第五章《弐》
小波結季は突然の呼び出しにどこか不安を覚えていた。呼び出したのは小波コンツェルンのCEO――小波昌司、結季の父親である。結季が不安を感じずにはいられない理由は二つある。まず一つは今朝の昌司からの伝達にはこう書かれていたからだ。
【お前に出席してほしい会合がある。済まないが今日一日学校は欠席してくれ】
今まで学校や習い事をこんな呼び出しで学校を休めと言われたことは一度もなかった。まして昌司は学校の試験や習い事について特に厳しく、結季に対して『結果が出るまでやり切れ』と言い続けていたのだ。それをあっさりと覆すほどの何かがあった、ということだろう。
そして二つ目は結季が今まで財閥、もとい会社の経営や取引に一切関わってこなかったことだ。これは結季自身に興味がなかったこともそうだが、昌司から求められたことが一度もないからに他ならなかった。それが不安感を余計に煽っているのかもしれない。
「お父様……」
思わず弱気な台詞を吐露してしまいそうになる。こんなとき頭にちらつくのは幼馴染の男の子の顔だが彼とは昨日から気まずいままである。原因は間違いなく自分である。
今思えばなぜ彼にあんな言葉をぶつけてしまったのか解らない。いきなりあんなことを言われたら戸惑わないほうがおかしいのだ。
……刻刃に今度会ったとき、何と言って謝ろうか。
「お嬢様、到着いたしました」
「ええ」
昌司が手配した車に乗り乗り込んで移動した先は、東京都六本木にある小波コンツェルン本社ビル。その高さは地上三五八メートル、付近に並ぶ六本木ヒルズの高さを優に超える六本木を象徴する超高層建造物である。
結季は車から降りると傍付きの男の先導に従ってビル内を進む。だだっ広いエントランスを通り過ぎ、エレベータで大会議室のある五十階まで移動する。
傍付きの男は大会議室の目の前までくるとこちらに向き直り会釈した。
「私はここまでですので」
「ありがとう。下がっていいわ」
結季がそう伝えると、傍付きの男は「頃合いを見てお迎えに上がります」とその場から立ち去った。
結季は傍付きの姿が見えなくなったのを確認してから、ふう……と息を吐き出した。一度、気持ちを落ち着かせる。
そして扉のノブを握り、ゆっくりと開いた。
室内は大きな円で囲むように並べられた焦げ茶色の机と黒革の椅子が整然と並んでいた。壁面も木目調でモダンな雰囲気を醸し出している。
ふと見ると奥の席に一人、CEO――小波昌司が座っていた。何やら忙しなく書類に目を通している。そんな父の姿に既視感を覚える。
そうだ。
思えば幼い頃はよくお父様の仕事ぶりを見学しに遊びに来ていた。しかし、いつ頃だったか。あるときから結季の習い事が忙しくなり、こんなふうに会社を訪れることもなくなった。
それ以来だ。お父様とは話す機会がめっきり減ったのは。
「お父様、お待たせしました。結季です」
やっと結季が入ってきたことに気が付いたのか、昌司は微笑を浮かべた。
「結季、すまないな。学校を休ませてしまって」
「いえ。お父様からメールが届いたときは少し驚いたけれど」
「そうか。取り敢えず席にかけててくれ」
昌司に促され、結季はちょうど昌司の目の前の席に座る。
「…………」
しばらく無言の時間が流れる。
……おかしい。今日は会合という名目で呼び出しを受けたはずなのに、一向に相手方が現れない。これは一体どういうことなのだろうか。
昌司は広げていた書類に一通り目を通し終わると、かき集めて結季のほうに差し出した。受け取って解ることだが、かなりの枚数がある。
「これは?」
「見れば解る。だがその前に訂正しなくてはいけないことがある」
昌司は続けた。
「お前には会合があるとだけ伝えていたが、それは夕方の話だ。その前にお前に話しておかなければならないことがあって呼び出させてもらったんだ」
「やっぱりね。だっておかしいもの。わたしが来てからもう二十分は経つけれど、一向に相手方が現れないじゃない」
「ははっ、結季は勘が鋭いな」
そう言う昌司は言葉こそ笑っていたが、表情をぎこちなく歪ませた。結季はその瞬間、自分に対して良くない話であることを察する。
昌司は一呼吸おいてから、重々しく口を開いた。
「…………―――――――――っ!」
結季は戦慄した。ゾクッとするような嫌な悪寒が背筋を走った。
***
終了のチャイム。帰りのホームルームが終わり、各々に支度を済ませて教室から出ていく。部活に出る者、友人と遊んで帰る者、そのまま家路のつく者。皆それぞれに動き、教室から散っていく。
なぜか今日はそんな当たり前のことにさえ、気が回っていた。常に何かを考えてないと結季のことを思い出してしまいそうになってしまうからかもしれない。
結局のところ結季が学校にくることはなかった。今朝のホームルームで担任から伝えられたのは、『風邪でお休みだそうです』とだけで、悩んだ末にメールを送ってみたが返信はない。
俺は返信のない携帯画面をしばし眺め、諦めと同時に制服の内ポケットにしまう。今日は風邪で休みというんだからそれでいいじゃないか。そう自分を納得させて教室を出ようとしたとき――――。
「若っ!」
声と同時に開いていた廊下の窓から音もなく黒い影が滑り込んできた。咄嗟の反射神経で思いっきりのけぞった俺はバランスを崩しかける。黒い影は回転しながら廊下に着地する。
「うおわっ! …………って、つ、紡祁!?」
「あ、若、すみません……驚かせてしまったみたいで……」
よく見ると奉行装束姿の紡祁だった。あれだけの動きをしても息も切れていない。一体どんな修行とやらを積めばこうなるのだろうか。
そんな俺の関心をよそに紡祁は本当に申し訳なさそうに頭を下げてくる。一応、「気にしなくていいから」と紡祁を宥めたものの、こういう登場の仕方は心臓に悪いからやめてもらいたいと心底思う俺である。
「早速なんですが若、装束に着替えて移動していただけますか?」
「それで、結季は何て言ってるんだ?」
「それが一応会議に出ることは了承したそうです」
「……そうか。とりあえず着いてからだな」
「ええ」
奉行装束に着替えた俺は紡祁とともに車に乗り込んだ。六本木にある《小波コンツェルン》の本社ビルまで行くために刻正が用意したものだ。
結論から言うと結季は単に風邪をひいて学校を休んだわけではない。結季が学校を休んだ理由は父――小波昌司がCEOを務める小波コンツェルンの経営状況の悪化であるらしい。
俺は装束に着替えながら、ある程度の事の成り行きを紡祁から訊いた。
「――小波コンツェルンはこの関東地区にある企業のトップに君臨する財閥であることはご存知ですよね。この関東では何でも元を辿れば小波コンツェルンに行き着いてしまうほどです。しかし最近、他地区の半導体産業に遅れをとっていて幾つかある関係部門の業績が芳しくないようです」
「つまりは関東地区で地方の製品が出回っていると」
「そういうことになりますね」
なるほどな。小波コンツェルンの業績が落ちたというのは納得できる。数多あるうちの一産業、一部門だとしても大きな企業になればなるほど経営を脅かす癌になりかねない。
各部門の収益の割合は均一ではないし、負債ができれば収益はそちらに流れるしかないから、結果として全体の損益に繋がる。
近頃の不景気で地方の大手電機メーカーが自部門の幾つかを売却したとか、自己破産したとかそういうニュースはよく耳にする。
しかし、俺には初めから一つ疑問があった。
「言い方は悪いかもしれないけど、それって小波コンツェルンの中だけの問題だろ。そこに結季はお家柄を抜きにして関係ないじゃないか」
俺の問いに紡祁は一瞬考える素振りを見せてから、
「では若、関東地区は食料品、衣類からインフラ整備まで間接的に財閥が関わっています。そのような状態で小波コンツェルンが経営不振に陥ったとしたら、どうなると思います?」
「それは……――――関東地区全体の経済が危なくなる、よな。それがなんだって言うんだ?」
紡祁は少し言いにくそうに目を逸らす。
「そうなれば経済不安に陥れば関東地区に住む人たちの生活は大打撃を受けます。職を失う人が出てきてしまうかもしれない……それだけは絶対に避けなければならないんです。ただCEOは財閥として今まで頑張ってくれた中小企業を無下にはしたくないと」
ですから、と紡祁は続ける。
「CEOは、結季さんとの婚約を条件に同系部門会社を吸収合併しようとしているのです」