お題【ハコマワシ】
女性の悲鳴が聞こえて振り返った。
スクーターに乗った二人組が女物のバッグを持ってこちらへ爆走してくる。
その向こうの地面には膝をつき、叫んでいる女性。
ひったくりだ。
初めて見た……ええと、警察に電話か……俺の思考がそこまでたどり着いた時にはもう、上妻はスクーターに向かって正面からダイブしていた。
スクーターは横転し、犯人二人と共に上妻も投げ出されるが、彼はすぐに立ち上がり、バッグを持っている方の犯人を取り押さえた。
「代われ! 逃がすなよ!」
俺は自分に今できることをようやく理解し、うつ伏せのままぐったりしている犯人の上にのしかかり、上妻が押さえていた犯人の後ろ手を受け取り、きつく抑え込んだ。
「くそぅっ!」
怒声をあげたのはもう一人の犯人。
しかも手にはナイフを持っている。それでも上妻は怯まない。
ダッシュで近づき、突然しゃがんだかと思うとナイフ野郎の足元に鋭いスライディング。
そのまま体をひねりながらナイフ野郎を何度も蹴り、その後とうとうナイフを落とさせ、そのまま地面へ引き倒してうつ伏せにさせた。
アクション映画のワンシーンを彷彿とさせる見事な早業。
しかもいつもと違って顔もバッチリ見えているし……実は上妻は映画にちょいちょい出ているのだ。
なかなかのイケメンなのに、残念ながら俳優ではなくスタントマンだ。
俳優でも全く問題ないと常日頃言っているのだが、彼は有名にはなりたくないと顔出しNGのスタントマンを続けている。スタントの仕事が入らない時はスポーツジムでインストラクターみたいなこともしているそうだ。
彼との付き合いはけっこうな長さになるが、生でアクションを見るのは初めてだった。
動きの機敏さだけじゃない。何より初動が早い。
動きに迷いがないのだ。
到着した警察官にひったくり犯たちを引き渡し、バッグを取り戻した女性からのお礼も断る上妻は本当にスマートだ。
これで独身ってんだから、世の中不思議なもんだよ。
まあ、彼が独身なのには理由があるんだがね。
上妻の最初の彼女ってのがとてつもなく酷い女だったんだ。
嫉妬の塊みたいな女でね、彼女が出来る前までは付き合いも良かったのに、彼女出来てからは一切シャットアウト。
男だけと言おうが、実際にメンツ全員で迎えに行こうが全てアウト。
しかもそのうち、上妻の携帯電話にその女が出るようになった。メールだろうが何だろうが全てその女が返信する。
マネージャーかよっていうね。
さすがに二年で別れた……というか上妻いわくフラれたって話だけど、逆に二年もよく続いたよ。
ああ、あの女の顔思い出しちまったよ。
そこそこ美人なんだけどさ、俺らのこと親の仇でも見るように睨み付けてくるあの目は、心底ゾッとした。
「お前さ、基本的に怖いモノ知らずだよな。色んな意味で」
俺はあの女の顔を思い出しながら、上妻につい言ってしまった。
「そうか? ……そうかもな」
「自覚症状はあるんだ」
俺が笑うと、上妻は少し考えこんでから、おかしなことを言い出した。
「俺さ、小さい頃さ、ハコマワシに会ったことあるんだよ」
「ハコマワシ? なんだそりゃ」
「サルマワシ、知ってるだろ? そのサルがハコになったのがハコマワシ」
「猿が……ハコ……って、箱?」
おいおい。箱って生き物でもなんでもないぞ。
「確か、小学校に入ってすぐくらいの頃な。通りを挟んだ向いの家に、身なりのいい中年男が住んでいた。そこ、普段はカーテンをぴっちり閉めてるんだが、ある暑い夜だったと思う。カーテンが開いてたんだ」
「その家の娘だか奥さんだかが……って色気のある話か?」
「馬鹿言うなよ。そん時の俺、幾つだと思ってんだ。それにその中年は一人暮らしだぜ」
「悪ぃ。もう茶化さないからさ」
「ああ……それでだよ。カーテンは全開ってわけじゃないんだ。半分くらいだな。そのちょっとだけ開いているカーテンの隙間が、二階にあった俺の部屋の窓からちょうど見えたんだ。男はソファーに寝そべっていて、手には多分ワインの瓶だな、それを持ってラッパ飲みしながらなんか笑っているんだ。しかも時々、床を指差している。男の指先に何があるか、気になるだろう」
「気になるな」
「それで、こっそり一階に降りてみたんだ。子どもは寝る時間でも親はテレビとか観てまだ起きている時間でな。親には気づかれてない。俺は次に玄関のカギを開けてみた。それでも親は気づいていない。玄関のドアを開けても気付かれなかった。そしたらもう、俺を止めるものなんて何もない。俺は家を出て、向いの家の門にまでこっそり移動した」
「おーっ」
「門は鉄の格子門で鍵がついていないタイプ。その位置からでも窓は見えた。門と建物との間には小さな庭があるんだが、そこはゴルフのパター練習用スペースみたいになっててな。要は隠れられるような障害物が何もない。門を開けた時に音がしたら、窓からすっと外を覗かれて気付かれてしまうかもしれない。俺は、音を立てないように、静かに静かに、門を動かして開けていった」
「ドキドキだ」
「ああ。そうだ。なんとか開けた隙間から俺は庭へと忍び込んだ。俺はまず、建物まで最短距離で近づいて、それからその家の壁伝いに、カーテンが開いているあの窓まで静かに近づいていった」
「箱は見えたか?」
「落ち着けよ。まだ覗けてないんだ。当時の背じゃ、顔が窓に届かなくってな。両手を伸ばしてようやく窓枠にしがみ付けるくらいだった。俺は窓枠をなんとかつかみ、顔を窓の高さまで持って行こうとジャンプし始めたんだ。5回、6回、いやもっとかな。それでようやく窓枠に指がかかった……と思ったら、中から窓が勢いよく開いた」
「バレたのか……というか、指は」
「指は大丈夫だ。俺は窓が開く瞬間のギッって音に驚いて窓枠から落ちて、尻もちをついたからな。そんな俺を、窓から肩まで乗り出した中年男が、頬を赤くしながらじっと見下ろしているんだ。ヤバいって思ったね。急いで逃げようとした……ところが、中年男は言ったんだ」
「『お前の家はわかってるぞ』とかか」
「いや、『見たいんじゃないのか?』だ」
これは……誘っている……よな。一人暮らしの中年男が、小学生、それも低学年に声をかけるなんてそれ系の事案しか思いつかないんだが。
「どう答えたんだ?」
「当時の俺は、見たいって気持ちよりも、不法侵入者の自分が相手をいかに怒らせないようにするか、それで頭がいっぱいだった。男が言ったことは全て肯定しようと考えたんだな。それで首を縦に振った。すると男は、窓から小さな椅子を外に出してきて、窓のすぐ下に落とした。『それに乗ったら見えるだろ』と言ったんだ」
「豪快だな」
「俺の方にはゆとりなんてないからさ。逆らっちゃダメだと思って、男の言う通り椅子に乗ったよ。確かに部屋の中がよく見えた。殺風景な部屋の中央に小さな箱があって、その前に長ソファ。横には小さなテーブルがあって、ワインやらチーズやらが置かれていた。俺が乗っている椅子は、そのテーブルの椅子のようだった」
ようやく箱が出て来た。
「男は部屋の真ん中の箱を指差して『あれはハコマワシだ。なんでも言う事を聞くんだよ』と言ながら嗤っていた。そしておもむろに『飛び跳ねてみろ』と叫んだんだ。すると、箱がぴょんぴょんと飛び跳ねるんだよ」
「手品?」
「その時は何も分からなかったさ。だから『すごいです』を連呼だよ。男をほめて気持ちよくさせたら逃げ帰れるかなって」
「必死過ぎる」
今の彼とはあまり重ならない。彼にはいつもゆとりがあるように感じるからだ。
「そりゃそうさ。怖くて怖くてたまらなかった。でも男は上機嫌で、ハコマワシを続けるのさ。飛び上がったあとくるくると回転させたり、チーズを放り投げてキャッチさせたり……俺の側からは見えないけれど、その箱は塞がってはいないみたいでな」
「でも、一回転したんだろ?」
「回転の軸が違ってね。傘の柄を持ってくるくる回すのと似たような動きなんだ」
「じゃあ、箱の向こう側は、月の裏側みたいにずっと見えない感じなのか」
「そうだ。だが、それを俺は見ることができたんだよ」
「まさか、カブトガニみたいに裏側がワッシャーってなってるとか?」
「いや、ハコはハコだった。お前、俺の話、バカにしたりしないで聞けるか?」
俺はおもむろに片手を上げる。
上腕を耳につける、ピンと伸ばすやつだ。
「はい。大人しく聞けまっす!」
「しばらくハコマワシしていた男がな、飲み過ぎたのか、ソファに座ったまま寝ちまったんだ。そしたら、ハコが一人で窓際までやってきて、180度パッと回転したんだ」
思わず唾を呑み込む。
「最初は、小型のサルかなって思った。真っ黒い、小さい、二足歩行の生き物。長い尻尾も付いていた。なんだやっぱりサルマワシだったんだなって思ったよ。だけど変なんだ。その黒いサル、角と翼があるんだよ。尻尾の先の形も……と、俺が気付いた瞬間、そいつは喋り出した。『お前はツイてるぞ』って」
黒くて角と翼と尻尾……それって。
「俺はびっくりして、踏み台にしていた椅子から落ちないようバランスを保つので精一杯だったが、そいつは構わずしゃべり続けた。『オレをここから出してくれたら、代償なしでお前を助けてやる。普通はオレに頼み事をする連中は、魂を差し出すもんだがよ。お前は特別だ。オレをここから出してくれるだけでいい』今でも覚えている。小さい生き物って甲高い声の印象が強いだろ。逆なんだ。低いんだ。しかも妙に腹に響く。花火を近くで見た時に腹にドンって響くじゃないか。あれくらい、不思議と腹に来る声なんだ」
上妻の表情はいたって真面目で、俺をからかっているようには見えない。
「『どうすればいいの?』と俺はそいつに尋ねた。そいつが言うには『この箱の内側に鏡が二つ、向かい合って付いているのが分かるだろう。オレを挟むようにあるコレとコレだ。それをだな、紙でも布でもなんでもいい。片方を塞いでいただきたいのだ』だとよ。俺はそのくらいなら、やってあげてもいいかなと、その時思ってしまったんだ」
「やったのか?」
「翌朝小学校に着ていく服に着替えていたからさ、ポケットにハンカチが入っていた。タオル生地の厚めのやつだ。ハコの中に手を入れるのは怖かったが、俺にはそいつが悪いヤツには思えなかったんだ。ほら、ガキの頃さ、モンスターを捕まえて仲間にするアニメとか流行ってただろ。ああいうノリだよ」
お、おう。
「俺は片方の鏡が隠れるよう、ハンカチで覆った……その途端だった。バチって大きな衝撃が指に走ったんだ。騙される可能性があったのか、と、俺はその時はじめて気づいた。そのくらいゆとりがなかったんだよ、そん時の俺は」
「ど、どうなったんだよ、その後」
「そいつは箱からゆっくりと出て来た。ハコから出てきた部分がぐいぐい大きくなってゆくんだ。そいつが完全に箱から出て来た時、俺や、中年男よりもデカかったな。そいつは鋭い爪で中年男の額に何か描いた……みたいだった。その後こっちへゆっくりと振り返ったんだ。俺は、喰われるって怯えてたよ。膀胱にもうちょっと溜まっていたらチビってたと思う」
上妻が怯えている姿なんて、想像もつかない。
「『契約は成った。この先、お前が死ぬほどの危機に遭う時、一度だけ、死神からお前を救ってやろう』そう言うと、そいつは煙みたいに揺らぎながら消えていったんだよ」
本当かよと言いかけた俺だが、さっき上妻に約束したから、その言葉は呑み込んだ。
「俺は慌てて逃げ帰って、自分の部屋に戻って布団に潜り込んだ。そのまま寝てしまったんだろうな。翌朝、家の前が騒がしくて目が覚めた。あの中年男が死んでいるのが発見されたそうだ。最初に見つけたのは散歩していた老人で、あの窓は開いたままなんだけど、そこにあの男がパントマイムみたいに貼りついている風だったらしい。だけど見るからに様子が変で、通報したら、死んでいたと。死後数年は経っているとしか思えないって。ほら、うちは目の前だろ。近所の人たちが押し寄せてきて、口コミ情報がすごい集まってたんだよ」
「……それは、お前が会った夜の時点で死んでいたのに生きているように見えたってことか?」
「これは俺の考えなんだがな、ハコの中に居たあいつに殺されたんじゃないかと思う。方法は分からないけれど、窓から出ようとして出られなかったみたいな死に際がな、部屋に閉じ込められていたみたいな印象を受けるんだよ。だから復讐されたんじゃないかなって」
「ああ、それっぽい!」
「それからかな……俺は、怖いモノがなくなったというか……どんなものでもあの夜のことに比べたらたいしたことないなって思えるようになったんだ。そうやって修羅場をいくつも潜り抜けてきたし、必然的に体も鍛えられていった。それで今やスタントマンさ」
「あー、思い出した。お前、来週からアメリカ行くって言ってたの、もしかしてスタントの仕事か?」
「そうだよ。守秘義務があるからまだ言えないが、物凄い大物監督が撮る映画のむちゃくちゃ危険なスタントの仕事だ。あまりの危険さに、誰もがビビッて引き受けないっていう内容らしくてな」
「大丈夫かよ」
「俺は一度だけ、死神から守られるんだぜ。これはチャンスなんだ」
上妻はそう言い残してアメリカへと旅立った。
その翌日。ニュースで恋人を刺した女が、被害者の横に立ち尽くしている衝撃画像を見た。
嫉妬にかられて恋人を滅多刺しにしたらしい。その女の顔が、忘れもしないあの女の、親の仇のように俺たちを睨みつけていたあの顔だった。
上妻……フラれたって言ってたよな。お前、大切な一回、もう使いきってたぞ。
<終>




