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獣医師 紗美原めぐみの事件簿  作者: 稲葉孝太郎
第1章 黄金の海月
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第1話 新任カメラマン 須藤彰

 シャッターを押す──ユキヒョウが、背中をむけて走り去っていく。

 岩場を飛び越え、その斑点が見えなくなるまで、ものの数秒とはかからなかった。

 ファインダーから顔をあげた男は、タメ息をついた。背は高く、屈強そうな体躯で、口のまわりには立派なひげが生えていた。まるでハンターのようだ。けれども彼は、あたりの風景に似合わない、不器用な動きをみせていた。

 ここは国立野逢のあ自然公園――男の名は、須藤すどうあきら。任期付きの専属カメラマンだった。応募が100倍をこえていたと知ったのは、彼が採用通知を受け取って、3日後のことだった。心配になって、人事に問い合わせてみたほどだ。採用されたのだと確信したのは、職員証をうけとり、備品のカメラについてたずねられたときだった。

「カメラなら、愛用のこいつがあります」

 須藤は、そう答えた。転職前もカメラマンだったから、それほどむずかしくもないだろうと、タカをくくっていた。現実はそうそう、うまくいくはずもなく――ちょうど今も、被写体にまんまと逃げられてしまった。シャッターチャンスをのがしたうえに、須藤の1時間もムダになった。

 もういちどファインダーをのぞいてみたが、荒涼とした岩場が広がるばかりだった。5月の初夏の風も、どこかよそよそしかった。

「ヘタだねぇ」

 背後から声が聞こえた。

 須藤はファインダーから顔をあげた。ふりかえると、飼育員の志賀しがが立っていた。50代とは思えない、よく日焼けした精悍な顔立ちの男性職員だった。

「あんた、ほんとにカメラマンなのかい?」

 須藤は、タメ息まじりに立ち上がった。膝の土をはらう。

「ええ、カメラマンですよ」

「それにしては、へっぴり腰だな」

「動くものには、慣れてないんです」

 須藤の返事は、相手に意外の感をあたえたようだ。

 これまでなにを撮ってきたのかと、けげんそうにたずねてきた。

「人間ですよ」

「ははあ、モデルさんか」

 動物とモデルはちがう――志賀は、その点を強調した。

「ファッションモデルなら、あんたの言うとおりにポーズをとってくれる。けどな、ここで相手にしなきゃいけないのは、動物なんだ。あんたの指示なんて、聞いちゃくれない」

 よくここのカメラマンに合格したな、と、志賀は首をかしげていた。首をかしげたいのは、須藤のほうだった。無職のとき、エントリーシートをあちこちに出しただけで、ここに入りたいと考えていたわけではなかった。ダメもとだった。それが百倍の網目を通過してしまったものだから、須藤はむしろ困惑しているほどだった。

「そんなんじゃ、試用期間が終わったあと、首になっちまうぞ」

「まあ……人間も動物ということで、がんばります」

 入園したばかりの須藤は、いわゆる【任期付き】という身分だった。半年のお試し期間を終えたあと、継続の可否が決まる。正直なところ、今の状態では見込みがない。それが率直な感想だった。もうダメかな、とあきらめて、最近は求人誌に目を通していた。

「首にならないうちに、せいぜい食べとけよ」

 志賀は、昼食に誘ってくれた。言葉はぶっきらぼうだが、悪いひとではなかった。

 少なくとも、それが須藤視点の評価だった。

 展示エリアを抜けて、食堂のほうへ歩いていると、白衣の女性が反対から歩いてきた。ポニーテールに、ふちの厚い眼鏡――海洋研究室の副主任、古谷ふるや理沙りさだった。正確な年齢は知らなかったが、アラサーで、とっつきにくい性格らしく、研究施設をひとりで切り盛りしているらしかった。主任が海外へ引き抜かれてしまい、スタッフは彼女だけといううわさだった。

 須藤たちは古谷に挨拶して、そのままスレちがった。

 歩きながら注文を考えていると、志賀が須藤の肩をたたいた。

「そうだ、理沙ちゃんに頼めばいいじゃないか」

「なにを、ですか?」

「彼女は、クラゲの研究をしてるんだろう。あんたでも、簡単に写真が撮れる」

 なるほど名案だと、須藤は思った。

 急いでふりかえったけれど、すでに姿はなかった。

「どちらにいらっしゃるか、ご存じですか?」

「俺たちが来た道を右に曲がったら、海洋研究室のプールがある。そこじゃないか」

「ちょっと追いかけてみます。お礼に、今度おごりますよ」

 飯くらい食っていけ、という志賀の声をふりきって、須藤は古谷のあとを追いかけた。すると、テニスコートほどの大きさがある広場に出た。コンクリート製の地面に穴をあけて、ガラスの水槽が埋め込まれていた。手近な穴をのぞいてみると、綺麗な魚の群れがみえた。

 古谷は、水槽の合間を縫いながら、メモをとっていた。須藤が声をかけると、彼女は鉛筆をとめて、こちらに顔をむけた。須藤は、いそいで自己紹介をした。

「はじめまして、こういう者です」

 名刺を手渡す。古谷は眼鏡をなおしながら、

須藤すどうあきら……カメラマンさんが、なにか御用ですか?」

 と、警戒心のこもった口調でたずねた。

 須藤は、クラゲの写真を撮らせて欲しいと告げた。

「志賀さんから、そう言われたわけですか……クラゲなら撮りやすい、と……」

「はい、よろしくお願いします」

 古谷はプイッと横をむいた。

「お断りします」

 一蹴された須藤は、とまどいを隠せなかった。

「ど、どうしてですか? お忙しいなら、後日にでも……」

「『撮りやすい』という発想をするひとに、クラゲの魅力がわかるとは思えません」

「す、すみません、撮りやすいというのは失言でした……謝ります」

 須藤が反省すると、古谷はしばらく黙考した。

 そして、意外なことを口走った。

「今から出すクイズに答えられたら、許可を出してもいいです」

「クイズ……ですか?」

「はい、クラゲに関するクイズです。ほんとうにクラゲに興味があるのか、それともカメラの練習台にしたいだけなのか、それを見させてもらいます」

 須藤はあっけに取られた。が、願ってもない妥協だった。説得する方法が思い浮かばなかった以上、こうなれば御の字だった。

「ええ、お願いします」

「須藤さん、あなたの足もとの水槽を見てください」

 須藤は視線をおろした。水のなかに、金色のクラゲたちがただよっていた。須藤がイメージするような、脚の長いクラゲとはちがって、短い触手が房のようになっていた。

「私は、このクラゲに毎日、エサをやっています。そのエサを当ててください」

「エサ……ですか?」

「はい、簡単でしょう?」

 たしかに簡単だ、と思った。

「それって、引っかけクイズじゃないですよね?」

「引っかけ、というのは?」

「例えば、このクラゲは食事をしない、とか」

 運動する以上は、かならず栄養を摂取している――古谷は、そう答えた。

 ひとを騙すようなタイプにも見えなかったから、須藤は受けて立った。

「もちろん、エサをやるところは、見てもいいわけですよね?」

「どうぞ、ご自由に。1週間以内に当ててください」

 こうして、須藤と古谷の知恵比べが始まった――そう、まさに知恵比べだった。そのことに須藤が気づいたのは、早くも翌日のことだった。須藤は、午前中から水槽エリアで待ち伏せをしていた。すると、昨日とおなじ時間帯に、古谷が姿を現した。そして、おなじような服装で水槽を見てまわり、同じようにメモをとって去って行った。その日は、彼女以外、だれもこのエリアを訪れなかった。

 翌日も、またその翌日も、おなじ光景が続いた。ときどき、べつの係員が水槽に近づくことはあった。それは、エサやりのためではなかった。水槽のまわりを掃除したり、水質検査をしたり、そういう作業だった。

 須藤は、草むらに腰をおろし、空を横切る鳥たちで、撮影の練習をした。エサやりの場面には、ついぞお目にかかれなかった。

 須藤は不審に思って、4日目に声をかけてみた。

「こんにちは」

 古谷は記録用紙から顔もあげずに、こんにちは、とだけ返した。

 須藤は、さぐりを入れるつもりで、あらかじめ用意してきた質問をした。

「今日も、エサやりはしないんですね」

「毎日やってるわよ」

 このまえとはうってかわって、愛想のないタメ口だった。

「ほんとに、毎日やってらっしゃるんですか?」

「でないと、死んじゃうでしょ」

 古谷は、淡々と次の水槽にうつった。須藤は、宝石のようなクラゲを横目に、彼女のあとを追った。そのあいだ、3日間で思いついた推理を、順番に口にした。

「水のなかに、最初からエサが入ってるんじゃありませんか?」

「pHなんかの調整はしてるけど、ただの塩水よ」

「少量で足りるエサ……例えば、スポイト一滴とか」

「熱力学の法則に反してるわね」

「夜中に、こっそりやってるんでしょう」

 古谷は、レンズのつなぎめに指をそえて、あきれたようにこう言った。

「須藤さん、あなたはクイズの意図を、理解していないみたいね」

「意図……? やっぱり引っかけクイズなんですか?」

「その様子だと、試用期間が終わるまで続けても、分からないか……じゃあね」

 古谷はそう言い残して、水槽エリアを去って行った。あとに残された須藤は、春風に吹かれながら、しばらく呆然としていた。

 クイズの意図――見当がつかなかった。古谷は、彼が試用期間で、正式な職員ではないことを知っていた。うまく写真が撮れなければ、契約が打ち切りになることも知っていただろう。新米の須藤になど、興味がないのだろうか。しかし、去りぎわの古谷は、なにか――怒りのようなものを残して行ったように、須藤は感じた。怒りは、無関心の対極にあるものだ。

 須藤もまたタメ息をついて、水槽エリアをあとにした。

 それから2日ほど、須藤は古谷の行動を監視しなかった。以前とおなじように、虎や猿などの、ありふれた動物で練習をしていた。大きくあくびをする虎に合わせて、須藤もあくびをしかけたとき、ふと肩を叩かれた。志賀だった。

「クラゲの写真は、もう撮れたのかい?」

「……いえ」

 須藤は、これまでの経緯を説明した。

 志賀は腕組みをして、首をひねった。

「理沙ちゃんが、そんなことを? 機嫌でも悪いのか?」

「かわいがってるクラゲを、練習台にされたくないみたいです」

「そんなもんかね……学者さんの考えることは、よく分からねえな」

「あの水槽のクラゲについて、なにかご存知じゃありませんか?」

 志賀は、知らないと答えた。水の生物は、彼の担当ではないらしい。

「ん? ちょっと待ってくれ。あの水槽に入ってるのは、クラゲなのか?」

「ええ、そうですよ」

「変だな。整理票には、なんとかフィッシュって書いてあったぞ」

 須藤は、

「それはジェリーフィッシュでしょう。クラゲのことですよ」

 と答えた。

「いや、整理票には、ちゃんとした名前が載るんだ。クラゲだけってことはないぜ。なんとかジェリーフィッシュ、じゃねえかな」

 須藤は肩をすくめた。

「クイズを解くのが俺の仕事じゃないですし、クラゲは、あきらめます」

 なにか手伝えることはあるか、と、志賀はたずねた。須藤は、今日撮った分の写真について、感想が欲しいと頼んだ。志賀は、快諾してくれた。

 須藤は、夕方まであちこち歩き回った。そこそこ満足のいく写真を選んで、志賀のいる寮へと向かった。夕風に木々が揺れ、どこか幻想的な音を立てていた。遠くで像の鳴く声が聞こえた。西日が薄くなってきたとき、あの水槽エリアのそばを通りかかった。あいかわらず、人の気配はなかった。

 いったいどうやって、古谷はエサをやっているのだろう。なにかトリックがあるはずなのだが――いや、やめておこう、と須藤は思った。

 ふたたび歩き始めたとき、どこかで猫の鳴き声が聞こえた。弱々しい鳴き声だった。あたりを見回してみたが、姿はみえなかった。気のせいだろうか。そう思った瞬間、もういちどおなじ鳴き声が聞こえた。助けを呼ぶように。近くの茂みをさぐると、血を流して横たわっている黒ぶちの猫がいた。須藤はあわてて駆け寄り、体の様子をみた。ケンカでもしたのか、大きなひっかき傷ができていた。

「病院に連れて行ってやるからな」

 須藤は猫をそっと抱き上げて、園内の獣医室へと向かった。

 走ったほうがいいのか、安静をとったほうがいいのか、わからなくなる。中途半端な小走りを5分ほど続けると、ようやく獣医室の白い建物がみえた。

 窓の灯りはついていた。須藤はノックもそこそこに、獣医室へ駆け込んだ。

「すみません、猫がケガを……!」

 須藤は口をつぐんだ。先客がいたからだ。白衣を着た女性が、大きな鳥の羽を金属板で固定し、包帯を巻いている最中だった。腰まである長い髪が、猫背を覆っていた。その瞳は、医師としての怜悧さと、傷ついた動物をいたわる優しさを兼ね備えていた。

 細い指が、包帯を結び終える。須藤は、じっと息を殺していた。呼吸の音すら邪魔になるのではないかと、そう思ったからだ。

 女性がふりかえったとき、須藤は大きく息をついた。

「どうかなさいましたか?」

 女性は、ようやく気付いたかのように、そうたずねた。声音には、外見と異ならず、どこか澄んだところがあった。ふりかえった拍子に、【紗美原すずみはら】という名札がみえた。

「園内で、猫がケガをしていました」

 須藤は、傷ついた猫をさしだした。紗美原は、もうひとつの診療台を用意して、そこに猫を寝かせた。すばやく傷口を見て、洗浄を始めた。

「なにか手伝いましょうか?」

「けっこうです」

 冷たくあしらわれてしまった。

 須藤は待ち合いコーナーに腰をおろし、彼女の作業をながめた。まだ若い。どうみても20代のようだが、物腰は落ち着き払っていた。

 思っていたよりも大したことはなかったのか、治療は15分ほどで終わった。

 紗美原は手を洗いながら、コーヒーを飲むかと訊いてきた。

「はい、ごちそうになります」

「さきに手を洗ってください」

 須藤も消毒液で、念入りに洗わされた。そのうち、真っ白なカップがふたつ、コーヒーの香りをただよわせながら差し出された。紗美原は、ひとつを須藤に渡し、もうひとつをそのまま口に運んだ。そして、キャスター付きの椅子に座った。

「この猫は、どこで見つけられたのですか?」

 初めて質問が飛んできた。

 須藤は、水槽エリアの茂みで見つけたと答えた。

「そうでしたか……ありがとうございます」

 感謝を告げられて、須藤はなんとも答えようがなかった。

 間をたもつため、コーヒーのお礼をくりかえした。

「動物の治療は、私の仕事ですから……ところで、あなたは職員さんですか?」

 初対面なことを思い出した。名刺を渡す。

「カメラマンの須藤です。新米ですが、よろしくお願いします」

「私は紗美原です。この動物園で獣医をしています」

「その若さで専任なんですか?」

 たまたまです、と、紗美原は謙遜した。

 たまたまなのは俺のほうだ、と須藤は思った。

 正真正銘のたまたまだ、と。

「須藤さんこそ、その歳で当園のカメラマンなのでしょう」

「いえ、俺はまだ試用期間です……まあ、そのうちいなくなってると思います」

「どういう意味ですか?」

「もともと動物は撮ってなかったんです。動かないものが専門で」

「どうやって練習なさっていますか?」

 園内にいる動物を、あてもなく撮る。

 須藤は、じぶんのありきたりな日常を説明した。

 それからふと思い出して、古谷のクイズに言及した。

「めずらしいですね。古谷先輩が、そのようなクイズを出されるとは」

「ええ、あんな生真面目そうなひとには、似合わないですよね」

 須藤の感想に、紗美原はくすりと微笑んだ。

「ああ見えても、古谷先輩は、ずぼらなところがありますから」

 古谷が毎日おなじ服装だったことに、須藤はそのとき気づいた。

「どうやってエサをやってると、紗美原さんは思いますか?」

 紗美原は、その水槽の様子を、くわしくたずねてきた。須藤は、コンクリートの地面に収納された、水槽の構造を説明した。大浴場くらいのガラスケースに、塩化ビニル製のパイプが伸びていた。それを通じて水を循環させているらしく、水質はクリアだった。深さは2メートルほどだろうか。触手の短い金色のクラゲがふらふらしているだけで、目立ったものは、ほかになかったことを伝えた。

「そのクラゲの名前は、分かりましたか?」

「いえ……一般的なイメージのクラゲとは、全然違いました」

「それでは、動物を観察したことになりませんね」

 手厳しい返しをくらってしまった。

「動物を観察するというのは、可愛いな、とか、怖いな、とか、そういう感想を持つことではありません……そう、人間も同じです。外見でそのひとのすべてがわかったと思うのは、傲慢ではないでしょうか」

 カメラマンのあなたなら、なおさら――そうほのめかされた気がした。

「そうですね……明日が最後ですけど、がんばって観察してみます」

 紗美原はニコリと笑って、カップを受け皿においた。

「とはいえ、新任の須藤さんには、むずかしいクイズかもしれません」

「……もしかして、答えをご存知なんですか?」

「これまでのお話から、なんとなくわかりました」

 須藤は、あやうく答えを訊きかけた。

 だが、ひとりで解かなければならないと思い、口を閉ざした。

 紗美原はそんな須藤を見て、こう切り出した。

「あの猫のお礼に、ヒントをさしあげます……科学というものは、天才の置き土産ではありません。無名のひとびとも含めた、積み重ねです。その比喩で、巨人の肩に乗る、という言葉があるくらいです。須藤さんも、乗ってみてはいかがですか?」

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