、わからないのだ。真相なら、須藤自身が教えて欲しいくらいだった。
「俺は、林のなかの近道を使いました。そこで、紙袋を持ったクリスを見つけたんです。声をかけたら、いきなり襲われました」
「近道というが、寮とは方向がちがう」
「クラゲの施設まで来たので、ちょっと散歩しようと思ったんです」
これはウソだった。紗美原に迷惑をかけたくなかったからだ。紗美原に頼まれて、謎の人物を追いかけていた、などと答えたら、彼女が疑われるに決まっている。須藤は、そのことを心配していた。
新島博士は嘆息し、姿勢をもどした。
「……酒向くん、きみから質問はあるかね?」
酒向は、なんとも言えない表情をして、
「所長のご判断に、お任せします」
と返した。
新島博士は、あからさまに顔をしかめた。
「クリスは私の孫だ。私は利害関係人なのだよ。判定役になれる人間ではない。聞き取りは、酒向くんが主体的にやってくれなければ困る」
酒向は両手をひろげて、
「わかっています。しかし、クリスくんはなにも覚えていませんし、須藤くんの証言に矛盾があるわけでもありません。須藤くんが林に入るところを目撃したひとがいまして、彼が紙袋を持っていなかったことは、確かなようです」
古谷だな、と、須藤は直感的に理解した。
酒向は先をつづけた。
「紗美原さんの診断によれば、小犬の傷には、アイスピックのようなもので突いた形跡があるそうです。現場に落ちていたナイフとも一致しません。疑わしきは罰せず、ということなら、クリスくんも須藤くんもシロになります」
新島博士は、深くタメ息をついた。
「わかった……須藤くん、ひとまず寮へ帰りたまえ。追って連絡する」




