第五章《壱》
広々としたリビング。白を基調に揃えられた様々な家具が鎮座し、大きなガラス戸から入り込む朝日が余計に白さを際立たせている。テーブルの上に置かれたティーセットを前に小波結季は物憂げな表情を浮かべていた。カップに入った紅茶に映る自分の顔がため息を吐く度にゆらゆらと揺れる。
ふと玄関のチャイムの音が鳴り響いた。こんな朝から何だというのか。
『お嬢様、所用がございますので伺いました』
「いいわ、入って」
声の主である傍付きの男は玄関からリビングへ入ってくる。
「失礼します」
そしてタブレット型パソコンを取り出して結季に差し出した。
「これは?」
「CEOからの伝達でございます」
***
今朝もひっきりなしに騒ぐヒグラシの鳴き声が夏も盛りと告げている。
蒸し暑さで呼吸が苦しい。額から噴き出す汗が止まらない。
今日の予想最高気温、三十九度。そして現在の気温、二十七度。もはや異常気象である。
「んあ〜〜〜〜! あぢぃ……なんで夏ってのは、こう暑いんだ?」
「お兄ちゃん、だらしなさすぎ……」
「しょうがないだろ……この暑さはほんと異常だよ、異常。やっばり温暖化してるのかなぁ」
そんな俺の反応に有佳は、はぁ……と深いため息とともに肩を落とした。
「お兄ちゃんのお頭はいつでも平和だねぇ……」
呆れ顔の有佳に薄笑いを向けるしかない。全くもって兄の尊厳ここにあらずである。
俺は気合を入れ直し、滴る汗を拭うと学校へと足を進めた。
昨晩、父――刻正に言い渡された小波結季の護衛任務。あの後、俺は刻正を目の前に率直にこう答えた。
「こ、こんなの……いきなり……っ! で、できるわけないだろ! 俺だぞ? 何で結季を護衛するって話になる……⁉」
それを聞いて刻正は、深く息を吐き出した。
「お前は……いや、俺がお前にひた隠しにしていたからか……」
刻正は黒い装束の上から胸元に手をかざした。次の瞬間。
「……‼」
一瞬目を疑った。目の前で起きている事象はあまりにも現実味がなかったからだ。
刻正の胸元に正方形型の紋章のようなものが螺旋状に浮かび上がり、それらが重なって棒状のものを構成し始める。それはスゥ……と胸元から突き出てきたように延長され、刻正の手に収まる。
手に収まったのは紫紺に染まった優美な鞘に帯刀された刀。鞘に収まった状態でも感じられるほどに威圧感を感じる。何というか、父そのものようだ。
「……驚いたか? これが夜来の血というやつさ。心象刀……己の核を武装として具現化する」
「し、シンショウトウ……?」
刻正は重々しく頷いた。
「そうだ。《心を象る刀》と書く。この《夜刃・永夜》は俺の核……心そのものを具現化させたものだ」
シンショウトウ。心を象る刀。そして夜来の血。そんな力が俺にも備わっているのだろうか。今まで生活していて何の兆候もなかったというのに。
…………無理だ。
そんな俺の思考を読みとったのか刻正は付け加えた。
「この能力は日常生活で発現するようなものではない。お前にはしっかり修行をつけるつもりだ」
もはやそんなことはどうでもよかった。俺の顔は強張り、それを自覚したときには肘もガクつく。
…………無理だ。できるわけがない。俺には荷が重すぎる。
「どうだ、結季ちゃんを頼めるか?」
「……俺にその心象刀とかいうやつを出して戦えって、そう言いたいのか……?」
「ふ、安心しろ。それには及ばないさ。不測の事態には紡祁が何とかしてくれる」
刻正が目配せすると紡祁は「御意に」と返す。
俺は言い出すタイミングをすっかり失っていた。本心では今にもこの場から逃げ出したいぐらい嫌なはずなのに。強張った口は思ったように動いてくれない。
刻正は俺の目を見据えて、こう言った。
「任務は言い渡した。結季ちゃんを頼むぞ」
「お兄ちゃん、聞いてる……?」
「……ん? あ、ああ……悪い、少しボケっとしてた」
「もう、私、行くからねって言ってたのに!」
ふんふん鼻息を鳴らしながら有佳は膨れっ面でこっちを睨む。周りに目をやるといつの間にか校門前まで来ていた。
どうやら有佳は生徒玄関の異なる俺に一言言おうとしていたが、それを俺は無視してしまっていたようだ。
「ごめん、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「お兄ちゃん、最近そういうの多いよ? 結季さんのことだけどさ、そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな。お兄ちゃんは…………なんだから」
「ん? 最後のほう何て言ったんだ?」
単純に気になって訊ねたのだが、何故か有佳の顔はみるみる真っ赤に染まっていく。
「もう! 別になんでもないから! はいっ! ほら、早く行った!」
そう言いながら有佳は俺の背中を高等部の生徒玄関に向かって押し飛ばした。
「うぉわっ! 解った! 解ったから!」
俺が振り返ると、有佳はこちらに手を振っていた。俺が軽く手を振り返すと、踵を返して中等部の生徒玄関に向かって歩いていく。
あの妹はたまによく解らないところで怒り出すから扱いに困る。どうやら俺のお兄ちゃんスキルはまだまだなようだ。
そんな妹の後ろ姿が小さくなっていくのを見届け、俺は肩掛けの通学鞄を背負い直した。
教室に入ると思ったよりも人は少なかった。よくよく見ると時計の針は八時十五分を指し示している。いつもより少し早く来てしまったようだ。
俺は重力任せに通学鞄を机の上に投げつけて、腰を下ろすと、ふぅ……と溜まっていた息を吐き出した。
ふと自分の斜め前の席を見やるが、結季はまだ来ていない。と言っても来ていたところでどうやって話しかければ良いか解らないのだが。
初めて地下の奉行所に入り、刻正から俺たちが置かれている状況について聞かされたとき、影奉行夜来派が小波コンツェルンの傘下にいるという時点で俺は何となくは予想していた。《小波結季の護衛》そのものにそれほど驚かなかったのだが、しかしいざ言い渡されてみると些か気が進まなかった。どうしても結季のあの言葉がちらついてしまうからだ。
『刻刃……わたしって普通と違う?』
結季は確かに普通と違うかもしれない。少なくとも普通の家庭に生まれ、学校に通い、友達とふらふら遊んで1日を過ごすようなありふれた生活は送ってきていない。
関東地区の大財閥《小波コンツェルン》のCEOの一人娘として生まれ、送り迎えは車、友達と遊ぶことは滅多になく、習い事の数は両手に余るほどで、自分の時間などほぼ無いに等しい。それでも持ち前の明るさと、何より《自分がお嬢様であること》を全く感じさせない振る舞いで、クラスの中に自然に溶け込んでいた彼女を俺は尊敬していた。だからいつしか結季のことを完璧人間なのだと錯覚していたのかもしれない。
でもそれは違った。きっと彼女は彼女なりの葛藤があり、悩んでいたのだ。
それなのに俺は即答できなかった。結果として結季とは気まずい空気のままになってしまったのである。
あのとき俺は何で即答できなかったのだろうか。結季が普通と違うことなんて生まれた家が違うだけで、それは些細なことではないか。
しかし俺は《普通》を裏付ける根拠を問われたとき、それを答える自信がなかった。
何を以って普通とするのか、そもそも何が普通なのか。普通だったことが崩れさった今、それが余計に解らなくなってしまった。
もしかして結季もこんな気持ちだったんだろうか。
俺はそのまま机に突っ伏した。