第2話 ジェリーフィッシュ
翌朝、遅めに寮を出た須藤は、海洋研究室へと向かった。深緑に変わった木々の葉が、太陽に輝いていた。
水槽のエリアにつくと、少しばかり気温が下がった。水のなかをのぞきこむ。金色のクラゲが、くるくるとただよっているだけだった。そのふちに腰を下ろしていると、しばらくして背後に影がさした。
「あら、今日は来たのね」
ふりむくと、古谷と目があった。
挨拶もおざなりに、彼女はメモを取り始めた。
「それで、なにかわかった?」
「はい」
須藤の返事に、古谷は眉をもちあげた。
「あら、期限ぎりぎりでクリア、ってわけ?」
須藤は立ちあがって、ひとつひとつ説明を始めた。
「まず、俺が根本的にまちがっていた、ということを認めます。エサを当てろ、と言われて、エサやりの現場を押さえようとしたのは、素人もいいところでした」
古谷は、ふぅとタメ息をついた。
「よろしい。道筋立てて考えることが、どうやらできたみたいね」
「はい……図鑑で調べればよかったんです」
須藤はそう答えながら、すこしばかり恥ずかしくなった。
ほんとうに簡単なことだったのだ。
「で、見つかった?」
「ゴールデン・ジェリー・フィッシュ。それがこのクラゲの名前です」
志賀の発言も、ヒントになった。
名前の一部がわかっていたおかげで、索引に目星をつけることができた。
写真のひとつが、この金色のふさふさしたクラゲと一致して、すべてが解決した。
「すると、答えは?」
須藤は空をゆびさした。
「太陽です」
「でも、このクラゲは植物じゃないわよね?」
「正確には、このクラゲの体内にいる藻のエサが、太陽です。金色なのは、このクラゲの色素じゃなくて、藻の色なんですよね。藻が光合成をして、栄養をクラゲと共有しているんです」
古谷は、なぜかホッとしたような顔を浮かべた。
「私はね、人間じゃなくて、動物を追って欲しかったのよ。それなのに須藤くんったら、私の観察ばかりしてるんだもの」
「す、すみません」
何度も謝るハメになってしまったが、仕方がない。
須藤は、もういちど水中を観察した。
こどもの頃、知らない生き物を見たら、図鑑で調べていたはずだ。もちろん、今はインターネットでもできる。いずれにせよ、このクラゲのことを知ろうとせず、出題者の古谷や、他の飼育員に注目していたのは、見当ちがいだった。
そこまで考えたところで、もうひとり、意外な人物が現れた。紗美原だった。紗美原は道に迷ったのか、茂みからひょっこりと顔を出した。白衣のポケットに手を突っ込んで、こちらに向かってくる。
「古谷先輩、こんにちは」
古谷は彼女の登場に、意表を突かれたようだった。
あからさまにおどろいていた。
「こんにちは、紗美原さん……なにか、用?」
紗美原は水槽をいちべつして、
「あいかわらず、キレイなクラゲですね」
とつぶやいた。
古谷は、自慢げにうなずいた。
「もちろん、お手入れは完璧だから」
須藤は、紗美原が現れたことについて、いささか困惑していた。
ヒントをもらったといううしろめたさもあったが、紗美原は告げ口をしに来たようではなかった。
だとすれば、ふだんからこういう付き合いなのだろうか、とも思った。
須藤は気をとりなおして、クラゲの撮影を申し込んだ。
すると、古谷はとたんに動揺して、
「来週……いえ、来月まで待ってくれない?」
と言い出した。
須藤は眉をひそめた。
紗美原は、くすくすと笑い始めた。
「な、なにがおかしいのよ?」
「古谷先輩は、研究室のかたづけがまだで、お客さんを入れたくなかっただけでは?」
「!」
古谷は顔を赤くして、記録用紙を抱きしめると、その場を走り去った。
呆然とする須藤に、紗美原はこうつけくわえた。
「かわいがっている動物がモデルになって、イヤなわけがないです。須藤さんはもうすこし、人間も観察する必要がありそうですね」
翌日から、須藤はさっそく準備にとりかかった。海洋研究室でのクラゲの撮影、ではなく、あとかたづけのことだ。書類の山、器具の山、本の山を整理して、棚や段ボール箱に詰めていく。すべて、前任者が残していった荷物らしかった。
アクアラックやテーブルのうえには、所狭しと水槽が置かれていた。いろとりどりのクラゲたち。ゴミ捨て場にまぎれこんだ宝石のようだ。
「最初から言ってくれれば、よろこんで手伝ったんですけどね」
「私が散らかしたみたいで、気が引けたのよ」
ひとりで切り盛りしていると聞いたとき、手伝いを申し出ればよかったな、と、須藤は思った。そうすれば、クイズに答える必要など、なかったかもしれない。
もっとも、今回はプラスの経験だったと、須藤は思っていた。
ようやく床がキレイになったところで、紗美原の訪問があった。真っ白なケーキ箱をたずさえていた。
「おつかれさまです。おやつにしませんか」
須藤も古谷も賛成した。古谷が紅茶を淹れているあいだ、須藤は研究室の水槽を、ひとつひとつのぞいていった。窓からさしこむ光に、さまざまなクラゲが輝いてみえた。透明な体に、四葉のクローバーのような模様がうかんでいる。
「これは、なんていうクラゲですか?」
「アウレリア・アウリタ。別名、ヨツメクラゲよ。日本では一番有名な種類ね」
「こっちの、ビニールシートみたいなのは?」
「ケストゥム・ウェネリス。オビクラゲ」
古谷は、須藤の質問に、学名付きで答えてくれた。そのときの彼女の表情から、ほんとうにクラゲが好きなんだな、とわかった。
紅茶が沸いて、須藤たちは研究テーブルに腰をおろした。会話は自然と、クラゲのことに集中した。
須藤は、
「あのゴールデン・ジュエリー・フィッシュも、日本の海にいるんですか?」
とたずねた。
「いいえ、あれは絶滅が心配されて、この施設に運び込まれたの」
この返事に、須藤はおどろいてしまった。
「そんなもの輸入して、大丈夫なんですか?」
「あなた、ここの自然公園がどういう場所か、知らないの?」
須藤は正直に、知らないと答えた。
古谷は、開いた口がふさがらないようだった。
そこへ、紗美原が助け舟を出してくれた。
「この自然公園は、絶滅危惧種の遺伝子を保存して、繁殖させる役割もあるんです。野逢という名前は、動物たちを大洪水から助けた『ノアの方舟』に由来しています」
そのあと、紗美原と古谷は、いろいろなことを教えてくれた。
おやつも終わって、こんどは空き水槽の掃除にとりかかった。
屋内のシンクで洗おうとしたら、洗剤が使えないからダメだ、と言われた。
しかたがないので、外にあるコンクリ製の洗い場まで持って行った。
これは明日も来る必要があるな、と、須藤は肩をすくめた。
背中に日射しを感じる。汗が出てきた。
「俺は光合成ができないんだよなあ……」
そうひとりごちたところへ、ふと影がさした。
見上げると、紗美原が日傘を持って立っていた。
「あ、だいじょうぶですよ。日焼けには慣れてるんで」
水槽についた藻を、ブラシでこそぎ落とす。
その作業に、須藤はどことなく違和感をおぼえた。
「この藻だって、生きてるわけですよね……」
「ええ……そうですね」
「そういえば、俺が持ち込んだ猫も、絶滅危惧種だったりしますか?」
日傘をかざしたまま、紗美原は、
「あれは、どこからか迷い込んだ野良猫です」
と答えた。
「じゃあ、もう1匹どこかにいるかもしれませんね。ケンカの相手が」
紗美原の顔が、うっすらとくもった。
「私の診察が正しければ……あの傷は、人間がつけたものだと思います」