チロの挨拶の話。
いよいよラストの話です。最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。最後はホッコリするお話になっております。よろしければご拝読ください。
チロはウチに16年いた。
兄が拾ってきて、名前をつけた。
私はもっとカッコイイ名前が良かったのだが、拾ってきたのは兄だったので私に決定権はなかった。
チロは雑種の、大きな犬だった。
雄々しく凛としていて、とても美形だった。
散歩をしているとよく近所のおばさん連中に
「チロちゃんてホント綺麗なワンちゃんねえ。」
と褒められた。
幼いながら私も、飼い主としてはなが高かった。
飽き性の兄は最初の一年くらいでチロの世話をしなくなり全ては私と母に委ねられた。
母は食事。
私は散歩。
こうした割り振りが知らぬ間にできていた。
それでも私は、あまり嫌な気持ちではなかった。
チロがとても綺麗な犬だったので、私は率先して散歩に連れて行っては心中自慢をしていた。
そんなワケでチロも、殊更私によく懐いていた。
そんなチロが16年目の春先、急に元気が無くなった。
もうチロもおじいさんだから万事のんびりしてきたのかなと思っていたのだがどうやら違うようで。
病院に連れて行ったら口内に悪性の腫瘍ができているとのことだった。
進行が早かった為その時には既に手遅れで、余命はいくばくも無いと告げられた。
私たち家族は悲しんでいる間もなく、愛犬の最期を看取ることになった。
チロは眠るようにして、家の居間で冷たくなっていた。
母も泣いていたのだが、それよりも大して世話もしなかった兄が一番よく泣いていたのを不思議と覚えている。
父も然りだ。
結局私は、泣けずじまいだった。
どうしてかは解らなかった。
ただ酷く、胸中に消失感があった事は覚えている。
忽然と何か失くし物をしてしまい感情を整理できていない。
そんな感じだった。
そうして一週間ほど過ぎたある日。
私は一人、部屋のソファでうつらうつらしていた。
夕暮れが窓から差し込み柔らかな気温が眠りを誘っていた。
私は知らぬ間に、ソファで眠ってしまっていた。
そうして夢をみた。
不思議な事に夢はえらくリアルで、私は起きている時と同じように部屋のソファに座っていた。
確かにソファに座っているのだが、何故だか目をつむったままでいてなんとなく感覚で周りが見えている。
そんな不思議な状態だった。
なんだろう、変な感じだと思っていた。
しかも夢の中では、これは多分夢だろうと気づいていた。
すると、ソファから垂れた右手に何か感触があった。
ゴワゴワとしていながら時折ふわっとした感触。
懐かしく、とても愛おしい。
それは間違いなく、チロの背中だった。
くるくると手にまとわりついてきて
「撫でて、撫でて」
と催促しているようだった。
私はクスリと微笑んでわしわしとそれを撫でてやった。
たくさんたくさん、撫でてやった。
そうすると手から感触が消えて、耳のあたりに吐息が聞こえた。
すんすんと、落ち着きのない浅い呼吸。
ああ、間違いなくチロだなと思った。
「チロ」
私はそう、声に出してみた。
すると頬のあたりに、彼のざらついた舌先があたるのが解った。
兄が彼をチロと名付けたのは、最初に彼を見つけてきた時に兄の顔をしきりにチロチロとなめたからであると後に兄が語っていた。
なんて変な名前なんだ。
もっとカッコイイ名前にすれば良いのになあ。
ずっとそう思っていた。
それでも彼はこの名前が気に入っていたようで名前を呼ぶとよく私の顔も舐め回していた。
「チロ」
もう一度、彼の名前を呼んだ。
しかしもうあの感触がやってくることはなかった。
瞬間、私は目をさまし辺りをぐるりと見渡した。
そこには何の痕跡も見つけられなかったが、頬と手にはまだ彼の残像が残っていた。
私は泣いた。
声の続く限り大声で。
あの日から一週間、溜まりに溜まった涙が一気に溢れてきた。
情けないほどに、大声で泣いていた。
きっと彼は、泣けない私を心配して最後の挨拶にきてくれたのだろう。
チロとの思い出が様々に蘇っては両目から涙となってとめどなく溢れ流れていった。
もう大丈夫、もう大丈夫だから。
ありがとう、本当にありがとうチロ。
私はそう思いながら、気の済むまで泣いていた。
万事、この目で見たもの以外は信用しないし幽霊や妖怪や死後の世界なんて絶対に存在しないと私は思っている。
それでもあの時の体験だけはきっと死んだチロが会いに来たんだと、そう思うことにしている。
その方が私にとって、ずっと幸せなのだろうから。
了