キリグ
18作目の短編です。「キリグ」とはタガログ語にある言葉です。
人を語るには、心というものの存在が不可欠だ。それは抽象的で不安定、何処にあるかもわからない代物だ。
心がないと、人は壊れたとみなされる。それは心が人の本体だということだろうか? 心という概念に、そんなに価値があるのだろうか?
遠い夜に眠る時、心は空を自由に飛ぶ。その時、心は人の身体を借りる。夢と夢を繋ぐ回廊を悠然と飛翔し、太陽系の外へ想いを馳せる。
心は何処にあるんだろう。
心臓?
脳?
それとも、他の何処か?
人体の何処かにはあるんだろう?
でも、あったところでどうしようもない。
心は物語のオブジェクト。追い掛ければ、追い掛けるほどに遠くなっていく。掴めない、或いは壊れる。
壊れたら、どうしよう。
「お腹の中を蝶が飛んでいるみたい!」
空気は春先のそれ。仄かな温度。眼を凝らせば、蝶が飛んでいる。蝶は空気のように、或いは影のように、僕らの前を飛んでいく。蝶は何を考えているのだろう。幼虫だった頃の苦悩? 蛹だった頃の夢? それともなんだろう?
僕は思考を外す。考えるほどに人は荒んでいくからだ。答えの出ない問いは薬や酒と同じ。終わりがなければ、人は壊れてしまう。
壊れたらどうなるか?
生まれ変わるまでおやすみ。
ホログラムのように消えていく。
砂にも似ている。
時々、自分が壊れて、砂のようになる想像をしている。どうしてか、背景は砂丘で、いつもいつも、強い風が吹き遊んでいる。身体が崩れていくと、一定のメロディが聞こえる。それは「G線上のアリア」だった。別に好きでも嫌いでもない。知識として知っている程度の曲。音楽は次第に消えていき、映像が出現する。とても高く重厚な壁が壊されるイメージ。次はパノプティコンのイメージ。最後はラグナロクのイメージ。僕はそれらを鳥瞰し、優越に浸る。同時に空を見上げて、あの雲が低く鳴る空が落ちてきたりしたらどうしようという滑稽な恐怖に襲われて、急速に落下する。落下地点はヴィーグリーズの燎原。もう、オーディンもトールもロキも、みんな死んでしまった。人の形をしているから? それとも、人のベースは神だから? どちらにせよ、死んだのだ。息も出来ないような火の海で、巨人スルトの咆哮だけが刺さるように聞こえた。聞こえただけだ。スルトが燃え盛る大剣を振り翳し、地面は音を立てて歪み、泡立ち、爛れ、崩れ出す。抵抗することなど叶わず、深い深い穴へ沈んでいく。途中、毒を吐く黒竜がこちらを睨んでいるようだった。
穴の底は真っ暗で、酷く冷えていた。酸素が薄い、いや、ないのだろうか。視界が次第にはっきりすると、何処までも広がるスカイブルーの大地が眼に鮮やかになった。音は聞こえず、光はぼんやりとしている。光源が何処かはわからない。歩き出してみると、シャーベットの感触がした。少し歩くと、人影が見えた。近付くと、痩せた老人だった。花を育てているようだった。蝶が飛んでいる。
「どうも」と僕は言う。
老人は頭を下げる。スムーズだが、ノイズがあった。
「それは?」と僕は花を指す。
「氷の花だ」
「蝶が飛んでいますね」
「私には見えない」
「それはそうでしょう」
なぜなら、ここは僕の想像だからだ。
「その花はどうなりますか?」
「永遠」
老人は素っ気なく答える。
「永遠とは?」
「長い長い夜」
「あなたは?」
「守人」
「いつから?」
「君が想像を始めた時から」
「いつまで?」
「君が想像を終える時まで」
僕は老人に触れる。酷く冷たい。氷でできているのだろう。そして、酷く脆い。触れた瞬間から崩れていく。しかし、ただ崩れるのではなく、氷の破片が蝶になり、飛び立っていく。
「想像は必要以上に脆いもの。今、私はどうなっている? 溶けているのか? 崩れているのか? それとも、生まれ変わっているのか? 私には見えない」
「心配は不要です。あなたは……」
「想像の産物。故に、君が想像する時、私は君の想像世界の何処かで蘇る。私は永遠である」
老人の身体は全てが蝶になり、氷の花のみが残された。薔薇のようにも見える、氷の造形物で、触れると壊れそうに軋む。
僕はそれを手に取り、眼を瞑る。浮上する感覚。花が壊れていく感覚。眼を開けると、スカイブルーの球体。
それはエンケラドゥス。
土星の第二衛星。
視界はくるくると回る。
自分も衛星になったように。
やがて、宇宙は収束し、世界はさっきまでの砂丘に移動する。ハゲワシが孤独を謳いながら蝶を食み、人知れず歓談するウィルオウィスプは蝶の羽を知らずのうちに焦がしている。蝶は砂の隙間から無限に現れる。
やがて、大気がぼやけて、半透明の楼閣が姿を見せた。楼閣の扉が開くと、大量の蝶が飛び出してきた。全ての蝶は僕をすり抜ける。楼閣の中の蝶は想像の範疇外から来たようで、半ばバグを起こしたように、羽が光り輝いている。
蝶がいなくなると、楼閣は静かに消えていく。そう。あの中に「キリグ」はある。
「キリグ」はいつでも、何処でも、誰でも、知ることができる。万人向けの軽微な合法麻薬。オピウムよりもチープで、依存性も高くない。ただ、少しむず痒い。
「キリグ」を内包するイマジナリーの楼閣が出現したということは、「キリグ」は本当に場所を選ばないということである。想像の外から到来した、まるでエイリアン。みんな知っている筈なのに、誰もわからない。証明もできない。証明する理由がないから、というのが最もな理由だろう。
空を見上げよう。
エンケラドゥスがあまりにも近い。
砂丘からはエンケラドゥスしか見えない。
息を吹くと口からシャボン玉が飛び出す。屋根も空もなく、シャボン玉は形を崩さないまま宇宙を浮遊する。やがては小さな銀河になるのかもしれないが、それは想像が終わるまでの話でしかない。
そうだろう? グレーテル?
竈が見える。中で火と人が燃えている。
想像は水ではない。
火は消えない。
それは、消えないイメージを払拭できていないから。
ヘンゼルは何処に行っただろう?
ヴィーグリーズの死んで、息を吹き返した野から二羽の鴉が。フギンとムニン。ようこそ。咥えているのはヘンゼル。僕が眼を細めると、二羽と一体は小気味良いリズムで砂となる。砂漠を作るのは「死」という多義的で可塑性のある概念。
あ、グレーテル。この想像は終わり。
途端に砂嵐。テレビで見るような、眠れない深夜に見るような、ワンテンポで途切れない、映画のようなイメージ。砂丘の砂が灰色になり、ザーザーと音を立てる。威嚇、或いは甘え。
エンケラドゥスの老人が言う。
「長い長い長い夜。爪痕が消えるまで、その時間さえも長い長い長い。見給え、蝶が飛んでいるだろう?」
「見えないです」
「時に、想像は現実と混同する。夢もそうだが、想像は非常に侵略に長けた領域なのだ。君が油断すれば、一瞬で想像は君の脳をジャックし、コールドスリープさせる。温度を失った君の脳は、電気の供給さえままならず、支配能力を失う。わかるかい? いくら、蝶が飛んでいようと、それが友好的だという保証は何処にもないということが」
「わかります。今、僕の脳は想像に陥落した。今、眼を醒ませば、現実に蝶が舞う」
「左様」
「起きても?」
「君の想像だ」
「では」
僕は眼を閉じる。老人が時空の隔たりに圧縮されるように消える。彼の出現自体が想像の侵略を示唆しているのだ。
少し長い想像、或いは夢。
区別は不可能。
違うのは、生きているか、死んでいるか。
データダウンロード中、蝶がパレードの紙吹雪のように、電気信号の海上を舞っている。
データダウンロード完了。
再起動します。
音声に歪みが確認できる。
少しだけ、現実が不安になった。
「起きて」
「……」
「起きてったら」
「……」
「……」
「……?」
「おはよう」
「……ここは?」
「バスの中。いや、バスって言っていいのかな? 地理的な話で言うなら、フラワーパークの敷地内」
「……カレン?」
「そう、私はカレン。君は君。他には?」
「いや、ないよ」
僕はひとつだけ欠伸をして、立ち上がる。横にカレンが座っている。唇の色が愛らしいし、目の形、鼻の形、耳の形、輪郭、髪型。何処を見ても美しい。カレイドスコープのように鮮やかで、飽きない魅力がある。
僕は運転手の元へ歩く。カレンは鼻唄を奏でている。多分、「G線上のアリア」だ。
「Air auf der G-Saite?」と声がする。
カレンが静かに頷く。リズムを崩したくないのだろう。
バスの中には僕とカレンと運転手だけ。速度は遅い。飛び降りたら、五十パーセントくらいで怪我をするとは思うけれど。気温は上々。エンケラドゥスよりは暖かい。
「どうも」
運転手に声を掛ける。
「はい」
「気分はどうです?」
「ハイジャックみたいです」
「ああ、似てますね」
運転手がこちらを向く。歯が大きく、半透明だ。
「前は見なくてもいいんですか?」
「ええ。こいつが進む方向に道はできるので、心配は不要です」
「終点は?」
「未定です」
「降りたくなったら?」
「どうぞ」
運転手は右手で外を指し示す。飛び降りろ、ということらしい。運転手の右手の指の数がランダムに変化するのが面白い。
僕はカレンのもとに戻る。カレンは寝息を立てている。耳を澄ませば、リズムはさっきと同じで「G線上のアリア」の一部分が、規則正しくループしている。
唇が愛らしいので、観察する。つついたら、割れそうだ。
軽く肩を揺らして、カレンを起こす。
「おはよう」
「おはよう」
「降りないの?」
「どうして?」
「飽きないの?」
「想像は無限だからね」
「でも、コンテンツには限りがあるよ」
「うん。けれど、開拓はできる」
「知らないものは拡げられないよ」
「うん。だから、応用。知っているものを、知らないものに変えてしまうの。そうすれば、ずっとずっと楽しめるから」
カレンは欠伸をする。
「僕、今から飛び降りるけど」
「正気?」
「行き先未定のバスにいる方が正気じゃない」
僕は窓を開ける。春先の風が皮膚を撫でる。
「アディオス」とカレン。
「じゃあね」と僕。
勢いよく、落下する。
次の瞬間にはベンチに座っていた。
横には長身痩躯の青年がいた。
「どうも」
「やぁ」
「初めまして?」
「多分」
「誰?」
「私は……うん、まぁ、いくつも名前があるからね、呼びやすいとするなら、そうだな、メタトロンだ。知っているかい?」
「うん」
僕の想像だ。当然のことである。
「ここで何をしてる?」
「私かい?」
「他に誰が?」
「探せばいるよ」
「で、何を?」
「うん。セフィロトの木を見てるよ。美しいだろう?」
「うーん? よく見えないな」
「あぁ、ここはもう樹の一部だよ。私たちがいるのはケテル。第一のセフィラ。正面を真っ直ぐに見てごらん」
「……バス?」
それは見たことがあった。
「そう。この公園を走るバス」
バスは止まっている。どうしてか、止まっている。
「あれがティファレトさ」
僕は立ち上がる。
「何処へ行くんだい?」
「その、ティファレトへ」
「あはは……、まぁ、いいと思うけど、君の想像は、本当に確かだろうか? まだ、崩落する可能性は否定できないんじゃない?」
「……」
「隠れたセフィラがあるんだ。ティファレトの少し手前。ダアトって言ってね、そこに踏み込んだら、君の想像は塗り変わる」
「それは、どうなる?」
「わかりきっているだろう? 君は何処か別の想像をして、私やあのバスは掻き消されてしまうんだよ」
「僕はどうすればいい?」
「取り敢えずは、ここにいるといい。ケテルは私の領域だからね。ほら、蝶も祝福してくれているじゃないか」
僕は蝶を探したが、何処にも見えない。ただ、空虚な大気の層が無限に広がっているだけ。
「まぁ、仕方ないか。その方が落ち着くだろうし」
メタトロンは欠伸をする。
「んん、人間染みたことをやってるだろう? でも、逆だよ。私たちの真似事をやっているに過ぎないんだよ。でもね、これは私たち、天上からの目線の主張。人間は人間で、私たちを崇拝しているとは謂えども、頭の何処かで、自分たちが自分たちの崇拝対象を創ったという意識を持ってるんだよね。だから、表面では信仰していても、内面では便利な道具のようにしか思っていないってね。まぁ、宗教って社会基盤なわけだから、これも仕方がないよねって話なんだけど」
「そうかな」
「そうさ。これは身分が高いほど顕著になる。そりゃあ、そうだよね。身分が低いと、他の全ても低くなるからね。盲いたように、真実には気付けないんだから」
僕も欠伸をする。
この気温がいけないのだろう。あとは何だ? 道々の両端を彩る何万もの花だろうか? 遠くで窓を割る音が聞こえる。誰かが日々を跨いだに違いない。
「眠いかい?」
「いや」
「もしかしたら、現実の君は眠っているのかもね」
「これは現実じゃない?」
「私が目の前にいるんだよ?」
「割合は?」
「二割が現実」
「だとしても、これは想像だろう?」
「夢も混同しているよ」
「どうして?」
「通ってくる道が同じだから」
「そうなの?」
「うん。眠っているか、醒めているかで、本来は区別されてるんだけど、今は混同してるんだね。要するに混沌」
僕は足がむず痒くなった。視界もボヤけるようだ。
「少し、歩きたいんだけど」
「……うん、大丈夫だよ。私の領域はそれなりに広いから、間違っても、他のセフィラに辿り着くことはないとは思う」
「入ったら何かあるの?」
「うん。でも、ダアトとなんら変わらないよ。君の想像が違う方へ影響を与えるだけ。それが好転なのか、暗転なのかはわからないけど」
「ふぅん」
僕は少し足を進める。メタトロンはまた欠伸をしている。余程、退屈なのだろう。
立て看板を見つけた。南西に「アースガルド」が、北微東には「ギムレー」があるらしい。ギムレーのすぐ下には、擦り切れた文字で「ダフメ」と「空中庭園」の表記。きっと、淘汰されたに違いなかった。
夢か。
混沌。
僕は歩く。
道の脇には色とりどりの花。パンジーやビオラ、クレマチス、それに水芭蕉、ラフレシアなど、咲いている種類は無限のように多い。場所も何も選ばず、ただただ、混沌の意思に沿って花を開いている。歩いて振り返ると、花は変わっている。想像が、僕という現実を有するものに踏みつけられて、上書きされたのだ。
蝶の影がちらほらと見える。
しかし、まだ、光の加減によっては、いないとも認識できる。
遥か後ろを振り返る。
メタトロンは既にいない。
僕は、ケテルを出ようと考えた。暗転しようがどうしようが、僕にはどうでもいい。夢も想像も、苦痛ではないからだ。
さらに進んでいくと、塀が見えた。直感的に、セフィラの境界線だと思った。僕は歩みを緩めることなく進む。後ろからメタトロンの声が聞こえたが、そんなものは無視して進む。
「止まれ!」とメタトロン。
僕は笑って手を振る。
するとどうだ、メタトロンは幾万もの蝶に変化した。やはり、メタトロンも想像の産物でしかなかったのだ。偉大な神は細胞のひとつも残さずに蝶となって消えた。
そして、後ろから声がする。
見ると、メタトロンに酷似した風貌のタキシードの男が恭しくお辞儀をしていた。
「ようこそ」
「ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう。ここはビナーです。君のためのセフィラ。申し遅れました、私はザフキエル」
「うん、ねぇ、何か変わったかい?」
「想像の色合いが、ですかね」
「色合い?」
「ええ。少し、青みがかったように……」
「そっか」
僕はザフキエルを見てはいない。
それよりも、遠くに見える。
カレンの乗るバス。
動いているのか、動いてはいないのか、青空に浮かぶ白い雲の方が素早いように思える。
「僕は行かなくちゃいけない」
「左様ですか」
ザフキエルは頷く。
「この先にあるのはゲブラー。それを越えれば、君は辿り着くことが可能でしょう」
僕は宇宙を見上げる。
百万個のハレー彗星が滝のように流れていく。
他にはエンケラドゥス。緩やかに右に移動している。
「オーケー。ゲブラーに行くとどうなる?」
「さぁ? どうでしょうね?」
ザフキエルはにやりと笑う。
彼が白い歯を見せると同時に、後方から翼が空を揺らす音が聞こえた。メタトロンである。
ザフキエルは僕の背中を押す。
「さぁ、行きなさい。ゲブラーの向こうへ」
僕はゲブラーに近付き、後ろを振り返った。ちょうど、ふたつの魂が蝶と化す瞬間だった。
ゲブラーに入ると、空の色が変化した。ラムネのような褪せた青が、カルーアミルクのような濁った白に変化した。大地も段々と歪んでいく。色彩がネガになり、花は燃え上がる。赤い服を纏った長身の男が道の真ん中の玉座に座っている。
「気分はどうだ?」と男。眼の色は深紅。まるでガーネットのようだ。
「変化が激しくて吐きそうだ」
「だが、お前の想像だ」
「もはや、僕の想像だけとは言えない」
「果たして、そうだろうか? まぁ、いい。手に負えないようなら、この私が破壊してやろう。私はカマエル。ゲブラーの守護者であり、破壊の天使を率いる指揮官だ」
「破壊?」
「そうとも、破壊さ」
「何を?」
「そうだな……、よし、今回はサービスと行こう。お前が望む凡る事象からひとつを、お前が望む限り破壊しよう」
僕は少し考える。
考える振りをする。
目の前を蝶が悠然と。
バタフライエフェクトを思い出す。
「……あのバスが見える?」
「ティファレトか。ああ、見えるが?」
「そのバスの運転手を壊してくれ」
「運転手?」
カマエルは首を傾げたが、「まぁ、いい」と言って姿を消した。そして、また、すぐに現れる。
「容易い。我が軍勢を呼ぶ必要も時間も要らなかった」
僕は礼を述べた。
カマエルは笑う。
不敵に笑う。
首を傾げる。
気狂いのように笑う。
想像が歪んでいく。
カルーアミルクの空は、美しいワインレッドに変化する。
「ひとつ、教えろ」とカマエル。
「何故、この暴走した想像の破壊ではなかったんだ?」
「それは……」
「それは?」
「それは、想像にも夢にも、必ずエンディングが流れる時が来るのをわかっているから」
「ふぅむ。わからないな」
カマエルはにやりと笑う。
「まぁ、いいさ。破壊に変わりはないからな」
僕はゲブラーから出る。途端に世界が歪み始める。どんどん歪みは大きくなり、振り返ると、道の花々はモノクロに変化していた。蝶は空中で、傷付いたフィルムのように、点滅を繰り返している。
もはや、風もなく、感じるのは湿り気でもなく、乾きでもなく、ただただ、漠然とした無のように思えた。そして、それは強ち間違いではないのだろう。セフィラの外側は混沌と呼ぶに相応しいように思えた。あるところは燃え盛り、あるところは凍てつき、また、あるところは重力のプールと化していた。
永遠というものの脆弱さが頭に浮かんだ。
神も天使も人間も、所詮、脆弱なイメージ。
歩く。
歩ける。
大地さえも酷く歪んでいるが、足は確かに踏み込むことができる。プリンのようではない。
ティファレトに入ると、祝福のメロディ。騒がしいのは四分休符。背の小さな騎手がグレーチングの下から這い出てきて、僕を威嚇して消えた。彼らは二頭の蝶になって、ひらひらと灰色の空気を飛んでいく。
バスの扉は閉まっていた。
僕は力ずくでそれを開け、ステップに足を乗せる。運転席を見ると、赤い液体が飛び散っている。カマエルの仕業に違いない。蠅の代わりに、蝶が舞っている。
蝶が舞っているのは運転手の周りだけではなかった。バスの内部全体を無数に飛んでいる。色とりどりで、パーティーのようだ。
カクテルの匂いがする。
僕が想像したからだろう。
想像の久しい従順。
いや、あくまでもサービスだろう。
現に、蝶に消えるように想像しているが、一向に消える気配はなく、寧ろ増えているように思える。
僕はカレンに近付く。
ネオンライトの擬人化のように美しい。
彼女は人工的な微笑みを浮かべる。鋭く、石英のような八重歯がふたつ、くっきりと見える。彼女の手には金色のリング。耳にも金色。
「素敵?」とカレン。
「人工的で美しいよ」
「そうでしょう? でも、想像なんて、全て人工物でしょう? 私は想像の産物の中で最も本質に沿っていると思う」
彼女が笑うと、背中から翼が飛び出した。
「君の想像だよ」
「うん。僕の想像だ」
「カクテルがある?」
「このバスの何処かにね」
彼女は頷いて、立ち上がる。蝶がカレイドスコープの中身のように広がり、彼女の通るトンネルを作り出す。
僕もそのトンネルを進み、運転席へ。
彼女はカクテルを手に取り、その場に座る。バスの座席の全てが彼女の座る席と同化する。
僕は朽ちた運転手を窓から放り投げ、血を拭って、席に着き、ハンドルを握った。エンジンをかけて、アクセルを踏み込む。ガソリンはエンプティ。だけど、何処までも行けるという自信があった。
「行き先は?」
「ケテルの反対へ」
「スピードは?」
「任せるわ」
「乗り心地は?」
「最低で」
バスが発進する。
フロントガラスに幾万もの蝶がぶつかり、潰れて、溶けていく。行く手を阻もうとしているようにも見える。彼らは幸福な想像でありたいと、平穏な想像でありたいと、常に願って、羽を揺らしているのだ。
カレンが近付いてきて、キスをしてきた。キスの感触と同時に、冷たいものが喉を流れる感触がした。カクテルだ。
「美味しい?」
「うん。でもね、席に戻らないと怪我をするよ?」
バスのアナウンスが響く。酷く音割れしている。
「次はイェソド。お出口は……です」
音割れの所為で聞こえない。
カレンは席に戻る。
アルコールが身体を循環する。
視界は少しだけ傾いた。
「もうじき」
「ええ、そうね」
イェソドに入る。沢山の裸の男が集まって、誰かの演説を聞いている。建物の屋上には天使。
バスは止まることなく進む。結果として、イェソドを過ぎた頃には一生分のトマトケチャップが生成された。カレンはその一部を瓶詰めにした。彼女曰く、果肉入りらしい。バックミラーで見ると、裸の男たちは何もなかったように、また演説に耳を傾けている。平穏だ。
想像は酷く歪む。全ては荒廃し、形を砂や泥に変化させている。空気が酸っぱい、或いは苦い。呼吸が苦痛になり始めていた。
「大丈夫? 苦しそう」
「うん、大丈夫だよ。変な味がするだけ」
「眼が霞んだりしない?」
「どういうこと?」
「もうマルクトに入ったよ」
「マルクト?」
「ケテルの反対側」
「あぁ」
眼を擦った。変な触感の粉が手に付着した。
バスはさらに速度を上げて進む。
何人も轢いただろう。
けれど、所詮は想像。どれだけ殺そうが誰も咎めはしない。
視界が鮮明になると、花畑の先に青が見えた。バスは花を踏み潰しながら走っているようだ。僕は青を観察する。フロントガラスの赤が多少は邪魔だが、気にするほどでもない。
なるほど、海か。
「海?」
「うん」
「綺麗?」
「どうだろう?」
「浅い?」
「君が思うよりは」
そんな短い会話が終わったと同時だった。バスは空中に出た。もちろん、僕はバスが飛べるとは思っていない。
ゆっくりと落下していく。
落下。
本当はゆっくりではないかもしれない。
でも、ゆっくりに感じる。
カレンを見た。
身体が蝶になっていく。
僕が手を伸ばすと、彼女は一瞬で銀色の粉となって、落ち行くバスの中に舞った。不思議なことに、美しい、と思ってしまった。
水面に叩き付けられる、と思って眼を瞑った。しかし、開いた時に見えたのは花畑。何処までも続き、空は桃色と灰色。
僕が動くと、花が大地が大気が宇宙が、蝶となって共鳴する。
もうフラワーパークの敷地内ではない。
セフィロトの樹もない。
「ようこそ、創造主よ」
エンケラドゥスの老人が言う。
「今や、想像こそが君の現実。君の想像は現実であり、もはや、叶うことはない。ほら、私も君の想像の変換で現実となった」
「蝶が飛んでいる」
老人は頷く。
「今、これは?」
「永遠だ」
「永遠とは?」
「長い長い夜だ」
僕は花々の間で身体を横にする。
また、幾万もの蝶が飛んでいく。
これが、永遠。
不思議な充足感。
「キリグ」
身体の中を蝶が舞っているような……。
オピウムのような……。
幸福。
息を吐く。
甘酸っぱい匂い。
あぁ……。
不意に僕の意識は暗転する。
まるで誰かが星空のスイッチを切ったみたいに。
その後は、ただ、無限の蝶が舞うだけだった。
幸せになっていただけたのなら、現実を忘れていただけたのなら嬉しい限りです。