第12話 さようなら、お父さん
紗美原は階段を使い、3階へと上がった。
絨毯敷きの廊下を進む。この先に、キャット・キラーがいるのだろうか。
須藤は、ある種の不安にかられながら、彼女のあとをついて行った。
木製のとびらに突き当たる。紗美原は深呼吸して、ノックした。
コンコンコン
「だれだね?」
「獣医の紗美原恵です」
「……入りたまえ」
ドアノブが回る――例の病室が、目の前に現れた。
紗美原武は、ベッドのうえに横たわっていた。具合が悪そうだった。
「失礼致します」
須藤と紗美原は敷居をまたぎ、ドアを閉めた。
雨の音が聞こえる。カーテンは、開け放されていた。
雨だれの向こうに、深緑の木々が見えた。
「なんの用だね?」
「さきほど酒向さんが、お亡くなりになられました」
「……そうか」
原因について、紗美原は説明を加えなかった。
須藤のなかで、最悪のシナリオが浮上する――園長がキャット・キラーだったのか?
紗美原の父親が、殺人犯だと言うのか?
雨の音が聞こえる。いつまでも、静かに。
「報告は、それだけかね?」
「園長……キャット・キラーは、もう二度と現れません」
背中を鞭で打たれたような衝撃が、須藤を襲った。
これまでバラバラになっていたパズルが、すべて繋がった。
いや、すべてではない。まだいくつか――肝心なところが――
そして、その肝心なピースを、紗美原親子は共有しているようにみえた。
「すみません……俺にもわかるように、話してもらえませんか?」
出過ぎたマネだとは感じた。
園長の冷たい視線が突き刺さる。
「恵くん、その青年に、退室してもらえないかね?」
「いえ、それは認められません……大切な証拠ですから」
証拠扱いされて、須藤は困惑した。
「俺が証拠? どういう意味です?」
紗美原はポケットに手を突っ込んだまま、須藤へ向きなおった。
「須藤さん、すべては、あなたが採用されたときから始まっていたのです」
わけがわからなかった。
須藤は、順番に説明してくれるように頼んだ。
「野逢自然公園は、産業スパイに目をつけられました。スパイはキャット・キラーとなって、遺伝子改良ペットの情報収集と、スキャンダルの捏造にいそしんでいたのです。そのことに気づいた園長……紗美原武は、外部に漏れないかたちで、対応を考えました」
紗美原武は、天井を見上げたまま、じっと耳を傾けている。
須藤は、次の言葉を待った。
「園長の考えたプラン……それは、スケープゴートを用意する、というものでした」
スケープゴート──
「それが、俺だって言うんですか?」
「はい。園長は、なるべくこの業界と無関係で、日本のマスコミとも縁のなさそうな、フリーのカメラマンを雇うことに決めました。そのとき応募して来たのが、須藤さん、あなたです。動物カメラマンでもないあなたが、この自然公園に就職できたのは、『業界関係者ではない』という、採用フィルターがかかっていたからなのです」
須藤は、ショックを受けた。必要とされた採用ではなかったからだ。
同時に、これまでもやもやしていたものが、すべて氷解した。
「俺自身、採用には驚いていました……でも、どうやってスケープゴートに?」
「あなたがキャット・キラーとしてクビになる機会は、何度もありましたよ」
そうだ、忘れていた、と須藤は反省した。紗美原に助けてもらった身だ。
メモリーカード紛失事件のときも、助け舟がなければ、解雇されていた。しかも、須藤がクビになったところで、マスコミは自然公園を非難しないだろう。むしろ、元戦場カメラマンの犯行などと、面白おかしく書き立てられ、同情が集まるはずだった。
「でも、待ってください。園長は今日の会議で、俺をかばってくれました」
「あれは、キャット・キラーをおびき出すための罠です」
「罠……?」
「須藤さんのタグの話も、すべて利用されたのです。あいてを焦らせるために」
紗美原は、園長に――父親に向きなおった。
「キャット・キラー……酒向功男の死を誘発したのは、あなたです、園長」
その告発に、須藤は言葉を失った。
紗美原は、淡々と先を続けた。
「園長、あなたは須藤さんの話を、すぐにウソだと見抜きましたね。そして、キャット・キラーが内心焦っているところへ、じぶんの身の上話をしました。デンドロバテス……ヤドクガエルの学名を口にし、それがあたかも無毒であるかのように仄めかしたのです」
俺は思わず、
「無毒? 酒向さんが、そんな間違いをしますか? 研究員ですよ?」
とわりこんでしまった。
「研究員だからこそ、間違えたのです。ヤドクガエルは、体内で毒物を生産しているのではありません。有毒の昆虫を食べて、それを再利用しているのです。ですから、一般的なエサで飼育された個体は、毒を持ちません。園長はさらに、ペット用だと付け加えて、無毒性を強調しました」
「酒向さんは、罠にかかってヤドクガエルを持ち出そうとし……毒殺された?」
「毒殺、というのは、適切ではないと思います。ヤドクガエルを素手で触ったのは、あくまでも酒向さんです。刑事責任は問いにくいでしょう。それに……」
紗美原は、父親を見つめた。
怒りではなく、憐れみに満ちたまなざしだった。
「あなたは、もう先が長くありません……この自然公園の暗部を背負って、辞職するつもりだった……そうですね、お父さん?」
雨の音が静かになる。
紗美原は、すべての推理を終えて、犯人の言葉を待っていた。
そしてその言葉は、ゆっくりとつむがれ始めた。
「お父さんと呼ばれるのは、何年ぶりのことだろうな……恵」
娘として名前を呼ばれた紗美原は、表情を変えなかった。
ただ、父親の横顔を見ていた。
「私は、若い頃、毒物を専門にしてきた……用途は多様だった……私の論文が、生物兵器の開発に利用されたこともあった……私は、いつしか研究を止め、経営に専念した……」
一陣の風が、窓を叩いた。
「逃げだったのかもしれない……だが、逃げた先もまた、みにくい権力争いだった……私はすべてを割り切り、野生動物保護のプロジェクトを立ち上げた……蹴落としたライバルは、十指を下らんと思う……そして出来上がった楽園が、この野逢自然公園だ……」
紗美原武は、目を閉じた。
「恵……次に来る園長は、農林水産省からの天下りだ……なにも期待するな……自然が競争の場であるように、自然公園もまた競争の場……敗者にはなにも残らん……」
「お父さん、私は……」
紗美原武は、フッと笑った。
「ここへ無理に就職させて、悪かったと思っている……もう10年は大丈夫だと思っていたのだが……おまえが招聘をことわったとき、素直に聞いていればよかった……」
「……それは、私が弱かったからです」
秋乃さんの父親の死を忘れたかった。紗美原は、そうつぶやいた。
「ほかに、報告はあるかね?」
「……いいえ」
ぐったりとした腕が伸びて、退室をうながした。
須藤たちは、ドアを開ける。静かに廊下へ出た。
閉じかけた隙間の向こうから、声が聞こえた。
「恵、好きなところへ行きなさい……檻のなかを出て、羽ばたきなさい……」
研究所を出たとき、雨はやんでいた。西の空から、光の柱が降りそそぐ。
須藤は紗美原の背中を追いつつ、水たまりのあいだを縫った。彼女の足取りは、診療所ではなく、あの動物たちの慰霊碑へと向かっていた。
ふと、黄金色に輝く池を通りかかったとき、紗美原はふりかえった。
涙があふれていた。
「須藤さん、あなたには、謝らないといけないことがあります」
「……」
「私は、ずっとまえから、須藤さんがスケープゴートであることに気づいていました……父の計画は、阻止できたかもしれません……私さえ、我を張らなければ……」
「……紗美原さん、もういいんです。もう事件は終わったんですよ」
紗美原は、最後の声をふりしぼり、一礼した。
「須藤さん、私は今日づけで退職します……今まで、ありがとうございました」




