第五章《参》
「な……っ‼」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。
結季が婚約する。俺の知らない男と結婚する。その事実にただ茫然とするしかない。
「あの……わ、若……大丈夫ですか?」
「……ああ、いや、大丈夫だ。つまり結季は風邪をひいて学校を休んだんじゃなくて――」
「――吸収合併の相手方との会合……お見合いの準備のため、ということになりますね」
小波コンツェルン本社ビルに到着した俺たちは、エントランスで紡祁が何か通行証のようなものを見せた後、指示された階までエレベータで昇っていく。
「紡祁、さっきのって……」
「あ、これのことですか?」
そう言って紡祁は先ほどエントランスで見せていたカードを見せてくれた。触った感じではクレジットカードのそれに近いかもしれない。紡祁の顔写真と名前、性別……それから何かの登録番号だろうか、それらが黒い下地に印字されている。
「《影奉行者登録証明証》って言うんですそれ」
「へぇ……。ウチの人たちはみんな持っているのか?」
「ええ。影奉行者として任務を履行していくのに必要なものです。これのおかげで関東の中ならある程度のことは見逃してくれます。まあ、あくまで財閥の関わる任務のみですけどね」
「な、ナルホド」
登録証明証の裏を返してみると関東地区の知事、管轄警察署長の連名と押印がされていた。つまりはそういうことなのだろう。この《影奉行》という組織が如何に《財閥》、《地方政治》と結びつきが強いかという証明である。
関東という地区単位で考えてみれば財閥と地方政治の癒着は相当なものはずだ。地区内の雇用は元を辿ればほぼ財閥が握っている。だから必然的に財閥の《汚い仕事》を専門に請け負う《影奉行》が、地区内でイリーガルな行為を行なったとしても財閥の利益に繋がることを名目に不問にしていても何らおかしい話ではないと思う。
俺が紡祁に登録証明証を返したところで、ちょうど目的の階――地上五十階の会議室フロアに着いたエレベータは軽快な音を鳴らして扉を開く。
「若、到着しました。お先にどうぞ」
「ありがとう、紡祁」
俺は先にエレベータから降りると、ふぅ、と息を吐いた。物音一つしない静けさが何とも重たい雰囲気を醸し出している。あまり長くいたい空気の場所ではないな。
「では、参りましょう」
紡祁の先導でフロアの一角にある大会議室の扉の前までくる。紡祁は慣れた動作で扉をノックした。
「夜来派、新城紡祁です」
『入ってくれ』
扉の向こうから少し低めの声で返答があった。紡祁は「失礼します」と扉を開いた。
さすが大会議室というだけあり、円を囲むようにかなりの席が完備されている。壁も机も同じようなシックな木目調に統一されているからかとても広さを感じる。まして座っているのがたったの二人だけでは余計だろう。
「すまないね、学校終わりに忙しくさせてしまって」
一瞬、自分に話しかけられていると思っていなかった俺は紡祁の咳払いで我に返る。
「あ……っ、いえ。こちらこそご無沙汰してます。結季のお……いやCEO」
「あはは、懐かしいね。済まんが仕事のときはCEOと呼んでくれ。プライベートでは結季のお父さんでいいから」
どうやら俺が昔の流れで話してしまったためか、余計な気を回させてしまったようだ。
「あ、いえ……すみません」
いやいや、と昌司は首を振ると目の前の席に腰をかけたまま黙り込んでいる一人の少女に視線を向ける。
「結季、お前も黙っていないで挨拶しなさい。刻刃君が顔なじみだからといってもこれからお世話になるんだ。あと新城君にも」
「…………」
昌司が声をかけるも依然として結季は俯いたまま黙ったままである。
「結季……――――」
「――――なんで……?」
「え……?」
俺が声をかけようと言いかけたとき、不意に結季の声が遮った。
「……なんで……なんでっ! 刻刃は来ちゃったのよ……」
いつもとは明らかに違う、震えた、酷く掠れた声で結季は叫ぶ。
「刻刃とは……友達で……、普通の幼馴染でいたかった……っ‼」
向けられたその顔を俺はとても顔を直視できなかった。目を背けたくなるくらい酷い顔をしていたから。結季の顔は止まらない涙を何度も拭ったように目は真っ赤に腫れて、顔はくしゃくしゃに歪んでいた。
「ゆ、結季……俺は……!」
くそっ、なにも言えないんだ……!
言いたいことはたくさんあるし、謝りたいこともたくさんある。でも結季を目の前にすると何も言えなくなってしまう。
理由は解っていた。単純に俺は自分に自信がないのだ。結季がどれだけ辛い思いをして、今回も受けたくもない婚約をさせられようとしていることに軽い気持ちで同情するなんてことは俺にはできない。
もし婚約が成立したら俺たちの関係は今まで通りとはいかなくなるかもしれない。だからと言って俺にその覚悟を揺らがす資格もなければ権利もない。
所詮、結季は表社会の財閥令嬢で、俺は裏社会の日の当たらない影奉行者だ。もともと住む世界が違ったのだ。
そうやって俺の思考は停止する。
結局、昨日結季が突然泣き出したときと同じだ。あのとき俺は何も声をかけてやれなかった。言葉が出てこなかった。そしてまた性懲りもなく何も言えずに立ち尽くしている。
「……――――っ!」
結季は立ち尽くす俺をよそに大会議室を飛び出していく。
「お、おい! 結季っ!」
「結季さん!」
昌司や紡祁の呼びとめも聞こえていないとでもいうように扉は一方的に閉じられた。
結季のいなくなった空間に沈黙が流れる。まるで時間が止まったように僅かな物音の一つさえしない。
正直、俺はどうすればいいか解らなかった。こんなことを考えている時点で自分がどれだけクズなのか身に染みて解る。情けないとも思う。だけど……――――
「――若っ、追ってください……!」
沈黙を破ったのは紡祁だった。振り向くと俺に真っ直ぐ視線を向けている。
「行ってあげてください、若。結季さんのところへ」
「いや、でも……俺……」
俺はまた逃げ道を探している。こんなんじゃダメなんだって解ってても頭は負のループを繰り返す。
「若、失礼なことを申し上げるかもしれませんが、何をあなたはそんなに避けようとしているのです?」
紡祁は静かに、しかし明らかに怒りを露にした。たぶん俺の煮え切らない態度に対してだろう。
「……避けようとなんかしてないさ」
「嘘だ! 若は結季さんがらみだとそんなに弱気になってしまうのですか! 昨日の晩に頭から任務を言い渡されたときだって、今日お迎えに上がって結季さんの話をしたときだって、何故あんなに釈然としないお顔をされたのですか‼」
「それは、ただ……結季の抱えている事情とか、結季自身の気持ちとかそんなのは俺なんかが軽はずみに同情していいもんじゃねぇだろ! 俺は結季になんて言ってやればいいのか解らねぇんだよ……」
俺は自分のやるせなさに拳を震えるほど握りしめる。
しかし紡祁は一呼吸置いて、
「そんなものは簡単ですよ。若が思っていることを思っている通りに結季さんに伝えればいいんです。上手く言えなくたっていいじゃないですか。何も言わないよりは、何かを伝えようとすることが何よりも大切なことだと私は思います」
紡祁はこくんと頷いた。つい先ほどまでの圧倒されるほどの剣幕はもう感じられないくらい優しい目が向けられていた。
はは……情けない。情けないったらありゃしないな。これは。完全にしてやられた……いや、して言われてしまった。妹に面目立たず、歳もそう変わらない紡祁にも面目立たずのままではあまりにも格好が悪いよな。
「……紡祁、少しの間、持ち場を離れていいか?」
「ええ、こちらは任せてください!」
俺は紡祁からその返事を受け取ると一目散に入ってきた扉のノブに手をかける。
その瞬間、
「ちょっと待ってくれ、刻刃君! 最上階の展望室だ!」
「最上階の展望室……?」
ああ、と昌司は頷いた。
「結季はきっとそこにいるはずだ」
「解りました! ありがとうございます!」
俺は昌司に一礼すると最上階に向かって走り出した。
***
「やれやれ……刻刃君も強情だねぇ」
「強情というより、考えすぎなだけですよ。若は」
刻刃が結季を探しに会議室を飛び出して行ったあと、紡祁と昌司は揃って同じような表情を浮かべていた。理由は言うまでもない。
「これで良いほうに事が運べばいいんだがな」
「良いほうに運びますよ。私は付き合いこそ短いですが、若はきっと結季さんを連れて帰ってきます」
まるで自分のことのように自信たっぷりに言い切る紡祁に昌司は笑いながらも「そうだな」と返す。
「さて、こちらも会合の準備に取り掛からねければなりませんね」
「ああ、頼む。新城君」
「かしこまりました」
紡祁は昌司から渡された会合の内容について書かれた資料に目を通していく。
刻刃が結季を連れて戻ってくるまでの時間を考えると流暢にしている暇はあまりない。
「まったく……手のかかる若頭ですよ、頭……」
紡祁は昌司に聞こえないくらいの声でそう呟いた。
次回、ミライはユキとともに《解放編第五章《肆》》は10月の更新になります。
お待たせしますがどうぞよろしくお願いします。
その代わりと言っては何ですが9月に新作を発表しますので、そちらもよろしくお願いします!