第3話 環境音
7月――野逢自然公園は、夏真っ盛りをむかえた。須藤の腕前もメキメキ上達して……というわけでもなく、現実は甘くなかった。すばやく動くものは、いまだに蚊帳の外だった。
クラゲをあらかた撮り切ったところで、須藤はふたたび、園内を散策した。閉園時間の4時半を過ぎていて、園内には職員と動物たちの姿しかなかった。まだあたりは明るいというのに、閑散としている。大きな掘のむこうに、サバンナのエリアがみえた。背の高い黄金色の草たちと、孤独に生える樹木。須藤は、アフリカへ迷い込んでしまったかのような、錯覚におちいりかけた。
「いかがですか、僕の設計した動物園は?」
ドレッドヘアーの黒人青年が、無邪気な笑顔をこちらに向けた。彼の名前は、新島クリス。日米のミックスで、アメリカの大学を卒業したあと、この自然公園の職員に抜擢された若手だった。飼育係の志賀よりも古参の、初期スタッフということだった。それもそのはずだ。デザイナーがいないと、施設は作れない。もっとも、クリスひとりが設計したわけではなく、園に残った設計士がクリスだけという話だった。
「まるで、サファリパークにいるみたいだ」
須藤はファインダー越しに、あたりを一望した。ライオンたちの群れが、風に向かって歩いている。距離として、50メートルほど。檻もなければ、柵もなかった。数歩先に、深い堀が横たわっているだけだ。
「これは、近年とりわけ注目されている手法なんです。動物園と言えば、檻と柵をイメージしますよね。でも、こうやって堀を使えば、檻はいらなくなるわけです。もちろん、それなりの敷地が必要になりますけど」
「広いわりに、見晴らしがいい。平地でも、こうはならないと思うが」
須藤は前職の経験から、そう考えた。
すると新島は、くったくのない笑みを浮かべた。
「さすがは須藤さん、カメラマンだけのことはありますね。この飼育エリアは、あの中央灯台にむけて、わずかな傾斜があるんです」
須藤は、自然公園の中央にある、小高い丘を見上げた。なるほど、飼育エリア全体が、そこへ向けてじょじょにせり上がっているようにみえた。これなら平地とちがい、遮蔽物はほとんど消え失せるのだろう。
「これも、クリスくんたちが設計したのか?」
「はい。日本では土地の制約があるので、ちょっと苦労しました」
これが才能というやつか、と須藤は賛嘆した。年齢は、クリスのほうが下だった。まだ25らしい。とはいえ、弟気質のかたまりみたいな少年で、可愛げがあった。
「このへんの植え込みも、なにか工夫があるのか? 例えば……ん?」
須藤は、地面に付着した、赤い斑点に気づいた。
○
。
.
「須藤さん、またお世話になりましたね」
白衣の女性――紗美原は、猫に消毒液を塗りながら、そうつぶやいた。
須藤はなんと答えようか、迷った。そして、視線をそらした。診察台のうえに、虎猫が横たわっていた。太ももから血が流れている。クリスと一緒に見つけたもので、茂みの奥に倒れていた。あのときとおなじように。
「また、ひっかき傷ですか?」
「いいえ……噛まれたような痕があります」
「動物の噛み傷ですか? それとも……?」
紗美原は、なにも答えなかった。蛍光灯のあかりが、彼女の黒髪を照らした。
室内は静まり返った。須藤は息苦しさを感じた。
「もし人間のしわざだったら、俺に言ってください。犯人を捕まえてみせますよ」
なぜそんなことを口走ったのか、須藤自身にもわからなかった。猫を手当てする紗美原のまなざしが、憐れみに満ちていたからだろうか。それとも、うまくいっていないカメラマンの仕事から、逃げたかったのか。
「須藤さん、そろそろ夕食のお時間では?」
「あ……そうでした。もう6時を過ぎてますね。お先に失礼します」
獣医室を出たとき、あたりは群青に染まり始めていた。これからすっかり暗くなってしまうのだろう。北海道のA川動物園では、夜間営業が人気を博しているらしい。昼間のだらけた雰囲気は、消え去っている。目を爛々とさせた肉食獣たちに、須藤は恐怖を覚えた。
「うわッ!?」
暗闇のなかで、なにかが動いた。歩道のうえを。
動物が逃げ出したのかと思い、須藤は飛びのいた。
すると、まばゆい光が、須藤の視界をさえぎった。
「あれ……須藤さんじゃないですか」
その声に、須藤は聞き覚えがあった。
「クリス……なにやってるんだ、こんな時間に?」
クリスは、ツバ付き帽子に、ラフな私服をまとっていた。手には懐中電灯。
「須藤さんこそ、どうしたんですか?」
「夜の動物園ってやつを、堪能しようと思ってな」
須藤は、とっさにウソをついた。そして、クリスの用件をたずねた。
クリスは、だれにも言わないでくださいよ、と断ってから、
「最近このあたりに、野犬が出るらしいんです」
とささやいた。
「野犬? ……ほんとうか?」
言葉とはうらはらに、すんなりと受け入れられた。
猫の噛み傷を見たあとだったからだ。
しかし、なぜデザイナーのクリスが、野犬の見回りをしているのだろうか。
須藤は、そのことをいぶかしがった。
「そういうのは、警備員に任せておけば、いいんじゃないか?」
「それがですね、じつは……」
須藤とクリスは、手近なベンチに座った。夜空に、星が出始めていた。
クリスは、自分が置かれている状況を、すこしあせり気味に語った。
「最近、猫なんかの傷ついた動物が、園内で見つかっているんです」
「ああ、先月の……」
「須藤さんも、ご存知でしたか?」
「俺も一匹見つけて……」
そこまで言って、須藤は、クリスの言い回しが妙なことに気づいた。
「『猫なんかの』って、どういう意味だ? それ以外にもいるのか?」
「去年の1月頃から、2、3週間に1回のペースで見つかっています」
須藤は、ショックを受けた。紗美原は、そんなことをおくびにも出さなかった。格下の非常勤だから、関係ないと思われているのだろうか。すこし、しょげてしまった。
「犯人は捕まってないのか?」
「そこが問題なんです……このままだと、僕の責任になりかねなくて……」
詳しくたずねてみると、須藤とクリスとのあいだで、犯人像にすれ違いがあった。クリスは、野良犬や野良猫が動物園に忍び込んで、おたがいにケンカをしているのだと、そう疑っているらしかった。あの傷が人為的なものであることを、紗美原は、ほかのスタッフに話していないのかもしれなかった。
「どうして、クリスの責任になるんだ? 警備の問題だろ?」
「動物園を作るとき、犬や猫が入らないように設計するのは、当然のことです。小動物を殺してしまうかもしれません。だから、念入りに穴をふさいでおきました」
「ところが、こうも不祥事が続くと、設計ミスを疑われてしまう……ってことか」
クリスは肩を落として、タメ息をついた。
「チームの図面を、3回見直しました。ミスはありません」
なぜクリスが、懐中電灯を持ってうろついているのか。その答えを、須藤は察した。
「建築会社をあやしんでるのか? 設計図どおりに作らなかった、と?」
クリスは、やや言いにくそうなようすで、首を縦にふった。
「だったら、うえと掛け合ったほうが早い。ひとりじゃムリだ」
「ムチャ言わないでください。手抜き工事なら、国とゼネコンの問題です。おいそれと言い出せませんよ。調査費用だけでも、そうとうかかります」
須藤は納得した。若いのによく考えている、とも思った。訴訟社会のアメリカ出身で、そのあたりには気が利くということなのだろうか。
「よし、わかった。俺も手伝うぞ。なにをすればいい?」
クリスは、野良犬や野良猫の目撃情報がないか、いろいろと調べてまわったらしい。すると、この砂漠館のところで、犬の鳴き声を聞いた、という証言があった。証言のでどころをたずねてみると、志賀だった。
「志賀さんも又聞きだったようですが、あのひとなら信頼できます……まあ、飼育係のわりに知識不足な感じもしますが、誠実なひとですよ」
「それで、この砂漠館のなかなのか?」
砂漠館というのは、特殊なビニール壁でできた施設だった。体育館くらいの温室、とでも表現できそうな場所。アフリカのサハラ砂漠を模したエリアだと、クリスは説明した。壁が透明だから、昼間は中をのぞくこともできた。
須藤は首を曲げて、真っ暗な建物のなかへ、視線を走らせた。
「懐中電灯で、照らしてみたらどうだ?」
「動物には、灯りを向けないほうがいいです」
たしかに、クリスの言うとおりだった。須藤も、この自然公園では、フラッシュを焚かないように注意されていた。これもまた、彼が苦労していることのひとつだった。
「だけど、このなかに野良犬がいるなんて、信じられないな」
「だからこそ、問題なんです。建物に穴があるのかもしれません」
そうなれば一大事だ。自然公園の外壁だけでなく、施設それ自体も手抜き工事ということになるのだから。どうするか話し合った結果、犬の鳴き声がしないかどうか、しばらく見張ることになった。クリスは懐中電灯をぶらぶらさせ、目の前の茂みを照らした。
須藤はベンチに座ったまま、耳を澄ませた……ギャーギャーという、ムクドリの声。それが止むと、今度はチュチュチュという短い歌が聞こえた。さらに、ヒューヒューという、のどかな声がひびいた。どれも1、2匹しかいないようだ。
だんだんとヒマになって、あくびをしかけたとき、それはたしかに聞こえた。
ワンワン ワンワン
「クリス、今のは……」
「シーッ」
クリスはくちびるに指を当てて、ビニール壁に耳をそばだてた。
須藤もそれにならった。
ワンワン ワンワン
「中にいるぞ」
「飼育係を呼んで来ます。須藤さんは、ここにいてください」
クリスは懐中電灯を手にして、そのまま寮へと走り去った。
こうしているあいだにも、襲われてしまうのではないか。
須藤は、気が気でなくなった。
ところが、須藤の不安とはうらはらに、鳴き声は聞こえなくなった。
やきもきしていると、遠くでふたつの光が揺れた。
「須藤さん、お待たせしましたッ!」
クリスは、飼育係の男性をつれて、もどって来た。
ぼさっとした感じの、垂れ目の男だった。
名札には【染崎】と書かれていた。二十代後半だろうか。
「野良犬なんか、いるわけないでしょう。まったく……」
そう言って染崎は、建物の鍵を開けた――そのあとの出来事は、ずいぶんと拍子抜けするものだった。砂漠館に、犬の姿はなかった。染崎は、鍵を閉めるときに、不満たらたらだった。
「野犬が迷い込んでたら、俺の管理責任になるんですよ。そういうデマを広めるのは、やめてください」
染崎はぷりぷりしながら、寮へ帰って行った。
翌日、須藤は午前中に、砂漠館へむかった。職員ではなく、入園者のフリをして。建物に入ると、昨晩の印象よりも殺風景な場所だった。いくらサハラ砂漠でも、もうすこし工夫の仕方があるのではないか、と思った。ほかのエリアと比べても貧相だった。
とはいえ、動植物には変わったものが多く、新鮮だった。特に須藤が気に入ったのは、サボテンだった。花が咲いているものもあった。ところが、解説を読んでみると、サハラ砂漠にサボテンはありません、と書かれていた。須藤はあっけにとられた。どうやら、内装のみすぼらしさをごまかすための、苦肉の策のようだった。
「パパ、動物さんいないね」
となりで肩車をしてもらっていた女の子が、さみしそうに言った。
「砂漠だからね。でも、あそこに鳥がいるだろう」
父親はそう言って、枯れ木の一角をゆびさした。
赤い目をした黒い鳥が、枝に止まっていた。ヒューヒューという、金属を摺り合わせたような声だ。昨日の夜、耳にした覚えがあった。
そのとたん、須藤はふと、妙なことに気づいた。
ほかに鳥がいないのだ。
あたりを見回してみると、おなじ種類の鳥が、もう1匹いるだけだった。
そして、建物の中央に、スピーカー付きの時計塔がみえた。
耳を澄ませると、そこからかすかに、風の音が聞こえていた。須藤は腕組みをして、しばらく考えた。砂漠館を出ると、志賀をつかまえて、あのスピーカーはどこにつながっているのか、とたずねた。
「さあ、俺の持ち場じゃないが……全部、放送室だと思うぞ」
「放送室は、どこに?」
志賀は、建物の場所を教えてもらった。須藤は、その施設へ足を運んだ。
寮とは反対方向で、ほとんど目立たないようなところに、ぽつんと置かれていた。ドアをノックすると、意外な人物の声が返ってきた――クリスだった。ドアを開けると、クリスが先に入室していた。
クリスの第一声は、
「あ、須藤さんも、ですか」
だった。
「クリス、なんでここに……ん? 『も』ってなんだ?」
「鳴き声のトリックですよ。須藤さんも気づいたんでしょう?」
須藤は、おどろくと同時に、クリスならやりかねないとも思った。須藤とおなじように砂漠館をおとずれて、スピーカーの存在に気づいたのだろう。
「なにか見つかったか?」
須藤の言葉足らずな質問に、クリスはうなずき返した。
「これを見てください」
クリスは、テーブルのうえをゆびさした、大判の紙に、細かい文字が書かれていた。須藤は土足からスリッパに履き替えて、部屋に上がった。見ると、【風1】【フェネック7】など、自然と関係ありそうな単語が、数字と組み合わされていた。それが環境音の番号であることに、須藤もすぐ気づいた。そのそばには、再生機のタッチパネルが置いてあった。砂漠館の項目に、【風1】と表記されていた。
「犬もあったのか?」
「犬はありませんでしたが……まあ、聞いてください」
クリスは、タッチパネルを操作した。
室内に音声が流れるように切り替えた。
そして、番号を18に合わせた。
ワンワン ワンワン
須藤はハッとなった。あの夜の鳴き声と、一緒だったからだ。
「やっぱり犬か?」
「いいえ、ミーアキャットです」
「ミーアキャット……? 猫?」
「サハラ砂漠に住むマングースの仲間です。染崎さんは、犬の音声がなかったから、ミーアキャットでごまかしたんですよ。砂漠専門ですからね、あのひとは」
クリスも動物に関する知識を多少持っていたので、ミーアキャットが独特の鳴き声をしていることを、知っていたらしい。
「しかも、これを見てください」
クリスは、タッチパネルをゆびさした。
そのゆびさき、【18】という番号に、かすかな汚れがみえた。
「土ですよ。最近だれかが押したことは、まちがいありません」
須藤が感心していると、うしろでドアのひらく音がした――染崎だった。
染崎は俺たちに気づいて、眉をひそめた。
「あなたたち、なにしてるんですか?」
須藤が弁明するよりも早く、クリスは吠えてかかった。
「染崎さん、あなたが犯人だったんですね」
「犯人? ……なんのこと?」
クリスは、鳴き声のトリックを暴露した。
染崎は動揺するかと思いきや、落ち着き払っていた。
「へぇ……で、それが、どうかしたの? 俺がやったっていう証拠は?」
「ミーアキャットを選んだことが証拠です」
「あのさ、ここは国立の自然公園だよ? 専門家が何人いると思ってるの? ミーアキャットはかわいいから、テレビでも、よくとりあげられてるよ。関係者なら、当然に知ってると考えられないかな?」
「状況証拠的に、あなたが一番あやしいでしょう」
「クリスくんだって、そのタッチパネルの使い方を、知ってたんだろう? しかも、ミーアキャットの鳴き声が、犬に似ていることも知っていた」
「!」
そこはどうとでも反論できるだろう、と須藤は思った。
だが、クリスはこういう言い合いに慣れていないのか、黙ってしまった。
「犯人候補は、絞れないと思うけど……ねぇ、須藤さん」
須藤は、言葉に詰まった。
クリスは、しびれを切らしたのか、染崎をゆびさして、
「あなたが犯人だと、絶対に暴いてみせますからねッ!」
と叫び、放送室を飛び出した。
染崎はその背中を見送って、肩をすくめた。
「エリートは、頭に血が昇るのも早いんですかね」
染崎は、あきれたように帽子を脱いで、ミーアキャットの声を止めた。
「おっと、お見苦しいところを……俺と新島のケンカが、そんなにめずしかったですか? シャッターチャンスとか?」
カメラは持っていない、と須藤は答えた。
「仕事道具を、お持ちじゃない、と……まさか、ほんとに探偵ごっこだったんですか?」
これには、須藤も苦笑せざるをえなかった。ここまで染崎があからさまなら、突っ込んだ質問をしても、いいような気がしてきた。
「ずいぶん、険悪なんだな」
「もちろんです」
肩透かしのような回答。
あなたも知っているだろうと、染崎は、そんな素振りを見せた。
「俺は雇われたばかりで、なにも知らないぞ」
「隠すようなことじゃありませんよ、俺と新島の仲はね」
染崎は、環境音を【風1】にもどしながら、ふたりの確執について語った。
それは、自然公園設立のときにまで、遡るらしい。敷地の選定を受けた県は、クリスを含めた設計チームを招聘した。著名な賞を獲得した人物もいて、公園のネームバリューにも繋がるメンバーだった。クリスも張り切った。
ところがここで、ひとつの問題が浮上した。資金が足りなくなったのだ。自然公園にかけるはずの予算が、国の都合で減らされてしまったらしい。そこで、どこを減らすかという話になり──
「選ばれたのが、砂漠館、というわけか?」
「そうです」
染崎は、放送室の椅子へ、乱暴に腰をおろした。
「なるほどな、どうりでしょぼ……」
須藤は、あわてて口をつぐんだ。染崎は、小馬鹿にしたように目を細めて、
「けっこうです。来園者アンケでも下位なのは、事実ですから。だけど、どうにもならないでしょう。搬入された動植物は、計画の3分の1なんですよ。ミーアキャットも落選。俺がクビにならなかったことだけは、不幸中の幸いですかね」
と、自暴自棄なようすだった。だが、急にマジメな顔になって、
「でも、誓って言いますがね、こんな小細工、俺はしていません」
と犯行を否定した。
「犬の声なら、俺も耳にしたぞ」
染崎は椅子を回して、ニヤリと笑った。
「俺にはアリバイがあるんですよ」