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忘れていたもの

 一目惚れだったのかもしれない。


 友人には妻もいて、かわいい子供が学校に入った、と喜んでいる者もいる。私はというと、正直、女性は苦手であった。そのため、10の位が片手で足りなくなるという歳で、私は独り身のままだ。恋愛というのが、どうもいまいち、判らなかったのだ。

 それに、近づいてくる女性たちは私個人よりも、私の資産に惚れている……そう感じていた。


 私自身を見てはくれない。母親がそうであったように……。

 彼女達は母と同じで、自分の家や自身の出世ための道具とでも思っているのか。

 そんな私が、今日、安酒場に入ってきた彼女を見て、すっかり酒から醒めてしまった。初めて人を恋しいと感じた……いや、そんな感情を私は忘れていただけかもしれない。


 奇妙なのは、私を引きつけるほどの彼女が、年老いた尼僧(シスター)と寄附など集めに来ていることだ。


 ――老婆ひとりよりも、うら若き美人を連れてきたほうが財布の紐も緩む、と思ったのか……。


 彼女の歳は私より一回りは下であろう……いや、もっと下かもしれない。貴族の中には娘を『花嫁修業』の名目で、教会に預ける場合があるという。彼女もそんなひとりであろうか? だが、この地区の治安を考えると、彼女の両親の判断に疑問が生じる。

 長身ですらりとした立ち姿は人目を引いた。異国人のように黒い髪は長く艶やかで、光に当たると深い紫色に輝いて見える。そんな髪をなびかせ、私の前を通り過ぎていく。そこから醸し出す薫りは私を引きつけ、落ち着かせてくれた。切れ長の目に灰色にも見える青い瞳。一瞬冷たく、人を寄せつけないような壁を作っているようにも感じた。肌はおよそ人間とは思えない、陶器のような滑らかさで白く見える。

 ただ安酒場の少々下品な客が、一瞬、彼女を見ただけで手にしたジョッキに向かう。


 ――なぜであろうか?


 私は心の中で問いかける。

 しばらくすると、その理由が分かった。私は彼女の顔の片側だけ、右側しか見ていなかったのだ。見えていない左側の顔は、非道い傷の痕があった。もう片方の左頬には、刃物で切られたような深い傷。それに左の目にも浅い傷が見られる。同じ刃物によるものだろう。恐らくそちらの目は機能していないようだ。白く濁っていた。


 ――人と壁を作っているように感じたのはこのためか……。


 確かに傷のある女性では、普通の男は興味を無くしてしまうだろう。だが、私は違っていた。彼女の肩が少しでも動くだけで、興味がそそられる。


 もう少し、彼女に覚られないように、彼女を見つめていたい。


 教会への『花嫁修業』とはいっても、形式的なものだ。それなのに、両親は娘にちゃんとした衣服を持たせなかったのか。貴族の娘にしては着ているものが、みすぼらしく思える。それに彼女の両腕は、ダラリと無気力に下されたままだ。注意して見ていると、手袋をしている。それもかなり長いものだ。その白い手袋は、手首をこえて、袖の奥の方まで続いていた。

 顔の傷にでも関係しているのだろうか? 機能していないわけではなさそうだ。動いているのが目に入る。


 これは私の推測でしかない。


 少々、過剰になってしまうが、女の嫉妬というものは怖い。私でさえ目を引かれた彼女が、別の女性にでも襲われた。その者に押し倒され、手にした刃物を、無残にも何度も振り下ろされた。なんとか命だけは助かったが、顔には傷が、両腕には防御痕があるのであろう。手や腕まで隠しているのも、その時の傷を見せたくはない。そんな心理が働いているのか。


 そして、両親は自分の娘を、街の片隅の教会に厄介払いをした。傷物にされた娘に、嫁のもらい手は、よっぽどでもない限り現れないであろう。


 ――これは勝手な想像だ。


 確かにそうだ。


 しかし……他の男たちがどうあれ、私が彼女に目を奪われたことは確かだ。


「ご寄附をお願いできないでしょうか?」


 気が付けば、わずかな小銭が入った缶が私の前に差し出されていた。

 よほどこの教会は金回りがよくないのであろうか。食事も満足に取れず、老婆の手は痩せこけている。それに、寄附を集める缶は使い古され、わずかばかりのはした金しか入っていない。

 このあたりの地区の人々が、あまり裕福でないことは知っていた。

 祖父がこの酒場の近くで、銃器を扱う店をしていたからだ。幼かった私は、祖父の元を訪れると、この地区を遊び場としていた。

 今はその店もないが、祖父は亡くなるまでこの地区に住んでいた。


 ――子供の頃を思い出す。


 そう……たまにこの地区に来て、この安酒場で少し飲む。

 私をどうもここの地区の者達は、子供の頃に見たことのある謎の紳士『坊ちゃん』と呼んでいるそうだ。私はそれを愉快に思い、仕事の間の楽しみ(息抜き)として『坊ちゃん』を演じている。そういう訳で、どんな場所なのか、どんな人間が住んでいるか、よく知っていた。この地区は、考えれば危険な地区だ。薄暗く、物取りなどが寝床にし、その日暮らしの人間を相手にする店が並ぶ、不衛生な地区だ。


「――ご寄附を……」


 気が付けば、尼僧は寄附の缶を振って見せた。少ない寄附金(小銭)がカラカラと乾いた音を上げる。

私が金を出す様子も無く、追い払う事もしないので、不審に思ったのであろう。


「寄附? ああ、寄附ね……」


 私は懐から無造作に財布を出しかけた。だが、先ほど話したとおり、この地区は治安がいいとは言えない。そこでポケットには、最小限しか入れないことにしている。銀貨と銅貨を数枚程度……酒場の支払い分ぐらいだ。

 このふたりはまだしも、誰が見ているか判らない。金を持っていることが判れば、後を付けられて追い剥ぎに遭いかねない。まあ……顔見知りが多いので、そういうことは起きないとは思うが……。

 しかし……しかし、ここで「持ち合わせがない」と、追い払うのはどうか?


 ――彼女にいい格好を見せたいだろ?


 そうだ。

 この老尼僧よりも、彼女がどんな顔をするのか、私は怖くなった。声をかけたこともない、初めて会う彼女であるが、印象を悪くしたくない。


「すまない。手持ちがこれしかない」


 上着の隠しポケットに一枚だけ金貨を入れていた。何かあった時のために準備してあったものだ。それを私は古びた缶に投げ入れた。

 金貨に驚いているのか、老尼僧が目を丸くしているようだが、どうだっていい。

 声を出さない老尼僧の代わりに、彼女の声を聞けた。


「……あっ、ありがとうございます!」


 透き通るような声……私には天使の声のように思えた。

 彼女の笑みを見られたのだから、それで十分だ。

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