第五章《肆》
小波コンツェルン六本木本社ビル最上階――――展望フロア。小波結季はその片隅で独り、うずくまっていた。
もう我慢する必要ないんだ。ここなら泣いても誰にも迷惑かけない。そう思って思いっきり泣こうとしたが、泣きすぎたせいで涙はもう出てこない。結季は行き場のないやるせない気持ちに唇を噛みしめた。
自分はどうしようもなく打たれ弱い。弱くて、泣き虫で、逃げてばかりだ。
これまでは弱い自分をどうにか押し込めてできるだけ気丈に振舞っていたが、もう限界がきていた。
もともと幼い頃の結季は、いつも物陰に隠れて、楽しく遊んでいる同世代の子たちをただ遠くから見ているような内気な子だった。とにかく人と話すのが苦手で、話しかけられてもぶっきら棒にしか返せないような、そんなタイプである。
そんな結季を母は熱心に同世代の子に紹介してくれて最初こそ周りの子たちは寄ってきてくれたが、結季のそっけない態度からしだいに話しかけてくれる子はいなくなり、とうとう誰もいなくなってしまった。
当時の結季は自分に原因があると頭では理解していても、ただ泣きじゃくることしかできなかった。
そんな結季にも転機は訪れる。ある日、母と近所の公園に遊びに来たときだ。知らない少年が近づいてきて言ったのだ。一緒に遊ばないか? と。結季はいつものように断ってしまったが、その少年は公園で結季に会う度に声をかけてくれるようになった。
少年の振る舞いは他人の言うことなんてお構いなしの無茶苦茶なものだったが、いつしかそれが結季の警戒心をほどき笑顔にさせてくれた。
不思議と少年の前でなら素直になれるようになった。
その少年こそ――――夜来刻刃だ。結季にとって何にも代えられない、かけがえのない存在。
結季は何か嫌なことが一つでもあればその日一日気分が乗らなくなるし、全部を放り出して寝てしまいたくなるし、誰かに強く当たってしまうことだってある。
けれど刻刃のことを思うと、それだけで強くあれる気がした。結季がどんな酷い反応をしようとお構いなしに、まるで全てを解っているように無邪気な笑顔を向けてきた少年は内気な結季に勇気と希望を与えてくれた。
結季にとって夜来刻刃は憧れだった。今はまだ刻刃の後ろをついていくだけの自分でも、将来、いつか刻刃に追いついて隣を並んで歩きたい。そう思っていた。
しかし高等部に上がったときくらいから、自分の置かれている立場が周りの子のそれとは違うことを思い知るようになった。周りの子が高校生になって放課後遊びに出かけたり、自由な行動が目立ってきたからかもしれない。
対して結季は習い事の数も増えて、放課後に刻刃と話しながら帰るなんてこともできなくなっていた。
今まで感じなかった部分で差を感じるようになったとき、思ってしまったのだ。
――――なんでわたし、こんなところにいるんだろう……、と。
生まれて初めて自分が生まれた境遇を恨んだ。父や母を恨んだわけではない。結季はただ、周りの子が送っている普通の日常が羨ましかった。
それでも結季は弱音は吐かないと決めた。あの頃の思いはまだ結季の中で生きていたから。
けれど一年以上も経てば限界がくる。吐き出せず疑心だけが膨らんで、結季の心は決壊寸前だった。
だから昨日、つい訊きたくなってしまったのだ。
『「刻刃……わたしって普通と違う?』
気付いたときには口に出していた。
あのとき結季は焦ってそのまま逃げてしまったが、もしあのまま答えを待っていたら。
――――刻刃は何と言ってくれただろうか。
「そんなところで泣いてたのか。らしくないぜ?」
「――――――――! え……? 刻刃……なんで……」
「お前のことなら何でも解るんだよ、俺は。……なんてな」
刻刃はばつの悪そうな表情を浮かべる。
「もう、またそんな解りやすい嘘……………………あれ…………?」
結季の頬に熱い液体が伝い、地面に落ちる。
「あれ…………、おっかしいなぁ……えへへ……」
必死に目を擦るが止めどなく涙が溢れて止まらない。
もうとっくに枯れたはずの涙が、この少年を前にして再び湧き出すように頬から次々と零れ落ちていく。
なんだろう、この気持ちは。懐かしくて、温かくて、安心する。
かつて無邪気な笑みを浮かべていた少年は、今も変わらず同じ笑顔を浮かべていた。
***
俺は結季が昌司が言うように展望フロアにいてくれたことに内心ほっとした。正直、フロアの片隅でうずくまっている彼女の姿を見つけたときは胸が締め付けられたが。
俺は泣きじゃくる結季の頭に手を置くと優しく沿わせた。
「辛かったよな。ごめんな、お前の悩んでることとか、気が付いてやれなくて」
「………いいの。わたしが勝手に溜め込んで勝手に爆発させちゃっただけ、だから」
大粒の涙で目を潤ませながら、結季は俺の胸に顔を埋める。
「……少しの間だけ、ここで泣かせて」
「ああ、解った」
俺はそのまま結季を抱き寄せる。結季の身体は想像以上に華奢だった。こうやって抱き寄せておかないとどこかに行ってしまいそうで怖い。
俺は自然と強く抱きしめてしまう。
「なあ……、結季。……頑張ったよ。お前はここまでよく耐えた」
「…………っ!」
「俺の前でくらい、強がらなくていいんだぜ」
「そんなこと言われたら、わたし、泣き虫に戻っちゃうよ……?」
「いいじゃん、泣き虫で。泣きたかったら泣きたいときに泣けばいい。もし恥ずかしいなら少なくとも俺の前では素直になってよ。俺はお前の理解者でありたい。そう思ってるからさ」
「ううぅ……ふええええぇぇん‼ 刻刃ぁっ! ひっく……わたし、頑張った……! ぐすっ……わたし、頑張ったんだからぁっ‼ うわあああああああああんっ‼」
「うん、頑張った……」
結季は今まで溜め込んだものを一気に吐き出すようにしばらく泣き続けた。
「落ち着いたか?」
「うん……ごめんね、迷惑かけて」
結季はすっかり泣き腫らして充血した目で申し訳なさそうな顔をする。
「いや、結季がすっきりしたならそれでいいんだ」
「うん……あとがとう、刻刃。……そしてっ、もう……その大丈夫だからっ」
「あ……っ、ごめんっ!」
どうやら俺は気持ちが昂りすぎて結季を抱きしめたままなことに気が付いてなかったらしい。
俺が慌てて離すと、一瞬瞬きした結季は途端に、ふふっと笑いだす。
「な、何が面白いんだよ……!」
「いやね、反応が素直だなぁって」
「う、うっせ!」
今の結季はもうさっきまで俺の腕の中で泣きじゃくっていた結季ではないようだ。表情には笑顔が戻り、泣いた後のほんのりと赤みがかった頬と相俟ってすごく可愛く見えてしまう。こんな笑顔ならずっと見ていたいくらいだ。
「あ! 今いやらしいこと考えてたでしょ?」
結季は意地の悪いしたり顔で俺に顔を近づける。不覚にも俺はドキッとしてしまう。
「か、考えてないっ! いいから離れろぉっ!」
にひひっと無邪気に笑う結季を押しのけると、俺は、はぁ……と胸を撫で下ろした。
そろそろ本題に話を移さなければならない。俺のここに来た目的、そして結季にとっては辛い話なのは解っているが訊いておかなければならないことがある。
「結季……俺、結季に話さなきゃならないこととか、その……色々あるんだ」
すると結季は、解ってたよ、という風に頷く。
「うん。もう、逃げないから。話して」
俺は頷き返すと改めて続けた。
「俺は結季の父さんから依頼を受けてここに来たんだ」
俺は今までの経緯を洗いざらい話した。
最近、実家の地下室を見つけて有佳と中に入ったところ、影奉行と呼ばれる裏組織のアジトになっていたこと。
なんとそのトップは自分の父親で、どうやらかなり昔から小波コンツェルンと関わりがあること。
自分自身はその組織の直系だったこと。そして昨日言い渡された任務が《結季の護衛》であること。
勿論、すべて話していると時間がかかるので細かい部分は省略したが、あらかた話したつもりだ。
結季は終始難しい表情を浮かべたりはしたが、最後には理解してくれたようだった。
「貴方の経緯は解ったわ。…………でも何だかすべて最初から……」
「ん? 何か、説明に問題があったか?」
「ううん、大丈夫。なんでもないわ」
結季は何やらぼそぼそと呟いていたような気がするが本人が首を振るので深追いしないことにする。
「じゃあ、刻刃はわたしを守るためにここに来てくれた、そうなのね?」
「ああ。その通りだ」
結季は何か歯切れの悪そうな顔を浮かべて、「そっか……」と呟いた。
「だから俺、結季に訊かなくちゃならないことがあるんだ――――」
「――――婚約、のこと、だよね」
「……ああ」
俺は結季が本当はどうしたいのか、本当に婚約してしまってもいいのか。それを聞いておく必要があった。これから俺のスタンスを左右する問題でもあったから。
しかし俺がそれを問う前に結季は目を伏せて、しかし落ち着きのある声で言った。
「婚約はしたくない。それが例え口約束の上辺事でもそんなことは言いたくない。わたしが結婚する相手は私が決める」
結季の目は俺を正面から捉える。その瞳にはもう一点の曇りもなかった。
なら俺も覚悟を決めなければならない。中途半端はもうやめにしよう。
結季を守りたい。もうあんな顔はさせない。
結季の理解者でありたい、そう宣言したのだから。
俺は結季に向かって手を差し出した。
「俺は結季の意思を尊重する。したいと思う。これから先、何がどうなっていくのか解らないけれど、どうなってもお前の味方でいたい。だから俺に……その手助けをさせてくれないか?」
結季は目を瞑る。そして俺の差し出した手を両手で包んだ。
「はい。よろしくお願いします」
12月以降の更新になってしまいますが、ミライはユキとともに解放編は第六章に突入します。
展開はどんどん加速していきますのでどうぞよろしくお願いします。
次回、空箱庭のディストピア《02》は11月更新です!