お題【蛞蝓女】
佐藤君は育ちの良さげな顔をしている。
実際、誰にでも優しいし、裏表のない好青年だ。
だから仕事帰りに彼が「僕、けっこうなめられやすいんですよ」と相談してきたとき、俺はてっきり、並んでいるところによく割り込みされるとか、強引に勧誘してくる保険セールスとか、彼の人柄につけこむ系のエピソードを思い描いた。
でも、とりあえずはジョークで受けておくか。
「なんだ? 中学生にカツアゲでもされたか?」
「中学生はないですけれど……そういうのじゃないんです。本当になめられるんです」
「サトウだけにか」
中学生じゃないのにはカツアゲされているのかと思いつつも、俺は笑いながら茶化した。
「はい。僕、もしかしたら自分は甘いんじゃないかって、自分で自分をなめてみたりもしたんですが……汗のしょっぱい味しかしませんでした」
おやおや、おかしな返しがきましたよ。
だが当の佐藤君はふざけている感じでもなく、神妙な面持ちのままだ。
「佐藤君? どうしてそうなった?」
「僕、よくなめられるので……」
もしかしてガチで舐められている話なのか?
「なめられるってもしかして、ベロで? 物理的に?」
念のために確認したのだが、佐藤君は食い気味に大きく肯いた。
「はい。最初になめられたのは、確か中学生になってすぐくらいの頃です。実家はマンションの二階なんですけれど、ベランダにベンチを出してその上で寝転がってマンガを読んでいたんですね。ベンチってのはアウトドアコーナーにあるような、折りたたみ式のやつです。話それましたね、すみません。それでマンガを読んでいたんですけれど、そのうち寝ちゃってたみたいで……つま先がムズムズして目が覚めたんです。まるで何かになめられているような感覚で。でも実家ではペットなんて飼っていなかったし、まさか野良猫が上がってきて、とか考えつつ、ふと頭だけ持ち上げて、自分の足元を見てみたんですよ。そしたら……」
そしたら? 続きが気になり過ぎる。
「けっこうな年齢のおじさんが、ベランダに勝手に入り込んでいて、ベンチの向こう側にしゃがみ込んでいたんです。しかも僕のはだしのつま先をぺろぺろなめていたんですよ。人間ってアレですね。本当に驚くと、声も出ないものなんですよ。僕が気付いてからも、目があっているのに、おじさんはなめるのやめなくて」
斜め上過ぎた。
本当に舐められている話(物理)だった。
「僕はハッと気がついて、おじさんを蹴とばしながら近くにあったマンガを投げつけたんですよ。そこでようやく、おじさんはなめるのをやめて、スッと立ち上がりました。僕はおじさんが襲ってきたらどうしようって一瞬、体を強張らせたんです。でもおじさんは、そこでぺこりとお辞儀をして、ベランダ手すりの向こう側に飛び降りて、消えて行きました」
言葉が出ない。
俺、数秒間は言葉を失っていたと思う。
「……なんというか……災難だったね」
ようやくひねり出せた言葉がこれ。
しかし佐藤君の話はまだ終わったわけではなかった。
「他にも、満員電車の中でおじさんに耳をなめられたことが三回もあります。耳は、社会人になってからですよ?」
「えっと……ストーカー?」
「三人とも違うおじさんでした」
「佐藤君自身はしょっぱいって言ってけれど、特殊体質で本当に甘かったりして? もしくはおじさんを引き付けるフェロモンみたいなのを分泌していたりして」
「やめてくださいよ。おじさんがなめに寄ってきても僕にメリットゼロじゃないですか」
なるほど。
おじさんに好かれはするが、本人はどノーマル、と。
「せめて女子なら良かったのに?」
「いえ、今じゃもうなめられること自体がトラウマみたいになっちゃって。食事中にベロが見えちゃうのもダメになりました。自分の舌が見えるのも嫌で、ソフトクリームなんか完全にアウトです。もう長いこと食べてませんし、売り場近くにも近寄りません。あのあたりには、なめている人たちいっぱいいるじゃないですか」
予想以上に深刻な状態だった。
「すまんな。茶化したりして」
「いえ。相談したのは僕の方なので」
「で、相談内容は、その耳なめおじさんの件か?」
「それはそれで対策があればありがたいんですが、それとは違う話なんです」
佐藤君がちょっとモジモジしているような気がする。
「あの……この流れで、なんだか言いにくいんですけれど、僕、なめられても平気な人が出来たんです」
佐藤君には申し訳ないが、一瞬、満員電車で佐藤君の耳を舐めるナイスミドルのダンディ変態ジェントルマンが頭に浮かんだ。
「おじさん……じゃないよな? コレか?」
俺は小指を立て、佐藤君の目の前でひらひらさせる。
「そういうのとはちょっと違うような……僕、ちゃんと好きな人が別に居ますから」
話がややこしくなる気配。これは前者に絞った方が良さげだな。
「まあ、全部話してみろよ。真面目に聞くからさ」
「はい……あれは、一ヶ月半くらい前のことです。仕事で大ポカして、深夜まで資料を作り直してた日のことです」
「あー、あったな、そんなこと」
「ようやく仕事終わらせて、職場出たのが深夜の二時近くでした。終電はとっくに終わっていましたが、タクシーでも居てくれたら嬉しいなって思って駅の方に向かったんですね。さすがに待っているタクシーなんてのは居なくて、仕方ないから会社に戻って始発まで仮眠でも取ろうかと思ったその時です。奇跡的に空車のタクシーが通りかかったんです」
「ラッキーだな。仕事頑張ったのを神様が見ていたのかもな」
「ありがたいです。それで僕が乗り込んで、自宅の住所を伝えようとしたら、ふわりといい匂いがしたんです。横を見たら、髪の長い綺麗な女の人が乗り込もうとしていて、この時間はタクシー捕まえるのも難しいし、途中まで乗り合いさせていただいてよろしいですか、って言うんですね」
「断る理由はないわな」
「僕はどこどこまで行くんですけれど、あなたはどちらまでですかって尋ねたら、偶然ですね、私もそのあたりのコンビニまで乗せていってもらえれば、なんて言うんです。運転手さんにはとりあえずそこまで走ってもらったんです」
「おぉー」
「それでうちの近所のコンビニまで着いたら、女の人が料金全部出して降りちゃったんですよ。深夜料金なのに全額ですよ。僕は慌てて女の人を追いかけて、半分よりもちょっと多いくらいでキリがいい額を渡そうとしたんです。でも受け取ってくれなくて……そもそも僕が乗り合いを断っていたらここまでたどり着けなかったから、みたいに言うんです」
「それで無理やり札を女性のバッグに押し込んだのか?」
「そんなことしません。じゃあせめて何か奢らせてください。このコンビニにあるものなんでもいいんで、って言ったんです」
「やるなぁ。意外にあなどれない高いものもあるぜ」
「そういう人じゃありませんでした」
いちいち律儀に返してくるのが佐藤君の人柄だよな。
と思いつつも、俺はさっき「真面目に聞く」って言ったっけかと密かに反省。
ん? 佐藤君、なんだかぼーっとしているような。
「結局……サラダとミネラルウォーターだけ……受け取ってくれたんです……それでも……まだ……タクシー代の半額に届かないからって……僕が言って……女の人が何かを言って……僕は水を飲み始めたんです……それなのに……僕……水をこぼしちゃって……」
佐藤君、自分のあごのあたりを指先でゆっくりと触りはじめた。
「そのこぼれた水を、女の人がべろりってなめたんです」
「深夜のコンビニ前でか?」
「……えーと……気が付いたら……僕の部屋の中でした……女の人は……なめるのをやめなくて……舌が……僕の首やのどのあたりを……ずっと……這い回るんです……なめくじ……みたいに……なのに……嫌じゃないんです……なめられているのに……なぜか」
おじさんじゃないからでは、という言葉をぐっと飲み込む。しかし佐藤君、どえらいカミングアウトしてきたな。
「それで勢いついてヤッちゃったのか?」
「いえ……ずっと……なめられてました……本当に……なめられている……だけ……その後……女の人は帰っていきました……遠くに……始発電車が走る音が聞こえ始めたくらいの……まだ暗い時間にです」
なんだそれ。新手の痴女なのか。
超絶テクならぬ超舌テクか、さもなくば水に変な薬でも盛られたんじゃないのか?
「その女の人が、なめられても平気な人ってやつか?」
「はい」
「で、好きな人ってのは、その女の人とは違う人なんだよな?」
「はい。経理の花原さんです」
「ほっほう。じゃあいったん整理するぞ。佐藤君は花原さんにレロレロプレイをしてもらいたいけど、どうやって誘ったらいいか……を聞きたい?」
「違います。どちらかというと、なめたいんです。花原さんを、なめたい衝動にかられているんです」
それはヤバいな。このまま背中押しちゃうと、仕事の出来る佐藤君が会社を辞めざるを得ない状況ってのもあり得てしまう。
「衝撃的なプレイで新しい快楽に目覚めてしまったのかな?」
探りつつ、無難に返しておく。
すると佐藤君は少し考えこんでから。
「なめられるの、やめたら……なめたくなる気持ちもおさまるでしょうか……以前の僕なら人をなめたいなんて夢にも思わなかったから……自分が自分じゃないみたいで、怖いんです」
もうすっかりそっち側に行っちゃったんだなぁ、と、しみじみしようと思ったのだが……ちょっと待って? 俺は佐藤君の表現にひっかかった。
「佐藤君……なめられるのやめたらって……なめられたのはあの晩だけじゃないの?」
「はい……毎晩。深夜になると来るんですよ、あの女の人」
ヤバいヤバいヤバい。
痴女なんてレベルじゃない。痴ストーカーだそりゃ。そんな言葉あるかどうかわからないけれど、とにかくヤバい。
というかそもそも最初の夜も、初めから佐藤君を狙って寄ってきたんじゃないのか?
それで、水に怪しいクスリか何か入れて、佐藤君をぼんやりさせて……想像だけで悪寒が走る。
「毎晩来るんだろ。鍵かけて知らんぷりってできないのか? もしかして合鍵作られちゃったのか?」
「……いえ……ノックの音が聞こえて……どうしても……無視できなくて……ドアについている覗き穴から……見たら……その女の人がレンズを舌で……それを見ているうちに……いつの間にか、入ってきているんですよ」
こりゃ完全にクロだ。
ひょっとしたら舌でレンズ穴を塞いでいるのは、ドアの隙間から催淫作用があるガスとかを室内に噴射しているのを見られないようにするためとか?
「ヤバいって佐藤君。それヤバいよ。変な薬とか盛られてるかもしれないし、絶対に開けちゃダメだ。鍵も大家さんに言って変えてもらえって」
「……僕、一人で耐えきれるか自信ないです……今でも……あの女の人のこと……考えただけで……頭がぼんやり……してくるんですよ……先輩……今夜うちに泊まってくれませんか?」
ここまで話を聞いてしまったら、断るに断れない。俺はそのまま佐藤君のとこに泊まることにした。
こんな時間だと帰りに寄れるところは限られている。
スーパーとコンビニに寄り、夕飯と替えの下着と、塩1キロとを買う。悪霊退散と言えば塩。なめくじにも塩。イヤな客にだって塩をまくのが昔からのやり方だ。
佐藤君の家に着いてまず最初にしたことが、塩のセッティング。
ドンブリを用意して、そこに山盛り塩を盛る。
ガッとつかんでバッと投げつけるためだ。これ以上攻撃力の高い物理武器だと、過剰防衛で逆にこっちの立場が危うくなるかもだし。
あとはこれ以外に武器と言えそうなものは……勇気だけだ。
俺たちはソワソワしながら夜更けを待った。
コン、コン、コン。
唐突にノックの音が響く。
二人で顔を見合わせてから玄関へと向かう。
コン、コン、コン……。
どうやって叩いているのか、三つ目のコンのあと、やけに余韻が残る。
「いつもは、ここでのぞき穴を覗くんですよ」
佐藤君の小声解説。
コン……、コン、コン……。
「じゃあ、やってみて」
俺もささやき応酬。
「先輩がやってくれるんじゃないんですか」
「もしも俺が覗いて催眠術みたいなのをやられたら、二人ともアウトだろ」
「……そっか……そうですよね……僕、頑張ります」
コン……、コン……、コン……。
心なしか、ノックの余韻の音に粘り気のような気配を感じる。
「覗きます」
佐藤君が不安げな顔で俺を見た後、ドアの覗き穴を覗き込んだ。
ごくり。
佐藤君が急に唾を呑み込む。
ごくり……ごくり。
おいおいおい。ヤバげMAXじゃないか。
佐藤君、ただいま絶賛催眠術かかり中な気配。
その間も続けざまに唾を呑み込む佐藤君。そんなにゴクリゴクリやってんの、スメアゴル以外に知らないぞ。
キチ……。
佐藤君の唾呑みの音に紛れて、微かな金属音がした。
鍵だ。鍵がゆっくり回ってる。
合鍵じゃなくてピッキング? どちらにせよ不法侵入確定だな。
俺は右手で塩を一つかみつかむと、左手で佐藤君の襟首をつかんだ。
佐藤君は夢中で唾を呑み込み続けている。
鍵が回る。
もう少し……。
……カチャ。
鍵が開いた……くるか? くるのか?
佐藤君の襟首をつかんだ左手に力をこめる。
ギ……。
いまだ!
俺は佐藤君の襟首を思い切り引っ張り、床に座らせると、開きかけたドアを蹴り広げ、そこに居た誰かに思いっきり塩を投げつけた。
「一昨日きやがれっ!」
深夜とか近所迷惑とか関係ねぇ。
通報されるならなお結構。
その勢いでドンブリから更に塩をもう一つかみ。もう一回投げつけようとして、全身に鳥肌が立った。
そこに居たのは一見して髪の長い女……いや、女どころか冗談抜きで人間でもないかもしれない。
本来顔があるはずの所には、大きな吸盤みたいなナニカがあり、その表面には無数の小さな突起が蠢いている。
そして塩が効いているのか、吸盤は丸まりながらガクガク震え始めている。
おい、塩、効いてるぞ!
俺は右手の2つかみ目もソイツに投げつけ、それからドンブリからダイレクトに塩をぶちまけてやった。
「ウゥヴヴウゥヴゥゥウゥゥゥ……」
ソイツは、左右に体を大きく揺らしながらノタノタと去って行く。
佐藤君の方を見るとまだ放心状態だ。
残りの塩はそんなに多くない。あいつを追いかけて行って正体を確認するよりも、ここは籠城作戦の方がよいだろう。
扉を閉めて鍵も閉める。
念のため、ドアチェーンも。
そこまでして、急に膝の力が抜けた。
俺は立っていられなくなり、佐藤君の横にしゃがみ込む。
だがありがたいことにその後、例のバケモノはやって来ないまま朝を迎えることが出来た。
「……佐藤君……大丈夫か?」
「……今……何が起きたんですか……あれ、先輩……もしかして外、明るいですか?」
「そうだ。もう始発が動き出している時間だ」
「ありがとうございました……本当にもう……ありがとうございました」
「まだ終わったわけじゃねぇぞ。鍵を変えるのと、塩を買い足すのと……というか、本当に塩が効くなんてな」
「先輩、すごいです!」
俺はあのバケモノの顔のことは言い出せないでいた。
「それから、出来る限り早く引っ越せ。ピッキングみたいなのだったら、鍵変えてもあまり意味ないかもだし」
「はい! それと……あと」
「おう」
「僕、考えたんですよ。塩がそんなにきくなら、あらかじめ塩を自分の体にすりこんでおいたら、なめられずに済むんじゃないかなって」
「おうおう。頑張れよ。じゃあ、俺はいったん帰って着替えたりするわ。また会社で」
「はい! お疲れ様です!」
それが、佐藤君と交わした最後の会話になった。
佐藤君は会社には来なかった。
そしてその日の夕方、あの部屋で亡くなっているところを、引っ越しの見積もりに行った業者が発見したという。
佐藤君はバスタブの中、下着姿で横たわり、全身から水分が抜け、まるでミイラのような状態だったという。
それとバスタブには、大量の塩が敷き詰められていたそうだ。
<終>




