第四章《上》
「ふぁ……」
「なに眠そうな顔しちゃってるの? 清々しい朝じゃない」
「お前は何で朝からテンション高いんだよ」
昨日の一件から夜が明けて朝を迎えた。結局あのあと刻正が『詳しい話は皆に紹介したあとにしよう』言うので俺たちもそれに同意し、その場はお開きになったのだ。
しかしその夜、俺はベッドに入っても全く寝つけず、ゲームやら漫画やらで眠くなるのを待っていたら、気がついたときには雀の囀りが聴こえていた。完全に寝不足である。
俺が欠伸をしながら椅子に座ると有佳はテーブルの上に焼き鮭、おひたし、かぼちゃの煮つけ、ワカメの味噌汁、白米の入った茶碗を手際よく並べていく。朝食にしては充実したラインナップだ。
ちなみに我が家の食卓は母と妹がそれぞれ担当して作っている。もっとも食材関係は俺が買いに行かされているが。
「あれ、母さんは?」
「お母さんは《下》じゃないかな? 行ってくるから先食べててって」
下……というのはあの客間から繋がる地下のことだろう。どうやら俺たちに影奉行のことが露見したので隠す必要がなくなったようだ。
昨日、刻正との話がひと段落つき我が家に戻ると今度は母――佳澄が待っていた。すでに佳澄は俺たちが父と何を話していたかは察していたらしく、二回目の家族会議が執り行われたのは言うまでもないことだ。
そういうわけで昨日は忘れられない一日になったのだが、今までの生活が変わっていくことに戸惑いを覚えないわけではない。今後はそのような日がないことを祈るばかりだが。
「さ、ご飯食べよ! 学校遅刻しちゃうよ?」
「あ、ああ! そうだった、今日普通に平日だもんな! いただきます!」
「もう、お兄ちゃんったら。そんなかき込んで喉つまらせないでよ? じゃあ、私もいただきますっ」
昨日とは打って変わって嬉しそうな有佳を俺は何だか微笑ましくなった。今まで俺たち家族にあった見えない何かが取り払われたのだ、そう思えた。
***
じっとりと汗が滴り、真っ白なワイシャツがぴったりと肌に張り付く。生温い風が余計暑さを感じさせる。朝でも涼しいのはほんの僅かな時間だけで、学校が始業のベルを鳴らす頃には地獄のような暑さに様変わりする。
俺の通っている東京都立月最学園は東京都立でありながら小中高一貫教育を行う珍しい学校である。
しかし入学者は初等部と中等部からしか受けず、高等部からの入学は原則できない。この変わった制度があるせいで卒業までの十二年間ずっと学内には見知った者しかいない現象が起きていたりするらしいが、生徒にしてみればそれが学校を居心地の良い場所にしてくれている側面がある。
「お兄ちゃん、私こっちだから」
隣を歩いていた有佳がスカートをくるりと翻してそう言うと、手を振りながら中等部の生徒玄関へ走っていく。
「おう。気をつけて行けよ」
「わーかってるー!」
有佳が恥ずかしそうにしながら手を振るので、何となく俺も手を振り返した。有佳が生徒玄関に入っていくのを見届けてから俺も歩き出す。
「刻刃はホントいいお兄ちゃんしてるねぇ」
「‼ ゆ、結季⁉」
「い、いやぁ、そんなに驚かれると心外だよ……」
「こっちは心臓が止まるかと思ったぞ……」
小波結季。腰の辺りまで伸ばした栗色の髪の毛と透き通って見えそうなくらい白い肌。すらっと細い立ち姿はどこか儚げに映って見える。まさしく気立てのいいとはこのことだろう。
それもそのはずで結季は関東の企業を統轄する大財閥、小波コンツェルンCEOの愛娘なのだ。正真正銘のお嬢様である。しかし結季自身は《お嬢様》という呼ばれには抵抗があるらしい。
俺はふと思い出したように口を開く。
「あ、そうだ。聞きたかったんだけどさ。お前んとこの親父さん、か――――」
「か?」
「あ……いや、やっぱ何でもない」
「もー何なのー?」
危なかった。何気なく影奉行のことを口走るところだった。結季が小波コンツェルンCEOの娘だとしても影奉行のことを知っている保証はない。というか結季の性格なら逆に訊いてくるはずだ。
俺は結季があんまり膨れっ面で睨んでくるので何とか誤魔化そうと必死で頭を働かせる。
「あー、いやぁ、親父さん、か……、かなり忙しいのかなーって」
我ながらあまりに粗末な想像力である。これでは誤魔化せまいと思っていたが、結季は納得したようで膨れっ面から一転、けろっとした表情を浮かべた。
「お父様? うーん、最近は出張ばっかりかなー……なに、お婿の挨拶に来てくれるって?」
結季はニヤリとしながら顔を近づけてくる。
「だあっ! ち、近いって! 離れろぉっ!」
「離れたら、お婿に来てくれるの?」
「な、なわけないだろ……!」
「なーんだ。残念ね」
そう言うと結季は俺から離れるとぷいっとそっぽを向いた。途端に何かを思い出したように気の抜けた声を上げる。
「へ? ど、どうした?」
「じ、時間……!」
「え?」
見渡せばつい先ほどまで周りを歩いていた生徒は一人残らずいなくなっていた。
俺はポケットから通信端末を取り出すと時計を確認する。現在時刻は八時三〇分。学園の登校時間は八時三〇分。そして俺たちは未だ学校の前にいる。何度も言うが現在時刻は八時三〇分……。
「「あ――――――――――――――――‼」」
「ど、どうするのよ!」
「そんなこと決まってるだろ!」
「わっ⁉」
俺は動揺する結季の手を掴み、高等部の生徒玄関に向かって走り出す。
「ねぇ、ちょっと……! もう!」
何だか後ろのほうでブツブツと聞こえてくるが、俺はそれに構う余裕もなく生徒玄関まで走り抜いたのだった。
「刻刃のせいだからね!」
「いや、お前だってなぁ?」
「うるさいぞ! 夜来! 小波!」
「「すみません……」」
あのあと汗だくで教室に行き着いた俺たちは真っ先に担任に問い詰められた。まさか生徒玄関前の中庭で屯していたとは言えまい。おかげで俺たちは一時間廊下の前で立っている羽目になったわけだ。
「なんだ……その、ごめんな」
「何よ、いきなり」
「いや……俺のせいでもあるからさ、間に合わなかったのは」
「ふふっ」
結季は口元を隠してクスクスと笑う。何がおかしいことを言っただろうか。
「……これでも結構真面目に言ってるつもりなんだけど」
「ごめんなさい。あんまり貴方が真剣な顔するから」
「悪かったな……!」
「ううん、違うの。わたしこそごめんなさい。刻刃に声をかけて足止めしていたのは、わたしだもの」
「……ここはお互い様ってことにしとくか」
「……うん」
俺たちはお互い向き合うことなく正面に並んだ窓から覗く、雲一つない青い空を見つめていた。ただ果てしなく青いだけなのに見ていて飽きないのだ。見ていると何もかも忘れて気持ちが楽になる気がした。
これから俺はどうなってしまうのだろう。有佳もそうだ。
かくして俺たち家族は何も隔たりがなくなったわけだが、それによって今の生活の何が変わってしまうのか。得体の知れない影奉行という組織が俺の何を変えていくのか。何処かで変わらないことを望んでいる自分が現実を受け入れようとしてくれない。
今まで何の疑問もなく立て看板通りに進んできたが、その道筋をちょっと外れるだけで途端に何処へ向かえばいいのか解らなくなった。
不意に結季はぽつりと呟く。
「刻刃……わたしって普通と違う?」
「え……、それってどういう?」
「ごめんなさい! いまの忘れて!」
結季は俺と目を合わせずに吐き捨てた。
しかしその横顔には一筋の涙が頬を伝っているように見えた。無表情に何かから必死に耐えているような顔で。
つかの間の沈黙の後、閑散とした廊下に一時間目終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
結季はチャイムが鳴りやむのを待たずに何処かへ走り去ってしまう。
「お、おい……! …………結季……」
一体どうしたというのか。あんな結季は知り合ってから初めて見た。いつも弱い部分は見せなかったし、まして人前で泣くなんてことは一度もなかったのに。それに《普通と違う》とはどういう意味だろうか。
あのあと結季は二時間目の直前には教室に戻ってきたが俺とは口を利いてくれず、放課後になっても一言も交わさずに終わってしまった。
ついに俺は結季に何も言ってやることができなかったのだ。
***
気分が重いまま家路に着いた俺は玄関の引き戸に手をかけていた。何だか普段より扉が重い気がする。
扉を開けると偶然、二階から降りてきた有佳と目が合った。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
俺はそれだけ言って二階にに上がろうとする。とてもじゃないが悠長に会話をしている心の余裕がなかった。今にも発狂しそうなのを抑え込む。
「どうしたの? お兄ちゃん……学校でなんかあった?」
「いや、なんでもないよ」
有佳が心配そうな表情をするので、俺は最大限普通を装って見せた。
有佳は、そう……とだけ呟く。
「……お兄ちゃん。今夜、影奉行の集会あるから、お父さんが遅れないようにだって」
「ああ、解った」
「お兄ちゃん……無理しないでね」
「心配しなくても大丈夫だよ」
俺は有佳の頭をいつものようにぽんぽんと撫でると二階へ上がっていった。自室に入るとそのままベッドに転がり込む。
「くそっ……!」
俺は拳をベッドに叩きつけた。虚しくベッドのスプリングに弾かれた右腕が力なく宙に浮く。
結季は関東地区を統べる大財閥の一人娘。だからそういう意味では《普通と違う》。しかし俺はそんなことは特に気に留めなかったし、純粋に良き友人だと思っていた。
しかしながら、ずっと考えていたことがある。なぜ俺は結季と幼馴染みであるのかということだ。
俺は結果として影奉行・夜来派の家系に生まれていたことが判明したわけだが、それを知る以前、結季と出会った小学校も上がる前に俺はどうやって結季と知り合ったのだろうか。印象的な記憶のはずなのに俺はどうにも思い出せずにいた。
《影奉行・夜来派》と《小波コンツェルン》。
どうやらここにも見えない何かはあるようだ。